大正ロマンチシズム:百年の血潮と恋文(ラブレター)
黒瀬智哉(くろせともや)
百年の血潮への助走
大正ロマンチシズム:百年の血潮と恋文(ラブレター)
百年の血潮への助走
10月17日の朝。
日の出前の薄闇から覚醒した頭は、澄んだ水のように冴えている。今日も、布団を畳み押し入れにそれを仕舞い込む静かな音から一日が始まる。奈良、生駒の山際の高台にあるこの家は、夜明け前から冷涼な空気を吸い込む。
家中の掃除機を掛け、濡れ雑巾で畳を拭いて回る。作家・黒瀬智哉、47歳。生活の澱を全て拭い去るかのような、いつもの朝のルーティンを淡々と済ませる。この静かで完璧な生活を崩してでも、私はあの物語を完成させなければならない。
もちろん神棚の水も新しいのに取り替える。小さな水器を満たす水は、この一日の清らかな始まりを象徴している。
PCルーム(書斎)もキッチリと済ませる。和室の畳の上に置かれたデスク周りには、最新のデスクトップPCが鎮座している。埃一つない。
そして本日の朝食は、いつものシリアルやパン食ではなく、趣向を変えてまともなご飯食の日本らしい朝食にした。炊飯器は1合炊き。
朝食のメインは、昨夜の味噌汁の残り物と、新たに調理するカレイの煮付けと玄米茶だ。
朝風呂の準備も始める。カレイの煮付けの調理が終わり、蓋を閉めた同時刻に、浴室の湯張りの完了音が静かに鳴った。完璧だ。
ご飯の炊き上がりまであと14分か――。僅かに時間調整を見誤った。
先にヤカンで湯を沸かし、淹れたての玄米茶をいただくことにしよう。
窓を開け放つと、高台を吹き抜ける冷涼な空気が頬を撫でる。眼下には生駒の街並みが広がり、その向こうの稜線から黄金色の光線が放たれている。その朝日を眺めながら午前の風を楽しむ。そのあと朝食を食べてから、熱い風呂に入ろう。
朝食の食卓の準備が完了。畳の上に広げられたローテーブル。
ご飯の炊き上がりまであと4分。ちょうど良かったか。
急須から湯呑みに玄米茶を注ぐ。立ち上る湯気と共に、玄米がわずかに焦げたような香ばしさが鼻腔をくすぐった。
「やはり先に、この香りを味わうことにしよう。」
そうこうしていると、甲高くも静かな音と共に、ご飯が炊き上がった――。
朝食の準備完了。
「では、いただきます。」
カレイの煮付けに箸をつける。とろりとした煮汁の甘辛さが、一日の活力を満たしていく。
うん、美味い。
昔の日本の朝食とは、どんなものだったのだろうか。
特に今の私が知りたいのは、大正時代、東京の下町の朝食だ。第二次世界大戦や太平洋戦争が起きる前の、あの時代の日本。
今取り掛かっている新作小説は、その東京を舞台にした物語だからだ。
その時代の日本には、まだスーパーマーケットというものは存在していなかった。買い物と言えば、市場(いちば)だ。
(黒瀬の思考の中で、物語の女性主人公が動き出す。)
文子は、自宅の米びつの蓋を閉めると、居間から煤けた天井を見上げた。朝の光が、障子を通してまだ薄い。
竹と笹で編まれた市場かごを手に持ち、下駄をカラコロと鳴らして家を出る。高台の生駒ではなく、東京の雑然とした下町。彼女の密かな情熱である**「小説を書くこと」**の重荷を、この市場かごの重さと重ねている。
市場に辿り着く頃には、人々の活気と、魚の磯の香りが混ざり合った熱気が道に溢れていた。
「おや、文子さん。今日はえらい早いね!」
八百屋の親父が、濡れた布巾で野菜の泥を拭き取りながら声をかけてくる。
「ええ、今日は大根と、それから、根生姜を少々。味噌汁の具にしようかと。」
文子は、親父の目の動き、人々の会話の語尾に、物語の種がないかを探るように耳を澄ませる。彼女が支払った銀貨を受け取った親父は、頭上の梁から吊り下げられた竹製の小さなザルから、十銭銀貨、銅貨の一銭玉や二銭玉を選び、五銭札と共にお釣りを文子の手に載せる。文子の籠は、土の香りと生姜の匂いを抱え、ずっしりと重みを増していく。
その時代の日本に、若き日の芥川龍之介がいた。
まごうことなき彼は日本が生み出した文豪の一人だ。
ご飯はこのように、お茶碗に盛られたご飯に急須の玄米茶を掛けるお茶漬けが好きだ。しっかりしたお茶漬けではなく、湯気の向こうに過去の時代を見つめるような、質素な庶民的なお茶漬けを私は好む。これは、文子の愛した不器用な男、信吾との生活の味に違いない。あの、俗物だと罵った男が、文子の魂を救い、愛した。その真実を、私は今、最も知りたい。
湯気の立つお茶漬けを一口で平らげ、黒瀬は立ち上がった。
すぐ隣の部屋、書斎(PCルーム)のデスクトップPCの画面が目に入る。画面には小説執筆ソフトが映し出されており、上部には光を放つように作品タイトルが表示されている。
『大正ロマンチシズム:百年の血潮と恋文(ラブレター)』
キャッチコピー:大正ロマン、百年の血潮。なぜ彼女の才能は歴史に消えたか?
画面の中央には、主人公である文子(ふみこ)のキャラクター設定が箇条書きで示されている。彼女は、質素な生活を愛しながらも、新しい思想に強く惹かれ、そして人知れず、時代を変えるほどの才能を秘めていた。
ディスプレイの横には、昨夜検索した大正時代の五銭札の絵柄や、当時のモダンな女性の服装の資料画像が、タブで開かれたまま残っている。
私はただの作家ではなく、文豪を目指している。
和室のデスクのキーボードに、そっと手を置く。この無機質な道具で、百年前の日本人の魂の絶叫を呼び起こさねばならない。ライトノベルのような軽い小説も書けるが、私はもっと上を目指したい。目指すは日本一の文豪だ。
ワンピースのロロノア・ゾロが、ただの剣士を目指しているのではなく。世界一の剣豪を目指していることと同じ。奴は言った。「背中の傷は剣士の恥だ」と。
私もまた、筆を折るという敗北を喫して背を向けるわけにはいかない。この物語を書き終えるまで、私の魂に、敗北の傷跡を残すわけにはいかないのだ。
その強い決意が、血となって全身を巡るのを感じる。彼はちらりと、『自由の翼』を見やった。文子の才能も、彼の志も、時代という籠に閉じ込められるわけにはいかない。
「なぜ彼女の才能は歴史に消えたか?」
彼女の才能を埋もれさせた時代の重さ。彼女を愛した男の情熱。この物語を書くことは、歴史に対する私の贖罪(しょくざい)であり、一世紀の時を超えた、一つの才能への弔いなのだ。
黒瀬はPCのキーボードを軽く叩いた。まずは、頭の中で動き出したばかりの文子を、この道具で書き出すのだ。
湯舟に浸かる湯張り完了の音は既に遠い。黒瀬は、湯気の立つお茶漬けで満たした腹を抱え、熱い風呂場へ向かった。
湯舟に身を沈めると、体の表面の力がゆるゆると抜けていく。熱い湯が、先ほどキーボードを前に高まった血の熱を静かに包み込む。
窓の外の緑――木々の葉は、朝日で磨かれたように鮮やかな光沢を放っている。その上には、どこまでも深く澄んだ午前の青空が広がっている。生駒の山が抱く雄大な自然の光景だ。
覚悟の深化湯気と静寂の中、彼は改めて考える。文子は、あの下町の市場かごの重さに、己の才能を押しつぶされまいと抗った。その魂の絶叫は、この清浄な空の下、百年の時を超えて私を突き動かしている。
風呂から上がり、湯上りの清冽な感覚と共に、彼は身支度を整える。肌に触れるタオルは、彼の心を整理するように優しく水分を拭い去る。
PCルームに戻ると、PC画面のタイトル――『大正ロマンチシズム:百年の血潮と恋文(ラブレター)』――が光っている。
黒瀬は椅子に深く腰掛け、両手をキーボードの上に置いた。
「――まず、大正元年、文子の朝から始めよう。」
文子が呼吸した時代とは、
それは、明治の終わりから大正時代にかけての、日本の歴史の中で最も劇的な「光と影」が交錯した転換期である。
明治が築いた強固な国家体制の厳しさが残る一方で、ヨーロッパや特にアメリカからの自由な思想とモダンな文化が水のように流れ込み始めた時期だ。
この時代、文子が下町で市場かごを抱えていた頃、若き日の芥川龍之介はまだ無名の学生であり、文学への激しい情熱を胸に抱いていた。二人は、世間の喧騒とは無縁な場所で、密かに互いの「才能」という魂を認め合った。
しかし、この時代は希望だけではなかった。
日本とアメリカの関係は、表面上の文化交流の「光」の裏で、移民問題や中国の権益をめぐる「対立の影」を抱え始めていた。特に大正時代に入ると、この亀裂は決定的なものとなり、1924年の**「排日移民法」**へと繋がっていく。
この激しい葛藤の時代に、芥川龍之介は、その鋭い感性をもって生きていた。彼は、大正という時代の光と影を最も深く見つめ、その終焉とともに自身もまた筆を断った。
新しい思想と、古い伝統。個人の才能と、良妻賢母という重荷。
この時代とは、**国際的な「対立」と内面的な「葛藤」**が、最も激しく一人の人間の魂を押しつぶし、そして、激しく燃やした時代なのだ。
この後、時代は昭和へと移り、日本は太平洋戦争、第二次世界大戦へと突き進む。戦火によって大正の街並みは焼かれ、多くの歴史と記憶は失われ、終戦を迎えて今日(こんにち)に至る。
この物語は、その激動の歴史の光と影の中で、一人の女性が**「小説を書く」という自由を求め、時代と二つの愛に生きた「百年の血潮」の記録である。彼女の魂の絶叫**が、百年の時を超え、現代の我々に問いかける。
なぜ、彼女の才能は歴史に消えたのか?
大正ロマンチシズム:百年の血潮と恋文(ラブレター) 黒瀬智哉(くろせともや) @kurose03
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