03. My fair demon


 悪魔がアトリエに来て、一ヶ月がたった。


芸術家はたまごの他に、腸詰やベーコンも持ってくるようになり、悪魔は新しい味には宝石のように目を輝かせた。芸術家がアトリエにいる時には、たまに森へ遊びに行くようにもなった。


今朝も悪魔は水浴びに出ると言ってアトリエを離れていたが、なかなか帰ってこない。


とっくに朝食を済ませた芸術家はイライラして靴を床で鳴らしながら、日記をつけて時間をつぶしていた。



 もうすぐ昼になろうかという時、突然、大きな音を立ててドアが乱暴に開かれた。


「悪魔!帰るのが遅すぎーー」


イスから立ち上がった芸術家は、ぎょっとして言葉を失った。


「どうしよう。わたし、このままだとじごくに落ちちゃいます」


涙と鼻水で顔を散らかした悪魔が立っていた。


「……えっ、なに、どうしたんだおまえ」


芸術家が言い終わる前に、悪魔はその場にしゃがみこんで嗚咽を漏らし始めた。


芸術家はしばらく悪魔の泣き声を聞いていたが、立ち上がってペンを置くと、日記から何枚か破って、悪魔のそばまで寄って紙を鼻に押しつけた。


「インクくさい……」


「いいから。なにがあったか話してみろ」


悪魔は鼻をかんで涙をぬぐうと、しゃくりあげて、途切れ途切れになりながらも話し始めた。


「湖で、体を洗ってたんです。気づいたら、黒い服のおばあさんが、木陰に立ってて、うう……わたしのケガレは、水浴びしてもすすげないって、つみびとだって、それでーー」


芸術家は背中をさすって、続きをうながした。


「ーーわたし、じごくに落ちるって言われたんです!」


「おまえ地獄から来ただろ」


冷たく返した芸術家に悪魔はぶんぶんと首を振った。


「そうですけど、でも違うんです。あのおばあさんが言ってたじごくは、もっとすごいんです」


「なんだ、すごい地獄って」


「じごくに行ったら、重い石をしょって炎の中をみんなでマラソンするんだって」


「ええ、何したらそういう罰を受けるんだよ」


「あと、あと、目隠しされたまま、飲まず食わずで霧の中を転がされつづけるとか……」


「それはもうよくわからんな」


悪魔は思いきり頭を振って頭を抱えた。


「いやです!わたしまだ何もしてないのに、じごくなんて行きたくないですう!」


「いや、だからおまえーー待て、そのおばあさんの黒い服って、修道服のことか?」


悪魔の目がきょろりと動いた。


「そうだったかも……。そういえば修道院のことを言ってました」


「あの婆さんなら心配しなくていい。みんなにそう言ってる」


芸術家がそう言って悪魔の頭をぽんぽんと叩くと、艶の光る黒髪はまだしっとりと濡れていた。


「お説教する修道女たちというのは、どうしてか、地獄から引っ越してきたみたいに詳しいからな……」


「わたしの知ってるじごくより怖いです」


「地獄の深さも人それぞれなんだろう」


「浅くっていいですよ、そんなの」


口を尖らせた悪魔の声に、芸術家が軽やかに笑った。


「おまえが怖がるのも無理はないが、あっちだってそうやっておどかすのが仕事だ」


「どうしてそんな仕事を……」


「そういうものだ。私も子供だった頃はあの婆さんによく泣かされた」


「わたし、じごくに落ちないですか?」


「おまえはむしろ天国に行けるから安心しろ」


悪魔は小さく笑った。鼻水が出ているのを見て、芸術家はまた紙でごしごしとぬぐって、まじまじと顔を眺めた。


「しかし、婆さんもひどい。こんなに愛らしい少女の顔を見てよくもそんなことが言えたなあ」


悪魔はうつむいて顔を隠した。しゃっくりが出た。


「水浴びしてたときは、あなたの姿だったんです」


みどりのドレスを着て床でうなだれる悪魔は、叱られた子供のようだ。


「なるほどそういうことか。地獄行きとは私のことだったか」


思い出したように悪魔が顔を上げた。


「どうしましょう。わたし明日から一週間、おばあさんのところに行かないといけないのです」


「……なんだと?」


芸術家の肩がぴくりと反応した。


「じごくに行きたくないなら、明日から心を入れ替えて、ひとのためにお手伝いでもしなさいって」


「おい、おいおい、まさか行くって言ったのかおまえ」


「心を入れ替えないといけないですし」


「入れ替えんでいい!おまえはあの婆さんよりずっとキレイな心してるって」


頬を染めはじめた悪魔を見て、芸術家は歯がゆさに拳を握りしめた。


「でも、わたし行かなかったらウソになっちゃいますよ」


「ウソでいいだろうがよ……おまえ悪魔だろうが」


「悪魔ですけど、ウソはやっぱりよくないですよ」


「このガーー」


よくないことを言いかけて、芸術家はさっと立ち上がるとドアを開けて出ていった。


アトリエがしん、と静かになって、窓から差す陽の中に埃が舞った。


悪魔が不思議そうに外へ顔を向けると、芸術家は早歩きでまたアトリエに入ってきて、勢いよくドアを閉めた。


「このクソガキ!大人になれ」


「く……ガキじゃないもん!」


芸術家は床に広がったドレスの裾を踏まないように悪魔の回りをぐるぐると歩きだした。


「いけないことはしませんからね」


悪魔が精いっぱいの決意で睨むと、芸術家はふっと笑った。


「……じゃあ、そもそも地獄行きは私なのに、おまえが私の代わりに行ったら、私の償いの機会を奪うことにはならんのか、ええ?私はどうなるんだ?」


「わたしはおばあさんと約束したのです」


「自分がすっきりするなら他人はどうなってもいいと?」


「え?でも、ウソをつかないためにはわたし行かないといけなくって……あれ?」


悪魔はちらりと芸術家を見上げた。


「あの、わたしはいったいどうすれば」


芸術家は悪魔の後ろに回り込むと、しゃがんで悪魔のつむじに鼻を押しあてて、森と太陽のにおいを吸い込んだ。


「それやめてくださいって言ったのに」


「ウソをつかないのは立派だぞ、悪魔よ」


芸術家は、生あたたかい息から逃れようと身をよじった悪魔を捕まえて、後ろから腕を回した。


「しかし現実は理想通りにはいかないのだ」


「……でも、あなたは理想をあきらめないから、わたしを呼んだじゃないですか」


芸術家は嘲笑った。


「バカめ。そもそも悪魔を召喚するなんてズルだぞ。ウソをつくよりよっぽどひどい大罪だ」


「そんな……」


ショックで口に手を当てた悪魔を見下ろしながら、芸術家は少し考えた。


「ーーもとより私は自分の地獄を選んでいるのだ。おまえのために地獄に落ちるのではない」


「でも、わたしがいるからあなたが地獄に落ちるんですよ」


「ニワトリかたまごか?だよ。こだわるのは外野だけで、当のニワトリとたまごがそこにこだわっても仕方がないだろう」


悪魔は少し考えた。


「こだわるに決まってます。チキンはおいしいですもの」


芸術家が重苦しいため息をついて、つむじに湿り気を落とされた悪魔は首をよじった。


「わかった。明日は私が行く」


「え、本気ですか」


振り返ろうとした悪魔をしっかりと腕の中に留めて、芸術家が続けた。


「おまえは私の姿を借りて、私に代わって返事をしただけだ。だから私が行けば、おまえはウソつきにはならない」


悪魔が不満そうに唸ったのを聞いて、芸術家はいっそう優しげな声を出した。


「私だって善行をしたくないわけではない。わかるだろう」


「いやです」


「いやってなんだ」


悪魔の目が、後ろから巻きついた腕を見ないように揺れて、床とドレスの境目を行ったり来たりした。


「なんでそんなに自分勝手なんですか……?ぜんぶわたしのせいじゃないですか」


悪魔の肩に巻き付く腕の力が強くなって、背中がずっしり重くなった。


「わたしもいっしょに行きます」


「駄目だ。おまえが行ったらまた面倒ごとを持ち帰ってくるだろ」


「だって、あなたはひとが大キライじゃないですか。へどが出るって言ってましたよね」


「嫌いではない。街の連中はホンモノだから、話してるとちょっと気分が悪くなって吐いたり死にたくなったりするだけだ。それは彼らのせいではない」


悪魔は難しい顔で腕組みした。


「やっぱり、あなたにとってわたしはニセモノですか?」


芸術家はつむじから顔を離した。


「……自分だけのニセモノなら、どうにもならんホンモノよりずっと価値がある」


芸術家の声には、諦念と自嘲が混じっていた。


「あなただって、ホンモノなんですよ」


「そうなのかもしれんが、ニセモノのような気分になる病にかかっているのだ」


「そんなにみんなと同じがいやなんですか」


芸術家は眉をしかめた。


「おまえも、自分よりも出来たやつらしかいない所で暮らせばわかる」


「めんどくさいひと……」


悪魔は自分の首に回された腕に指を伸ばした。青く血管の浮き出たところに触った。


「なんだ」


「なんでも。重いからどいてください」


芸術家は悪魔を解放すると、イスに戻った。


「泣きやんだなら、さっさとその赤くなった目を直せ」


悪魔は腫れた目元を変身させて、ぱちぱちとまばたきすると、これ見よがしに微笑んでみせた。


「明日はどうか頑張ってきてくださいね、せいぜい」


腫れた目も、涙の跡も消えた、まっさらな笑顔だ。芸術家はしかめっ面で顔を背けて、破った日記に目を落とした。


「もちろんだ」


そう返した芸術家の横顔を見つめて、悪魔は寂しそうに笑った。



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キャンバスと指 低泉ナギ @Eastern_wind

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