第5話 渇きと湿気

 境界線を越えた瞬間、世界が色褪せたようだった。

 見渡す限りの赤茶けた砂と、風化した岩肌。空は濁った白に覆われ、太陽の光は熱だけの暴力となって降り注でいる。


(……これが、東方の砂の国境)


 アルトは息を呑んだ。喉が渇くというより、肺の中の水分が直接蒸発していくような感覚だ。工房の窓から見ていた「外の世界」とは、根本的に次元が違う。

 リュックが肩に食い込む痛みだけが、自分がまだ生きていることを自覚させてくれた。


「おーい、ぼさっとしてるんじゃないよ。足を止めたら砂に飲まれて終わりだよ」


 リタの声が、風切り音のように鋭く響く。

 彼女は目元を覆うゴーグルを装着し、淡々と砂丘を登っていった。その背中は、一切の無駄がない。


(いったい、この人はどれだけの修羅場を潜り抜けてきたんだろう……)


 アルトは畏怖と、わずかな安堵を覚えた。

 もし一人で来ていたら、一時間で干からびていただろう。契約の対価は高いが、彼女の提示した「案内料」にはそれだけの価値がある。



─────────────────────────────────────



「……魔力の濃度が、異常ですね」  


 指先で空気をなぞるようにして言った。

 肌がチリチリする。


 リタは歩みを止めずに答えた。


「ああ。この砂漠の砂は、大気中の魔力を貪欲に吸い取る性質がある。だから『渇きの砂漠』なんて呼ばれてたりもするのさ」


「喉の渇きと、魔力の渇きの二つの意味を持ってるんですね、おもしろっ」


「……」


 リタが腰の短剣を軽く叩く。


「……ここじゃ、エンチャントみたいな軟弱な代物はただの飾りだ。魔石のエネルギーなんて、剣を抜いているだけで吸い尽くされちまう」


 道端には、半分砂に埋もれた鎧の残骸が転がっていた。

かつては強力な加護を受けていたであろうこの鋼も、今は見る影もなく錆びつき、ただのガラクタに成り果てている。

 と、その横に薄汚れ、色あせた魔石がいくつか落ちていた。アルトはそれを大事そうにポケットにしまい込んだ。


「そんな石ころ拾ってどうするんだい、魔力も残ってないだろう?」


「一応ですよ、一応」


 エンチャントという「借り物の力」が剥がれ落ちた時、そこに残るのは無力な自分だけ。自分は、この過酷な世界で、自分の技術だけで生き残らなければならない。



─────────────────────────────────────




 数時間歩き続け、太陽が中天に差し掛かる頃、二人は岩陰で休憩を取った。

 リタが水筒を傾けるが、ポタポタと数滴が落ちるだけだった。


「チッ……計算より蒸発が早いな」


 彼女の顔にも隠しきれない焦りの色が浮かんでいた。


(熱い、喉乾いた……水のみたい)  


 アルトの心臓が早鐘を打つ。

 水が尽きれば、待っているのは確実な死だ。


「次のオアシスまでは半日かかる。……ペースを上げるよ。倒れたら置いていくからね」  


 リタは努めて冷徹に言い放ったが、その声にはやはり余裕がなかった。


 アルトはおもむろにリュックを下ろし、中から小さな金属製の筒を取り出した。工房で使っていた、ただの銅パイプの端材だ。

 そして彼は、さっき道端で拾った魔石をポケットから取り出した。


「リタさん、少し時間をください」


「はあ? なにをするっていうんだい? 魔力なんて残ってないよ」  


「いいえ。エンチャントを動かすには足りませんが、水を呼ぶ種火にはなるかもしれません」


 彫刻刀を取り出し、銅パイプの内側に微細な溝を刻み始めた。  


(焦るな。残りカスのような魔力を、一滴も無駄にせず循環させろ)


 彼が刻んだのは、微弱なエネルギーで大気中の水分を効率よく結露させるための【集水】のルーンだった。  

 最後に、拾った魔石を柄で砕き、その粉末を溝に丁寧に埋め込む。

 微かな、蛍のような光が溝を走った。


「……よしっ」


 筒を岩陰の、わずかに風が通る場所に設置し、下にコップを置いた。  

 すると、乾ききったはずの大気から、目に見えない水分が筒の中に吸い寄せられ、内壁で結露し始めた。  


ポタ……ポタ……ポタ……


 澄んだ水滴が、規則正しいリズムでカップに溜まっていく。


「……なっ!?」  リタが目を見開く。  


「どっどういうこと? その魔石は空っぽだったはずだろう……?」


「ふっふっふ、空っぽじゃありません。僅かですが、残っていたんですよ。エンチャントは焚き火のように魔力を燃焼しますが、ルーンはロウソクのように少しずつ使います。これなら、この魔石ひとつで半日は水を作れます」


 リタは溜まった水を一口飲み、乾いた喉を潤すと、底知れないものを見る目でアルトを見つめた。


「……魔石の残りカスが、貴重な水源に変わった。あんた、自分のやってることが分かってるのかい?」  


 リタの声は低く、真剣だった。


「もしギルドがこの技術を知ったら、逮捕じゃ済まない。市場価格を破壊する危険因子として、全力で消しに来るだろうさ」


 その言葉には、相棒としての忠告と、商人としての恐怖が混じっていた。  


(……そ、そんなにやばいことなのか)


 ゴクリと唾を飲み込む。

 自分の技術が、単なる便利道具を超えて、世界の均衡を崩しかねないことに気づき始めていた。


 水分を補給し、人心地ついた二人が再び歩き出そうとした時。    


ズズズ……ン……。


 地鳴りが響いた。

 風の音ではない。もっと重く、巨大な何かが、砂の下を移動している音。


「……! 止まれ」  


 リタが鋭く制した。彼女の全身から殺気が立ち上る。


「最悪だ。さっきの『水』だ。砂漠じゃ湿気は血の匂いより目立つ。嗅ぎつけられたか……」


 次の瞬間、二人の目の前の砂丘が爆発したように弾け飛んだ。

 噴き上がった砂煙の中から姿を現したのは、天を衝くような砂岩の城塞のような、全身が岩と砂で構成された砂漠の王者。


「サンド・ゴーレム……!」


 リタが呻くように言った。


「走れアルト! あんなデカブツ、私の剣じゃ爪楊枝にもなりゃしない!」


 (嘘だろ……こんな岩山が意思を持って動くのか!?)


 アルトは見上げた。振り上げられた腕は、家一軒を容易く押し潰せるほどの質量がある。一撃でも掠れば、鉄の盾だろうと紙屑のように粉々になるだろう。  

 これは「素材」や「技術」でどうにかなる相手ではない。


「こっちだ! 岩場に逃げ込め!」


 リタに腕を引かれ、アルトは必死に足を動かした。  

 ゴーレムの動きは見た目に似合わず速く、砂の津波のような一撃が、二人の背後に迫っている。


(ここで、死ぬ――!?)


 脳裏をよぎったその時、アルトの胸元が焼け付くように熱くなった。 


「!? あつッあちちッッ熱い!熱っ!!」


「いいからッ!足を動かし続けな!!」



 ゴダアァンッ!!


 アルトの背後で爆発のような衝撃が走る。

衝撃波で二人は岩場の陰に吹き飛ばされ、砂が巻き上がった。

 アルトは地面に顔から着地して、熱砂を口いっぱいに頬張った。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ルーン工匠の刻む旅路 ふとんかつ @comgi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画