最終話 取り戻した朝陽
あれから三か月が過ぎた。
春の夜を彩っていた桜は散り、
街にはもう夏の匂いが混じり始めていた。
海が見える街に一つ、
風変わりな看板の店。
《Bar Restart》
あの騒がしい世界とは違い、
ここには嘘もノルマも存在しない。
ただ、ひとりひとりの息づかいと、
本音だけが穏やかに流れている。
「海斗、そのシェイカーの振り方
もうだいぶ板についてきたじゃねえか」
真田さんが笑う。
白いシャツの袖をまくったその手は、
かつての“店長”のそれよりもずっと逞しかった。
「慣れました。…ようやく、ですけどね。
ほんと真田さんには随分鍛えられましたよ」
「はっはっは。Luxtの時の
内勤スタッフの苦労がわかったか?
カクテル1つ作るのも楽じゃねえだろ?」
「ったく…しかしビックリでしたよ、
真田さんまでLuxtを辞める必要、
なかったはずじゃないっすか?」
「バカ!ランカーが2人も抜けた店だぞ?
お前と麗也が抜けた時点で俺はもうクビだ」
真田さんは以前より随分と日焼けした腕を
ぶんぶん振り回しながら笑う。
Luxtを辞めて1か月くらいして
真田さんから連絡が入った。
「湘南で店出すから来い」
てっきり遊びに来いという意味だと思った。
が、一度顔を出してからというもの
俺はここで毎日シェイカーを振る生活をしてる。
「まあ…負けないっすけどね。
真田さんがビビるくらいの酒、作りますから」
「お前は相変わらず真面目だなあ。
夜の頃も、結局それが強みだったんだよな」
カウンター越しの言葉に、
少しだけ胸が温かくなった。
⸻
閉店まであと一時間。
扉のベルが鳴った。
「こんばんは」
店に入って来たのは美穂だった。
白いワンピースに、
薄いベージュのカーディガン。
夜というより、朝を連れてくるような姿。
真田さんが声をかけた。
「おぉ!美穂さん、いらっしゃい!
ここまで随分と遠かっただろー?」
「はい、ロマンスカーって初めて乗りました」
「…美穂、来てくれたんだな」
「この店、ずっと来たかったの。
でも、なんかタイミングが怖くて」
「怖い?」
「うん。あなたがもう
“別の場所に行っちゃった”気がしてたから」
その言葉に、胸の奥が少しだけ冷えた。
「別の場所に行ったのは確かだよ。
でも、ちゃんと帰ってこれる場所もできた」
「ここが?」
「そう。嘘がいらない場所だ」
美穂は微笑み、カウンターに肘をついて
少し身をこちらに乗り出した。
「ねぇ、じゃあ今はどんな嘘をついてるの?」
「…“真田さんは優しい上司です”…かな?」
「ふふ、それは面白い嘘かもね」
「おい、海斗?てめえそりゃどういう意味だ?」
三人は笑った。嘘もなく心から笑った。
俺と美穂、
ふたりの間に流れる空気は優しかった。
苦しくもなく、懐かしくもなく、ただ温かい。
「…なぁ、美穂」
「うん?」
「俺、もう少しだけ
人を信じてみたいと思うんだ」
美穂はゆっくり頷いた。
そして、グラスを置いて
そっと俺の手に触れた。
ほんの一瞬。
でも、それは“確かな現実”だった。
「それなら最初に信じるのは自分でいい」
そう言って俺の顔をじっと見つめる。
「でも、次に誰かを選ぶときは──
その相手が私だったらいいな」
心臓の音が、ゆっくりと夜を満たしていく。
「…わかった、隣、空けておくよ」
ふたりの視線が静かに交わる。
何も飾らず、何も演じずに。
そこにあったのは、
夜を越えて見つけた“素顔の愛”だった。
⸻
閉店してからどれくらい経っただろうか。
真田さんが窓を開けて言う。
「海斗、ほら!もう夜明けだぞ」
東の空が少しずつ明るむ。
街がまた、静かに息を吹き返していく。
俺はカウンターから外を見つめた。
隣には美穂。
無意識的に俺たちは触れ合っていた。
「朝陽って…綺麗だね」
「…ああ。やっと夜が終わった」
美穂が笑った。
朝の光がガラス越しに差し込み、
その頬をやさしく照らす。
俺はそっと言葉を落とした。
「眠らない街で名前を捨てたけど、
今は“誰かの隣”で生きてる」
「誰かって?…それ、私だよ」
光が二人の間を満たしていく。
もう、何も隠さなくていい。
夜も、名前も、そして心も。
──それが、俺たちの“はじまり”だった。
眠らぬ街で名前を捨てたホスト 相良一征 @SagaraKazuyuki
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