私が見ているあなたの手紙

らきむぼん/間間闇

私が見ているあなたの手紙

 その手紙が、俺のアパートの郵便受けに届き始めたのは、ある月曜のことだった。飾り気のない白い封筒。宛名もなければ、差出人の名もない。切手すら貼られていないそれは、何者かが直接投函したことを示唆していた。俺は自室に戻ると、蚤の市で手に入れた猫脚のベッドに腰掛け、便箋を開いた。すると、それまで意識していなかったアパートのかすかな物音が、まるで俺の静寂を待っていたかのように耳に届き始めた。この古い建物は、俺の体重で軋む床と同じように、絶えずどこかで密やかな音を立てているのだ。


 最初の日に印刷されていたのは、明朝体の冷たいほどに無機質な一文だった。


『暗い部屋で泣いている子供の声を聴く母親』


 「暗い部屋で泣いている」のは、子供か、それとも母親か。俺は眉をひそめた。後者の解釈は、母親が暗闇で泣きながら、幻聴を聴いている姿を想起させる。壁一枚隔てた隣室から、ときおり赤ん坊のむずかるような声が聞こえてくるせいか、その情景は妙に現実味を帯びていた。


 火曜日の手紙も、同様に不気味な問いを投げかけてきた。


『望遠鏡で見る少女のいる家』


 少女が家の中から望遠鏡でこちらを見ているのか、それとも俺が少女のいる家をのぞいていると、何者かが指摘しているのか。俺はまるで呪われたように窓辺に駆け寄り、カーテンの隙間から向かいのアパートを窺った。無数の窓が、こちらを睨むいくつもの眼のように見えた。


 水曜日のそれは、死の匂いをまとっていた。


『庭で死んだ妻の写真を撮る男』


 一瞬、浮かんだのは感傷的な光景だった。男が庭で、今は亡き妻の写真を撮っている。

 だが、すぐに別の解釈が思考を侵食する。もし、庭で死んだのが「妻の写真を撮る男」の方だとしたら……? その奇妙なイメージに、思考がわずかに揺れる。

 ――いや、違う。

 最もおぞましい解釈が、まるで口を開けて待っていた。これは「庭で死んだ妻」……その亡骸そのものを、男が撮影している姿だ。

 その倒錯的な情景をはっきりと想像してしまい、俺は胃の腑が凍てつくのを感じた。


 そして木曜日。差出人の異常性が、より鮮明な輪郭を結んだ。


『血に濡れた手紙を書く男』


 血に濡れているのは、この便箋自体か、それともこれを書いている男の全身か。俺の思考は二つの悍ましい光景のあいだを往復した。ふと、俺は自分の両手を見下ろした。もちろん、そこには血濡れた手紙などない。だが、鼻腔の奥に、錆びた鉄のような幻臭がこびりついて離れない気がした。現実の外で起きているはずの惨劇が、紙一枚を媒介にして、この部屋の空気までをも侵し始めている。


 俺の意識は、もはやこの部屋の内に留まってはいなかった。それは蜘蛛の糸のように部屋の隅々から伸び出し、ドアの外の気配を、向かいの窓の闇を、廊下を往復する靴音の主を探っていた。


 そして金曜日。この日届いた一枚が、俺を決定的に追い詰めた。


『鍵が開いている部屋の窓』


 ――窓だ。

 俺は思わず部屋の唯一の窓に駆け寄った。安っぽいクレセント錠に指をかける。……固い。しっかりと施錠されていた。安堵のため息が漏れ、その場にへたり込みそうになる。差出人の目的は何なのか。ただの悪趣味な悪戯か、あるいは何かの脅しのつもりか。

 だが、待て。これまでの手紙は、いつも多義的だった。一つの意味に安堵したとき、必ずもう一つの、より悪質な解釈が隠れていたではないか。

 思考がそこに行き着いた瞬間、心臓が氷の手に掴まれたように冷えた。『鍵が開いている部屋』の、『窓』。もし、そう読んだら? 窓ではなく、部屋そのものの鍵が。玄関の、鍵が――。

 俺の視線は、恐怖に引きつりながら、ゆっくりと玄関へと向かった。

 その、瞬間だった。

 けたたましくインターホンが鳴り響いたのは。

 びくりと全身を震わせ、俺は玄関へ駆け寄った。最悪の予感を抱いたまま、震える手でドアノブに触れる。……何の抵抗もなく、回った。ゆっくりと、ドアが数センチ開いた。

 俺は悲鳴を飲み込み、衝動的にドアを閉め、乱暴に鍵をかけた。そして、恐る恐るドアスコープに片目を押し当てた。

 廊下には、誰もいなかった。

 安堵のため息が漏れかけた、そのとき。視界の隅、ドアの下部のスリットから、白いものがするりと差し込まれるのが見えた。――二枚目の、手紙。


 俺は息を殺し、震える手でそれを拾い上げ、便箋を開いた。

 そこに記されていた最後の一文が、これまで繰り返してきた俺の思考のすべてを停止させた。


『手遅れなあなたが見るベッドの下の女』

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