青いスーツケース

甲斐遼太

第1話/全1話

「……さむい」

 思わず口をついて出た言葉は、故郷への思いでも両親や友達への惜別でもなく、ただ素っ気ないものだった。

 もう三月末だというのに、マフラーを巻いていなければとても駅まで歩くことはできない。数日前まではニュースが「十年に一度の暑さ」と騒いでいたのに、すぐこれだ。相変わらずの気まぐれ天気に顔をしかめながら、青いスーツケースをころころと転がして歩く。

 海から吹く北風がショートカットの髪を動かす。朝日はまだ昇っていないが、東の空は徐々に明るくなってきている。ちょうど朝の漁の時間なのか、漁港の船が少ない気がする。一羽だけでぽつんと立っているサギを眺めながら、歩行者も車も通らない海沿いの道を進む。静かだ。

 卒業を機に上京することは、前々から決まっていた。

 これまでの人生で、こんな海沿いの田舎町なんて抜け出してやると何度思ったかわからない。

 若者向けの店なんて駄菓子屋しかない中心街。参加者の平均年齢が明らかに高い夏祭り。なにかと過干渉な両親。一クラス十数人しか生徒がおらず、中学でも高校でも幼い頃から同じ学校に通う生徒しかいない学校。そのくせ人間関係のいざこざは掃いて捨てるほど起こす同級生たち。そのすべてに、乾いているはずなのに不思議と肌にまとわりつく砂浜の砂のような不快さを感じていた。

 だから、高校卒業と同時にひとり暮らしをすることを、固く心に決めていた。

 なのに。

 卒業式が終わったらその足で電車に乗る予定だったのに、結局家を出たのは三月三十一日の早朝になってしまった。

 理由はわかっている。わかっている。本当に。でも認めたくないんだ。

 しばらく無言のまま歩き続けて、駅の待合室に入る。

 待合室にはヒーターは焚かれていなかった。それでも全身を突き刺すような海風に吹かれていないだけマシだ。誰もいない待合室のはじっこの椅子に腰かけて、小さくため息をつく。

 始発まではまだ少し時間がある。なにをしようかと考えていると、張られたステッカーや無数の傷でいくぶん古くなったスーツケースを無意識に撫でている左手に気付いた。

 思わず下唇を噛む。わかっているんだ。本当に。


 *


 青いスーツケースは、両親から買い与えられた。中学校の修学旅行にあわせて与えられたものだが、成長した後も使えるようにそれなりに値の張るものにしたらしい。

 貰ったときの私は、とくに嬉しいとは感じていなかった。修学旅行にはスーツケースかボストンバッグが必要だから買ってもらっただけで、誕生日やクリスマスのプレゼントではない。だから、感謝する必要はないと考えていたのかもしれない。

 こういう経緯があったため、はじめてこの青いスーツケースを使ったのは修学旅行先の東京だった。このときに見た東京の景色が、私のなかの、上京するという決心を形作ったのだろう。

 修学旅行は、それなりに楽しかった。こころを許せる親友は同級生にはいなかったけれど、それでもはじめて目にする大都会は強く記憶に残るものだった。

 この修学旅行で、同級生に貼られたステッカーがある。浅草の雷門をモチーフにした、真っ赤な提灯のステッカーだ。新品のスーツケースだったのに無断で貼られたものだ。無理やりはがした方が汚くなりそうで、そのままにしてある。

 次にこのスーツケースを使ったのは、高校一年の部活の合宿のときだ。高校では幼い頃から続けていたバスケットボールを続けることにした。弱小の部活だった。私自身もそこまで上手ではないから、身の丈に合っていたと思う。お調子者の部員がこのスーツケースにまたがって坂道を下り、派手に転んでいた。幸いスーツケースにも部員にも大きな傷はできなかった。

 このスーツケースを使ったのは、宿泊をするときだけではない。

 高校の文化祭では演劇をした。段ボールや牛乳パックを使って大道具を作る必要があり、学校での準備時間では全く足りなかったので家に材料を持ち帰り、完成させたものを持って行った。素手で持ち運ぶには多すぎたので、段ボールや牛乳パックをスーツケースにつめて運んだのだ。演劇の出来は、そこそこだった。もちろん本物の俳優たちがやる演劇と比べればひどい出来だったのだろう。それでも舞台の上で動き回る同級生たちはなんだか満足そうな表情をしていたから、良かったと思う。

 いちばん最近使ったのは去年の十月、高校の修学旅行だ。

 行き先は中学の頃と同じ、東京だった。この修学旅行を、私は意外と楽しみにしていた。私が故郷を出ると決意をした中学の修学旅行から三年間、もう一度東京に行きたいとずっと思っていた。息苦しいだけの海沿いの田舎の町から、星がちりばめられたようにきらきらしたあの美しい都市へ逃げ出したかった。

 けれど、実際に東京に再び行ってみると、思っていたような気持ちにはならなかった。

 中学の頃に感じた高揚感も解放感も、感じてはいたのだがなんだかあっさりしていて、私は自分自身にがっかりした。

 あんなに行きたいと思っていたのに。あんなに逃げ出したいと思っていたのに。どうして私は、中学の頃の私のような感情を持てないのだろう。東京の観光地を同級生たちと回りながら、私はずっと考えていた。

 理由は、ひとつ思い当たった。でも、私はそれを認めたくなかった。


 *


 長いこと唇を噛んでいたのに気づいて、力を抜く。口から冷たい空気を吸う。

 なぜ、私は昔のような感情を持てなかったのか。

 修学旅行中に思い当たった理由は、この半年間考え続けて確信に変わりつつあった。だが、私はまだ認めることができていない。

 時計を見ると、始発まであと十分というところになっていた。乗り遅れるといけないので、少し早いがホームに出ることにする。

 再び鋭い冷気が頬を刺す。首をすぼめて列車を待つ。

「よかった、間に合った!」

 急に背後から声がした。驚いて振り返ると、そこにいたのは見知った同級生たちだった。

「レナ、なんでこんな時間に」

 中学の修学旅行でスーツケースにステッカーを貼ってきた優香が、こちらを責めるような目で言う。

「それは……」

 中高と同じバスケ部で六年間を共にした千恵が、上がった息のまま口を開く。

「レナが仰々しいのは嫌いだって知ってるけどさ、お別れくらい、ちゃんとさせてよ」

「……ごめん」

 高校の文化祭で主人公役を演じた有紗が、手に持っていた紙袋を渡してきた。

「これ、みんなから。選別なんてたいそうなものじゃないけど」

 三人のほかにも、たくさんの同級生たちが続々と駅に来ていた。

「開けてみて」

 優香に急かされ紙袋の中を見ると、いくつかのお菓子と、トランプと、写真立てが裏返しになって入っていた。

「お菓子は東京まで長いと思うから、食べてね。トランプは電車の中で暇つぶしになるでしょ?」

「ひとりじゃババ抜きもできないよ」

「ソリティアとかあるし、なんとかなるよ」

 千恵がニヤリと笑う。この子はこういう嫌がらせなのかよくわからないことをするのが好きだった。

「この写真立ては……?」

 一番下に入っている写真立てを出そうとすると、有紗に止められた。

「それはあとで! ほら、電車来ちゃってるよ」

 有紗が指さす方を見ると、たしかに始発の電車がホームに入ってきていた。

 駆けつけてくれた同級生たちを代表してなのか、優香が一歩前に出る。いつもは笑顔でいることの多い優香が、真面目な表情で話し始める。

「レナ、東京は遠いけど、応援してるから。頑張ってね。あと、夏休みとかは帰ってきてね」

 ああ、そんな顔をされたら。

「風邪には気をつけてね。無理はしないこと」

 同級生たちの顔を見てしまったら。

「疲れたら、休んでもいいんだからね。私たちは、いつでもレナのこと、待ってるから」

 そんな声を聞いてしまったら。

 認めない訳にはいかない。どうして東京へ発つ日を遅らせたのか。どうして二度目の東京には感動できなかったのか。

 わかっていたんだ。本当に。でも、それを認めることは、私の小さなプライドが許してくれなかった。

 電車の扉が開く。ぼんやりとしたまま乗り込む。見送りに来てくれた同級生たちを振り返る。みんなこちらを見て、手を振っている。

 扉が閉まり、発車する。ゆっくりと後ろに行くみんなの姿を、目で追う。

 カーブで駅が見えなくなる。この車両には自分のほかに誰も乗っていない。どこでも座り放題だけど、なんだか座る気になれなかった。

 さっき有紗に見るのを止められた写真立てを、紙袋の底から引っ張り出す。入っていた写真は、中学の頃の修学旅行の集合写真だった。

 ひとすじ、涙がこぼれる。

 そこに写る私は、笑っていた。

 もう、認めない訳にはいかなかった。私は、ここでの暮らしが、好きだった。

 年寄りばっかりで嫌だとか、同級生が知り合いばかりでクラス替えがつまらないとか、そんな口先だけの否定語を並べ立てたのは、中学の修学旅行で東京を見て、田舎がなんだか格好悪いと思ったから。

 だから自分の故郷を否定して、故郷を嫌いになろうとした。嫌いになれば、東京に行ってもさびしくないと思ったから。でも、嫌いになれなかった。

 早朝の始発の時間に間に合うように走ってきてくれて、お土産まで持たせてくれるみんなを、どれだけ否定しても、結局最後まで嫌いになることはできなかった。

 涙があふれる。いつのまにかしっかりと顔を出していた朝日が、乗り込んだときのまま立ち尽くす私を正面から照らす。

「あったかい」

 思わず口をついて出た言葉は、故郷への思いでも両親や友達への惜別でもなく、ただ素っ気ないものだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

青いスーツケース 甲斐遼太 @RCanopus

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ