「孤独の楽な忘れ方」

竹内昴

第1話 「孤独の楽な忘れ方」

孤独には、一種のマジカルな説き伏せ方が必要か?それは、一種の吹き出てくる孤独の心地悪さに似た、ハングリーな一面の気味悪さがある。だっても絶対もない、世界の無類の

水準における、ギリギリのボーダーラインは

、例えようのない不安の落とし水、ポタリポタリと染みてくる孤独のなりの悪さ、気まずさ、申し訳なさ。そして、不幸のドン底に落ちた、気味の悪さ。もし、今、これを読んでいる人が孤独のうねりの中にいるのなら、聞いてほしい。”孤独は忘れえる”ということを。自分は、長い間、この孤独という、存在否定のうねりの中で生活してきた。自ら、これを孤独の産物だと、言い張る勇気が持てたのは、最近である。大学をでてアラフィフになる、今日まで、ずっと孤独に悩んできた。

どこにいてもダメだった。会社にいても、友達といても、一人部屋に引きこもっても孤独にさいなまされてきた。実際の生活はというと、ほぼ破綻である。反社会勢力のような、様相を醸し出している時期もあった。そのたびに、社会との隔たりに悩み、自分を疑い続けた。無性に違う世界に憧れ、他人を羨み、

嫉妬していた。基本的にはネガティブな人間の様相に似ているようで、変に気取って能天気な陽気さを醸し出し、自分を偽っていた。

”ナイーブな性格のせいさ”と他人に恭順しては、気取った感じに接するが、人は、妙におっかながって、僕を遠ざけた。しかし、自分の意思の伝達能力の凛々しさなさに、きっと、なんだか不思議な要因でもあるのかと、意識している自分にむかつき、怒っていた。

どこにいてもである、ある種の自分の顔に何かついているのかと、にらまれたり、顔を合わすのを避けられたり、”きらわれてる・・”という感じの嫌な微笑みが消えなかった。

嫌なフィーリングの中身をほじくり返しても

”うっとうしい”という、答えしか出なかった。やさしい感じの心遣いまでもが、自分への当てつけだと決めつけて、自信のほどをちらつかせると、相手は冷めていき、また嫌われた。なのに、自分を可愛がって欲しいと簡単に思ってしまう、自意識の変な顔の向き合い方に、人は唯一、笑っていた。常識が一旦、

僕の心を疑い出すと、疑心暗鬼の言葉どうり

、世にも恐ろしいことを想像してしまう。だから、思ったことを正直に相手に伝えると、絶句されたりもした。もどかしさと感じ入りの憧れに、会話のテンポも妙に人とずれていき、しまいには、人の言うことの80%以上を聞きよがった人の打ち解けのためのテクニックのように聞き分けて、期待以上の答えを求めて、考えて、失敗するという作業の繰り返しだった。値しない気持ちの中身を探るためにあらゆる方法を試した。人の気配を読むための仕草の研究や、人のお利巧なポーズのマネなど、試行錯誤は続いた。意味のない張り合いの中に押し出され、自分には勝ち目のない争いに駆り立てられ、一生を台無しにするかもしれない危険な賭けに出たこともあった。一か八かなんて、隣人の感情を逆なでするような気味の悪い行為も平気に思うくらい、

人格の中の理性も吹き飛んで、心が壊れていた。しかし、どうあがいても、”居場所がなかった”としか言いようのない、情けなさだった。あまつさえ、死にたいしても、まともに向き合おうとしてしまった。唯一の無碍な後悔の試みである。例え、死に何か意味があるとしても、誰とも共有できない気持ちである。”死ぬってどんな気持ち?”て言われて、答えれるわけもないのに、必死に考えつづけた。”孤独には言い訳さえも、醜い感情のあがきがあって、ひたすら、その血潮の類を見届ける義務がある。”となんだか、高みを帯びた、人の類の上からの境地で、人を見下すような感じの露骨さもあって、なんだか、自分が自分じゃないみたいな気にさえ、なったこともある。言葉が台無しになるという感覚のブレーキとして、心からの言葉の感じ方に嘘ついて逃がしてしまう、変な特性の感受性というべき、自分の成長の無さに、自分がほどけて、自分じゃ無いような、自分の本気のなさに、首をかしげて嘆いたふりをした。要するに、自得意識の惨憺たる結果、高じて自分が得意げに話していないと気が済まない程、

気分が高揚していないと、自分じゃないみたいな、勤しみの感覚があった。毎日、これである。自他ともに認める、ナルシストのテイストで歩く、自分自身がどう映っているか、

そればかり気にしていた。”人とは変なようで、そんなに変じゃない”と、もっぱら、期待している以上の心象はないに等しい、いわゆる何と思ってない人の感じが、嫌に自分の孤独感を煽り、行動のすべてを見比べられているような、錯覚に陥っていた。しかし、僕はついに気付けたのである。存在する自分に対して、幾ばくかの気負いが感じられて、人がそれに衝動的にいきりだすとき、妙に”自分は見られているな”と意識すると、お互い

切磋琢磨のなかに、孤独の融和のような、微妙な駆け引きを感じるとき、実に、実際は嫌なもんである。自分のペースでやりたいのに妙に他人に意識される瞬間。しかし、それはそれで、お互いの意識の処理として、自意識の我慢という、一人の孤独にありがちな、緩慢さは消えて、お互いの張り合いになる。その部分をどうとらえるかにより、多少の孤独はなきものになりえる。結果、どちらが頑張っているかの評価を知る。周りはどういう反応を示すか?それは、奥の心のはかない心の孤独に隠して離しておけばいい。要するに、結果は気にせず、張り合える人を探せばいいと思うのである。励まされているということに照れないで頑張るのである。そして、お互いの認識のなかの、自分らしさの在り方に注視して、一層の努力を重ねていくことで、孤独をいつの間にか、放り投げて、今のこの瞬間に集中できているように思えるようになったのだ。期待以上の価値観の共有感として、

相手をたたえて、努力に感謝する。だって、自分を必要以上に追い込んで、さらなる高みに押し込んでくれるからである。きっと、僕の想像の孤独は、いくつかの展開を兼ねて、

いつしか、僕の前から消えるだろう。だから、これを呼んでくださった人も、頑張って、張り切りに会う、相手を見つけて、頑張りましょう!それが、いつかあなたの貴重な人間であることに気付いてください。

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「孤独の楽な忘れ方」 竹内昴 @tomo-korn

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