02. My fair lady


 悪魔が召喚されて、一週間がたった。


芸術家は、毎朝いろいろなものを持ってアトリエにやってきた。鶏のたまごを入れたバスケットに加えて、淡い色のドレスや、羽根飾りやリボンのついた帽子。高価そうな首飾りをくれることもあった。


悪魔は愛らしい服や帽子のプレゼントに喜ぶ一方で、ひとつの不満を抱えていた。



ーーーー



「ここに来てから一週間ですが、毎日二食たまごしか食べてないです」


悪魔はバスケットからたまごをひとつずつとって、お湯の入った鍋へと入れていく。


「たまごは嫌いか?」


芸術家もひとつたまごを取り出したが、鍋には入れずに机の上で転がしはじめた。


「いいえ、だいすきですけど……。でも、どうしてたまごばっかり持ってくるんですか?」


「ヘビってたまご食べるんじゃないのか」


「ヘビじゃないです、悪魔です」


「じゃあ食べないのか」


「悪魔だけど、たまごも食べるんです」


芸術家は大げさにため息をついてみせた。


「ヘビみたいな姿になれて、ヘビみたいに食べるなら、もうおまえはヘビでいいんじゃないか?ほら、たまご食えよ」


芸術家は生たまごを悪魔に差し出したが、悪魔はその手をぺちっとはたいて押しかえした。


「よくないですよ。一体どうしたんですか?」


芸術家は足を組み直して、もったいぶって指の間のたまごをもてあそんだ。


「おまえ、やっぱり名前なんてないんだろう?」


悪魔は木のジョッキからこくこくと牛乳を飲んで、ふうっと息を吐いた。口元に白いひげがついていた。


「前にも言いましたけど、悪魔にとって名前は大切なものなんです。そんなふうに言っても、教えませんからね」


「じゃあ小悪魔ちゃんって呼ぶぞ、いいのか」


「うわキモ……じゃなくて、よくないですけど、でもそれであなたの気が済むならいいです」


「そんなことでは、小悪魔ちゃんがおまえの名前になってしまうぞ?それでいいっていうんだな」


「しっぽでぶんなぐりますよ?」


がたがたとイスを動かして、芸術家は安全なところまで下がった。


「悪魔よ。おまえは、なにゆえおまえなのだ?ヘビや他の悪魔とはどう違う?」


「違い、ですか?」


悪魔は鍋にたまごを入れる手を止めた。


「ええと、よくわかんないです。他の悪魔のこともあんまり知らないし、ヘビとお話するのも苦手ですし」


「どうやって生まれたんだよ。ひとりでこんなとこに来て、親御さんは心配してないのか?」


白々しい言葉に、悪魔は芸術家をじっとりと睨んだ。


「どんなに強くて悪い悪魔でも、ひとに望まれて生まれてくるんです。親なんて、いるほうが珍しいですよ」


「え、そうなのか?じゃあおまえは誰に望まれて、何をするために生まれてきたのだ?」


「そんなの知らないですよ」


芸術家は納得したように腕を組んでうなずいた。


「なにも知らない悪魔か、なるほどな。どこかのだれかが、そういうおまえを望んだと」


「それがどうかしたんですか?」


芸術家は机に身を乗り出して、悪魔の鼻先に生たまごをつき出した。ゆれたジョッキからベリージュースが少しこぼれたのを見て、悪魔が眉を寄せた。


「私が思うにな、おまえはこの生たまごだ。ひよっこですらない」


この言葉に悪魔はむっとして頬をふくらませた。


「ひよっこではあると思いますけど?だってわたしは未熟でも、自分は悪魔だって知ってますもの」


眉を上げた芸術家は、にやりと笑った。


「では、聞かせてくれ。悪魔である以前に、おまえの名を呼び、おまえはこういうやつだと保証してくれる友人はいるか?敵でも、恋人でもいいぞーーいや、やっぱり恋人の場合は私には言うな。凹むから絶対に言うな」


「恋人どころか、敵も友人もいないですよ」


「そうか!」


あまりの大声に、悪魔はイスからとびあがりそうになった。芸術家はかまわずに、歌うような抑揚をつけて続けた。


「そうだとも。おまえはまだ誰にもおまえを認められていないのだ。ゆえに、おまえ自身もおまえらしさにこだわれない。キャンバスは白紙であっても、画家と向き合い立つためには三本足の台座が必要なのだ」


「なんだか、急にむずかしいですね。どういうことですか?」


「つまりは、こういうことだ!」


芸術家は手の上で踊らせていたたまごをぴたりと止めると、勢いよく机に叩きつけた。


「その昔、とある航海士がこうしてたまごをーーやべっ、黄身が」


下半分が破裂したたまごの中から、どろどろと卵黄がこぼれ出していく。芸術家はイスを倒して立ち上がり、手近な布をたぐりよせた。


「ねーもう、何やってるんですかー。あ、バカ!それで拭かないでください!あなたの着替えですよ!」


悪魔は芸術家の腕を叩いて、シャツを引ったくった。


「うう、すまん。だって、だって、昔話だとこうやってたまごを立たせたんだって聞いたから」


「聞いただけのことを考えなしにやらないでくださいよ、食べものがもったいない……」


「すまんって言ったでしょうが」


「ああもう、机せっかくきれいにしたのに、またかぴかぴになっちゃいます」


雑巾で机をごしごしし始めた悪魔を、芸術家は決まり悪そうに棒立ちで見守った。


「あの、じゃあ私は行くのでな、その、あとは頼んだぞ、我が悪魔よ。今日は好きにしてていいので」


そう言い残して出ていった芸術家には目もくれず、悪魔は黙々と机を拭いた。


「……今日は好きにしてていいって、お休みってこと?」


ふりかえると、アトリエは静まりかえっていた。

窓からは誘うような風が吹き、キャンバスにかけたドレスをひらひらとゆらしていた。



ーーーー



 アトリエの裏に出ると川が光っていた。

向こう側には森が遠くの丘まで続いている。


森は濃い緑ににおい立ち、まっ青な空には雲ひとつない。

悪魔は鼻歌をうたいながら、時に花を摘みながら、やわらかな風にそよぐ木々の間を歩いた。下げたバスケットの中では、白いデイジーが小さな花弁をゆらしている。


 木漏れ日に目を細めたとき、木の上でなにかがよぎった気がした。悪魔がふり向くと、だれかが枝にすわっていた。


「……何をしているのですか?」


芸術家は悪魔の声におどろいて、枝からずり落ちそうになった。


「我が悪魔ではないか。私についてきたのか?」


「いえ、とてもいいお天気なので、おさんぽに出てみたのです」


そう言って、悪魔はくるりと回って見せた。水色のドレスがふわりと広がり、帽子の青リボンが半円を描いた。

ほう、と息をもらして芸術家はあごを触った。


「……そうか、私もだ。たった今も、木の上を散歩していたところだ」


芸術家は枝からさっそうととびおりると、そのままおしりから着地した。どさっ、と大きな音がした。


「大丈夫ですか!」


「なに、ちょっと服とズボンが落ちただけだ。たまたまその中に私が入っていただけのこと」


「はあ」


 小鳥の歌声に混じって、斜面の下からみずみずしい笑い声が聞こえてきた。覗きこんでみると、木々に囲まれた小さな湖があって、そこでは少女たちが下着姿になって水浴びをしていた。


悪魔は、目の前にふんぞり返っている芸術家を見下ろした。


「いや、違うからな」


芸術家はあわてて立ち上がった。


「あなたという人には、ほとほと呆れ果てます」


「待て待て、なにか誤解をしているようだから言っておくが、私はなにもやましいことはしていない」


「じゃあ、一体あんなとこまで登って、何してたってんですか」


「これはな、悪魔よ。おまえのためにやっていることなのだぞ」


悪魔はいぶかしげに眉をひそめた。


「どういうことですか?」


「ほら、おまえは水浴びをする際に、川まで行ってわざわざヘビの姿になるだろう。何故か?それはおまえが、人間の水浴びを知らないからだ。だからこうして私が、我が理想の彼女は日頃どのように行水しているのかこの目で見て、それを参考におまえを教育してやろうと……」


「え、待ってください。あなた、わたしの水浴び覗いてたんですか」


動揺を隠せない悪魔の声に、しかし芸術家は頼もしげに腕を組んで歩みよった。


「当然だろう。おまえになにかよくないことが起きたらどうするんだ」


「なにかよくないことはもう起きてるじゃないですか」


「なにがあった?私に聞かせてごらん」


その穏やかな声色は、悪魔の神経を雑に撫で回した。


「あなたですよ!やっていいことと悪いことがあります、このバカ!ヘンタイやろう!」


「いい恥じらいだ。しかしバカとはなんだ!」


「バカです!あと、どヘンタイです!」


「バカではない!決してバカではない!」


 じりじりと陽射しが強くなってきた。悪魔はむねに手を置いて、大きく深呼吸した。


「覗きは恥ずべき行いです」


芸術家はしみじみと頷いた。


「今回ばっかりは、女性として黙っていられません。あの子たちに言いつけてきます」


「女性って。しいて言うなら雌だろうに」


あからさまな挑発に悪魔は鼻を鳴らして、大またで歩き始めた。


「ちょ、待てよ!」


「待ちません」


「自分みたいな顔をしたやつが自分みたいな格好で現れたら、そっちのほうが気味悪がられるぞ!」


悪魔はしかめっ面でふりかえった。そして少し考えてから、帽子とドレスを脱いで、きれいに畳んで木陰に置くと、下着姿の悪魔はみるみるうちに、下着姿の芸術家の姿になった。


「おまえ……!」


目と口を丸くした芸術家に、悪魔は得意になってむねを反らした。


「これならどうです?あとはあの子たちに、あなたがーーわたしが、ここで何をしていたかぜんぶ話せば、あの子たちも自分がどれだけ危険にさらされているかわかるはずです」


「そんなにうまく変身できるのに、どうして彼女の姿にはなれないんだ?」


疑問が芸術家の口をついて出た。


「……あの子の絵って、なんだかいつも違う人に見えるんです」


「な、なんだと。私の絵をヘタクソだっていうのか!」


芸術家は憤然と悪魔の肩につかみかかった。


「へたじゃないと思います。わたしはすきですよ」


「そ、そうか?」


目が泳いだ芸術家に、悪魔がしっかりと頷いた。


「はい。あなたが描いたなんて信じたくないです」


「な、生たまごのくせに、見る目があるじゃないか……それで、特にどのあたりがーー」


芸術家はハッとして、肩から手を離した。気まずそうに肩をぽんぽんと叩くと、咳ばらいした。


「しかし、その姿になっても声はおまえのままなんだな」


「あれ?ほんとだ、おかしいです。なんででしょう……まあいいのです。このまま裸になって、だれかに抱きついてきますね」


「待て、やめてくれ!何でもするから!」


「だめです。あなたのしてることは許せません。おとなしく去勢されたらいいんです」


「そこに誰かいるの?」


斜面の下から、女性の声が聞こえてきた。




ーーーー




 手を引っぱりながら走ったので、芸術家の息はすっかり上がってしまい、ぜいぜいと喉が鳴った。


「なあ、見られたと思うか」


ひざに手をついて浅く呼吸しながら、芸術家が聞いた。悪魔はつかまれて赤くなった手首をさすっている。


「少なくとも、あなたが下着姿の男の手を引いて走っていく後ろ姿は、目に焼きついたと思います」


「だろうな……」


芸術家はがっくりとうなだれた。


「彼女たちもこれからは警戒するでしょう。あなたのブザマな姿が見られましたし、今回はこのくらいにしておいてあげます」


子供みたいな声に、芸術家は顔を上げた。


「ほんとか?」


「ええ、でも覗きなんてもうやめてくださいね。あと、服とかバスケットとか、いろいろ置いてきちゃったので取ってきてください。わたしはアトリエに戻るので」


「せめて、その姿で帰るのはよしてくれないか?」


悪魔がふりかえった。女ものの下着を身につけた長身の男は、美しい森のなかではモンスターのような威圧感を放っている。


「だめですよ。これはせめてもの罰です」


「かわいくないぞ、おまえ」


「よくわかってるじゃないですか」


悪魔はいたずらっぽく微笑んだ。


「もっとご自分の姿を見ておくといいのです」


そう言って、悪魔は自身満々な大また歩きで去って行った。


「……自分の尻なんぞ見送って、なにが楽しいのだ」


芸術家は頭をかきながら、湖の方へと戻っていった。




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