#143 ただ、君が好きだったから…

魚住 陸

ただ、君が好きだったから…


第1章:観測者と光—日常の歪んだ聖域と潜む影—





和泉は、高層ビルの窓から東京の喧騒を見下ろす、冷徹な論理とデジタルコードの世界で生きるシステムエンジニアだった。彼の優秀さは業界内で知られていたが、和泉の人生は驚くほど無色透明で、感情の波はごく穏やかだった。彼の日常の唯一の例外、そして唯一の色彩が、毎朝のエントランスで一瞬だけ視界に映る、別の会社の社員、純の姿だった。






純の笑顔は底抜けに明るく、和泉とは対極に位置する「光」の象徴だった。和泉は、その光が自分に向けられることは永遠にないと理解していたが、それで十分だった。純を遠くから見つめ、彼の存在を感じることこそが、和泉にとっての歪んだ宗教的儀式であり、日常を保つための鎮静剤だった。






和泉の純への執着は、情報技術の知識によってさらに深められた。彼は純のSNSアカウントを特定し、過去の投稿から趣味、友人の構成、そして生活のリズムまでを完全に把握していた。それは愛の行為であると同時に、厳密なデータ収集であり、和泉の心の奥底にある孤独な情熱の証明でもあった。






しかし、その「観測」の中で、純の投稿に徐々に暗い影が差し始めた。最初は些細な愚痴だったが、やがてそれは、職場の先輩新藤からの執拗なパワハラと、それを背景とした金銭的な要求、つまり恐喝へとエスカレートしていった。純の投稿から「もう、消えてしまいたい…」という言葉が溢れ出たとき、和泉の中で、長らく抑圧されていた衝動が爆発した。純の光が完全に消え去る前に、和泉は行動を起こさなければならない。彼の論理回路は、純を苦しめる「闇」をこの世界から永久に排除するという、ただ一つの指令に支配されてしまった。







第2章:闇の情報収集—愛の技術と冷徹な分析、そして計画の萌芽—




純の人生を救済するという強迫的な衝動に駆られた和泉は、新藤に関する情報収集を本格化させた。彼の持つITスキルと解析能力は、警察の捜査レベルを超えていた。和泉は、新藤のデジタルフットプリント、過去の金銭トラブル、人間関係の軋轢、さらには行動パターンと習慣を、まるでパズルのピースを埋めるように収集した。純のSNSから得られる断片的な情報と、新藤のデジタルな記録を照合することで、和泉は二人の間の恐喝の構造を完全に理解するに至った。新藤の残忍さと、それによって純が追い詰められている状況が、和泉の「排除」の決意を一層固めた。







この段階で、和泉の愛は完全に犯罪へと傾倒していった。彼は、純が新藤の死によって解放されること、そして純に一切の疑惑がかからないことを絶対条件とした。二人の間に接点がないという事実を最大限に利用し、和泉の存在が純のトラブルとは無関係であるという「完全なる無関係性」を装う必要があった。和泉は、新藤の死を純の人生とは切り離された、偶発的、あるいは不可抗力な出来事に見せかけるための緻密なシナリオを構築し始めた。






それは、愛する人への最後の、そして最大の贈り物としての「完全犯罪」の骨格だった。夜が明けるまでモニターの光に照らされながら、和泉はコーヒーを飲み続け、感情を完全にシャットアウトした状態で、冷徹な機械のように計画の細部を詰めていった。







第3章:完全犯罪の設計—完璧すぎる論理と、罪への美学—




和泉の計画は、もはや犯罪ではなく、芸術的なロジックの構築だった。彼は、新藤の死を単純な殺人事件ではなく、「計画性のない強盗殺人」または「不審者による突発的な暴行死」に見せかけることを目指した。そのために、彼はまず犯行場所を、新藤が深夜、人目につかない場所で定期的に立ち寄る、監視カメラの死角となる古い倉庫街の裏道に設定した。






次に、犯行のタイミングは、和泉自身が自宅で「リモートワークによる徹夜作業」をしていると記録を残せるように調整された。彼は、自宅のPCから外部サーバーにアクセスし、犯行時刻と合致するタイムスタンプのついた作業ログを生成するプログラムを事前に仕込んでいた。






さらに重要なのは、新藤と純の間の金銭トラブルの証拠隠滅だった。新藤の死後、警察が彼のデジタルデバイスを捜査することを想定し、和泉は新藤のPCやスマホのクラウドデータに遠隔でアクセスし、純との恐喝に関するやり取りを完全に消去する準備を整えた。これにより、純は被害者であるという事実すら残らず、新藤の死から最も利益を得る人間という疑いすら生じない。和泉は、自分の愛が純の人生に「痕跡を残さない、完璧な救済」として機能することを望んだ。それは、和泉の孤独な愛の美学であり、これから犯す罪への強い決意でもあった。







第4章:決行と歪んだ成就—罪の実行と、無音の解放—





計画は、純の精神が限界に達しているだろうと観測した日を選んで実行された。和泉は、事前に用意した偽装道具と、痕跡を残さないための服装で深夜の街を移動した。彼の心臓は静かに脈打っていたが、感情は凍り付いていた。和泉の行動は、リハーサル通り、一分の狂いもなく進められた。裏道で新藤を待ち伏せ、迅速かつ決定的に彼を無力化し、そして現場の偽装工作を行う。彼の行動は、技術者としての完璧さを追求するがごとく、冷徹で無駄がなかった。






全てを終え、和泉は自宅に戻った。彼はすぐに証拠を破棄し、シャワーを浴びて、アリバイ工作の最終確認を行った。彼の心には、人の命を奪ったことへの直接的な罪悪感よりも、長年の片思いから解放されたような奇妙な虚脱感が支配していた。それは、愛の成就という名の、魂の空洞化だった。






翌朝、ニュースで新藤の「不審死」が報じられた。和泉は冷静に警察の発表を追った。数日後、純のSNSにアップされた写真は、以前の陰りのない、輝くような笑顔だった。和泉は、その笑顔を見て、深く息を吐いた。






「救えた…」





彼の愛は、歪んだ形で完遂された。彼は、誰からも知られることなく、純の人生の影となり、彼を救い出したという事実だけを抱きしめ、孤独な満足に浸った。







第5章:見えない亀裂—完璧さの不自然さと、純の不安—




新藤の死は、当初、強盗殺人や偶発的な事件として捜査されたが、和泉の計算通りの完璧さゆえに、捜査は難航を極めた。現場の証拠は乏しく、犯人の特定には至らない。純は、新藤の死によって借金とパワハラの重圧から解放され、文字通り、人生を取り戻した。和泉は、遠くから純の幸福を観察し続けた。この「観測」こそが、和泉の罪への最も甘美な報酬だった。







しかし、事件の捜査を続けるベテラン刑事は、その「あまりの完璧さ」に違和感を覚えた。凶器の処理、痕跡の消去、そして被害者の背景との完全な切り離し。それは、衝動的な犯行ではありえない、異常なほどの緻密さだった。捜査陣は、新藤の周囲ではなく、「この事件を計画できる知性を持つ第三者」の存在へと焦点を移し始めた。






特に、新藤のデジタルデバイスに残された、一瞬にして消されたはずの「通信の残滓」が、高度なITスキルを持つ人物の関与を示唆していた。一方、純もまた、自分を苦しめていた人間が、あまりに都合の良いタイミングで、あまりに不自然な形で消えたことに、潜在的な不安を感じ始めていた。彼は時折、背後に誰かの視線を感じるような錯覚に陥り、街角で振り返ることが増えていた。








第6章:崩壊と逮捕—愛の軌跡の露呈と、二人の距離—




警察は、デジタル痕跡の解析と、事件後に純の人生に起きた劇的な変化を関連付け、犯人が純を「救う」目的を持っていた可能性を視野に入れた。そして、その目的を遂行できる高度なITスキルを持つ人物を洗い出し、やがて和泉に辿り着いた。和泉が純に対して抱いていた一方的な執着、そして、何より彼のデジタル上の「完璧すぎる」アリバイが、かえって捜査官の目を惹きつけてしまった。彼の作り上げたログや記録は、すべてが「完璧すぎて不自然」であり、専門家から見れば作為の痕跡が残っていたのだった。






証拠が固まり、警察は和泉の逮捕に踏み切った。逮捕当日、和泉はいつものように遠くから純を見つめていた。純は、新しいプロジェクトが成功したのか、仲間と笑い合っている。その笑顔は、和泉が命を懸けて守った「光」そのものだった。手錠をかけられ、連行される車の中から、和泉は純の姿を最後の最後まで見つめ続けた。純は、和泉の存在に気づかないまま、笑い続けている。和泉の胸に去来したのは、恐怖でも後悔でもなく、ただ「君を救えた…」という、究極の満足感だった。彼の愛は、純に知られることなく、静かに断罪されたのだ。







第7章:愛の独白—終焉の静寂と永遠の愛—




裁判において、和泉は自らの罪を淡々と認めたが、動機については頑として沈黙を守り続けた。彼は純の幸せを汚したくなかった。純との関係性を法廷で暴くことは、純の人生に「殺人者の愛」という重い影を落とすことになると知っていたからだ。結果、彼は殺人罪で実刑判決を受け、外界から隔絶された刑務所の世界へと身を投じた。






刑務所での日々は、静かで、規則正しく、そして永遠に孤独だった。和泉は、外部との接触を断ち、ただ純の笑顔の記憶だけを心の聖域として生きた。彼の罪は重かったが、彼の心は満たされていた。彼は純を救ったのだ。それが、彼の人生の唯一の真実だった。






ある夜、房の小さな窓から差し込む、冷たい月の光を浴びながら、和泉は過去の全てを肯定するかのように、静かに、そして深く、その言葉を唇に乗せた。





「後悔なんて、あるはずがないじゃないか…だって、俺は自分の愛を、君の人生という最高の場所に捧げたんだから。ただ、君が好きだったから…」





彼の愛は、完全な犯罪として完結し、その罰の中で永遠に昇華された。和泉の孤独な魂は、純の「遠い観測者」であり続けることによって、永遠の安息を得たのだった…

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