第1回 導入:魔力とは何か
講義室の照明がゆっくりと暗転する。
スクリーンに映し出されたのは、青い海面の映像だった。光の筋が揺れ、静かに波紋が広がる。
その中心に、ナイアド・プロイの姿が立っていた。長い青銀の髪を背に流し、深海のような瞳が画面越しにこちらを見つめている。
声は穏やかだが、どこか流れのように滑らかで、芯が通っている。
「——水は、流れる。
けれども、それがどこから来て、どこへ行くのか、私たちは正確には知らない。
魔力もまた、同じだ。」
板書が映る。白い文字で「Φ:魔力流束」「ψ:魔力ポテンシャル」と書かれる。筆記は滑らかで、チョークが板を擦る音が波のリズムを刻むようだ。
「この講義では、魔力を“物理的な現象”として扱います。
火や風、雷や水といった元素の属性を持つ魔法は多くありますが、それらの背後で動くもの——それが魔力(マナ)です。
魔力は単なる『力』ではありません。流れ、圧力、そして抵抗を持つ、“場のエネルギー”です。」
彼女は黒板の左側に円を描く。それは惑星の断面のようでもあり、エネルギー源を示す魔方陣のようでもあった。
「魔力は、物質界を貫く目に見えぬ流体。
あなたが呪文を唱えるとき、音と意識がその流体に波を起こします。
その波が物質や精神に影響を与えることで、“魔法”という現象が起こるのです。」
カメラがスライドに切り替わる。
そこには古代の魔法体系が並んでいる——「霊素」「魔素」「エーテル」「ルナエネルギー」「プラーナ」など、異なる文明が呼んだ名前たち。
「これらの言葉は、いずれも魔力を理解しようとした人々の試みの歴史です。
かつては“神の息吹”とされ、やがて“精霊の媒体”と呼ばれ、近代に至ってようやく“流れるエネルギー”として定義されました。
魔力物理学は、この歴史の果てに生まれた“統合的な学問”です。」
スライドが切り替わり、今度はひとつの方程式が現れる。
―――
𝑑Φ/𝑑𝑡 + ∇・(Φ𝑣) = 0
―――
その下に、ナイアドの手で書かれた翻訳が添えられる。
「魔力は消えず、ただ形を変えて流れ続ける」。
「これは魔力保存の基礎方程式です。
意味がわからなくても構いません。
大切なのは、“魔力が消えることはない”ということです。
私たちは日常の中で、何かを“消費する”という感覚に慣れていますね。
しかし魔力は違う。燃やしても、封じても、変質するだけでどこかに残る。
この性質を理解しなければ、魔術を制御することはできません。」
黒板に描かれた魔力流線が、スクリーン上のアニメーションに連動して動く。
光が渦を巻き、流れ、集まり、そして再び拡散する。
まるで水の循環を模しているかのようだ。
「では、“魔力が流れる”とは何を意味するのか。
それは、ポテンシャル(ψ)の差が生まれた瞬間に起こる現象です。
高いところから低いところへ水が流れるように、魔力もまた“圧”の差によって動きます。」
彼女は両手を掲げる。指先から青い光が伸び、空間に二つの球を描く。
ひとつは淡く光り、もうひとつは暗い。
その間に細い光の糸が生まれ、ゆっくりと流れ始める。
「これが“魔力流束(Φ)”。
この流れがある限り、魔力はあなたの術式を支え、命を循環させ、結界を動かす。
しかし、流れが止まれば——世界はただの沈黙になる。
魔力物理学とは、“沈黙を防ぐための学問”でもあるのです。」
一瞬、沈黙。
ナイアドの視線はスクリーン越しの学生たちを真っすぐ見据える。
彼女の口元には微かな笑みが浮かんでいる。
「……ここまで聞いて、“難しそうだな”と思った人もいるでしょう。
でも大丈夫。私はもともと、“感覚で”水を操っていた者でした。
それが、流れの数式を学び、圧力の勾配を理解したとき、世界がまるで新しい言語で話しかけてきたように感じたのです。論理は魔法を奪うものではありません。
むしろ、魔法を言葉にできる力を与えてくれます。」
映像の背景に、彼女の出身地「シッサム・フォッサ」の映像が映し出される。
海王星の蒼の底に広がる亀裂——“陸にある海溝”と呼ばれる場所だ。
そこに漂う微光の粒子が、まるで呼吸するかのように動いている。
「私がこの大学で教える理由は、魔力を“怖れ”ではなく“理解”で扱ってほしいからです。
知識は安全をもたらします。そして、流れを見極める眼は、どんな術者にも平等に与えられている。」
彼女は再び黒板に向き直り、魔力方程式の下に大きく書き加える。
―――
魔力=情報を運ぶ流体
―――
「これが、今日の講義の核心です。
魔力とは単なるエネルギーではない。情報を、記憶を、意志を運ぶ流体なのです。
だからこそ、詠唱(スピーチ)と数式(エクスプレッション)は、本質的に同じ行為。
あなたが声を発すれば、それは波として流れに刻まれ、世界が応答する。」
一拍置いて、彼女はチョークを置く。
その音が静寂の中で小さく響く。
「次回からは、この“流れ”がどのように保存され、どのように失われるかを扱います。
けれど今日の課題は、まずあなた自身が魔力をどう定義するか。
定義とは、世界との最初の契約です。数式でも、詩でも、比喩でも構いません。
400字で、あなたが信じる魔力の姿を書いてください。」
映像のラスト、ナイアドはゆっくりと水の球を掌で握りつぶす。
滴が宙に散り、光の粒となって消える。
「——魔力は、流れ続ける。あなたの中にも、いま確かに。」
画面が暗転し、講義終了の文字が浮かぶ。
―――
第1回課題:
「あなた自身の考える“魔力の物理的定義”を400字でまとめなさい」
提出締切:第2回講義開始前日(通信課題フォームより提出)
魔力物理学概論 常陸 花折 @runa_c_0621
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