変化していく

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第1話 変わらない世界― 1

世界は、こんなにも静かだったろうか。


風の音も、遠くで鳴く鳥の声も、まるで水の中で聞いているように、ぼんやりと遠ざかっていた。橋の欄干に立った足の裏が、コンクリートの冷たさを確かに伝えてくる。だが、それすらも、現実味を失っているように感じた。


「……誰も、助けてくれなかったんだ」


誰にも聞こえない心の声が、暗い空に溶けていく。


もう、いい。もう、いいでしょ?


次の瞬間、少女の影が夜の闇に吸い込まれるように──消えた。


──目を覚ますと、世界はいつものように回っていた。


目の前には、慌ただしく動く台所の光景。コンロの火、食器の音、そして……怒鳴り声。


「また寝坊? いい加減にしなさいよ、絢美! そんなだから……」


 舌打ちが朝の挨拶代わり。


 階段を下りる足音が、絢美の気配を伝える。長い髪は寝癖のままで、制服のリボンもまだつけていない。ただ静かに食卓に座るだけ。返事もしない。


(怒鳴り声で始まる、いつもの朝。……変わってない。やっぱり、消えることはできないのかな……)


「……あんた、斎藤先生には近づかないでよ。迷惑なんだから」


 母の視線はテレビに向いたまま。まるで「それだけ言えばいい」とでも言うように、口だけが絢美を責める。


「………分かってるよ」


 口の中でつぶやいたその声は、母には届かない。


 学校の門をくぐった瞬間、空気が変わった。身体が勝手に縮こまるのが分かる。目を合わせてはいけない。歩幅を乱してはいけない。ただ、存在を薄く、影のように──


「……あいつ、また来た……」


「顔とかブサイクすぎでしょ。キモッ」


 通り過ぎる声は、耳に張りついて離れない。まるで自分の存在を否定するために誰かが存在しているみたいだった。


 教室に入ると、さらに空気が重たくなった。自分の机が、まるで爆弾のようにそこにある。


「なにその顔。ねえ、あんたが生きてるだけで迷惑なんだけど」


 杉本恵梨香が、何の躊躇もなく絢美の机を蹴った。周囲からはクスクスと笑い声が広がる。


 絢美は黙ったまま、机の上に視線を落とす。そこには教科書もノートもない。ただ、目を逸らしたい現実だけがあった。


 チャイムが鳴る。


 扉が開かれ、朝の光が差し込む。


「おはよう」


 斎藤俊哉が教室に入ってくると、女子生徒たちが一斉に声を上げた。


「キャー!」 「今日もかっこいい〜!」


 その空気の中心にいるはずの彼は、ふと、教室の隅──絢美の方を見た。たった一瞬。だが、絢美はすぐに視線を逸らした。


(加藤絢美………。彼女だけ……僕を避けてる……?)


 斎藤は静かに眉を寄せた。



 ──あの記憶が、またよみがえる。


 モノクロの風景の中。かつての担任、松崎五郎が笑っていた。


「何でも相談していいからな、絢美」


 優しげなその言葉は、どこか空虚だった。机の隣に立つ彼が、妙に距離を詰めてきたとき──


「……先生、ちょっと近いです……」


 そう口にしたはずなのに。誰にも聞こえなかった。


(あのとき、勇気を出して話したのに……。結局、裏目に出た。誰かを頼った自分がバカだった。それがもう、トラウマだった)



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