インガメ

 草一は今日、アルバイトの契約更新のため仕事先の会社に来ていた。書類を事務職員に渡す。

「お預かりしま――」

 事務職員はそこで言葉を切って草一を凝視する。

「どうかしましたか?」

「あ……いいえ。お預かりします。深水さん」

 妙な態度に首を傾げながらも草一は会社を後にした。その背を事務職員はじっと見ていた。


 会社を出ると紺が待っていた。あれから特に何の用がなくとも草一の前に現れる。紺は会社を睨んでいた。

「何?」

「嫌な匂いがします」

 煙草か?と草一は自分匂いを嗅ぐ。そうじゃありません、と紺は笑った。二人は草一の軽トラックに乗り込む。と言っても、高齢であまり乗らなくなった祖父のものなのだが。

「お話は順調ですか?」

「小鬼とか、家鳴りじゃあんまりなぁ……。弱いというか。まあそれでも、今まで書いてたやつより見られとるけどね」

 新しく書き始めた妖怪小説は、それなりに閲覧数が増えている。設定が全てオリジナルの小難しいハイファンタジーよりも、舞台が現代で身近な分、読者には取っつきやすいのかもしれない。

 車を出そうとエンジンを掛けた時だった。

「待って下さい!」

 紺がハンドルを持つ草一の手を握る。何かと思っていると突然どん!と音を立てて、フロントガラスに狩衣を着た、犬の頭の化物が張り付いてきた。

「インガメ……!」

「いんがめ?」

 草一が紺を見ると、彼は顔を真っ青にしている。インガメは紺を睨んで唸っている。ただ事ではないと思い、草一は煙草に火を付け、紺に持たせた。

「煙草、嫌やろうけどちょっと持っとって」

「何するつもりですか!」

 紺が制するのも聞かず、草一は車を降りる。インガメは紺を睨んだまま動かない。自分を害するようには見えないが、このままだと邪魔だ。どうしたものかと思っていると、背後で声を掛けられた。

「大丈夫ですか、深水さん」

 そこに居たのはさっきの事務職員だった。長い前髪を左右に分け、肩まである艷やかな黒髪が風になびいている。黒目がちの柔らかい瞳、通った鼻筋、垂れ下がった眉。草一よりは年下だろうが、それでも幼く見える。事務職員はかすかに笑っているようだった。

「えっと、確か……」

「犬塚です。犬塚香子きょうこ。深水さん、それは人間じゃないですよ」

 香子は紺を指差す。紺は険しい顔でインガメと香子を交互に見ていた。

「犬塚さん、おれはあいつが人間じゃなかとは知ってます。それよりもこの……いんがめとか言うとは何ですか?」

「インガメは一般には犬神と言います。私は犬神インガメ憑きの家の者です。このインガメは私に取り憑き、そして私が使役してるものです」

 香子は甘やかな顔で草一に微笑む。なぜだかぞっとするものを感じた。

「あれは化け狐でしょう?狐は犬が嫌いです。私が追い払ってあげます」

 香子はインガメに命令するように手を掲げた。紺が一層顔を青くする。

「ちょっと待って!」

 草一は香子の腕を掴んだ。香子はきょとんとしている。童顔が際立つ。

「どうしてですか?深水さんは狐憑きの家でもないみたいですし、あんなの、迷惑にしかならないでしょう?」

「迷惑には……なっとらん。とりあえず、あのインガメどうにかして下さい」

 香子から表情が消える。探るように草一の目を見つめる。やがて目をそらし、掲げた手を、くん、と引っ張るような動作をした。それに釣られるようにインガメはフロントガラスから離れ、香子の中に消えて行った。草一は安心したように深くため息を吐いた。すぐにはっとして車に駆け寄り、助手席のドアを開ける。

「おい、大丈夫ね?」

 けほけほとむせながら紺は車から降りて、キッと香子を睨む。

「インガメ憑きが……!」

「言っとくけど、私は一切呪の類はしとらんよ。昔はまあ、不可抗力で祟ることもあったけど、今はコントロール出来とる。使役できるくらいはね。あんたみたいなのは簡単に追っ払えるとよ」

 腕を組んだ香子は草一に見せる顔とは違った態度で紺に対峙する。余裕そうだ。

「畜生憑きが偉そうに」

「畜生はそっちやろ」

 言われて紺の目が狐のそれに変わる。牙も生え、剥き出しにしている。草一は慌てた。

「お前落ち着けって。犬塚さんも、煽ると止めて下さい」

 草一が紺の背中を宥めるように叩くと、紺はむすっとしながらも牙を収めた。目はまだそのままだ。香子はその光景を不思議そうに見ていた。

「深水さん、どうして化け狐の肩を持つんですか?」

「肩を持つっていうか……まあ……妖怪らしい所はあるけど、悪意はないみたいですし」

「悪意がない?」

「こいつはまだ野狐で、徳を積んで格を上げたいそうなんですよ。その為におれを手伝ってくれてるとです」

「手伝う?野狐が?」

 妖怪で言う野狐は一般には人を騙す狐とされている。だから香子は野狐の気配がした草一を助けようと思った。草一は先日の、紺との出会いを説明した。


「へえ、小説家ですか」

「いや全く人気はないし、そもそもプロじゃないんですけどね。だからアルバイトしとるし」

 あの後香子は仕事に戻らなければならなかった為、連絡先だけ交換して会社に戻って行った。今日は会社が休みで、二人とも仕事がないためファーストフード店で落ち合う事にした。紺も同席しており、不機嫌そうにオレンジジュースを啜っている。

「犬塚さんは霊感とかあるんですか」

「まあこんな血筋ですからね。深水さんは昔から?」

「昔、神隠しに遭った事があるらしくて。それ以来だと思います」

「年上ですよね、敬語使わなくていいですよ。何歳ですか?」

「三十二です」

「私の二つ上ですかあ」

 草一は驚いて目を見張る。どう見ても二十代前半だと思っていたからだ。そう言えば、草一がアルバイトを始める前から香子はあの会社で働いていた。紺は香子を睨んで唸る。

「おい、インガメ女」

「口には気を付ければ?インガメにあんたを食い殺させる事出来るとやけんね」

 二人のいがみ合いに、草一は深くため息を吐いた。紺と香子は睨み合っている。

「草一さんに何の用」

「いくら悪意がないからって、野狐とつるむのは良くないですよって忠告するため。あんたが徳を積みたいのはどうでもいいけど、深水さんにまとわりつく必要ないでしょ」

 紺は押し黙る。確かにそうだ。善行を行いたいのなら、何も自分にばかり構う必要はない。むしろ色んな人にそうした方が手っ取り早い。

「夢が叶うかどうかも分からんしなあ」

 のんびりと草一が言うと、紺が睨む。

「そんな心持ちでどうします。もっと本腰を入れてくださいよ」

「入れとる……つもりやけど」

 紺に厳しく言われて、尻すぼみになる。確かに、自分には覚悟が足りていないと思う。でも現実は甘くない。そう考えると一歩が踏み出せない。

「人間には人間の都合があると。野狐あんたの都合を深水さんにおしつけんで」

 香子の言葉にバツが悪そうに紺は目をそらす。

「それでも僕は草一さんの手伝いがしたかと。せんといけん」

 紺は残り少ないジュースを啜りながら言った。草一と香子はぽかんとした。香子は草一に尋ねた。

「深水さん、何をしたんですか?昔子狐を助けたとか?」

「こいつは百歳超えとるよ。動物助けた記憶もなかし」

 紺はそれから、その事について何も話そうとはしなかった。


「小説書くお手伝い、私も出来るかもしれません」

 香子はそう言った。

「私は犬神憑きですからね。私の事ならお話し出来ます」

 香子は手を組んで顎をその上に乗せている。草一は、妖怪の犬神という名は知っているが、どういうものかは知らない。知る事を避けてきたからだ。メモを取り出し、傾聴する。

「犬神憑きはね、呪うんですよ」


 犬神憑き――インガメ憑きは自分に取り憑いているインガメを、恨む相手に取り憑かせる事が出来る。取り付いた相手は病み付き、最悪狂い死にする事もある。それ故インガメ憑きは忌避されてきた。

「厄介なのは、呪おうと思わなくても、その人に負の感情を抱いただけで取り憑かせてしまう場合がある事なんですよ」

 昏く笑って香子は言った。

 香子に取り憑いたインガメは強力だった。しかし幼い頃の香子は気弱で、病弱だった。病弱だから、すぐ泣くから、そう言って同じ年頃の子は香子を避けたり、泣く香子に苛立ったりしていた。香子は周りの子ども達を怖いと思うようになった。

 怖い。怖い。――嫌い。

 そう思った時だった。ふわり、といつも近くにいたインガメが消えた。不思議に思っていたが、結局インガメは帰って来なかった。

 翌日学校へ行くと、香子を避けていた子どもたちが軒並み原因不明の高熱を出して学校を休んでいた。

 ――インガメの仕業だ。

 香子はすぐに悟った。親から人を恨んではいけないと強く言われていた事を思い出した。インガメは祟ると言っていた。香子は学校が終わるとすぐに、休んだ子どもたちに会いに行き、必死でインガメに頼んだ。

 ――恨んでない。恨んだりしてないから帰って来て。祟らないで。

 分裂して小さくなったインガメはしばらく香子を見ていたが、何も言わず香子の中へと戻って行った。香子はそれを繰り返した。子どもたちはその晩から熱が下がり、翌日には学校に登校していた。だが香子を見るなり青い顔をして余計に避けるようになった。

 ――これでいい。

 香子は安心した。他人に何も期待しなければ、憂う事などなかった。人を祟る事もない。


「それから私は一人でも良いって思えるように気を強く持つようになったんですよ。なりすぎて、自分勝手って言われてますけどね。それも気にしてませんが」

 晴れやかに笑う香子を見て、草一はペンを止める。

「でもおれの事助けようとしてくれたよね」

「だってそれは……放って置けないでしょう。人間相手ならまだしも、妖怪ですよ?」

「自分勝手じゃなくて、人を傷つけんためにしとるとなら、それは優しいとやろ」

 香子はぽかんとする。そんな事を言う人は初めてだった。むず痒くて目を逸らす。

「インガメは勉強になった。ありがと」

「僕を襲った事も書いて下さいよ」

「お前が犬が嫌いなのも有益な情報やったね」

「お手伝いの一つになるなら、良いですよ」

 二人が冗談を言い合う様子を、香子はじっと見ていた。

「……本当に……悪意はないんですね」

「そう思うけど」

「今の所は静観します。でもその狐が裏切ったら、すぐ連絡して下さいね」

 香子は立ち上がる。そして草一に向かって頭を下げた。

「深水さんの言葉、嬉しかったです。ありがとうございました」

 顔を上げてにっこり笑って、そうして店を出て行った。


 軽トラックに乗って二人は家路につく。ぼそりと草一は呟いた。

「犬塚さん、辛い事いっぱいあったやろうね」

「生物は異端を嫌うものですよ」

「まあね。おれも神隠しに遭ってしばらくは似たようなもんやったし」

 ハンドルを左にきる。山に沈む夕日が眩しい。砂利道で細かな振動がする。

「…………」

 紺が小声で何かを言った。砂利の音で聞き取れなかった。

「何て?」

「何でもないです」

 紺は窓の外を見ている。表情は分からない。何を考えてるのか分からないのはいつもの事だ。

「心配せんでも、犬けしかけたりせんけん」

 冗談交じりにそう言うと、紺は振り返った。

「分かってますよ」

 紺はおかしそうに笑った。

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隠り世渡り 梶とんぼ @kj-tombo

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