はなのまじない

祐里

ひととき

 月の見えない夜だった。

 夜回り中の同心が町を流れる川べりを通る時、瀟洒しょうしゃなりの女がうずくまっているのを見付けた。


「どこか痛むのか」

「いいえ」

「では、立ちなさい。送って参ろう」

「いいえ」


 小さな声が答えるも、手持ちの提灯をかざしたところで俯いた顔を見ることは叶わない。


「家の者も待っているであろうに」

「捨て置きください」

「案ずるな、私は町廻まちまわりの同心だ。さあ」

「あっ」


 細い腕を取られた女の目は黒く濡れ、同心を捉えて離さない。


「何とも、美しい。月もない夜に一人など以ての外ではないか」

「いいえ、いいのです」


 着物の花小紋は、町娘の間で流行っているもの。だが、女からはわずかにえた匂いが漂う。裾が翻るも襦袢は見えない。違和を感じながらも、同心は再び口を開いた。


「雨が降りそうだ。体に障る」

「なにゆえそのような温かいお言葉を」

「女を見捨てては同心の沽券に関わる」

「それだけで」

「美しくか弱い娘を、捨て置くことはできぬ」


 女は顔を上げて同心の顔を見、やがてさめざめと泣き出した。


「なんとお優しい旦那様。あたしは着物を取り替えてくれと言われただけで。商売道具のむしろも手ぬぐいも、取られました」

「……夜鷹か」


 女が夜鷹と知れた途端、同心は汚いものを見るように目をすがめ、女から手を離した。


「一体、誰が取り替えてくれなどと」

「誰かは知りませぬが、好いた男に会うのにその格好を寄越せと」

「ははあ。大商人の娘と奉公人の道ならぬ恋、というところか」

「あたしを可哀想と思うなら、どうか一夜だけでもお恵みを」

「誰がおまえなど。せめてものなさけだ、今宵のことは忘れようぞ」

「つい先はお優しかったというに」

「おまえは町娘ではない」


 すると、女は同心の腰の脇差わきさしを手に取った。


「何を……!」


 間合いは既に詰められており、女は脇差の先で同心の羽織を裂いた。が、その間にも打刀うちがたなが女の腹を刺し貫いた。

 女は痛みを堪え、安いまじないの如く、低い声を絞り出す。


「旦那様、の、すべての優しさが、毒に、なりますように……そうして忘れたままで、いて……ください……」

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はなのまじない 祐里 @yukie_miumiu

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