西日の差す喫茶店にて14-秋桜〈コスモス〉-

蓮見庸

西日の差す喫茶店にて-秋桜〈コスモス〉-

 ちょっとうまくいかないことがあった。

 こんなに落ち込んだのは初めてかもしれない。せっかくの休日なのにこんな気分は引きずりたくないと思いつつも、ついついそのことばかり考えてしまっていた。

 これではだめだと考えているうち、気が付くといつもの喫茶店に足が向かっていた。


 電車を降りた午後の隣町は薄曇りで、車も人通りもいつもより少なく、音があまりないような気がした。

 喫茶店に向かってゆっくりと歩いていると、自転車に乗った子供たちが話をしながら走ってきた。

 彼らは道路に落ちた街路樹の葉を踏み、細い路地へと消えていった。

 その路地を通り過ぎる時にちらりと見ると、走り去っていく子供たちを塀の上から眺めている白い猫の姿があった。

 わたしは立ち止まって猫を見ていたが、まだこちらには気が付いていないようだった。

 そのうちに猫は塀から飛び降り、路地をゆったりと歩き始めたので、わたしはそれに付いていった。

 猫は一定の距離を保って歩いていたが、くるりとわたしの方を見たかと思うと、家のガレージをくぐってどこかへ消えてしまった。

 住宅街の中に取り残されたわたしは、地図を見ようとスマートフォンを取り出した時、どこかしら見覚えがある景色だと思ったら、いつもとは逆の方向を向いた喫茶店があった。

 店の入口には鉢が置かれ、それは遠目でもコスモスの寄せ植えだとわかった。

 近付いて見てみると、赤紫色、ピンク色はよくあるものだったが、初めて見る一輪に心かれた。

 それは黄色い花芯かしんを白い八枚の花びらが取り囲み、それぞれの縁には濃いべにが差していた。

 そしてこれらの花のまわりを飛ぶ蝶のように、コーヒー色のすこし小さな花もいくつか添えられていた。


「いらっしゃいませ」

 マスターがいつもの笑顔で出迎えてくれると、コーヒーの香りに全身がふわっと包まれた。

 わたしは「こんにちは」と言いながらふと壁を見ると、そこにはお祭りのポスターが貼ってあった。

「お祭りがあるんですね」

 わたしが思ったことをそのまま口に出すと、マスターはいつもの穏やかな口調で答えてくれた。

「そうなんですよ。近くの神社で昔からずっと続いているお祭りなんです。出店もありますよ」

「秋祭りですね」

「ええ。もうそんな季節ですね」

 わたしがポスターを眺めていると、マスターも隣で黙ってポスターを見ていた。

 そういえば……。

「お店の定休日ってあるんですか?」

 わたしはいつかの臨時休業の貼り紙のことを思い出して聞いてみた。

「はい、毎週水曜日はだいたいお休みをもらっています」

「あ、水曜日ですね。憶えとかなくちゃ」

 目が合うと、マスターはにっこりと微笑ほほえんだ。

 それからわたしはブレンドコーヒーを注文して、窓際の席へ向かった。

 椅子に座ってカバンから本を出そうとしたが、今日は持ってきていなかったのを思い出して手が止まってしまった。

 急に手持ち無沙汰ぶさたになり、ひょっとしてさっきの猫がいないかとテーブルにちょっと体を乗り出して窓の外を見てみたが、人影すらもなくただ道があるだけだった。


「……ちゃんと話をしてあげるから」

 隣の席から声が聞こえ、ちらっと見ると中学生か高校生くらいの制服を着た若い女と、肩まで髪を伸ばした大人の女のうしろ姿があった。

「いつも反対してばっかりで、わたしの話なんて聞いてくれないもん」

「だから何に反対しているのか聞いてあげるから。わたしはあなたのママと何年付き合ってると思ってるの?」

 話の内容からすると、どうやら親子ではないようだった。

「うちのママ、何でもダメしか言わないし、わたしのこと嫌いなんだって」

 彼女はあけっぴろげに言った。

「だから、そういう口の利き方はしないの。嫌いなわけないじゃない。そういうところがママに似てるわね」

「えー、やめてよ」

 若い女の不満そうな言葉に、うしろ姿の女は笑い声で応えていた。

「それで、ちゃんと勉強はしてるの?」

「してるって」

 進路の相談だろう。わたしの若い頃にも周りでこんな話をしていた同級生がいたと思う。


 そんなやりとりを耳にしていると、マスターがコーヒーを持ってきた。目の前に置かれたカップから漂うコーヒーの香りになんだかほっとして、店内に流れるトランペットのあたたかな音色を楽しむ余裕が生まれてきた。何の曲かは分からないが明るい曲だった。

 すると突然、初老の四人組の女たちが店に入ってきて、それぞれ「あら、すてきなお店じゃない」とか「近くにこんなお店があるなんていいわね」などと話をしながら、店の中央にあるテーブルを取り囲んだ。

 マスターはお盆を持ったままあわてて飛んでいき、

「いまテーブルを作りますから」

と言いながら、2人掛けのテーブルを繋げた。

 女たちは「なんとかさん、そっちでいいの?」「わたしは膝が痛いからここがいいのよ」「じゃあわたしはこっちにしようかしら」などと相変わらずしゃべりながら椅子に座り、そして今度はメニューを見ながらああでもないこうでもないとしゃべり続けていた。

 マスターがあらためて注文を取りに来ると、三人がコーヒー、ひとりは紅茶、そして全員がケーキセットを頼んでいた。

 彼女たちの会話は聞くつもりはなくても自然と耳に入ってきた。

「わたし若い頃は仕事であちこち行ってたけど、最近はもう疲れちゃってだめね。旅行もあんまり行かなくなっちゃったわ」

「あら、そうなの? こないだだって温泉に行ったって言ってたじゃない」

「あれはバスに乗ってれば連れて行ってくれるのよ。ほんと楽よ。駅前から出てるの、知らない?」

「よく広告に載ってるやつでしょ?」

「そうよ。意外と安いのよ。今度行ってみない?」

「うちは旦那だんながいるから旅行は難しいわね」

「旦那なんてほっとけばいいじゃない」

「わたしがいないとなんにもできなくてだめなのよ」

「いなけりゃいないでなんとかするもんじゃないの?」

「そんなことないわよ。ぜんぜんだめよ」

「あら、そういうものなの?」

 四人のうちのふたりだけがずっとしゃべっていて、あとのふたりはただ相槌あいづちを打つだけのような感じだった。

 わたしは店の雰囲気がずいぶん変わったなとぼんやり思いながら、特にすることもなかったので、コーヒーを飲みつつ流れてくる彼女たちの声を耳に入るに任せていた。

 それにしてもこの人たちはいったいどういう関係なのだろうか。友達なのだろうか、それともご近所さん同士なのだろうか。それぞれどんな人生を歩んで、今はどういう暮らしをしているのだろうか……。

 彼女たちのテーブルに飲み物とケーキが運ばれてくると、「わぁ、おいしそう」「贅沢ぜいたくねぇ」「上に乗ってるの何かしら」「すごくおしゃれじゃない」などと、今度はあとのふたりも加わりいっそうにぎやかになった。

 そして飲み物をひと口飲むごとに、ケーキをひと口食べるごとに、それぞれ感想を口にしていた。


 わたしの隣の席にいたふたりはそんな彼女らのことは気にならないのか、先ほどと同じように話を続けていた。

「ほんとにママってそんなだったの?」

「そうよ。若い頃は今のあなたとそっくりよ」

「ふーん」

 若い女はまんざらでもない表情でメロンソーダを飲み干した。

「そういえば、こないだどこかで昔の写真を見たような気がするわ……」

「ほんと? 見たい!」

「おばあちゃんのところだったかな。今度行った時に探してみましょ。さて、そろそろ帰ろっか。他に何か話しておきたいことはある?」

「ううん、大丈夫。ありがと」

「どういたしまして。じゃ、行きましょ。忘れ物はない?」

「大丈夫」

 そう言って若い女が立ち上がった時に一瞬目が合ったが、とても晴れやかな表情をしていた。

 それから、うしろを向いていた彼女が振り返った時に見せた横顔には、その若い女の面影があった。


 ふたりが店を出ていったあとも、四人組の女たちはおしゃべりを続けていた。

 彼女らの言葉は、もう意味を持ってわたしの頭の中には入ってこなかった。けれどわたしはコーヒーの最後のひと口を飲み干しながら、日々を積み重ねていった先にあるこういう人生も悪くはないんじゃないかと、心がすこしすっきりしたような気がした。

 コーヒーカップを置きふと目線を上げると、カウンターの向こうから、あたたかな眼差まなざしで彼女らのことを見つめるマスターの姿があった。

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