惜別の秋




 ……弟の李英が、絽公の天幕に呼び出されることになったのは、李周が、帰国した弟から受け取った一通の書状のためだった。

 異国の印のあるその書状は、開いた途端に李周の胸を重くさせた。


 送り主は、八州国のひとつ、弟の留学先だった濘国の王。


 ……そこには、二十四になる弟の李英が三年の留学でいかに励んだかが記され、結びには、絽公清嶺を暗愚と断じて李周を濘国へ迎えようとする誘いの文言があった。


 兄をしかるべき王へ仕えさせ大成させたい。それが弟の願いであることは痛いほどに分かった。その想いゆえに濘王に付け入られたのだと思うと、胸が痛んだ。

 思えば李家のため、ひいては絽国のためにとかの国へ送り出したのに、三年を経て戻った弟は、すっかり装いも物腰も洒落しゃれて、絽の田舎者ではなくなっていた。


「兄上の御為にございます、どうかこの英と、濘公の元へ参りましょう」


 書状を押しつけて請うその必死さが愛おしく、そして腹が立った。

 ――こんなものを持って帰ったお前は、もう絽にいるつもりはないのだな。

 憤慨とともに、胸底を灼くほどの悲しみが込み上げた。


 違うのだ、李英。あるじは暗愚を装っているにすぎぬ。だがそれを知るのはごくわずかな者のみ。加えて弟は即位前のあの方の放蕩ぶりしか知らず、今とて噂は酷いものばかり。言葉を尽くしたところで、もう届きはすまい。


 この文を、我が胸の内のみに収めておくことはできぬかと、何度も考えた。けれど弟は出国を促し、国境に濘の迎えを待たせていると。……無視はできぬ。弟も行かせられぬ。かといって、この俺が国境へ行くわけにも。


 だが事情を話せば、弟は裏切者として斬られるやもしれぬ。兄としての情と、将としての忠が、心をかき乱した。





 結局のところ、李周はあるじの前にその文を差し出した。忠心を疑われないため。そして心のどこかでは、この件の責任から逃れ、咎めをあるじに一任してしまったのだとも言える。そして何より、国境に待つ濘国の迎えとやらへの対処を、絽公に委ねる必要があった。


 若き絽公、清嶺はしばし黙って封を眺め、それから淡々と開いて読んだ。その眼の奥に一瞬、光が走ったように見えた。

 怒りか、それとも別の何かか。李周には判じかねた。

 あるじは燭台の火に書状を投じ、舞い上がる灰を見つめながら一言だけ発した。


「李英を呼べ」


 李周は膝をつき、どうか弟を罰してくれるなと懇願しかけて、やめた。清嶺は、一度決めたことは曲げぬ。その眼差しには、心を定めた者だけが帯びる哀愁と剛さが宿っていた。



◇◇◇



 虫の声も細くなった、晩秋の夜。

 李英が、夜風に衣を翻しながら幕口を分けて進み出た。異国風の装いで、あるじの前に膝をつく。


「李英、なにか申し開きはあるか」

 弟は静かに両膝をつき、唇を震わせながらも真っ直ぐに言った。


「兄は愚王に縛られ、日々戦塵に身を費やしておられます。あまりに惜しいことです。才を惜しまず正しく重んじ、大きく用いる国こそ、私の見てきた濘国にございます。……私は兄を救いたかった。ただ、それだけです」


 言葉は真摯にして澄みきっていた。打算はなく、ただ兄を思慕する情だけがあった。一方で、李英は言葉を刃のようにして、清嶺の胸元に突きつけたも同然だ。


 李周は魂を二つに裂かれる思いでそれを聞いていた。他国に取り込まれた弟への怒りと悲しみ、そして自責の念が一度に押し寄せ、声も出なかった。

 清嶺は弟を見据え、剣を抜いた。篝火を浴びて白刃が光り、空気が凍る。


 李英は目を閉じ、背後に控える兄へ声を限りに叫んだ。

「兄上――お別れ申し上げます!」


 李周は膝から崩れ落ちた。嗚咽が胸を裂き、幕僚らが慌てて李周を抱きかかえる。

 清嶺は剣を振り下ろした。絨毯の下の大地に、剣が突き立つ鋼の音がした。


 弟は呆然と王を見つめた。頬を一筋の涙が伝う。

 清嶺は、李英のすぐ脇に剣先を突き立てたまま、机に向かい筆を執った。さらさらと一筆書きつけ、封を施して弟に投げつけた。


「これを持って行け。二度と顔を見せるな」


 李英はとまどい震える手で書状を拾い、深々と頭を下げて幕を出ていった。

 幕内には沈黙が落ちた。李周は涙を流し、ただその背を見送るしかなかった。賢い、愚かな弟よ。これが我らの今生の別れか。



 やがて清嶺は人払いをし、二人きりになると、低い声で告げた。

「書いたのはこうだ――『これなる李英は、わが軍師、李周の弟なれど、すでに絽国を捨てし者なり。絽国とは一切関わりなし。好きに用いよ』」


 李周は地に額を擦りつけた。安堵と悔恨と感謝と惜別が入り混じり、肩を震わせたまま立ち上がることができなかった。


 清嶺は歩み寄り、手を差し伸べる。

「一つ貸しだぞ、李周」

「……感謝申し上げます、公」

「……ああするしかなかった、すまん」

 

 清嶺の声は、晩秋の夜に静かに響いた。

 斬るに忍びなく、許すに能わず――、

 それゆえに、放逐するしかなかったのだと。


 明星を背負うあるじは、李周の肩に手を置いた。何かを決意するように、その瞳は篝火を映し続けていた。



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明星を背負いて 佐宗 操 @schwarzewald

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