第22話 娘の再生
ほんの数か月いなかっただけなのに、私の部屋はまるでホテルに来たように落ち着かなかった。それは、レース編みのベッドカバーのせいだった。ピンクの花モチーフを繋ぎ合わせた繊細な柄の素晴らしさを、幼い私は理解することができなかった。重いレースがベッドに乗っているのが嫌で、母に不平を言った記憶がある。あの時の母は、自分と同じセンスを持たない私を、軽蔑するように見つめた。
「お前の部屋、入ったぞ。その……、あいつが作ったレース編みのベッドカバーをかけてやりたくて」
「これ、ママが編んでたね」
「祥子さんが、遺品を整理してて見つけたんだ。誤解するな、整理はしたが何も捨ててない。落ち着いたら、お前が見て判断してくれ」
「分かった」
「祥子さんが、お前にって弁当を作ってる。好きにしろ。お前が良いというまで、彼女は家に来ない。……、言っておく。パパにとっては、娘のお前が一番大事だ。もっと早く言うべきだった。すまん」
「……ごめん」
「うん」
父が寝静まってから冷蔵庫の中を覗くと、小さなお弁当箱があった。おにぎりと、卵焼きと、ウインナーと、セロリのピクルス。床に座り込んだまま、塩が効きすぎたおにぎりを一口、ゆっくり咀嚼する。フラッシュバックする、奥さんの顔、声を打ち消したくて、ぎゅうぎゅうに口に詰め込んだ。
知ろうとしなかった、
祥子さんの優しさが苦しかった。
お腹が膨れ少し落ち着いたところで、和之からのLINEを思い出した。
「数針縫っただけ。大丈夫」
すぐに既読がついた。しかし、和之からの返信はない。当然だ。こんなことになってまで、和之は私と連絡を取り続けたりしない。そこまで私に気持ちはない。分かっていた筈なのに、寂しかった。
空しかった。
落ち着かない。なんだか足に力が入らず、ふわふわとしている。――実際にあったことなのに、まるで覚めない悪夢を見ているようだ。
「亜矢香さんから連絡が来たぞ。お前に謝りたいことがあるって言ってた」
父の言葉を思い出した。聡と結婚する亜矢香は、どんな顔で今の私と会うのだろう。でもその視線も、受け入れなくてはならない。
誰も私を責めなかった。だからこそ、ことの重大さ、自分が背負った罪を自覚させられた。
そのままベッドに潜り込んで、まんじりともせず朝を迎えた。早々に、祖母から着信があった。出る気力もなく、そのままベッドに寝転んだ。
昼を過ぎた頃だった。玄関のチャイムが何度も鳴らされているのに気付いた。父は仕事に行って、家には私一人。無視することにしたが、諦める様子はなく、繰り返し鳴らされる。それだけじゃなく、時々「ま、ゆ、み!」と名前を呼ぶ声も混じっている。
「面倒くさいな……」
キッチンのモニターで覗くと、イライラした様子の亜矢香がいた。
「寝てたの?」
ドアを開けた瞬間、亜矢香が身体をねじ込むように入って来た。
「流石のあんたも、凹んでるみたいね」
乱れた髪、子供じみたパジャマを見た亜矢香が馬鹿にしたように言った。
「私に嫌味を言うために来たの?」
「違うわよ……」
「何?謝罪って」
「うん、あの……、ごめんなさい!」
そう言って、亜矢香が勢いよく頭を下げた。
「何よ、いきなり」
「聡さんのお父様をわざと呼んだこと、ごめんなさい!」
また、深々と頭を下げた。その度に、固く縛った髪が上下する。
「なんで?誰を呼ぶかはあんたの勝手じゃん。私に謝ることない」
「だから“わざと”って言ったでしょ?お父様を探したのは、聡さんがずっと会ってないと言ってたから。でもお父様と会った時、聡さんの過去と、あんたとの関係を知って……、これをばらしたら、絶対にあんたと聡さんはくっつかないと思ったから。それで、お父様にばらして貰うようにお願いしたの」
「だから、お父さんにお金を払ってたの?」
「だってさ。聡さん、あんたのことを好きなんだもん。私と結婚するのは、父に対しての恩義だから」
なんだか力が抜けた。虚勢を張ってた私の心が、亜矢香の素直さに溶けた。
「私と別れるのは我慢できる。でも、あんたと聡さんが結ばれるのだけは我慢ならなかった。だから、きっと、あんたが一番、思い出したくなかった記憶を、思い出させた。結果、あんなことに……。本当に悪かったと思ってる」
「もういいよ。聡はあんたと結婚することを決心した。そう……、聞いた。もう、私のことなんか、どうでもいいじゃん」
「あーあ」
がっくりとわざとらしく肩を落としたあと、ずかずかと家に上がってきた。そしてキッチンに向かい、コーヒーメーカーを手に取る。
「ね、コーヒー飲まない?まだ肩が痛いでしょ?私が淹れてあげるから」
「どーぞ」
「座りなよ。まだ具合悪いんでしょ?」
「ちょっと、ここ私の家だよ」
今日の亜矢香は、なんだか雰囲気が変わっていた。いつもふんわりとした中間色のワンピースを着て、髪も大きくカールして、いわゆるお嬢様的だった。けど、今日は濃紺のパンツスーツ、髪は後ろにきっちり撫でつけて縛っている。
「雰囲気が変わったね」
「今までも、普段はこんな感じだったのよ。あのエレガントな恰好は、聡さんと一緒の時だけ。だって、私は溝呂木グループのCEOなのよ。あんな世間知らずのお嬢さんみたいなわけないじゃん」
コーヒーの良い香りが漂うと、母が居た頃のキッチンが思い出された。朝早く起きて、いつも完璧な朝食を用意していた母。
「ね、美味しい?」
「まぁまぁ」
仏頂面で答える私。
でも本当は、自家製パンとジャム、ハムエッグに季節のサラダ。挽きたて、淹れたてのコーヒーを、「とても美味しい」と思っていた。ママに、そう言ってあげたら良かった。
でも、一口、コーヒーを口に含むと、そんな感傷的な思いは消え去った。
「亜矢香、あんた本当は、情けない姿の私を見たくて来たんでしょ?」
「結婚はなくなった」
「え?」
「あんたが刺されて救急搬送されたって聞いた聡さんは、見てられないほど動揺してた。それ見てね、一気に醒めたんだよね」
「――ごめん」
「謝んなよ、むかつく」
次の更新予定
2025年12月27日 08:00
宝物 ふじた いえ @jinxx666
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