菌をたべるものたち

火之元 ノヒト

菌をたべるものたち

 ​エヌ博士は、モニターに映る光景に満足のため息をついた。半透明の生き物たちが、滑るように地表を移動している。青白い光を放つ菌を見つければ覆いかぶさって吸収し、体内の栄養が満ちれば白い粘菌のコロニーで静かに分裂する。危険な黒い水を検知すれば、一斉に逆方向へ逃げていく。


 ​ここは、人類が捨てた星。彼の研究対象である『採菌体』は、この星の唯一の支配者だった。


 ​彼らに感情はない。知性もない。あるのは、体内に刻み込まれた数種類の衝動だけだ。危険を避けろ。栄養を摂れ。仲間と適度な距離を保て。そして増えろ。ただそれだけの単純な命令が、驚くほど調和のとれた社会を形成していた。


​「完璧だ」


 ​博士は呟いた。争いも、嫉妬も、芸術も、哲学もない。無駄なものは何一つない。故郷の星で今日も繰り返されているであろう、複雑で非効率な人間たちの営みを思うと、この惑星こそが理想郷に思えた。問題はいつも、心という厄介な代物なのだ。


 ​ある日のこと、博士は退屈しのぎに、ささやかな実験を思いついた。完璧な調和に、ほんの少しだけノイズを混ぜてみたらどうなるだろう。彼は観測ステーションのコンソールを操作し、惑星全域に微弱な電波を発信した。採菌体の行動プログラムに、新しい衝動を一つだけ追加するためだ。


 ​それは、全く無意味な命令だった。


『赤い石を見つけたら、コロニーの中央へ運べ』


 ​変化はすぐに現れた。栄養菌を吸収する合間に、採菌体たちは地面に転がる赤い石を拾い上げ、律儀にコロニーの中央へと運び始めた。栄養摂取の効率はわずかに落ちたが、社会が崩壊するほどの変化ではない。博士は、まあこんなものか、と観察を続けた。


 ​何日か経つと、コロニーの中央には、赤い石で見事な円錐形の山が築かれていた。採菌体たちは、そこに石を置くと、また次の石を探しに行く。


 ​やがて、さらに奇妙な光景が生まれた。採菌体たちには「仲間と近づきたい」という衝動と、「仲間と密集しすぎたくない」という衝動が両方備わっている。その結果、彼らは石の山を中心にして、つかず離れずの距離を保ちながら、ゆっくりと円を描いて周回し始めたのだ。


 ​モニターに映るその光景は、まるで古代の祭壇を囲んで祈りを捧げる信者たちのようだった。青白い菌類の光に照らされて、無数の影が荘厳な円舞を踊っている。


 ​博士は息をのんだ。


「まさか……」


 ​彼らは、無意味な行動の先に、『意味』を見つけてしまったというのか。非合理な行為の繰り返しが、文化や信仰の萌芽を生んだというのか。これは世紀の大発見かもしれない。博士は興奮し、震える手で記録装置に言葉を打ち込み始めた。

 

​『非合理性の獲得。それは、知的生命への第一歩である。彼らはついに、ただ生きるだけの存在から……』


 ​その時だった。


 ​コロニーの中央で、ひときわ大きな閃光が走った。赤い石の山が、まばゆい光と熱を放って崩壊したのだ。博士はあとになって知った。その星の赤い石は、特定の密度で積み上げられると、臨界に達して核融合反応を起こす特殊な鉱物だったのである。


 ​採菌体のコロニーは、その大半が蒸発し、消滅した。


 ​博士は呆然とモニターを見つめていた。しかし、生き残った採菌体たちの行動に変化はなかった。彼らは何事もなかったかのように、黒焦げになった地面の中から、わずかに光る栄養菌を探し出し、黙々と吸収し始めた。


 ​彼らにとって、それは悲劇ではなかった。仲間を失ったという認識さえない。ただ、実行すべき衝動のリストから、「赤い石を運ぶ」という項目が、その対象物の消滅によって自動的に消去された。それだけのことなのだ。


 ​モニターの中では、再び、完璧に合理的で、完璧に無駄のない社会活動が再開されていた。博士は、そのあまりに静かな光景から、もう目を離すことができなかった。


 ◇


 ​あの一件以来、エヌ博士は眠れない夜を過ごしていた。モニターの中で、採菌体たちの社会は完璧な日常を取り戻している。大災害の痕跡すら、新たな菌類の繁茂がゆっくりと覆い隠しつつあった。


 ​彼らは何も学ばなかった。何も記憶していなかった。博士にとって、その事実が何よりも恐ろしかった。あの荘厳で、愚かで、美しい儀式は、単なるバグの引き起こした事故に過ぎなかったのだ。


​「いや、まだだ。一度だけの事故で終わらせてはいけない」


 ​博士は憑かれたようにコンソールに向かった。彼はもう一度、あの「意味」の萌芽が見たかった。今度はもっと慎重に、もっと根源的な衝動を加えてみよう。彼は新しい電波を発信した。


​『仲間が消滅した場所で、一定時間、活動を停止せよ』


 ​博士が「追悼」と名付けた命令だ。悲しみという感情の、ごく原始的な形を期待して。


 ​採菌体たちは、命令に忠実に従った。爆心地の近くを通りかかると、ぴたりと動きを止める。そして設定された時間が過ぎると、何事もなかったかのように再び動き出す。ただそれだけだった。その姿に、博士が期待したような哀愁はひとかけらも感じられない。まるで、製造ラインの機械が定期メンテナンスで一時停止しているかのようだった。


​「違う、これじゃない!」


 ​博士は焦った。彼はさらに過激な衝動を追加した。


「栄養を見つけたら、他の個体より先に奪い取れ」。

 

 競争の概念を植え付けようとしたのだ。


 ​しかし、結果は奇妙なものだった。ある採菌体が栄養菌に覆いかぶさろうとすると、後から来た別の個体がその上に体を重ねる。すると、先に来ていた個体は「過密回避」の衝動に従って、するりと身を引いてしまうのだ。そこには争いも、怒りも生まれない。ただ、譲り合いのような、効率の悪い食事風景が展開されるだけだった。


 ​完璧すぎるシステムは、博士が投げ込む非合理性という名の石を、ことごとく無力化してしまう。博士は、巨大なゼリーを相手に拳を振り上げているような無力感に襲われた。彼はついに、すべての実験を諦め、コンソールの電源を落とした。


 ​数週間が過ぎた。博士が絶望の中で惰性のようにモニターを眺めていた、その時だった。彼は、ある微かな変化に気がついた。


 ​爆心地で「追悼」の停止を行う採菌体の一部が、停止中に体から小さな、光る粒を地面に残していくのだ。最初は排泄物か何かだと思った。しかし、その光は数日間も消えることがない。


 ​博士は急いでステーションの分析装置を起動し、その粒のデータを収集した。結果を見て、彼は息をのんだ。それは、彼らの遺伝情報に酷似した、極めて複雑な高分子体だった。そして、爆心地の特殊な放射線を浴びることでしか、その構造を維持できない物質だった。


 ​博士は愕然とした。


 彼らは、「追悼」していたのではなかった。博士の与えた「停止せよ」という曖昧な命令を、彼ら自身の生存戦略に組み込んで、全く別の形で実行していたのだ。


​『危険な場所では、その危険情報を物質として記録し、後続の仲間に伝えよ』


 ​光る粒は、墓標ではなかった。それは、地図上に立てられた警告のピンだった。博士が夢想した感傷的な「心」ではなく、彼らはもっと実用的で、もっと生命の本質に近い「記憶」の外部記録システムを、自ら生み出していたのだ。


 ​博士は、ゆっくりと椅子にもたれかかった。彼は彼らに、人間の作った物差しで「意味」を与えようとしていた。しかし彼らは、人間の理解など及ばぬ場所で、彼ら自身の論理で、新しい世界の意味を構築し始めていた。


 ​モニターの中では、無数の光る粒が、まるで夜空の星のように爆心地を彩っていた。そして、生き残った採菌体たちは、その美しい星図を決して踏み入れることなく、静かに、そして合理的に迂回していく。


 ​博士は、もう二度とコンソールに触れることはなかった。神になろうとした男は、その日、ようやく真の観客になることができたのである。

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