花の定義と恋の定理

三角海域

花の定義と恋の定理


「花とは美しいものである」


大学図書館の窓際でノートパソコンの画面を睨みながら、遠野蓮は野上教授の論理学ゼミのレポート課題に取り組んでいた。テーマは「日常語の論理的精密化」


しかし、この一文は明らかに不十分だ。美しくない花もあるだろう。そう考え、遠野は指を動かす。


「花とは、植物の生殖器官のうち、人間が美的価値を認めるものである」


少しマシになった。だが、「美的価値」とは何か。それは主観的ではないのか。彼は文を重ね、条件を付加し、例外を記述していく。


やがて、遠野の指が止まった。


「花の定義における観察者依存性について」という小見出しの下、こう書き始めていた。


「特定の花に対する美的判断は、観察者の経験と記憶に強く依存する。例えば、ある観察者にとって、特定の香りを持つ花……インクと土と、わずかな甘さが混ざったような香り……は、他の花よりも強い印象を残す可能性がある」


遠野は手を止めた。これは一般論のはずだった。なのに、なぜ具体的な香りを書いている?


彼は文章を見直そうとして、しかしそのまま続きを書いた。


「また、花の美しさの判断には、その花が咲く季節、観察時の照明条件、さらには観察者がその花と出会った文脈が影響する。例として、図書館の窓辺で午後の光に照らされた……」


削除しかけて、遠野は指を止めた。いや、これは例示だ。論理的精密化には具体例が必要だ。


キーボードを叩く。レポートは二千字を超え、やがて三千字に達した。しかし、遠野自身も気づかないうちに、「花」という言葉の背後に、ある特定の人物の輪郭が浮かび上がり始めていた。


「……なかなか熱心ね」


背後から声がして、遠野は慌ててディスプレイを閉じかけた。茉莉だ。


同じゼミの、植物学専攻の彼女。入学してから半年、週に一度のゼミで顔を合わせる程度だったが、先月のゼミ発表で彼女が論理と植物学を結びつけた独創的な発表をしたのを聞いて以来、遠野は彼女のことを気にかけるようになっていた。


最近では図書館でよく顔を合わせ、軽い挨拶を交わすようになっていた。


彼女からはいつも花の香りがする。


「あ、いや、これは……」


「見せて」


茉莉は遠慮なく画面を覗き込んだ。彼女の肩が遠野の腕に触れ、インクと土と花の混ざった匂いがした。まさに、さっき文章に書いたばかりの香りだ。


「わあ、すごい。花の定義だけで原稿用紙八枚?」


茉莉は笑いながらスクロールを続けた。遠野は冷や汗をかいた。まずい。あの部分が見えたら……。


「……『インクと土と、わずかな甘さが混ざったような香り』……」


茉莉が小さな声で読み上げた。彼女の動きが止まる。


スクロールが再開される。今度はゆっくりと。


「『図書館の窓辺で午後の光に照らされた』……『週に一度の観察機会における印象の蓄積』……」


茉莉の声が少しずつ変わっていく。


やがて彼女は顔を上げ、不思議そうな、少し照れくさそうな表情で遠野を見た。


「……ねえ、遠野くん。これって」


「なんだ?」


「恋文じゃない?」


「そんなものじゃない」


「なら、証明してみて?」


茉莉は真っ直ぐに彼を見た。


「この定義が、ちゃんと論理的で、恋文じゃないって」


図書館の静寂の中、遠野は何も言えなかった。気にかけていた相手に、こんな核心を突かれるとは思わなかった。


***



窓辺に小さな多肉植物が置かれている野上教授の研究室は、論理記号と哲学書で溢れていた。


「先生、質問があります」


遠野は、例のレポートのプリントアウトを握りしめていた。


「愛とか恋とかいう感情は、論理的に定義できるんでしょうか」


野上教授は眼鏡の奥の目を細め、しばらく遠野を観察した。それから窓の外、新緑の樹々を見やった。


「遠野くん、君は庭師を知っているかね」


「は?」


「庭師は樹木を剪定する。枝を切り、形を整える。それは樹木を殺すためかね?」


「いえ、逆です。より健全に成長させるために……」


「そうだ」

教授は多肉植物の葉に指で触れた。


「論理もそういうものだよ。刈り込むことで、本質が見える。ただし……」


教授は遠野を見た。


「しかし、庭師は樹木の気持ちを理解できるかね。どれほど剪定の技術を磨いても、樹木が雨をどう感じるかは、庭師には分からない」


「それは……つまり?」


「君が知りたいのは剪定の技術かね、それとも雨の感触かね?」


遠野は答えられなかった。教授は微笑んだだけで、それ以上何も言わなかった。


研究室を出て、春の陽射しの中を歩く。桜が散り、新緑が萌える季節。遠野はくしゃみをした。花粉症のせいだ。


感情のことは理解できなくても、せめて完璧な論理を身につけよう。そう決めた。


***



二週間が経った。


ゼミの合間に遠野は茉莉を観察した。

彼女が研究室で標本を整理する姿、お昼に学食で笑う表情、階段を降りるときの歩幅。すべてをデータとして記録した。


観察中のある日のこと。茉莉が研究室で一輪のバラを手に取り、じっと見つめていた。遠野が「きれいだね」と声をかけると、彼女は首を横に振った。


「これ、病気なの」


「え?」


「黒星病。葉っぱを見て。もうすぐ枯れる」


茉莉は悲しそうに微笑んだ。


「でも、一生懸命咲こうとしてる姿って、悲しくもあるけどなんだか美しいよね」


遠野はノートに書き留めようとして、手を止めた。これをどう定義すればいい? 「死が近い花を美しいと感じる心理メカニズム」? でも、それで本当に茉莉の気持ちが分かるのだろうか。


さらに翌週、茉莉の様子が変わった。いつもは物静かな彼女が、ゼミでいきなり教授の解釈に反論し始めた。論理的に、鋭く、容赦なく。遠野は唖然とした。


ゼミ後、「どうしたんだ、今日は」と訊くと、茉莉は笑った。


「昨日、父と喧嘩してさ。まだイライラしてるの」


「……そういうものなのか」


「そういうものだよ」


遠野の定義文は混乱し始めた。「感情状態の外部要因による変動」「性格の多面性と観察時刻の依存関係」。変数が増える。条件分岐が複雑化する。彼の「花=恋の定義文」は一万字を超え、それでも彼女の輪郭を捉えきれなかった。


「遠野くん、大丈夫? 最近ずっと難しい顔してる」


ある日、茉莉が心配そうにそう言った。彼女からは今日も花の香りがする。


「……大丈夫だ」


遠野は答えた。


「もうすぐ完成する」


それは嘘ではなかった。あと少しだ。あと少しで、この揺れ動く「感情」を、完全に言語化できる。


***



五月の終わり、遠野はついに定義文を完成させた。


A4用紙で十五枚。彼女の笑顔の出現パターン、歩行速度の日内変動、香りの選択における天候依存性。すべてを数式と論理式で捉えた、完璧な定義。


遠野は震える手でそれを印刷し、ゼミの後で茉莉に手渡した。


「これが、君への答えだ」


茉莉は黙って読み始めた。一枚、二枚、三枚。彼女の表情から笑顔が消えていく。五枚目あたりで、彼女の手が止まった。


「……これ、私?」


「ああ。君のすべてを、論理的に……」


「私の『すべて』?」


茉莉は静かに訊いた。


「じゃあ、今私が何を考えてるか、この定義で分かる?」


「それは……観察データが不足しているから、確率的な推定しか……」


「分からないんだ」


茉莉は紙束を遠野に返した。


「遠野くん、私ね、毎週父さんと喧嘩してるわけじゃないよ。あの日はたまたま。でも遠野くんは、それを『変数』にした。私が黒星病のバラを綺麗だと思ったのも、『死の予感と美の相関』なんかじゃない。ただ……その花が好きだったから」


「でも、論理的には……」


「論理的には正しいのかもね」


茉莉は悲しそうに笑った。


「でもこれは、私じゃない。ただの標本だよ」


彼女は背を向けた。


「私ね、遠野くんのこと、一生懸命な人だと思ってた。でも……こんなふうに見られてたんだって分かって、ちょっと怖くなった」


茉莉は歩き去った。花の香りだけがいつまでもそこに残っていた。


***



遠野は自室で、完成した定義文を何度も読み返した。


どこが間違っていた? 茉莉の話す頻度を表す数式……これは、三週間分の観察データから統計的に導出した。データは完璧だった。「感情状態の外部要因による変動」……これも事実だ。茉莉自身が「イライラしてる」と言ったじゃないか。


何が間違っている?


遠野は定義文の最終ページを見た。そこには結論が書かれていた:


「以上より、対象は以下の条件を満たす存在である


(i) 観察者に対し時間経過に伴う親密度の増加をもたらし、

(ii) 予測困難な行動パターンにより観察者の関心を持続的に喚起し

(iii) 観察者の感情状態に有意な影響を与える


すなわち、観察者にとっての『恋愛対象』の定義に合致する」


QED、と最後に書いてあった。


完璧な証明。完璧な定義。でも茉莉は「怖い」と言った。


彼は原稿を握りしめ、そして引き裂いた。

窓から風が入り込む。そこから花粉が舞い込んだらしい。遠野は激しくくしゃみをし、涙が溢れた。


涙で視界が滲む中、床に散らばった紙片が見えた。


「……観察者の感情状態に有意な影響を与える……」


そうだ。茉莉は、確かに僕の感情に影響を与えた。でも、それは「有意な」という言葉で表せるようなものだったか?


彼女が病気のバラを「きれい」と言ったことも。父と喧嘩した翌日に饒舌になったことも。すべて、論理の外側で起きていた。論理で捉えようとした瞬間、何か大切なものが消えてしまった。


遠野は床に散らばった紙片を見つめた。野上教授の言葉が蘇る。「君が知りたいのは剪定の技術かね、それとも雨の感触かね?」


違う。どちらでもない。


遠野が知りたかったのは論理じゃなく、茉莉の心だった。


***



翌日、遠野は茉莉を探した。

彼女は植物学科の温室にいた。


「茉莉」


茉莉は振り向いた。驚いたような、少し警戒したような顔。


「あの定義文は、捨てた」


遠野は言った。


「破り捨てた。全部」


「……そう」


「ごめん」


遠野は深く息を吸った。これまでの人生で一度も使ったことのないような、不正確で、曖昧で、定義不能な言葉を探す。数式も、条件式も、変数も使わない。


「花粉症なのに、君といると花が好きになりそうなんだ」


茉莉はしばらく遠野を見つめ、それから小さく笑った。


「それって、すごく変だよ」


「分かってる」


彼女は立ち上がって、遠野に近づいた。


「もっと変なこと、教えてあげる」


「何?」


「私ね、遠野くんがあの定義文を書いてるとき、ちょっと嬉しかったの」


「……え?」


「方法は間違ってたけど、気持ちは伝わってたよ。ただ……」


「ただ?」


「私が見てほしかったのは、『私というデータ』じゃなくて、『私という人』だった。それだけ」


温室の中、色とりどりの花が咲いていた。名前も知らない花。その中で、遠野は初めて気づいた。花の分類も、定義も知らなくても、美しいものは美しい。


***


エピローグ


六月、遠野は新しいレポートを書き始めた。


タイトルは「花と論理と、その向こうにあるもの」。


彼は最初の失敗した定義文のことを書いた。それがどう破綻したか。


野上教授は新しいレポートを読み、満足そうに頷いた。評価はA。コメントにはこう書かれていた。


「君は良い論理学者になれる。ただし、時々は論理の外側にも目を向けることを忘れずに」


その日の午後、遠野は茉莉と大学近くの花畑を歩いた。彼はくしゃみを繰り返し、涙を拭いながら、それでも笑っていた。


「本当に大丈夫?」


茉莉が心配そうに訊く。


「大丈夫じゃない」


遠野は答えた。


「でも、これでいい」


茉莉は遠野の手を取った。


「ねえ、今度は私が遠野くんを『定義』してみようか」


「やめてくれ」


遠野の反応を見て茉莉は笑う。


「冗談だよ。でもね、一つだけ言える。遠野くんは……」


「何だ?」


「定義できない人」


花粉が舞う初夏の空の下で、二人は並んで歩いていた。遠野は時々立ち止まり、花の名前を茉莉に訊いた。茉莉は嬉しそうに答え、時には学名まで教えてくれた。遠野はそれを覚えようとしたが、すぐに忘れた。


でも、それでよかった。


論理は道具だ。それを使って世界を理解することもできる。でも時には、道具を置いて、ただ世界の中に立つこともできる。


遠野蓮は、その両方を知った。


そして今、彼は花畑の中で、論理学を学ぶ学生として、同時に一人の恋する人間として、茉莉の隣を歩いている。

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