波の音

draw_bayday

波の音

誰かが言った。

「お前は可哀想だ」と。


誰かが泣いていた。

「一人は寂しい」と。


僕は知っている。

その言葉の全部が、きっと本当だということを。

けれど僕は、ただそれを感じているだけだった。


悲しいとも、苦しいとも、もう思わない。

波が寄せては返すように、

人の声も、季節も、やがて静かに遠のいていった。


海の底で、僕はただ、呼吸をしていた。

泡のように小さく、透明な息を吐き出して、

それが水面へと昇っていくのを、静かに見送る。


あぁ、これが、生きるということなんだと思った。

船が去ったような波の跡。その揺れは静かに、でも確かに光と空の色を反射する。

それが僕──波野なみのそらの、ささやかな人生。


〰︎〰︎


僕は、波の音が聞こえる街で生まれた。

潮の匂いと、風の音と、カモメの鳴き声の中で。


生まれてすぐに、呼吸が止まったらしい。

母が泣き叫ぶ声に反応するように、ようやく泣いたと聞いた。

最初の泣き声は、まるでこの世界にしがみつくようだったと、母が言っていたのを理解したのは大人になってから。

思い返せば、その瞬間から、僕は“生きること”に少し不器用だったのかもしれないと考えてしまう


記憶にある母は、音楽が好きな人だった。

家ではいつも遠い国の音楽が流れていて、

母は口ずさみながら料理をして、掃除をして、たまにピアノを弾いてくれて、僕が歌ったら笑っていた。

母と歌う『にじ』が好きだった。

母の声は月みたいだった。

静かに照らして、優しくて、でもどこか儚くて。

僕はあの声が好きだった。

世界でいちばん美しい音だった。


でも、あの声は波に攫われて、もう二度と帰ってこなかった。

漁師だった父を港で待っていて、あの日は嵐だったのに。

ふたりとも、帰らなかった。


五歳の僕は、世界を一つ失った。

それはたった一人の“世界の音”を失うことだった。

親戚は誰もいなかった。

母は“いい家”の生まれだったらしいけれど、

無理やり父と結婚したことで縁を切られていたと、後で知った。


それから、僕は施設で生かされた。

食事もあって、眠る場所もあって、それなりに幸せだったと思う。

でも、なぜだろう。

ずっと自分だけが、うまく呼吸できていないような気がしていた。


じゃんけんはいつも負けるし、モノがなくなれば僕のせい。

鳥のフンが当たるのも日常だった。

“そういう運命なんだ”と、どこかで受け入れていた。

母がいなくなった時から、僕の世界は静かで、少し冷たかった。


ある夜、咳が止まらなくて、息が吸えなくなった。

世界がどんどん狭まって自分の心臓の音だけが鮮明に聞こえた。

ひゅうひゅうと胸が鳴って、まるで海の底で呼吸しているみたいだった。

どれだけ苦しくても、助けを呼ぶ声は出なかった。

息ができない恐怖を、僕はその夜、初めて知った。

朝になってようやく呼吸が落ち着いたけれど、

“また息ができなくなるかもしれない”という恐怖は、胸の奥にずっと残った。


その頃の僕は、何にも興味を示さない子どもだったと思う。

でも、青山あおやま智樹ともきと出会って、世界が少し変わった。


智樹は、いつも元気で、かけっこが一番で、

カッコよくて、不器用で、正しくて、優しかった。

彼は誰よりもまっすぐな人だった。


僕と智樹が初めて話したのは、やっぱり僕の不幸が原因だった。

『にじ』をみんなで歌う時間。僕はその輪の中にいなかった。

トイレの鍵が壊れて、閉じ込められていたんだ。

外からは、みんなが歌う『にじ』の声。

僕はその音を聞きながら、人生ってこんなもんかと思った。

「誰にも見つからないまま終わるんだな」って。

息が苦しくなって、ひゅうひゅうと喉からおかしな音がして、胸が焼けるように痛くなって、息ができなくなって、涙が出た。


でも――智樹は僕を見つけてくれた。


「先生、ここ!!」


息苦しい空気の中で、その声だけが鮮やかに響いた。

目が覚めるほどの赤いTシャツが、テレビの中のヒーローを思い出させた。

不器用で、少し乱暴で、でも確かに優しい声。

あの時、僕の世界に初めて“音が戻った”気がした。

それから彼は僕にとって、ヒーローだった。


智樹は、いつも僕を見つけてくれるようになった。

どんなに隠れても、どんなに遠くにいても、必ず見つけてくれる。

喘息が酷くて倒れた日も、真っ先に駆け寄ってきてくれた。

そして必ず『にじ』を歌ってくれる。

どんな雨の日でも、どんな嵐の日でも、彼が歌えば必ず虹がかかった。


中学では施設育ちとよくバカにされたけれど、

智樹がいたから、誰も僕にひどいことはできなかった。

彼は喧嘩っ早くて、正義感が強くて。

それが当時の彼だった。

彼は自分の傷を誰にも見せなかったけれど、

僕はその不器用さの奥にある“優しさ”を知っていた。


この頃から僕は人とどこか違うと感じるようになっていった。

特に異性に対する気持ちだとか、そう言った話題にはめっぽう弱かった。


高校に上がると、彼は“不良”だと噂されるようになった。

でも僕は知っていた。

本当は誰よりも正しくて、

誰かを守るために拳を振るっているだけだって。

人を信じすぎて傷つく、そんな人間だった。

彼は、僕が知っている世界でいちばん真っ直ぐな人間だった。


僕と智樹は違う世界にいるようで、実は同じ世界を生きていた。

同じ屋根の下で眠って、同じ景色を見て。

まるで家族みたいに。

だからこそ、僕は自分の想いを胸の奥に閉じ込めた。

大切だから、失いたくなかったから。


高三の春。

僕は進学か就職かで悩んでいた。

智樹は“なんでもいい”って笑っていたけど、

嘘をつくとき、彼はいつも鼻を触る。

僕はそれを知っている。


「警察官になりたいんでしょ?」

「は!?どこで聞いたんだよ」

「内緒~」


そうやって笑い合いながら、

僕は胸の奥で何かが軋む音を聞いていた。

彼には好きな人がいた。

その瞬間、世界がまた少し静かになった気がした。

僕はどうして、人の幸せを心から喜べないんだろう。

どうして、僕だけこんなにも不幸なんだろう。


そんな僕に、智樹は言った。

「お前、幼稚園の先生とかやれば?」

「え?」

「子ども好きだろ? ぽわぽわしてるけど、ちゃんと見てるじゃん」

指折りしながら、僕の良いところを数えてくれた。

一つ彼が指を折るたびに、胸が熱くなった。

彼の声が、あの頃の母の歌みたいに響いていた。


「向いてるよ。大丈夫だろ、空なら。」


波の音が重なって、海がきらきら光っていた。

あの時間は、世界が少しだけ優しかった。


でも、僕の中にまた“影”が忍び寄っていた。


高校を卒業して間もなく、目眩が止まらなくなった。

最初は疲れだと思った。喘息もまだ酷かったし。

でも、だんだん耳鳴りが強くなって、音が遠のいていった。

診断は――若年発症型両側性感音難聴。

その言葉を聞いた時、僕はうまく呼吸ができなくなって、世界に影が落ちた。


ピアノの音が消えた。

人の声が霞んだ。

波の音も、風の音も、全部が少しずつ消えていった。

また、世界を失った。


二十歳の冬。

警察学校に通っていた智樹が久しぶりに帰ってきた。

懐かしい匂いがして、振り返ったらそこに彼はいた。

何かを言っているのに、音が届かない。

「ごめんね、聞こえないんだ」

そう笑うしかなかった。


智樹はノートを取り出して、力強く書いて、僕の目の前に突き出した。

『怒れよ』


怒る? 何に?

世界に? 運命に? 神様に?

それとも、諦めてしまった自分に?


わからなかった。

自分の声も聞こえない。

泣き声も、叫びも、全部が無音だった。

でも、確かに息が詰まるほど苦しかった。

喉の奥で、何かが崩れた。


僕は智樹を突き飛ばして、海へ走った。

波の音は聞こえない。

風も、鳥も、何も聞こえない。

時間だけが進んでいた。

夕日が沈んで、空が赤く染まっていく。

残酷なほど、美しかった。


息ができない。

吸入薬はない。

ああ、今度こそ終わるかもしれない。

魚はいいな。音のない水の中で生きられる。

大きな鯨は優雅で、美しくて、優しい声で歌っているのに。

僕は、何も持っていない。

呼吸すら、満足にできない。


――誰か。

僕を、ひとりにしないで。


目を覚ましたら、病院にいて、隣には智樹がいた。

吸入薬を握りしめて、泣きそうな顔で。

僕の手を強く握ってくれた。

温かくて、現実の温度だった。


「……ヒーローに、なってね…」

僕ではない、誰かの。


それから僕は、世界を取り戻すために手話を学んだ。

音がない世界は、思っていたよりも静かで、優しかったけど、やっぱり寂しかった。


二十二歳の時、智樹は彼女を紹介してくれた。

「結婚を考えてるんだ」と、照れくさそうに笑って。

彼女は美しくて、穏やかで、手話で挨拶をしてくれた。

〈はじめまして〉

〈はじめまして。波野空です。どうか智樹を、お願いします〉


それが、僕にできる精一杯だった。


二十四歳の夜。

ふたりの結婚式が終わって、引出物のケーキを施設の冷蔵庫の中に置いて、僕は施設を出た。

夜行バスに乗って、東京へ。

窓に映る自分の顔が、ゆらゆらと揺れていた。


耳が聞こえなくても、できる仕事を探した。

清掃、引っ越し、工場。

音がなくても、世界はちゃんと生きていた。

それだけが、僕の救いだった。


けれど、生きているだけでは、息は浅くなる。

呼吸がしづらいまま、笑い方を忘れ、季節が二度、巡った。


〰︎〰︎


二十六歳の冬。十二月三日。

冷たい雨が、灰色の街を叩いていた。


日雇いの仕事を終えて、僕はネットカフェへ急いでいた。

濡れた靴がぐしゃりと音を立てたように見えて、実際には何も聞こえない。

ただ、雨粒がアスファルトに跳ねる様子が、音のない花火のように瞬いていた。

それは綺麗だったけれど、冬の雨はやっぱり冷たくて、

手はかじかみ、息は白く、胸の奥は少し痛んでいた。


そのときだった。

背後から何かがぶつかり、カバンをひったくられた。


一瞬、何が起きたのかわからなかった。

けれど、体が勝手に走っていた。

雨に濡れた靴が滑って転びそうになりながらも、必死に追いかける。

僕の中の「また奪われたくない」という意地だけが、体を動かしていた。


追いついたとき、声が出た。

自分の声がどんな音をしているのか、わからないまま。

それでも、腹の底から絞り出した。


息が苦しい。

胸が焼ける。

空気が足りない。

それでも離せない。

僕の、生きるための全部が入っている。


その瞬間、頬に熱い衝撃。

殴られたのだと、遅れて理解する。

視界がぶれ、脇腹に蹴りが入り、肺の奥から音にならない咳がこぼれた。

僕はその場に崩れ落ちて、呆気なく財布の中身を抜かれてしまった。

男はどこかにいってしまったようでいつの間にか気配はなくなっていた。

痛みが体を支配する。痛い。痛い。

息ができない。

吸っても吸っても、酸素が入ってこない。

また、あの夜のようだ――。


世界が、揺れる。

雨の景色が歪み、霞んでいく。

遠くに見えた街の灯りが、海の底の光のように遠ざかっていった。


――不幸だな。

こんな時まで、不幸だなんて。


指先が冷たい。

雨はまだ降っている。

息が、苦しい。


そのときだった。

ぼやけた視界の中で、何かが近づいた。

空気がふっと温かく揺れ、

大きな、海のような手が僕を包んだ。


喉の奥で、ほろりと言葉がこぼれた。

届かない声。

でも、確かにその手は、あのときのように優しかった。


暗闇の底で、僕は再び、浮かび上がるようにして意識を取り戻した。


――目を開けると、知らない天井。

柔らかいソファ。

身体に掛けられた毛布は、少し甘い柔軟剤の匂いがした。

喉の奥が焼けるように苦しくて、息が浅い。

カーペットの上には、僕の散らかった荷物。

誰かの手が、その中から吸入薬を探し当てて、差し出した。


ああ、わかってくれたんだ――。


それを吸い込むと、世界に再び空気が流れ込む。

暗い海から急浮上したように、肺の奥まで光が届いた気がした。


目の前にいたのは、一人の男性だった。

黒髪は丁寧に整えられ、指先には小さなギタータコの跡。

けれど、どこか疲れたような影を落としていた。

彼は僕の呼吸が落ち着くのを見届けると、静かに立ち上がり、キッチンへ向かった。

戻ってきたとき、手には開けたペットボトル。


僕は頷き、少しずつ水を飲む。

それでも、言葉は出てこない。

正確にはしゃべっても伝わらないだろうなという諦めだけれど。

男性は何か僕に聞いてきた。

僕は少し考えて、ノートを取り出して、ゆっくり書く。


『僕は耳が聞こえていません。

 ゆっくり話してもらえると助かります。』


男性は少し驚いたように目を見開き、それからしゃがみこんで、

僕と視線を合わせ、はっきりと口を動かした。


『ぼく、さとう、くじら』


読み取れたのは、その三つの言葉だった。

ああ、なるほど。くじらさん、か。


僕もペンを握りしめて書いた。


『鯨さん。助けてくれて、ありがとうございます。

 僕の名前は、波野空です。』


伝わらないだろうなと思いつつ、喉を震わせて「ありがとう」と言ってみた。

うまく音になったかわからない。

けれど、鯨さんは一瞬目を丸くして、それから少しだけ笑った。

その笑みが、冬の部屋をほんの少しだけ温めた。


彼は僕の唇の端を指差し、

「怪我してる」と、ゆっくりと動かした。

触ると少しヒリつく。

血の味がして、殴られた時のことを思い出す。

鯨さんは少しだけ笑って「手当てします」と言った。


――やっぱり、優しい人だ。


消毒やら、湿布やらを巻かれている間、

僕はノートに自分のことを書いた。

耳が聞こえなくなった理由、施設で育ったこと、

一人で生きてきたこと。さっき起きたこと。

鯨さんは黙って読み、何度も頷いた。

ときどき、悲しそうに眉を寄せながら。


最後に、僕は書いた。


『僕、不幸体質なんです。

 でも、今日あなたに拾われたから、ラッキーです。』


それを読んだ鯨さんは、思わず吹き出した。

その笑顔に、僕もつられて笑った。

声にならない笑いだったけれど、確かに心が震えた。

こんなふうに笑ったのは、いつ以来だろう。


『お礼をさせてください』


そう書くと、鯨さんは首を振った。

「そんなことしなくていい」と言うように。

けれど僕は、またペンを走らせた。


『それだけのことです』


強く書いてみせる。

鯨さんは少し目を伏せて、言葉を飲み込んだ。

沈黙の中、時計の針だけがゆっくりと動いていた。


部屋を見回すと、机には埃をかぶった皿や本。

奥には趣味なのか、ギターやキーボードなど、手入れされた楽器がそこに置かれていた。

リビングには脱ぎ捨てられた服やコーヒーのしみがついたコップがそこにそのまま置いてあった。

――まるで、誰かがほとんど家に帰ってこなかったような。


思わず尋ねた。


『鯨さんは、何の仕事をしているんですか?』


彼は一瞬、面白そうに目を細めて、

「もしかして、僕のこと知らない?」と笑った。


僕が首を傾げると、彼はスマートフォンを取り出し、検索画面を見せた。


【20Hz 佐藤鯨】


そこには、無数のニュース記事。

有名なロックバンドのボーカル。

SNSのフォロワー数は桁が違った。

ただ、その中にひとつだけ気になる見出しがあった。


〈20Hz、活動休止〉


記事を開く。

「ボーカル・佐藤鯨、ライブ中に倒れる。過労による体調不良。復帰未定」

淡々とした文章の中に、彼の孤独が透けて見えた。

ステージの光の中にいても、誰よりも遠い海の底にいるような――。


僕は思った。

彼もまた、波に溺れた人なんだ。


鯨は笑っていたけれど、

その笑顔の奥に沈む静かな孤独を、僕は知っていた。

きっと、僕と同じ海の底で、もがいていた人だ。


その日、鯨さんは僕に言った。

「家のことを手伝ってくれないか」と。

報酬はしばらくの生活。

ありがたくて、僕はすぐに頷いた。


「ありがとう」と、僕の世界の音である手話で伝える。

鯨さんは目を見開いて、それからゆっくり僕の手話を真似した。


「ありがとう」


――彼が僕の世界の言葉を覚えたいと言ったのは、そのすぐあとだった。


世界はまだ、静かなままだけど。

それでも確かに、少しずつ音を取り戻している気がした。

僕の中の“海”に、小さな光が差し込んでいた。


鯨、君のおかげなんだ。

君がいたから、ぼくはこの世界で生きていられた。

朝の光が部屋を満たすたびに、誰かと同じ時間を生きていることを、少しずつ実感していった。

湯気の立つカップ、机に置かれた食器、そして君の背中。

そのどれもが、ぼくに「生きていい」と教えてくれた。

僕はだんだんとその日々を記録としてノートに書くようになった。


君の笑顔がだんだんと自然なものになっていった。

僕もそれに釣られて、笑顔を取り戻すことができた。

でも、鯨の笑顔の奥には、時折深い影があった。

静かな海の底で、何かが沈んでいるように見えた。

僕にはその音が聞こえない。

けれど、君の息の揺れ方で、わかってしまう。

苦しいんだね、って。


ある夜、鯨は荒れた。たぶん、バンドのメンバーかマネージャーさんから連絡があったんだろう。

悲しそうに電話を終えた後、スマートフォンを壁に叩きつけて、叫んで、泣いて、拳でテーブルを叩いた。机の上にあった楽譜のメモを引き裂いていた。

その姿は、いつかの僕に似ていた。

孤独であることに耐えられず、理解されない痛みに苛まれているようだった。

僕には彼の声が聞こえない。

だけど、胸の奥で確かに感じた――このままじゃ、鯨が壊れてしまう。


咄嗟に手を伸ばした。

あの日、かつての憧れの人が僕を包み込んでくれたように、

あの夜、君が僕に温かさで包んでくれたように、

今度は僕が彼の手を包み、暗い海の底から引きあげた。

彼の手はあの夜と同じように温かくて、大きくて、でも震えていた。

それが感じられただけで、彼の世界の輪郭が少し戻った気がした。


僕が手を掴むと、鯨の黒々としていた瞳に光が戻る。少しバツが悪そうに、鯨は目を赤くしながら好きな歌を聞いてきた。

僕が『にじ』だと伝えた。

彼は幼い子供のように笑ってピアノのキーボードに触れる。

彼の指が動かしていたのは、『にじ』のメロディーで、僕がかつてあの場所で歌った『にじ』の旋律。

音は聞こえない。

けれど、彼の唇の動きと空気の震えで、確かにそれだとわかった。


僕も歌いたいと思った。

息を整えて、喉を震わせる。

きっと音はズレている。

それでも、僕は彼の動きに合わせるようにハミングした。

鼻の奥が熱くなって、胸がぎゅっと痛くなる。


鯨、君の声が聞こえないことが、こんなにももどかしい。

もし聞こえていたら、君の苦しみにもっと寄り添えただろうか。

けれど、僕は知っている。

音のない世界でも、人は心で響き合えるということを。


まるで字幕のない映画みたいだった。

でも、そこには確かに僕らにしかわからない「意味」があった。


ハミングを終えて、君の顔見たら、君の涙の粒が光を反射して、まるで宝石のように輝いていた。

君は僕を綺麗だと言ってくれた。

でも僕には君の方が美しく、儚く、輝いているように思った。

僕は、その光を見逃さないように、ただ見つめた。


ねぇ鯨。

君は孤独だと嘆くけれど、孤独は海と同じで、なくなることがない。生きることとは孤独だと、僕は思う。

深くて、広くて、時に優しい。

君はその海を泳ぐ鯨で、僕は寄せては返す波だ。


波は鯨を包み、時に押し上げ、時に静かに離れていく。

それが、僕にできる唯一のこと。

だから僕は、君がまた笑える日まで、傍にいる。


君が仲間と再び出会い、寂しくないと気づいたその時、

僕は波のように静かに引いていく。

音のない世界でも、波は寄せ、海を揺らす。

その揺れが、君の心に残ればいい。


僕はただ、君の海を穏やかにするために、

今日も静かに息をする。

いつの間にか季節は巡り、夏が近づいていた。

鯨が再び忙しく動き始めた頃、僕は一人、机に向かっていた。

耳が聞こえなくても、僕は物語を描ける。

自然を、季節の移ろいを、人の心を。

そんなものを、静かに綴っていた。


夏から秋へ、秋から冬へ、世界は忙しなく巡る。

僕が【ナミノート】という名前で投稿した小さな物語が、思いがけず多くの人に読まれた。

出版社から声がかかり、書籍化が決まって、あれよあれよという間に現実になっていった。

夢みたいだった。

まるで、誰かがそっと背中を押してくれているようで。


何冊か本を出して、次は何を書こうかと考えた時、自然と鯨の顔が浮かんだ。

あの人の生き方を、声を、静けさの奥の孤独を、物語にしたい。


鯨は活動を再開してから、忙しさに飲み込まれるように生きていた。

テレビや取材の合間に、たまに手話で話してくれた。

画面越しに、疲れた顔で笑う。

僕は文字で返す。

他愛もない愚痴や冗談を交わす時間が、何より嬉しかった。


SNSでは、彼の歌声が「奇跡のように美しい」と言われていた。

僕には聞こえないけれど、不思議と納得できた。

あの声なら、きっと――どこまでも届く。

いつか、僕の言葉を鯨が歌ってくれたら。

それだけで、僕はもう報われる気がした。


その夜、月がとても綺麗だった。

静かな光の下で、鯨とのトーク画面を開く。

鯨に君の物語を書いていいか、そう聞くために。


「ねぇ、鯨」


そんな一言を送って、続きの文章を打とうとした時だった。


――線路に、子どもがいた。


警報の光が点滅する。

迷っている時間はなかった。

スマホを放り出して、僕は走った。

子どもを抱えて、外へ押し出す。

鉄の咆哮が、迫ってくる。


一瞬のうちに、過ぎた。


最後に思い出したのは、僕の友達だった智樹と交わした最後の言葉だった。


「空は自分なんてどうでもいいと思ってない?」

〈思ってない〉

「でもお前はいつも怒らないだろ?怒る価値がないと思ってんの?」

〈そうじゃなくて、怒り方を知らない〉


どうして死ぬ直前になってこのやりとりを思い出すんだろう。

僕は怒っているのだろうか。

うん、怒ってる。

君を一人にしてしまう僕に対して怒っているんだ。


――あぁ、鯨。

君にまだ、話したいことがあったのに。

僕は、君にまだ言えてないのに。


世界が暗転し、音も光も消えた。

僕は死んだのだと、その時悟って、暗闇の静かな世界をただ海月のように漂っていた。

でも、その静寂の中で――確かに「音」がした。


鯨の声だった。

目の前の鯨は泣きながら、掠れながら、それでもまっすぐに僕の名前を呼んでいた。

初めて聞こえた“音”は、悲しみの中にあるのに、どこまでも優しかった。

海の底まで届くような声だった。

その声が、僕の中の何かを確かに震わせた。


あぁ、これが“鯨の声”なんだ。

君の音は、世界の全部を包み込んでいた。


僕はもう、触れられない。

君の肩を叩くことも、手を握ることもできない。

それでも、君が僕を呼ぶ声だけは、永遠に響いていた。


鯨は僕のノートを見つけた。

何度も何度もページを撫でては、泣いていた。

その中の一文を、指でなぞっていた。


――「叶うなら、僕が書いた詩を鯨に歌ってほしい」


そして季節がまた巡る。

冬を越えて、春が来る。

それでも世界は生きていく。

鯨もまた、歌うことを選んだ。


僕らが出会ってから、二度目の冬。

鯨は大きな舞台の上にいた。


僕はその舞台を見ていた。

観客の歓声が波のように揺れ、照明が眩しくて、胸がいっぱいになった。


「これから歌う曲は、まだ未発表です。

 僕の親友が書いてくれた歌を、今ここで歌います。」


鯨はマイクを両手で握りしめ、目を閉じた。

祈るように息を吸い、声を放つ。


その瞬間――僕の世界が、再び満たされた。

音がある。風がある。光がある。

鯨の声は、波のように僕を包んでくれた。


どこまでも澄んでいて、どこまでも優しい声。

あぁ、僕は今、聞いている。

君の声を、確かに聞いている。


僕も歌う。僕が書いた言葉を。

きっと届かないけれど、それでもいい。

声は重なり、世界はひとつになった。


ほんの一瞬、鯨と目が合った。


その瞳に、僕は映っていた。

波が、海に還るように。

静かに、やわらかく――。


愛していたよ


なんて僕は静かに、口ずさむ


〰︎〰︎


僕はもう、この世界にはいない。

けれど、風が頬を撫でるとき、

波が静かに岸へと寄せるとき、

君のそばで笑っているつもりだ。


誰かが僕を不幸だと言うなら、それでいい。

誰かが僕を可哀想だと言うなら、それでいい。

耳が聞こえず、夢の途中で終わって、

愛する人を残して逝った僕の人生は、

確かに「不幸で可哀想でちっぽけ」に見えるのかもしれない。


でもね、鯨。

僕は笑っていたんだ。

泣きながらでも、震えながらでも、

世界の優しさを、ちゃんと感じていた。


聞こえない世界でも、

君の声は僕の心に届いていた。

音のない僕の世界に、

君は確かに“音”をくれたんだ。


人は、悲しみを避けて生きようとする。

けれど僕は、それを抱きしめて生きた。

痛みも、孤独も、失うことさえ、

全部、僕の生きた証だった。


だからもう、何も怖くない。

波のように寄せては返すこの想いのまま、

僕は穏やかに、この世界を見つめている。


ねぇ鯨、

君が歌うたび、僕はそこにいる。

潮の音に溶けて、君を包んでいる。


そしてまたいつか、海が僕らをめぐらせる時、

僕はもう一度、君を見つける。


その時もきっと、笑って言うんだ。

「僕の人生は、幸せだったよ」って。

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