第25話

 アスファルトを叩く雨音が、街のノイズを全て飲み込んでいく雨。朝から雨に襲われた俺は、湿気で少し重くなった身体を引きずって、いつもの始発駅からの電車に乗り込んだ。


 車内は、濡れた傘と湿気の匂いが充満している。


 でも、俺の聖域であるロングシートの端っこは、今日も静かに俺を待っていた。


 座って数分後。


 今日の彼女は、いつも以上に気怠そうだった。


 白い半袖ポロシャツは濡れたせいでところどころシミのように点がついている。


 手には、畳まれた紺色の折りたたみ傘。


 前髪の毛先が、少しだけ濡れて額に張り付いているのが、妙に色っぽい。


 彼女は、濡れた子犬が身震いするように、入り口で小さく肩を揺らすと、俺の元へと歩いてきた。


「……おはよ」


 声のトーンは、地底の奥深くから響いてくるみたいに低い。


「おはよう。まだ結構、降ってる?」


「ん……世界が水没する勢い」


 本庄さんは、大げさなことを呟きながら、ドスンと俺の隣に座った。そして、濡れた折りたたみ傘を足元に置くと、リュックを抱きしめる定位置につく。


「……冷た」


 彼女が小さく声を漏らした。

 見ると、彼女の白い腕に、水滴がいくつかついている。


「あ、濡れてるよ。ハンカチ、使う?」


 俺がポケットからハンカチを出そうとすると、本庄さんは「ん」と首を横に振った。


「や、大丈夫……自然乾燥させる。気化熱で涼む」


「風邪引くよ?」


「引かないよ。バカだから」


「自分で言うの?」


 本庄さんは、ふふっと力なく笑うと、濡れた左腕を、無造作に俺の右腕に押し付けてきた。


「ひゃっ!?」


 冷たい感触と、柔らかい感触が同時に襲ってきて、俺は変な声を上げた。


「……高崎くん、あったかい。カイロ代わり」


「ちょ、本庄さん……!」


「……動かないで。充電中」


 彼女はそう言うと、俺の肩にコテンと頭を預けてきた。


 濡れた髪から、雨の匂いと、甘いシャンプーの香りが混じり合って漂ってきて心臓が早鐘を打ち始めた。


 本庄さんが不意に顔を上げた。俺の肩から頭を離し、視線を車内の向かい側に向ける。


「……ね、高崎くん」


「な、なに?」


「あれ」


 彼女が顎でしゃくった先。


 向かい側のロングシートの、誰も座っていない席の手すりに、一本のビニール傘がかけられていた。


 持ち手が透明で、骨組みが少し錆びついた、どこにでもある500円くらいのビニール傘だ。


「……忘れ物かな」


「や、違う」


 本庄さんは、即答した。そして、真剣な眼差しでその傘を見つめながら、ポツリと言った。


「あれは、家出少年」


「はい?」


「持ち主に見捨てられたんじゃない。自分から、自由を求めて旅に出たんだよ。」


 本庄さんの謎理論。俺は高鳴る心臓を少し落ち着かせながら、彼女の話に乗ることにした。


「家出って……傘が?」


「ん。そう。考えてもみてよ。ビニール傘の一生って、悲惨だと思わない?」


 本庄さんは、リュックの上で指を組み、演説を始めるかのように語り出した。


「生まれたのは工場のベルトコンベア。個性も名前もなく、大量生産されてコンビニの傘立てに突き刺される。そして、急な雨の日に適当に買われて、使い捨てみたいに扱われる。……名前すらつけてもらえないんだよ? だから愛着も持ってもらえない」


「まあ、ビニール傘に名前書く人は少ないかもね……」


「でしょ。だから彼は決意したの。『俺はこんなところで終わるタマじゃない』って」


「タマじゃない、って……」


「見てよ、あの骨組みの錆。あれは歴戦の傷跡。彼は、あのコンビニの傘立てという名の監獄から脱獄して、幾多の持ち主を渡り歩き、そして今日、ついに真の自由を手に入れるために、この電車に乗ったの」


 ただ、昨晩の終電で忘れられ、駅員にも見過ごされただけの古ぼけた傘が急にハードボイルドな冒険者に見えてくるから不思議だ。


「……なるほど。じゃあ、彼はどこへ向かってるの?」


「ブラジル」


「遠っ!?」


「ブラジルの雨は激しいからね。傘としての腕が鳴るよね。もしくは、忘れ物センターという名の、新たな収容所。そこでも彼は『ビニール傘』って呼ばれるんだろうけど」


「現実は非情だね……」


 本庄さんは、ふぅ、とため息をつくと、少し体を俺の方に傾けて、上目遣いで俺を見た。


「ん。そうなの。だからさ……かわいそうだから、名前つけてあげようよ」


「え、俺たちが?」


「ん。名付け親になろう……高崎くん、センス見せて」


「……『スケルトン』とか?」


 本庄さんが「こいつマジか」と言いたげなジト目で俺を見てきた。そして、本人に面と向かって笑うのは悪いと思ったのか、俺から顔をそらして「ふふっ」と笑った。


「そんなに笑う!?」


「だって……まんまだし……ふふっ……ちょっとダサいし……」


「うっ……じゃあ、透明だから『クリア』?」


「ん。さっきよりは好き」


「厳しいなぁ……じゃあ本庄さんは何がいいの?」


 本庄さんは、ニヤリと不敵に笑った。その顔は、いたずらを思いついた子供のようで、そしてドキッとするほど綺麗だった。


「……『ジョニー』」


「ジョニー?」


「ん。『透明なジョニー』。かっこいいでしょ」


「……なんでジョニー?」


「ジョニー・デップから取った」


「全然似てないけど!?」


「や、魂が似てる。孤高な感じが」


「ジョニー・デップに孤高なイメージはないけどね……」


 本庄さんは満足そうに頷くと、向かいの傘に向かって小さく手を振った。


「元気でね、ジョニー。ブラジルについても、手紙書いてね」


 俺たちの視線の先で、ジョニーは、電車の揺れに合わせてカタカタと震えていた。まるで「サンキュー」と答えているみたいに。


 ◆


 電車は、雨の中を走り続ける。窓ガラスには、無数の雨粒が斜めに走っている。


 本庄さんは、ジョニーへの興味を失ったのか、今度は窓ガラスに自分の指先を押し付けて花丸を描いていた。白く細い指先が、ガラスの冷たさを確かめるように動く。


「……高崎くん」


「ん?」


「もしさ」


 彼女は、指先でガラスに意味のない図形を描きながら言った。


「私がジョニーだったら、どうする?」


「え?」


 質問の意図がわからなくて、俺は彼女の横顔を見た。本庄さんは、窓の外を見たままだ。ガラスに映る彼女の表情は、どこかアンニュイで、儚げだった。


「私が、ある日突然、誰にも言わずにどこかに行っちゃったら。……家出少年みたいに」


「……」


 ドキっとした。なんでそんなことを聞くんだろう。


 俺は、言葉を選びながら答えた。


「……探すよ」


「どうやって?」


「どうやってって……とりあえず、警察に行って、それから……」


「警察はだめ。チートだから」


「じゃあ、自分の足で探すよ。本庄さんが行きそうなところ」


「私がどこに行くか、高崎くんわかる?」


 本庄さんが、くるりと俺の方を向いた。その瞳が、俺を射抜く。試すような、でも、どこか縋るような目。


 俺は、正直に答えるしかなかった。


「……わからない、かも。俺、本庄さんのこと、まだ全然知らないから」


「……」


「でも、探す。……ブラジルまでは行けないかもしれないけど、忘れ物センターくらいなら、毎日通うよ」


 俺がそう言うと、本庄さんは一瞬、きょとんとした顔をした。それから、ぷいっと顔を背けて、口元を手で隠した。肩が、小刻みに震えている。


「……ふふっ」


「え、笑うところ!?」


「だって……忘れ物センターって。私、忘れ物扱いなんだ」


「いや、例え話に乗っかっただけだって!」


 本庄さんは、ひとしきり笑うと、再び俺の方を向き直った。さっきまでのアンニュイな雰囲気は消え、いつもの少し眠そうな、でも柔らかな瞳に戻っていた。


「……そっか。探してくれるんだ」


「うん。絶対に」


「……じゃあ、ジョニーよりは幸せかもね、私」


 彼女はそう呟くと、また俺の右腕に、自分の左腕をくっつけてきた。

 さっきよりも、強く、体温がじわりと伝わってくる。


「……ねえ」


「ん?」


「ここだと思う。私が家出して向かう先」


「……始発駅の電車のロングシート?」


「……ふふっ。そうだよ」


 本庄さんはグイグイと腕を押しながらそう言って笑った。


 ◆


「次は〜、〇〇〜。お出口は〜」


 独特なイントネーションのアナウンスが流れ、電車が減速を始める。高校の最寄り駅に到着した。


「……着いちゃった」


 本庄さんが、残念そうに呟く。俺の腕から、彼女の体温が離れていくのが、酷く寂しかった。


 俺たちは立ち上がり、ドアの方へ向かう。ふと振り返ると、ジョニーはまだそこにいた。


「……ジョニー、元気でね」


 本庄さんが小さく手を振る。


 電車を降りると、ホームは湿った風が吹き抜けていた。階段を上がり、改札を抜ける。


 駅の出口が見えてくると、激しい雨音が聞こえてきた。ザーザー降りだ。


「うわ……結構すごいね」


 俺は空を見上げて顔をしかめた。本庄さんは、自分の折りたたみ傘を取り出しながら、空を見上げる。


「……ジョニー、今頃泣いてるかもね」


「え?」


「『やっぱり電車降りればよかったー! 自由って厳しいー!』って」


「あはは。ありそう」


 本庄さんは駅舎を出る直前で、パチリと傘を開いた。そして、ふと何かを思いついたように、傘を差す手を止めた。


「……高崎くん」


「ん?」


「高崎くんの傘、どんなの?」


「俺? 俺は普通の、黒いやつだけど」


「大きい?」


「見ての通り。75cmサイズ」


「なら、二人入っても余裕?」


「え……っと……俺と、本庄さん?」


「ん。もし他にいるなら3人でもいいけど」


「いないよ!? 何か見えてる!?」


「や、何も。じゃ、入れてくれるかな? 高崎君の黒くて長いアレ」


「さわやかな朝にやめてくれる?」


「どこが爽やかなの? こんなにじめっとしててさ」


 本庄さんは湿気でうねっている髪の毛を引っ張りながら言った。


「まぁ……確かにね。でも、本庄さんも傘持ってたよね?」


 俺がそう言うと本庄さんは取り出したばかりの傘を畳んで鞄にしまった。


「ん? 何か見えてた?」


「……何も見えてなかったよ」


「ん。だよねー」


 俺が先に傘を開いて外に出る。本庄さんは二ッと笑って俺の傘に入ってきた。


――――

新作の投稿始めました。

『くたびれたSSSランク美少女が店に来て癒されて帰っていくだけの話~ダンジョン探索? ドラゴン? ゲームの話だよね?~』

https://kakuyomu.jp/works/822139840846735535

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る