第26話

 電車は、巨大な鉄のミミズみたいに、都市の地下から地上へと這い出ようとしていた。


 西日が差し込む車内は、気怠さを催すオレンジ色に染まっている。


 俺は隣に座る本庄さんの横顔を盗み見ていた。


 本庄さんは、文庫本を開いたまま、もう五分以上ページをめくっていない。活字を目で追っているのではなく、行間に潜む小人を探しているような目つきだ。


「……ねえ、本庄さん」


「ん」


 彼女は視線を本から外さずに返事をした。


「アデリーペンギンって知ってる?」


「……Suic◯のペンギン?」


 本庄さんはかばんにぶら下げた定期用のICカードをちらっと見せながら尋ねてきた。


「そうなの?」


「ん。あれはアデリーペンギンがモデルらしいよ」


「へぇ……すでに俺よりアデリーペンギンに詳しいみたいだし、それならこれも知ってるかな」


「ん。なになに?」


 本庄さんは興味深そうに本をパタンと閉じて聞く態勢をつくった。


 ゆっくりと首を回し、俺の方を見る。その瞳は、深海のように静かで、何を考えているのか読み取れない。


「そのペンギンがさ、求愛行動で綺麗な石を相手に渡すんだって」


「……石? それは初耳」


「そう。小石。巣作りにつかうから、綺麗な石をプレゼントされたメスは、気に入ればプロポーズを受け入れるらしいよ」


 へえ、と本庄さんは気の抜けた声を出し、少し考える素振りを見せた。


「つまり、ペンギン界では石が通貨であり、愛の証ってこと?」


「まあ、人間で言うダイヤの指輪みたいなものかな」


「なるほど。ペンギンも資本主義の犬なんだね」


「ペンギンは鳥だよ」


「や、言葉の綾……にしてもさ、石の保有数でモテ度が決まるなら、それは立派な格差社会。持たざるペンギンはどうするの? 拾う石がないペンギンは、一生独身?」


「……他人の巣から盗むこともあるらしい」


「わ、泥棒だ。昼ドラみたい。ドロドロの愛憎劇じゃん。他の巣で交尾した後に石を持ち去ったりするのかな。NTRだ、NTR。それをきっかけで群れが戦いを始めたり」


 本庄さんの脳内劇場が幕を開けてしまった。


 俺はただ、ちょっとしたロマンチックな豆知識として披露したつもりだったのに、彼女にかかるとペンギン社会が途端に世知辛いサスペンス劇場に変貌する。


「でもさ」


 本庄さんはふと表情を緩め、窓の外を流れる景色に目をやった。


「いいね、石って」


「え?」


「値段がついてないのがいい。給料三ヶ月分とか、ブランド料とか、広告費とか、そういう大人の事情がないから。ただ『綺麗だと思ったから拾った』っていう、純度100パーセントの労働と審美眼の結晶でしょ?」


 彼女の言葉は、時々ハッとするほど核心を突く。


 さっきまで泥棒ペンギンの話で盛り上がっていたくせに、こういう時に見せる横顔が、ずるいほど綺麗だ。


「……そうだね。そのペンギンの気持ち、なんとなくわかるかも」


「高崎くんも、石、拾うの?」


「いや、比喩として……」


 その時、電車がガタンと大きく揺れ、ブレーキがかかり始めた。


 次の駅のアナウンスが流れる。俺たちが普段降りる駅の、三つ手前の川の近くにある駅だ。


 本庄さんが、不意に立ち上がった。


「降りよ」


「え?」


「寄り道……アデリーペンギンに敬意を表して」


 意味がわからなかったけれど、彼女の瞳が「拒否権はない」と語っていた。


 俺たちは、閉まりかけたドアの隙間をすり抜けるようにして、普段は降りることのない駅のホームへと降り立った。


 ◆


 駅を出て十分ほど歩くと、大きな河川敷に出た。


 土手には背の高い雑草が生い茂り、風が吹くたびに緑の波を作っている。


 夕日が川面を反射して、世界全体が金色に輝いていた。


「……気持ちいいね」


 本庄さんが、大きく伸びをした。


 ポロシャツの裾が少し上がって、白い肌が見えそうになり、俺は慌てて視線を逸らす。


「ここ、何もないね」


「何もないのがいい。現代人は情報過多で脳がフォアグラになってるから。たまには断食させないと」


 彼女はそう言うと、椅子を探すこともなく法面に座り込んだ。


「……で、何するの?」


「何もしない」


 本庄さんは足をぐーっと伸ばしながら答えた。


「ただ、ぼーっとする……脳内のキャッシュを削除中」


「パソコンじゃないんだから」


「高崎くんもやりなよ。楽しいよ?」


 川の流れる音。


 遠くで鳴る踏切の音。


 どこかの家から漂ってくる、カレーの匂い。


 隣に座る本庄さんの、静かな呼吸音。


 悪くない。いや、むしろ最高だ。


 放課後のこの時間、何者でもない俺たちが、ただ並んで座っている。


 言葉を交わさなくても、沈黙が気まずくない。

 この「無」の時間こそが、一番の贅沢なんじゃないかと思えてくる。


(……アデリーペンギンか)


 ふと、さっきの話を思い出した。


 求愛のために、綺麗な石を渡す。


 単純で、原始的で、でもこれ以上ないくらいストレートな愛情表現。


 俺は、こっそりと足元の砂利に目を落とした。


 河川敷の公園だから、地面には無数の小石が転がっている。


 もし、今、俺がペンギンだったら。


 この中から一番綺麗な石を見つけて、彼女に渡すのだろうか。


(……いや、人間だし。さすがにさっきの話でこれは引かれるだろ)


 理性がブレーキをかける。


 ただ、座ったまま、さりげなく足元の石を目で物色し始めた。


 これは角張りすぎている。


 これは色が濁っている。


 これは……ダンゴムシだった。危ない。


 本庄さんは、空を飛ぶトンビを目で追いかけていて、俺の不審な挙動には気づいていない。


「……あ」


 右足の近くに、それはあった。


 親指の爪くらいの大きさ。


 白く透き通っていて、角が取れて丸くなっている。


 夕日を受けて、ほんのりとピンク色を帯びているようにも見えた。


 俺は、靴紐を結び直すふりをして、その石を拾い上げた。


 指先につまむと、ひんやりとしていて、でも滑らかで心地よい。


 心臓が、早鐘を打ち始めた。


 たかが石ころ一つ拾っただけで、なんでこんなに緊張しているんだ。万引き犯の心境だ。


 いや、これはプレゼントだ。


 でも、どうやって渡す?


『好きです』なんて言えるわけがない。

『拾いました』じゃ警察に届けろって言われる。


 俺は一度深呼吸をして、冷静になる。


 自然に。アデリーペンギンの話題の延長と意識させないように。


 ジョークの皮を被った、本気。


「……ねえ、本庄さん」


「ん? 何?」


 彼女は空を見上げたままだ。


「はい、これ」


 俺は、右手を差し出した。掌の上に、白い小石が乗っている。


 本庄さんが視線を下ろす。


 長い睫毛が瞬き、瞳が俺の手のひらに焦点を合わせる。


「……石?」


「ただの石だよ」


 俺の声は、情けないほど上擦っていた。

 顔が熱い。夕日のせいにして誤魔化せるレベルを超えている気がする。


 本庄さんは、しばらくその石を見つめていた。

 数秒の沈黙が、数時間のように感じる。


(やばい、スベったか?「汚いから捨てなよ」って言われるか?)


 逃げ出したくなりかけた時。

 本庄さんの手が伸びてきて、俺の手のひらから石をつまみ上げた。


「……綺麗」


 彼女が、ポツリと言った。


 太陽にかざすようにして、石を見つめている。

 透き通るような白さが、彼女の指先によく似合っていた。


「ミルクドロップみたい。……これ、私にくれるの?」


「あ、うん。……あげる。別に深い意味はないけど、綺麗だったから」


 嘘だ。

 深い意味しかない。海底二万マイルくらい深い意味がある。

 でも、俺の口からは、そんな予防線しか出てこない。


 本庄さんは、石を指で転がしながら、ふふっと笑った。


「そっか……ありがとう、高崎くん」


 その笑顔が、あまりにも無防備で、可愛らしい。


 だが、意図は伝わっただろうか。いや、伝わらなくてもいい。


 彼女が笑ってくれたなら、それだけで、この石拾いミッションは大成功だ。


 そう思っても、胸の奥がキュンと締め付けられるような、甘酸っぱい痛みが走る。


 これがアデリーペンギンの喜びなのか。


 俺が一人で感傷に浸っていると、本庄さんがポケットからスマホを取り出した。


「……さて」


 声のトーンが変わった。


 さっきまでのふんわりとした雰囲気から、急に研究者のような鋭い響きになる。


「……え、なに?」


「鑑定タイム」


 本庄さんはスマホのカメラを起動し、石に近づけた。


 そして、AIとのチャットアプリを立ち上げる。


「え、ちょっと……何してるの?」


「成分分析。この子が何者なのか、白黒つける」


 パシャリ、とシャッター音が鳴る。画像を渡されたAIが解析を始めた。無粋なローディングマークがくるくると回る。


 俺のロマンチックな余韻が、急速に冷えていく。


「いや、本庄さん。そういうのはいいじゃん。ただの綺麗な石ってことで……」


「ん。出た」


 本庄さんが画面を見つめ、目を輝かせた。


「すごいよ、高崎くん。これ、『玉髄ぎょくずい』の可能性が高いって」


「……ぎょくずい?」


「石英の非常に細かい結晶が網目状に集まった鉱物……らしい」


 彼女はスマホの画面を俺に見せてきた。


 そこには、石の硬度や科学組成式、産地などの無機質なデータが羅列されている。


「やったね、高崎くん。お宝発見」


 本庄さんは、心底嬉しそうだった。まるで、珍しい昆虫を見つけた小学生のように。


「……うん、まあ……よかったね」


 俺は、引きつった笑みを浮かべるしかなかった。


 俺が求めていたのは、鉱物学的なレアリティじゃない。「わ、嬉しい。大切にするね」という、情緒的なリアクションだ。


 それを、AIに鑑定依頼を出して、組成式まで割り出すなんて。


 俺の求愛(仮)は、瞬く間に地質調査へとすり替えられてしまった。


 ガックリと肩を落とす俺をよそに、本庄さんは石をハンカチで丁寧に包み始めた。


「……傷つかないようにしないと」


 まるで宝石を扱うような手つきだ。


「そんなに大事?」


「もちろん。だって、レアだから」


「……レアだから?」


 俺が少し拗ねたように聞くと、本庄さんは包んだ石を大切そうに鞄のポケットにしまった。


 そして、また俺の方を向き、にっこりと笑った。


「レアだから。巣で大事にするよ。アデリーの巣でね」


「……え」


 不意打ちだった。


 成分分析で散々ロマンを破壊しておいて、最後にそんな台詞を投げてくるなんて。


 本庄さんは、悪戯っぽく舌を出した。


「そこに含まれる『思い出成分』はプライスレスでしょ?」


「……本庄さん、それ、自分で言って恥ずかしくない?」


「ふふっ……恥ずかしい。だから今の忘れて……あ、でも石は返さないから」


 彼女はポケットの上から、ポンポンと石の入った場所を叩いた。


 その仕草が、「大事なもの」を確認しているようで、俺の拗ねた気持ちは一瞬で浄化された。


 一番星が、薄暮の空に光り始めている。


「……帰ろうか」


「うん。お腹すいた……ね、駅前のクレープ行こうよ」


「クレープ?」


「ん。脳を使ったから糖分が必要。石の鑑定でカロリー消費した」


「スマホがやっただけじゃん……」


 俺たちは立ち上がり、並んで駅へと歩き出した。


 二人の影が、長く伸びて重なり合っている。


 俺のポケットの中身は空っぽだけど、彼女のポケットには、俺があげた石が入っている。


 それだけで、今日はもう、十分すぎるくらい良い日だと思えた。


「ねえ、高崎くん」


「なに?」


「もし次に見つけるとしたら、次は黒曜石がいいな」


「注文が多いよ、ペンギン」


「黒くてかっこいいじゃん。魔法使いの杖みたいで」


「はいはい、善処します。凶器にしないでよ?」


「ふふっ。私、アステカ文明の人じゃないから大丈夫」


 風が、川の匂いと夜の気配を運んでくる。


 俺たちは、つかず離れずの距離感のまま、並んで歩いていく。


 アデリーペンギンの求愛は成功したのか、失敗したのか。


 それはまだ、AIにも判定できない。


―――

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『就活全滅中で居酒屋バイトの私、常連客の龍神様に溺愛される』

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通学電車でトナラーから助けたクラスメイトのSSS級美少女が毎日のように俺の隣に座ってくるようになった 剃り残し@コミカライズ開始 @nuttai

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