雪の夢の館
すみす
第1話
会社を出たのは、終電ぎりぎり。
冷たい風に頬を打たれながら、紗季は心のどこかで思っていた。
――どこか、遠くに行きたい。
誰も知らない、眠ることさえ許される場所へ。
その夜、ベッドに身を沈めると、空気がふっと変わった。
まぶたの裏に、淡い光が差し込む。
目を開けると、そこは雪のように白い回廊だった。
天井には無数のアーチが連なり、氷でできた柱が音もなくきらめいている。
壁の間には琥珀色の灯が浮かび、
その光が雪片に反射して、ゆるやかな波のように広がっていた。
足元には、透き通る石の床。
靴音が吸い込まれるように消え、
遠くから水の音と鈴の音が重なって聞こえた。
「ようこそ、夢の館へ」
声の方を向くと、銀糸の衣をまとった青年が立っていた。
彼の瞳は淡く光り、夜の星を閉じ込めたようだった。
「ここでは、時間が止まっています。
あなたの心が静まるまで、どうかごゆっくり。」
導かれるまま、紗季は回廊を歩いた。
廊下の先には、広大な中庭が広がっている。
黒曜石の噴水から透明な水が流れ、
水面には雪の花びらが浮かんでいた。
見上げれば、空は群青と銀が溶け合ったような光。
遠くの塔には鐘があり、風が通るたびにかすかに鳴った。
「きれい……」
紗季がつぶやくと、青年は微笑んだ。
「あなたの心が、こうして形を作っているのです」
その言葉の意味を理解する前に、
館の奥から柔らかな風が吹いた。
香木と雪の香りが混じり、遠くで音楽のような調べが流れてくる。
青年は一枚の扉を開けた。
そこには、大きな寝台があった。
天蓋はレースのように薄く、
シーツは雪より白く、羽のように軽やか。
枕の上には金糸の刺繍で星が描かれている。
窓から差し込む光が、まるで夢の名残のように淡く揺れた。
「ここで眠れば、あなたは現の世界に帰ります」
青年の声は、雪解けのようにやさしかった。
「また、来てもいい?」
紗季の問いに、彼は静かに頷いた。
「ええ。雪の夜に、心が疲れたら――
この館は、あなたを待っています。」
紗季はベッドに身を横たえた。
布の感触は羽のようで、まぶたが重くなる。
視界の端で、青年の姿がゆっくりと滲んだ。
「おやすみなさい、夢の旅人」
その声を最後に、光が遠のいた。
目を覚ますと、そこはいつもの部屋。
薄いカーテン越しに、朝の雪が降っていた。
机の上には、昨夜点けたはずのないキャンドルの跡。
窓の外には、ひときわ白い雪片がゆっくりと落ちてきた。
目の縁からすっーと涙が伝った。
雪の夢の館 すみす @shait
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