天秤

ティアンズ

 

「安くて美味い店あるんで行きましょう!」


同僚──沢田の珍しいお誘いだった。

こいつが人を飲みに誘うなんて滅多にない。

まぁでも、仕事で世話になってるし、可愛い奴だ。

乗るのも悪くないなと思った。


……今思い返しても、この後のシナリオは、現実とは思えないほど歪んでた。


当時、俺と沢田は西新宿の飲食店で働いてて、飲み屋があるのは新宿三丁目。

飲みに行くために歩くにはちょっと遠いけど──まぁ、いいか。


店に着くと、内装がお洒落な感じのバルだった。

(ワインバル、か)

俺たちは、楕円の大きいテーブルの席に並んで座った。


「こんなとこいつ見つけたんだよ」

「たまたま通りかかったら良さそうだったんで、入ってみたら当たりでした」

「へぇ〜」


うーん、俺は絶対入らないタイプの店だ。

落ち着かねぇ。

しかし沢田、何か嬉しそうだな?何でだ?

と思いながらメニュー表を見てるところに──


「いらっしゃいませ! あれ?また来たの?」


ショートカットでスレンダーな、エプロン姿の可愛らしい女性店員が沢田に話しかけた。

「えっ?そんなに来てんの?」

「週一、二っすね」

──ばつが悪そうに笑う沢田。


「彼女、ここの店長なんですよ。あ、この人俺の先輩」

「そうなんですか! はじめまして、ミナです」

彼女はぺこりと頭を下げた。

「三田です、どうも」


……こんな感じで始まったんだ、あの日の夜は。


その後、ワインとおつまみを数点頼んで、仕事の愚痴やらくだらない話をして。

その間、ミナはちょくちょく席に来ては雑談して、笑って……

まぁ、たまにはこういうのも悪くねぇなって思った。


俺たちは二時間くらいで店を出た。

「ありがとうございました、またお待ちしてます!」

ミナはニコニコしながら手を振り、見送ってくれた。


帰り道。

沢田は酒も入ったからか、妙に上機嫌だった。

「あの店長可愛くないですか?」

「うん、愛嬌もあるし好印象だな」

「実は俺、あの子狙ってるんすよ」

「あぁ〜、だから通ってんだ」

「まぁ、それもあります」

「それもあるじゃなくて、それが一番だろ?」

「でも、料理も酒も美味かったでしょ? また行きましょうね」

「……まぁ、いいけどさぁ」


その後、沢田と飲みに行くのはその店ばかりになった。

俺もミナと顔見知りになって、たまたま新宿の地下通路で会ったとき、彼女から声を掛けられたこともあった。


「あっ!三田さ〜ん!」

「ん?あれ、ミナちゃん。これから仕事?」

「はい。三田さんも?」

「うん」

「お互い仕事頑張りましょうね!あ、あと、また……お待ちしてます」

「うん、またあのアホと行くわ」

「よろしくお願いします。じゃあ、また!」

「うん、頑張って」

ミナは笑顔で手を振って、新宿三丁目方向へ歩いて行った。

(めちゃくちゃ出来た子だ。あいつには勿体無い気がする)


ある日、いつものように沢田から飲みに誘われた。

新宿三丁目に向かったけど、いつものバルじゃなかった。

個人経営の、小さな居酒屋。

(あれ、何かあったのか?)

気づけば“沢田と飲み=あのバル”ってくらい、定番になってた。


俺たちは店に入り、四人がけのテーブルに、向かい合わせに座った。

「今回は何でいつものとこじゃないの?」

「今日は彼女が休みなんで、一緒に飲もうって誘ってるんです」

「へぇ〜……えっ?彼女いたっけ?」

「はい。実はミナと付き合うことになったんですよ」

「マジで!? 有言実行じゃん」


そんな話をしていると、

「こんばんは~。あっ、三田さんもいる!」


ミナが来た。

私服は初めて見たけど、適度な着崩し感が普通に可愛い。

そして、沢田の隣に座る。

「俺達が付き合ってるの、三田さんに言っとかなきゃって思ったから、ミナに来てもらったんすよ」

「いやいや、別に親じゃないんだから気にすんなって」

(いや、そんなんいいから、ふたりで飲みに行けよ!)


気まずさを感じてきた俺に、沢田は思いも寄らないことをしれっと言ってきた。


「俺たち同棲することにしたんですよ」

「えっ?早くね?」

俺は無意識に、ポロッと口に出た。


「お互い、一緒に住んだほうが色々分かるかなって思ったんで」

「まぁ、言わんとすることは分かるけどさぁ⋯⋯ミナちゃんはそれで大丈夫なの?」


すると、ミナからも突然のカミングアウト。


「……はい。私、実は今まで男の人と付き合ったこと無くて……」


彼女は自分のグラスに視線を落とす。


「奥手とかではなくて、男は汚らわしい生き物だとずっと思ってて……恋愛なんてもっての外でした。女の子と付き合ってたことはあるんですけど……」


俺、たぶん、このときめっちゃ顔引きつってたかもしれない。


「でも、初めて男の人が好きになりました。彼は、何故か男の人の中でもそんな気にならないんです」


「そ、そっか。君らがいいならそれでいいよ。仲良くするんだよ」

俺は当たり障りの無いことしか言えなかった。

でも、端から見てる分には違和感なんか無いし、いいんじゃないかなと思った。

でも、まさか、あんなことになるなんて──誰も想像つかないだろ。


それからも、何度か沢田と、ミナの店に行くことがあった。

ある時、その店で、ふたりでランブルスコを七本空けてベロベロになった俺は、給料のほとんどを入れてた財布を無くし、妻に死ぬほど怒られ、飲み禁止令が出てしまった。

沢田ともしばらく飲みに行けなくなって、その間、ミナのことはお互いに一切話さなかった。

俺からも、沢田からも。

……何となく、そういう空気だった。


二ヶ月くらい経った頃だろうか。

職場に沢田が来ない。

風邪なんかで滅多に休んだりしないし、そうであったとしても連絡を怠るようなことは絶対に無いから、確実に何かあったなって思った。


俺はLINEで、

〈どうした? 休むのに連絡しないことなんて無いだろうから、何かあったんだろ?〉

って送った。

数分後に、沢田から返信が来た。

〈さすが三田さんです〉


(はぁ?何がだよ)

そして、そのすぐあと──




〈腹に包丁を刺しました〉




⋯⋯は?


俺はまたLINEを送る。

〈は? 何がどうなって?〉


やり取りにタイムラグがある。

沢田の返信が明らかに遅い。


〈彼女と口論になって死んでやるって包丁持ち出したからムカついて奪い返してだったら俺が死んでやるって言って刺しました〉


(あんなに仲良かったのに?そんなことある?)


〈みんなには腹痛で休むって言っておいてください〉


俺は、LINEでのやり取りがめんどくさくなって電話した。


「もしもし……」

「何やってんだよ、救急車呼んだのか? 」

「呼んでないです……呼んだら大事になるし、ミナを加害者にしたくないんです」

その声は、呼吸と一緒に漏れるように途切れ途切れだった。


「そんなこと気にしてたら死ぬぞ! 早く呼べって!」

「まだ、大丈夫ですから……」


プツッ。

電話を切られた。

その後、何回もかけ直したけど出ない。

(おいおい……どうすんだよこれ……!)



俺は沢田の住所を知らない。

だから、こっちから救急車を呼ぶことも出来ない。

他の同僚やバイトは、

「沢田さん来てないから連絡したんだけど、電話出ないし既読つかない」

「あいつ何かあったんじゃねぇの?」

ざわめきが少しずつ広がる。

きっと、何かを察してる。

まさか“腹に包丁が刺さってる”なんて誰も思ってないだろうけど。

でも──俺は知ってる。

本当に“刺してる”ってことを。


正直、まだ信じきれない。

そんなこと、現実にあるか?

いや……あいつの性格を知ってるからこそ、“本当にやったんだろうな”って思ってしまう。


その後、何回も電話をかけたけど出なかった。

もしかしたら、もう救急車を呼んだかもしれない。

そう思ったけど、数十分後にもう一回電話をかけた。



「……もし……もし」

やっと出た。

でも、明らかにさっきより息が絶え絶えだった。

「おい、まだ救急車呼んでないのか?」

「はい……」

「早く呼べって!マジで死ぬぞ! ミナちゃんどこ行った!?」

「……出て、行きました」

「何でだよ……なぁ、住所教えろよ。俺が救急車呼んでやるから」

「嫌です……」

「おい、こんなんで死ぬの勿体ねぇぞ!それに、最後に話したのが俺とかマジで勘弁だからな!?」

「ふふっ……それ、面白いっすね……」

「マジで笑えないからな。なぁ、ちゃんと救急車呼べよ? 俺は沢田に死んでほしくない。電話はこれで最後にするから……信じてるぞ」


俺は電話を切った。

何だよ、“信じてるぞ”って。

ため息が漏れて、店にいる客のざわめきが遠くに聞こえた。

部長に住所を確認したらすぐに救急車を呼べるだろうか?

いや、あいつは同棲してるから、もしかしたらその住所を伝えてない可能性がある。

そうなったら確実に警察沙汰だ。

でも、あいつが行動しなかったら、死ぬ。

何だよ俺、守りたいのは命か?体裁か?


──めちゃくちゃ悩んだけど、俺は沢田を信じることにした。

……けど、分かってた。

俺の選択は、正しくないって。

そんな口約束みたいな言葉で、あいつを繋ぎ止められる気なんて、正直しなかった。


俺は、逃げたのかもしれない。


その日の仕事は、あまり手につかなかった。

そして、家に帰ってからも、なかなか寝つけなかった。

(頼むから、死ぬなよ……)


翌日。

店のランチ営業が終わって一息ついたとき、沢田からLINEが来た。

〈昨日はすみませんでした。しばらく入院することになりました。刃が臓器を少し傷つけたみたいで、多少長引きそうです〉


……よかった。

俺はただ、それだけだった。


〈ちゃんと救急車呼んでくれたんだな。よかった。こっちは気にしないでゆっくりしときな〉


〈なるべく早く復帰出来るようにします〉


〈元気になったら詳細聞かせてもらうからな〉


俺はこのとき、深追いしなかった。

きっと、辛かったと思うから。

だからそれ以降も、こちらからは一切連絡はしなかった。



数週間後、沢田が職場に復帰した。


「いやぁ、すみませんでした〜」

頭を掻きながらヘラヘラと。


「全然すみませんって思ってないテンションだぞ」

俺は、事件当日のことやそれ以降の話を聞いた。


「お互い、本当に些細なことで言い合いになることが多かったんですよね。微妙に生活の時間もズレてて話することもあんまり無くて。で、当日も些細なことで火がついて、俺もムカついて勢いで刺しちゃいました」


「勢いで刺すってすげぇよな」


「そのときは“やべぇ本当に刺しちゃった”って後悔しました。ミナも流石に、狼狽えながら“大丈夫?”って言うもんだから『大丈夫な訳ねぇだろ!』って言いました」


「まぁ、そりゃねぇ……」


「でも、ミナを加害者にしたくなかったんで、外に逃しました。結局事件を疑われて、事情聴取は受けたみたいですけど」


「そっか。だからミナちゃんいなかったんだ。で、その後は?」


「その日以来会ってないんですよ。お見舞いにも来なかったし、連絡しても返事無し。まぁ、自然消滅ってやつですかね。残ったのはこれだけですよ」


沢田は苦笑いしながらシャツを捲って、へその少し左側の、塞がった刺し傷を見せてきた。


「いい記念っすよ」


「どこがだよ……で、これからどうすんの?」

「家の解約ですかね。掃除とか整理もしないと……あー、めんどくせぇ。めっちゃ金かかるじゃん」


愚痴ってた沢田の声色が、この後、いきなり変わった気がした。


「──でも、三田さんが電話くれたの嬉しかったっす。他の人からも沢山連絡来てたけど、心配させたくなくて出なかったんすよ」


「いや、それ逆効果だったからな?俺、けっこうみんなから詰められたんだぞ?」


沢田は少し笑った後、

「三田さんはミナ知ってるし、大事にしないようにしてくれるだろうって思ったんで、電話に出たんです。それに、“こんなんで死ぬな”って言ってくれたとき、それまではもういいやーって思ってたけど、何か段々ムカついてきて、絶対死なねぇって思えて──それで救急車呼びました」


「そっか。まぁ、きっかけになったならよかった」


沢田には悪いけど、生きることを選んでくれたこと以上に、俺を信じて電話に出てくれた。

そして、俺の言葉で帰って来てくれたっていう事実が、何より嬉しかった。


「……三田さん、また飲みに行きましょうね?」

「じゃあ、次はどこの店の女狙おうか?」

「いやいや、しばらくそういうのいいっすよ〜」


俺たちは笑い合った。

今まで通り、何も変わらずに。


その数か月後、俺と沢田は同じ日に仕事を辞めた。

「三田さん辞めるなら俺も辞めます」

「んー、まぁ、俺がとやかく言う筋合い無いしな……いいんじゃね?」

退職の一か月前くらいに、そんなやり取りもあった。


それから、それぞれの道を行った。

これは、もう十年以上前の話。

今じゃ連絡先も分からなくなったけど──

もし、いつかまた会えたら、このときのことを、笑い合いながら話せたらいいな。



……でも、あの夜のお前の声だけは、今も耳から離れないんだよ。

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