八月、田舎の海辺で出会ったシャドー・ピープルさんと、一生忘れられない恋をした。

目玉木 明助

廻り廻った縁の先で

 どこまでも続く坂道を、お古の赤い自転車でかっ飛ばす。


「…………」


 生垣から「水はまだですか」と顔をのぞかせる、偽物のハイビスカスみたいにまぬけな花。いちいち耳をすまさなくても、そんじょそこらから聞こえてくる、うしがえるのフルコーラス。ものすごいスピードで後ろに流れてゆく景色を綺麗だと思えるのも、最初だけだ。


 青臭い畦道を抜けたら、続けざまに、湿っぽい魚の匂いが私の体をぬめり、と撫でていった。


 ハンドルを握る手に力を込め、自然界隈のみんなが見たら手を叩いて大喜びしそうな井戸の前を、私は淡々と急カーブする。かつて秀治郎おじさんが町内で乗り回していたというこの自転車からは、すっかり塗装が剝がれ落ちてしまっていたけれど、よおく目を凝らしてみれば、今は廃校になったらしい中学校のステッカーの裏側に、よれよれのマッキーで「しゅうじろお さんじょう」と書かれてあるのが分かった。ああ悲しいかな、無邪気な少年から、小太りのフリーターへと変わり果てた叔父の惨状……。


 たいして面白くもない脳内ブラックジョークに、ペダルがぎし、と悲鳴を上げるように軋んだ気がした。


 それはさかのぼること一ヶ月前、プールに入っても落ちなさそうなプチプラコスメのサイトを探していた時のことだった。ゴミ箱の中でぐしゃぐしゃに丸められた、私の特級呪物(つまり、成績表)が、魔の手によってついに発見されてしまったのは。


 率直に「終わった」と思うとともに、体じゅうに冷や汗が流れていくのを感じた。もうじき夏休みに突入する頃というのに、いつまで経ってもテストの結果について聞かれなかったせいもあってか、私はすっかり油断していたのだ。


 神経質そうな小さい目をさらに三角に吊り上げた父は、嘆くように私を責めた。ウチの家系はみんな頭が良いのにお前は、と。


 この多様性の時代に似つかわしくない父の一言にちょっとイライラしつつも、まるでみにくいアヒルの子のような自分に、みじめさを覚えずにはいられなかった。国語はいくらかマシなほうだったけど、理数科目なんか特に、目も覆いたくなるようなひどい数値を叩き出していた。


「お前は……」


 続く言葉がある程度予想でき、身構えた。だって、自分がブスかどうかはともかく、かつてないほどしぼんだ五角形から、まず間違いなくバカの部類に入るだろうから、「東大へ行け」なんて言われるんじゃないかと思ったのだ。


 私はほとんど父の説教そっちのけで、なんでもするから塾ざんまいだけは勘弁してください、と切に願った。


「田舎へ行けっ!」


 気づいた時にはもう、私は首がちぎれそうになるくらい、勢いよく頷いていた。

 結局、自分の浅はかさについては、後になってうんと知ることになるんだけど。



 とにかく、田舎ってひどい。気軽に遊べるようなゲームはもちろん、このくそ暑いのにクーラーすら部屋に常備されてないうえに、近くに遊べるようなところもないし……もはや地獄だ。監禁だ。


 本当はもっと、JCらしいキラキラした思い出を作りたかった。実本さねもとあかり、14歳の夏は、こんな限界集落に捧げるためにあるんじゃないのになあ。



 たとえば、これ。「今の奴らはまったく、なっとらん」……おじいちゃんの口癖だった。おじいちゃんは何かにつけて、私たち若者がスマホをいじる仕草をわざとらしく真似てみせる。そう、さっきもそうだった。私はただ、茶の間でごろ寝しながらルーティンのショート動画を見ていただけなのに、命の次に大事なスマホまで没収されちゃった。


 スマホがないままじゃ永遠に、すがっちやまみりんたちともLINEできないし、推しのホラゲー実況にもコメントできない。


 ただでさえ娯楽の少ないこの村で、私はこれから一体何に興じればいいというのか。


 鉛のように重い自転車を捨て去るように放った私は、一直線に海へと駆け出していた。もう、あんな陰気な家になんか帰ってやらないぞという怨念を込めて。


「……このぉっ、ばかやろーっ!」


 自分でも、こんなに大きな声が出るとは思っていなかったので少しびっくりする。あまりの勢いにサンダルが脱げそうになったが、構わず続けた。


「わたしの、せいしゅ〜ん! か・え・せ〜っっっ!」


 喉が枯れるまで、ありったけの声量で叫びながら、ギューッと、麦わら帽子を頭に押し付けてやった。


…………もちろん、水平線の向こう側から「ごめんね〜っ」とか、「いいよ〜っ」なんて返事が聞こえてくるはずもない。

 灼熱の太陽が直接、首すじに照りついて、


「ばっかみたい……」と、急激に我に返ったところで、私の長く重いため息は、砂浜へと吸い込まれていくのだった。


 今日みたいな炎天下に限って、日焼け止めを塗って来なかったことを激しく後悔する。叫んだ次は、剥き出しの二の腕を隠すことに必死になった。


 それにしても、神様ってほんとにイジワルだ。こんなつまらないことになるならせめて、ひと夏の恋でもさせてもらえたら良かったのに。




 そのときだった。生温かく湿った空気に包まれると、ぐらりと視界が揺れたような気がした。夏休み前に理科で、たぶん習った、シンキロウって現象が、真っ先に頭に浮かび上がる。境目が少しずつ曖昧になって、わからなくなる、あの感じ……


 ワンピース越しに伝わってくるのは、透き通るように冷たい水の感触。気づけば私は、その場に尻もちをついていたようだった。


「――大丈夫?」


「は、はひ……」 


 小さく、息を飲んだ。これまで人がいた気配なんて一切なかったのに、いま、私に降り注がれているのは落ち着き払った低い声。それとは対照的に、思いっきり返事が上ずってしまったのが、ものすごく恥ずかしかった。


 だんだんと、私の顔に熱がこもっていくのが分かる。だって。だって。海辺でのガール・ミーツ・ボーイなんて、ロマンスの予感しかしないんだもん。淡い期待のようなものを胸に、私はゆっくりと、顔を上げる。


 麦わら帽子に付いた砂を払いながら、こちらに差し伸べられた手に――自分の右手を重ねようとしたのを、反射的に引っ込める。


「……シャドー・ピープルだっ…………⁉︎」


 目の前に現れた謎の青年は、なぜか異様に――影、が薄かったのだ。初対面にもかかわらず、昨日見たテレビのホラー特集で面白おかしく取り上げられていた怪異の名前を、うっかり、口走ってしまうくらいには。




 見晴るかすは白い砂浜、青い海。ほんのすこし面食らったような顔と、またもや腰を抜かした私……


 この時の私にはまだ、みじんも想像できていなかった。


 背景ごと時間の止まった、モノクロ写真みたいに全身灰色の彼と。

 一生忘れられない夏を、過ごすことになるなんて。


***


「聞いてよ、あのね、ひどいんだよ。うちのおじいちゃんたらね、服のセンスも最悪なの」


――海辺で運命的な出会いを果たした、あの日から。


 おにいさんは私のマシンガントークにも、いやな顔一つせず付き合ってくれている。


「上等な洋服の何がそんなに気に入らないのか、正直俺には理解できかねるけど」……おにいさんはこんなふうに前置きをしながら、呟いた。


「理由を教えてもらっても?」


……そんなの、決まってる。女優になったつもりで、私は思いっきり肩をすくませてみせた。


「ザ・お化けって感じでしょ? だから、イヤなの」


 私は、これでもか、という感じで唇を尖らせる。フリルの一つもついてないような真っ白のワンピースなんて、全然かわいくないもん……思ったら、なんだか無性に悔しくなってきて、のんきにはためくひだを力任せにつまんでやった。


「そうかな。せっかく似合っているのに勿体ない。あかりさんと出会ったとき、俺は君を、どこの令嬢だろうと思ったのに」


「なっ、」


 口もとを覆って優雅にほほ笑むおにいさんの声は、真剣そのものだった。


 うう、め、メロい……! 私は思わず、頭を抱えてうずくまった。彼の言動はいちいち、恋に飢えた女子中学生を躍らせる。


 おにいさんがこうして海辺に現れるのに、決まった時間みたいなものはないようで、私がふらっとここへ立ち寄るたびに、気づいたら隣にいる、ということがほとんどだった。だからこんなふうに、不意打ちを食らうことも少なくない。


「そ、そんなお世辞言われたって……」


「本心だとも。君はもう少し、自分に自信を持つべきだ」


「あぅ……」


 ああそんな、小さい子のわがままに付き合うような、慈愛に満ちた瞳でまっすぐ見つめられると、ますます何も言えなくなってしまう。


「俺からしてみれば、君みたいな女の子って、眩しすぎるくらい輝いて見えるんだよ」


 ドラマでしか聞いたことのないようなくさいセリフに、ついつい後ずさってしまう私。おにいさんは不思議そうに唇をゆるめる。


 全身灰色で気づきにくかったけど、おにいさんはなかなかの美貌の持ち主だと思う。特にあの、切れ長の涼しげな目もとときれいな鼻筋なんか、さながら月9俳優並みではないか。


 仕立ては良いけど古めかしいスーツだって、よく目を凝らしてみると舞台衣装みたいで。


……っていうか、真夏にスーツって、熱くないのかな。照れ隠しみたいに、ふと、そんなことが、頭をかすめていった。

私は思う。この人もこの人で、ある意味センスが終わっているのかもしれない――と。


だって、よく言うじゃないか。TPOには配慮しろ、的な。


「……? 俺の顔に、穴でも空いているのかい?」


「あー、いや! そういうわけじゃ」


 それ以前に、どうしてそんな、石像みたいに全身灰色なのかのほうが気になるけどね。バレないよう、心の中で苦笑しながら、私はおにいさんをまっすぐ見据えた。

 そうして。まるで他人事のように、改めて思う。私はこの人の素性を全く知らないんだなあと。何か私に知られたらマズイ事情でもあるのか、この前聞いたら、名前すらはぐらかされてしまった。


 明らかに、線引きされている――そう結論づけたら、なんだか少しだけ切なくなってきてしまって。


 おにいさんは相変わらず、穏やかなさざなみに耳を傾けながら、私の隣に立っていた。想像をかきたてるような、謎めいた雰囲気みたいなものが彼にあるのはたしかだけど、その先に辿り着きたいと願うのは、罪だろうか。


 思ったら、いてもたってもいられず、私は砂をいじる手を止め、パッ、と振り返った。


 おにいさんを見ていると、すこし胸が熱くなるのも、変な好奇心に突き動かされるのも、積極的になっちゃうのも、ぜんぶ。ぜんぶ、この夏のせいにしてしまえばいい。


 私は思い切って、彼に尋ねてみることにした。


「おにいさんはいったい、何者なの? どうして、私の前に現れたの?」


 やっぱり幽霊とか怪異かもしれない――夕焼けに体を透かされたおにいさんが、かすかに笑った。


「何者でもないさ。君はこの前、俺のことを影人間と言ったけど、それもあながち間違っていないのかもしれない……」


 彼はどこかずっと遠くを見ながら、意味ありげに頬をゆるめていた。


「それから、君のおじいさんのことだけれど」


……あーあ。また、はぐらかされちゃったなあ。私が小さくうなだれるのなんか気にも留めない様子で、おにいさんは砂浜の上で軽やかに翻った。


「一度、腹を割って話してみるといいよ」


 名案と言わんばかりにおにいさんの口から出た話し合いという言葉に、さすがの私も肩透かしを食らってしまった。


「えーっ、なにそれ。それじゃ私が、おじいちゃんともっと仲良くなりたくて相談した、けなげな孫にされちゃってるみたい。逆だよ、逆。どうしたら、ウザ絡みされないかなーって聞いてるんだよ。それにおにいさん、なんかものすっごく、ありふれたこと言うし……」


 ぷくーっと頬を膨らませると、おにいさんはくっくと体を揺らして笑い始めた。あくまで自然体のようなその仕草に、私はちょっとドキッとする。


「どうしてだろうね。俺も昔、そういう困った人に振り回されていたような気がしてならないんだ……」


 楽しいのか、悲しいのか。おにいさんの目には、溢れんばかりの涙が溜まっていた。



***


コードネーム:ルミナス、応答せよ、応答せよ!ただいま周辺にマトの気配はありません!決行は◯七三五、突入!突入ー‼︎…………と、まあこんな具合で脳内エージェントごっこを盛大に繰り広げつつも、私はいたってすまし顔、絵に描いたような抜き足差し足忍び足で、縁側を目指していた。


『一度、腹を割って話してみるといいよ』


……おにいさんはああ言ってたけど、頑固者で変わり者なウチのおじいちゃんに、そんな甘っちょろい考えが通用するはずがない。


 外はすっかり暗かった。だからこそ、こっぴどく叱られることを覚悟のうえで、物音を立てず忍び込む作戦を決行中というわけだ。


「おい、あかり!」


 お勝手のほうからいきなり大きな声をかけられて、反射的にびくりと肩が跳ね上がった。振り返らなくたって、そこに仁王立ちのおじいちゃんが立っていることくらい分かりきっていた。


「あ、あー、おじいちゃん? あのね、違うからね。別に、若気の至りで夜遊びしてたとかじゃないから。ただぁ、なんていうかぁ、これにはホントに、ちょっとホントにいろんな複雑な訳があってですね……」


 滝汗をかき、口をゴニョゴニョさせながら人差し指をくっつけたり離したりする私を、鷲のような顔立ちがじっと睨んでいた。あちゃー、これはマズイかも。コードネーム:ルミナスこと実本あかりに与えられたミッションは、言わずもがな失敗に終わりそうだった。おじいちゃんの眉間にみるみるシワが寄っていったのを、私はけっして見逃さなかった。


 もうダメだ。カミナリが落ちる――なかばあきらめるようにして、両目をギュッと瞑る。


「なんだ、帰っていたなら返事をせんか」


 思ったより何倍もあっけらかんとした声に、私は慌てて、え、なんで⁈と言いたくなるのをグッと堪えた。


 不機嫌そうではあるけど、怒気の込もっていない声は、私に説教する時のそれじゃない。というより、なんで侵入したのがバレなかったんだろう。まるで、今のおじいちゃんが菩薩か何かに見えてくる……頭にたくさんハテナが浮かんだけど、続くおじいちゃんの一言のほうが、私の予想をはるかに上回ることになった。


 ぶっきらぼうに、ずいっと差し出された大皿。私は思いっきり目をこする。


「ほれ。わざわざすいかを切ってやったんだから、たんと食え」



 ひょっとすると、海辺のおにいさんの正体が実は魔法使いだったってことはないだろうか。魔法使いじゃないなら、それこそ夏限定の妖精みたいな……いやいやまさか、そんな、おとぎ話じゃあるまいし? さすがに? と、一人ボケツッコミしつつも、いかにも〜って感じのメルヘンっぽいことを普通に考えちゃうくらいには、今目の前にいるおじいちゃんは、ハッキリ言って、様子がおかしかった。


 でもまあ。とりあえず、


「あ、りがとう……?」


 お勝手に消えてゆく背中を、私は信じられない気持ちで見つめていた。


 そのまま、たらいに貯まった水をぼーっと眺めていると、縁側にスイカの種を飛ばす私を、おじいちゃんがきびきびと手招きするのが見えた。



 聞けば、自分は足腰が悪いから、代わりにご先祖さまに供えるスイカを持っていけ、だって。


 渡された(ほぼ投げてよこされた)スイカがズシン、と床に沈むたび、危うく腕を持っていかれそうになる。これじゃ、両手に花ならぬ両手に大玉スイカだ。


 改心したのかと思わせといて、私に重たいスイカを運ばせるなんて……結局、最初からこれが目的だったんじゃん!


 めんどくさっ、という私の不満の呟きは、おじいちゃんの地獄耳にももちろん入っていたのか、


「まったく、最近の奴ときたら貧弱でかなわん」なんて、また、いつもの決めゼリフを聞かされるハメになっちゃった。


***


「ねえおじいちゃん、どうしてウチのきゅうりの馬って一頭多いの?」


 お盆のために安西家の祭壇に飾られた遺影は八つしかない。けれど、ご先祖さまの魂を運ぶきゅうりの馬は、どういうわけか九頭もいるのだ。


「仏様に向かって指を差すんじゃない。それは…………ああ、予備の馬だ」


「予備? なんのために?」


「なぜとはなんだ。事態が常に想像の範疇におさまるとは限らないだろう。その馬だって、来る途中で事故に遭うかもしれん。そもそも脚が遅い個体がいるかもしれん」


「ふんふん、ほへー」


「だからこうやって、予期せぬ事態に備えて…………おい、話は最後まで聞け! この馬鹿者っ!」


 話半分で枝毛探しをしていた私の頭を、おじいちゃんがボカっ!と殴る。木魚みたいに軽快な音がした。


「いたい! パワハラだっ!」


「うるさい! お前から聞いてきたんだろうがっ」


 訴えてやるー!という私の悲痛な叫びは、ズンズン歩くおじいちゃんの足音にかき消されてしまった。



***


 昨日、一昨日、と、一日じゅう雨が降っていたせいで、しばらくここには来れなかったから、おにいさんと会うのもなんだか久しぶりのような気がする。相変わらず人気のないビーチに私が片手をあげると、おにいさんがパッとこっちを振り返った。


「やあ、あかりさん。仲直り作戦は上手くいったかい?」


「んーん、全然! ゲンコツされた〜っ」


 私の報告におにいさんは、ごめんごめん、とたいして悪びれもせずお腹を抱えた。


「あはは、これはなかなか手強いぞ」


「もう。笑い事じゃないよー」


 これは完全な偏見だけど、おにいさんってなんだか、攻略難易度が高ければ高いほど燃えるタイプのプロゲーマーみたいだ。


「でも、私が友達のところに遊びに行くって言ったらね……」


 言いながら、私は手作りっぽいサコッシュの中に手を突っ込む。


「じゃーん! こんなのもらったんだ」


 ビー玉入りの、キンキンに冷えたお祭りの定番といえば。まるで、ソーダ水なんて生まれて初めて目にしました、とでも言いたげに、おにいさんは目を丸くしていた。


「おにいさんも飲まない?」


「ありがとう。でも、俺は遠慮しておくよ。なんせこの体だ」


 おにいさんはそんなふうに、冗談めかして灰色の体を指差してみせた。

 きっと、なんてことないような笑い方をされるって、そんなの分かっていたとはいえ、ちょっとだけ胸が痛んだ。


 しょげる私を見かねたおにいさんの薄い唇が、小さく動く。


「だから、俺の代わりにあかりさんが感想を教えてくれたら嬉しいな。実際には飲めずとも、雰囲気だけなら味わえるかもしれない」


「……そういうものかなあ」


「そういうものさ」


 歌うようにはにかむおにいさんを、ジト目が捉えた。


 透き通る波にラムネの瓶をかざす。瓶には宝石みたいな青が反射して、きらきら輝いていた。


 半信半疑で瓶の蓋を開けるとともに、


「…………んんっ⁈」


 渇いた喉を瞬時に潤していくラムネのすっきりとした爽快感。私は思わず、手を叩いて飛び上がっていた。


「どう?」


「口の中でしゅわしゅわはじけて、すっごく美味しい!」


「うんうん、それは何よりだ」


 ほとんど食い気味に答えたのに気づいて、かあっ、と顔が赤くなった私は、おにいさんからそそくさと距離をとった。でも、今まで飲んだラムネの中で一番美味しかったのは事実だ。


 ひと呼吸置いて、おにいさんが言う。


「話を聞いているかぎり、君のおじいさんはたしかに不器用なんだろうけど、こういういじらしいところがあるから、なんて言うのかな――憎めないんだよね」


 憎めないのはともかく、ウチのおじいちゃんって、いじらしい……の、かなあ? 


 いいや……


「そんなことないと思うよ。昨日もさあ、歴史の課題やってたら、謎に怒られたもん」


 再生紙でできたプリントにシャーペンを走らせていると、自分がスマホに4日も触っていないことにまず驚いた。スマホが早々に没収されたせいで、クーポンの期限を気にする必要もなくなったし、みんなのインスタを巡回する必要もなくなったし、減らないスクリーンタイムにうんざりする必要もなくなったし……ってあれ? 今のところ、いいことしか起きてないような……いやいや騙されてたまるかと、私はぶんぶん頭を振った。


 おじいちゃんの洗脳に、簡単に屈するわけにはいかないのだ。


 居間で新聞を読んでいたおじいちゃんに、ところでおじいちゃん、と、私はとっても素直な孫のように可愛く尋ねる。


「ペリーのフルネームってなんだっけ?」


 問題文はこう。『1853年、鎖国体制の日本を開国させるために、4隻の黒船を率いて浦賀に来航した人物の名前をフルネームで答えなさい。』……内心、シメシメと思う。だって、おじいちゃんがこの問題に答えられなかったら、スマホを触っていい口実ができるから。


「なんだ、そんなことも分からんのか」


 おじいちゃんはやっぱり、わざとらしくため息をついた後、しばらくの間、思い詰めたような顔をして顎に手を添えたまま固まっていた。


「……………………」


「ほらー、おじいちゃんも分かんないんじゃーん。ちょっとだけでいいから私のスマホ返してよ。調べるから」


「……マシュー」


「へっ?」


「マシュー・ペリーだ、馬鹿者」


 ぼーっとしていると、丸めた新聞紙で頭をコツンと叩かれた。


「暗記なんて誰でもできる。やるなら数学や理科をやれ」


 チラリと、誌面を覗く。難問厳選のナンプレには、数字が綺麗に敷き詰められていた。



「……っていうことがあってね?」


「なるほど。それで、君の目論見通りにはいかなかったわけだ」


 おにいさんは興味津々といった感じで、私の話を聞いていたけれど……私はむぅ、とほっぺたを膨らませ、つんのめって言ってやった。


「もうっ、おにいさんの分からず屋! 私は、おにいさんのフルネームも知りたいの」


「俺の? 君もずいぶんと物好きだな」


 おにいさんは自分がミステリアスな雰囲気を纏っているということに本気で自覚がないようで、きょとんと不思議そうに首を傾げていた。


「前にも聞かれたような気がするけど、どうしてそこまで固有名詞にこだわるんだい? 俺たちにとっては、名前なんてあってないようなものだよ。なにせ、その時その場所に合わせて変わっていくものなんだからね」


 さざなみ。おにいさんの口から唐突に発せられた"俺たち"という単語が若干気になったけど、私は負けじと続ける。


「そういうことを聞いてるんじゃないの。家に帰った時に、おにいさんとの思い出に名前がほしいから」


 だって、だって。


 いつか、こんな夏休みもあったっけ、って思い出したくなる日が来ても、おにいさんを型作る全部に名前がなかったら寂しいじゃんか。


「私は今、おにいさん自身に聞いてるよ」


 白波。一瞬、ほんの一瞬、おにいさんのくすんだ目の奥に光が宿ったような気がした。やっと目が合ったと思ったら、ゆっくり視線を逸らされちゃったけど。


「名前、か。俺もよく思い出せなくてね……まあ実際、昔の記憶を引き出せるあたり、君のおじいさんはかなり優秀な人なんだろう」


「んー、でも、本当の本当に頭がいいんだったらさ、マシュー・ペリーくらいは即答しようよって感じで……」って。あー、もう! だから、そういうことじゃないんだってば。おにいさんの巧妙な話術に乗せられそうになった、その時だった。波が一気に、引いてゆく。


 さっきまで穏やかだったのに、変だ。隣を見ればおにいさんは、心ここにあらずといった様子で、猛々しくうねる水面に向かって手を伸ばしていた。


「そ、うか……おれ、は…………」


 うわごとのように繰り返される言葉に、私は第六感的な何かを感じて、おにいさんを波から離そうとした。でも、それより先に。


「え、え、うそうそ…………っ?」


 どうっーーと、さらに大きく盛り上がった波に、隣にいたおにいさんだけが連れ去られた。


「だ、誰かぁっ! たすけ……」


 人を呼ぼうにも、おにいさんは私以外に見えていないんだから意味がない。


「どうしよ……」


 途方に暮れていたら、数メートル歩いた先の波打ち際に、おにいさんが打ち上げられているのが見えた。


 真っ先に「大丈夫?」と声をかけようとして、ハッとした。


 だいじょうぶ、なわけないよね。頭では理解していても、結局口だけの心配をしてしまう。


 私の手を、おにいさんが弱々しく握り返した。「あかりさん……」その薄い唇は、かすかに震えていた。


「俺の、本当の名前は……」


 瞬く間の、出来事だった。


 まるで、魔女の呪いから解き放たれた王子様みたいに、おにいさんのモノクロの体がセピアカラーに、セピアカラーが原色に、くっきり、ゆっくり移り変わっていった。


――よくセットされた、なびく漆黒の髪、海老茶色のスーツ、ほんのり紫がかった瞳が、私の視界に飛び込んでくる。急速に世界が色づいたような、それらの美しさに、息を飲む暇もなくて。


有馬ありま 秀太郎しゅうたろう


 その声は、どこまでも凛と響き渡っていた。


***



「コードネーム:マシュー。名前が長いからそう呼ばれていた……君のおかげで、色々思い出したよ」


「コードネームって…………おにいさんはやっぱり、エージェントとかスパイとか、そっち系の人だったってこと?」


 興味本位で尋ねると、(別に詰めたつもりなんてなかったのに)おにいさんは、バツが悪そうに押し黙ってしまった。


「ねえ、おにいさん」


 すがるように揺れる瞳が、私を捉える。


「……おにいさんとマシューさんだったら、どっちで呼ばれたい?」


 これはちょっと予想外だったのか、面食らったような表情を浮かべるおにいさん。


「……初めて会った時から、漠然と思っていたけど」


「うん」


「君は、素性も知れない男が怖くないのか……?」


 私はあえてなんにも言わないで、ただ、にかっと笑ってみせた。秘密主義のおにいさんと対等な存在になるためには、これくらいがちょうどいいのだ。


 砂浜に、足を放り投げる。


「おにいさんのほうこそ、もうちょっと自分に自信を持ったほうがいいんじゃない? それに――」


――やっぱりおにいさんの本名って、ちょっと長すぎるからさ。


 初めて会った時と、まるで立場が逆だなあ、と思う。なおも変わらず棒立ちのおにいさんに、私は手を差し伸べた。


「改めてよろしくね、マシューさん」



***



 畳の匂い。やっぱり9頭いるきゅうりの馬に背を向け、今はあの写真の中にいる祖母が若い頃に使っていたというドレッサーを、私はうっとりと見つめていた。


「おじいちゃんはさ、誰かに心を奪われたことってある?」


 くるりと振り向けば、心なしかあっけにとられているおじいちゃん。唇に薄付きのリップをのせていることは、もちろん内緒だ。


「……今度はなんだ、藪から棒に」


 どこか平静を装うように、新聞がペラリとめくられる音がした。


 なんでだと思うー、うふふー、と、私は鼻歌を歌いながら、上機嫌におじいちゃんのもとへと駆け寄っていく。


「おじいちゃんとおばあちゃんって、どんなふうに恋をしたのかなあって」


「なんだと。ガキのくせに、色気づきやがって」


「まぁまぁよいではないですか」


 おじいちゃんの機嫌を取りたい時は、恥を捨てて肩を揉む……ここ最近で覚えた秘技だ。


「さては、好きな男でもできたんだな。悪いこと言わないからやめておけ、よりにもよって、こんなじいさんばあさんしかいない村で……」


「がががっ、がっこうだよ! ガッコウ‼︎」


 いやいや、だってさすがに大恋愛すぎるでしょ!


 こんな時に限って、無駄におじいちゃんのノリが良かったものだから、私は慌てて弁明することしかできなかった。悲しいことに、同じクラスにかっこいい男子なんて一人もいなかったけど、変な誤解を招かないようにするためだ、仕方ない。おじいちゃんの肩を揉む手に、いっそう力が入っていく。


 実際、おばあちゃんは私がまだ保育園に通っていた時に亡くなったから、あんまり思い出という思い出がなかったし、話の引き出し方としてはごく自然なはず。バクバク鳴る心臓に、そう強く言い聞かせてやる。


「……一筋縄ではいかなかったさ」


 ぼそっと呟くおじいちゃんに、素早く身を乗り出した。


「そうなの? それじゃやっぱり、したの? カケオチ……」


 それってなんだか、切ない恋愛映画みたい……夢見心地で言う私の頭上に、容赦なく鉄拳が落とされた。


「ぬかせ」


「あだだ、なにすん……」


「あいつがいなかったら、お前も、お前の親父も、伯母も伯父も、みんな産まれなかった」


「…………うん? そりゃそうだろうね?」


 話が思わぬ方向に行き、何を今さら……という感じで、私はおじいちゃんにじーっと視線を投げかけてみる。だって、子供を産むのはおばあちゃんなんだから。そりゃあ、私だって、常日頃感謝しなくちゃなあとは思ってるけど。

 部屋の明かりの加減のせいか、おじいちゃんの顔には少しだけ陰りがあった。


***


 おじいちゃんは今夜、村の会合でいないから、夕方から夜にかけてまでの間、私には事実上の釈放期間が設けられた。本当はさっさとスマホのありかを探し当てても良かったんだけど……ドレッサーに映った自分は、いかにもひかえめで上品そうに見えた。せっかくこんなに盛れてるんだから、私はやっぱり、あのひとに会いに行くことに決めた。




 貝殻の絨毯の上に、おにいさん……いや、マシューさんはぼんやり佇んでいた。そっか、今日は私よりも先に来ていたんだ。


「こんばんは〜っ!」


 私が声をかけると、夜闇に溶けそうな瞳が、さらに弧を描いたように見えた。マシューさんが、こっちこっち、と私を手招きしている。


「ご覧、今夜は一段と海が綺麗だから」


 内緒だよ、と言わんばかりに、マシューさんはくすりと笑う。まるで人魚姫の王子様のようにスマートな仕草で、彼に手を引かれる。

 潮風が、鼻先をくすぐった。顔をあげると、やわらかな月光が、紺碧の海の上をどこまでも走っていた。


「わあ、すごい……っ!」


 ぎゅーっと、繋がれた手に力を込めた。マシューさんの手はよく磨かれた窓ガラスのようにひんやりとしていて、きっとこんな夜にはぴったりだろうと思った。


「この白いとこを泳いだら、絶対気持ちいいんだろうなあ」


 私がうっとりと夜の海に思いを馳せている間にも、隣を見れば、笑いをこらえたマシューさん。

 危なかった。もうちょっとで、よくもロマンチックな気分を台無しに……ってドン引きするところだった。マシューさんはもはや笑いを我慢しすぎて、プルプル痙攣しているような気さえする。


「そうだね……っ、もし、きみとっ、一緒に泳ぐことができたなら、さぞかし愉快だろうね……っ!」


 お腹をよじらせたマシューさんは涙を拭き取りながら、絶賛怪訝な顔繰り出し中の私の肩にポンと手を置いて言った。


「む〜、なんなの〜っ!」


「ごめんね。あんまり海が綺麗だったから、ちょっとからかってみたくなったんだ」


「マシューさんったら」


「……ところであかりさん、それは何?」


 やっぱり。さっきから私のトートバッグから何かがはみ出ているのが、マシューさんも気になっていたようで。


「あー、これね、線香花火しかないんだけどさ、しけるまえにマシューさんとやっちゃいたいなって思って持ってきたの」


「はは。また、ずいぶん懐かしいものを」


 マシューさんはまんざらでもなさそうに、線香花火のひらひらした方を軽くつまんだ。


「十本中何本勝てるか、勝負だよ!」


「面白そうだね。受けて立とうか」


 うん、だからね――私は精いっぱい背伸びして、マシューさんの耳もとでささやいた。


「もし私がマシューさんに勝てたら、お願い、なんでも一個だけ聞いてくれるってのはどう?」


「お安い御用さ」


 マシューさんの目の奥に潜む、どこか好戦的な輝きは、負けることなどあるものか、とでも言っているかのようだった。

 ああやっぱり、難攻不落の彼だからこそ、落ちるところが見てみたいな。私は決意を固めて、ライターに火を灯した。


***


 私はマシューさんと、砂浜に膝を寄せ合ってかがんだ。


「さ、しっかり持っていないと、すぐに落ちてしまうよ」


「言ったなあ〜、マシューさんこそっ」


 軽口を叩き合いながら、彼の魔性のフェイスラインにときめいた。私は今、好きな人と一緒に、この世界にたった二人ぼっちなんだ、と、そんなふうに錯覚してしまいたくなる。


「……綺麗だね」


 そう呟いたマシューさんが指しているのは、花火のことなのか、私のことなのか。火花が砂に吸い込まれるたび、私たちの距離もまた縮まっていくみたいだった。


 燃える命みたいだ、と思う。この、揺れては輝き、消えそうで消えない炎の花が。


「あっ。マシューさんの、もうちょっとで落ちそう」


「はは、駄目だね」マシューさんが言う。


「やっぱりこいつを見てると、嫌でも考えてしまう。どうして俺はここにいるんだろう、って。もう、早いとこ未練を解消して楽になりたい……」


 ジジジ、パチ……ふっ、と息を吹いたらすぐにでも消えてしまいそうな小さな灯火の中で、私たちの視線は溶け合おうとしている。


 私は、大きく深呼吸する。


「…………私じゃ、マシューさんがここにいる理由になれないかな?」


 線香花火の裏側で霧散する、このか細い声がマシューさんの耳に届いているのかいないのか、確かめる術は私にはない。ただひたすらに、火球のオレンジが、まるで夕もやのように、マシューさんの青白い肌を照らしていた。


「あのね、マシューさん、私――」


「花火はこんなにも刹那的で儚いのに、ずっと心に残ってしまうのは――なかなかどうして、罪だと思わないかい?」


 続く言葉を遮ってまでマシューさんが遠回しに言いたかったことが、私にはなんとなくわかってしまう。だから。


 もう、言葉なんていらなかった。





 私はマシューさんのネクタイを両手で掴み、呆気にとられた彼の白く滑らかな頬めがけて――ちゅ、と口をつけた。


 これが私の聞いてほしかったお願い――。


「キスしても、いい?……って、もう、しちゃったけど」


 言いながら、私は小さく舌を出す。自分から提案したくせに、まだ決着すらついてなかったけど。心臓はすでに、うるさいくらいに甘く高鳴っていた。


 しばらく、波の音と一緒に、私たちの間に沈黙が流れた。



「……ずるいよ、あかりさんは」


 抱えた膝に顔を埋めるマシューさんのかすれた声が、今にも泣き出しそうに聞こえて。それが、私の胸をギュッと締め付けたのを悟られないように、頑張って強がった。


「そっ、そうだよ。私、マシューさんが思ってるよりずっとずーっと、ずるい女なんだから」


 私の可愛さに気づくのだって、時間の問題かもしれないよ、と、震える声で言おうとしたその時。


「え……っ?」


 マシューさんの白くほっそりとした、艶かしい指が私の顎をすくうと同時に、いきなり、長いまつ毛が接近してきた。それこそ、もしもマシューさんが生きていたら、熱い吐息が私のうなじにかかるんじゃないかってくらいに。形の良い唇は、私のものよりも紅く色づいていた。


 ちょっと待って、と訴えながらも、ううん、やっぱり待たないで、そのまま続けて――と心が叫んでいる気がした。


 私はただ、甘い空気に身を任せ、瞳を閉じる。


 あとちょっとで鼻先が触れ合う………………寸前で、マシューさんはパッと私から手を離した。


「……嫁入り前の女の子が、こんなことしちゃ駄目じゃないか」


 眉根を寄せたマシューさんに、低く囁かれる。自分のみっともないキス待ち顔を見られたことに、もどかしさと物足りなさを覚えつつ、私は全力で手を振った。


「……い、いいの! こういうのはぜんぶ夏のせいにしちゃえばいいんだって、誰かが言ってたもんっっ」


***


 滝汗をかく私を見たマシューさんは、呆れたように、困ったようにため息をつきながら、手もとの線香花火に目を落とした。


 昔ね、と、声のトーンを落としたマシューさんが言う。


「優秀な後輩がいたんだ」


 夏の終わりの、よく冷えた空気が、私の髪をさらりと撫でる。

 突然、なんの話だろうとも思ったけど、この、ゆでだこのように真っ赤になった顔を冷やすにはちょうど良いタイミングだったかもしれない。

 

「上役(うわやく)の命令は当たり前に無視するし、女遊びも派手だし、酒に酔ったら暴れるし……」


 マシューさんが羅列してゆく武勇伝という名のただの惨状に、私は一気に眉をひそめた。


「優秀……? やりたい放題の間違いじゃなくて……?」


 マシューさんは頷きながら、線香花火をふるふると揺らす。


「しかも、年下のくせにずいぶん生意気でね。まあ、威勢だけは良かったけれど」


「えーっと、もしかしてなんだけど。その問題児みたいな人がマシューさんの未練だったり、する?」


 マシューさんがなかなか手もとから目を逸らせようとしないので、私は、彼の顔を覗き込む形でその場にしゃがむしかなかった。


「………………」


「ほら、たとえばだよ。調子に乗ってるアイツを呪ってやりたいー、とか、一度でいいから土下座させてみたいー、とか!」


 ところがマシューさんは、静かに首を振るばかりだった。


「どうしてかな。不思議と、復讐心は湧いてこないんだ」


「ふーん……?」


「しかし……難儀なものだよね、心ってのは」


 静寂に広がる、寄せては返す波の音。マシューさんがゆっくり振り返る。


「あいつの自由なところを……俺は心底、羨ましいとも思っていた」


 マシューさんの目尻はすでに下がっている。ずっと若いままの姿、無理をして笑う癖……マシューさんはちゃんと、『有馬秀太郎』として天寿を全うできたのだろうか。その答えをきっと、私は残酷なまでに知っていた。


「それじゃ、なんか、なんていうか、マシューさんだけ、可哀想じゃん……」


 ぎゅっ、と、長いスカートの裾を握る手に力を込める。


「同情してくれてありがとう。でもね……」


 マシューさんはまた、穏やかな微笑みをこちらに向けて、


「俺とあいつ、二つで一つの相棒だったんだ」ほんの少し、しんみりした口調でそう言った。


***


 マシューさんと別れたその夜、とても不思議な夢を見た。なんと夢の中で、私はなぜかマシューさんになっていて。


 この、よくセットされた黒髪も、ラピスラズリを内包した瞳も、無線機に注がれる凛とした声も……これらは全てマシューさんのものだと、私にはそういう、確信めいたものがあった。


 これはきっと、生前のマシューさんの姿……なんだよね。マシューさん(になっている私)はちょうど、吹きすさぶ雪の中、小さな飛行機みたいなものに乗って、異国の大海原の上を滑空しているところだった。


 どこだろう、ここは。なんだかさっきから、やけに寒い。


 凝り固まった首をひねると、中はもともと二人乗りだったのか、大人ひとりで操縦するには充分な広さがあった。ただ、空いた隣の席を見ると、どういうわけか、少しだけ心細いというか、やるせない気持ちになってくる……


 その時だった。


「……………ッ⁈」


 私は慌てて、体を持ち上げる。耳に残るノイズと衝撃音。見れば、機体がぐらりと傾いていた。"スメルシュ"による攻撃に違いない――と、本能がそう告げている。


 もはや考える暇もなく、光の速さで、機体に容赦なく穴が開けられてゆく。どうしよう、どうすれば、という焦燥感に、だんだん体温もなくなってくる。


 銀の飛沫が、もうすぐそこまで迫っていた。


 まずい、このままじゃ墜落する――


 打開策はないかと、明らかに足りない酸素の中、必死で頭を巡らせる。でも、まるで全細胞が諦めてしまったかのように、体はこれっぽっちも動かせなかった。


「……あー、くそ。いいなあ、あいつ。うらやましいなあ」


 口が、勝手に動いた。あいつ、あいつって誰だっけ、と、言いながら、思う。


 走馬灯、みたいな超常現象かもしれなかった。ぼんやりとだけれど、生まれたての我が子を愛おしそうに抱く、どこか懐かしい雰囲気のある男性のシルエットが浮かんだ。


 私の意識は、しだいに薄らいでいった。私……いや、マシューさんは眼前の海に向かって大腕を広げ、爆撃とともにそのまま真っ逆さまに落下してゆく。その、恨み節とも捉えられる失笑は、寂しげで、でもどこか満足そうに響き渡っていた。


「幸せになれよ、相棒」


 頬を滑る水の温度。それが、海水によるものでないことはたしかだった。


***


 心臓が、肋骨を持ち上げるくらい激しく鳴っている。冷たい匂いのする布団、ひとり、天井、人差し指に乗った小さな水滴……気づけば、涙が溢れていた。


 どこまでも続く、暗くて長い廊下を、私はおぼつかない足取りで、一生懸命にひた走る。


「おじいちゃん…………っ!」


 力任せに襖を開く。おじいちゃんは、仏様にお供えする水を取り替えていたようだった。


「どうした、こんな朝っぱらから。まったく、寝言がうるさいったらありゃしない」


「おじいちゃん、聞いて!」


 ほとんど叫ぶようにして言うと、おじいちゃんはコップを置いて、私を訝しげに見つめた。




 それから私は、今まであったいろんなことを、かいつまんで話してみせた。


 海辺で不思議な青年と出会ったこと、彼はマシューさんといって、実はこの世の者ではなかったこと、私が彼に、ひそかに好意を寄せるようになったこと……。


 そうして今日ついに、夢の中でマシューさんの真の姿を見たのだということを伝えると、おじいちゃんの赤らんだ顔は、みるみるうちに青ざめていった。


「あかり。お前、やっぱり――」


 私は、おじいちゃんの背後にある祭壇を指さす。そこはかとない違和感の正体が、だんだんと、輪郭を成したようにすっきりし始める。


「あのきゅうりの馬も…………マシューさんのために、用意したんだよね?」


 そうだよね?おじいちゃん――まっすぐ向き合うと、おじいちゃんは――ぐにゃりと顔を歪ませた。


「俺が、俺が死ねばよかったんだ!」

 

 私の肩が、びくりと跳ね上がる。今まで聞いた中で一番大きい声を出して、おじいちゃんは膝から崩れ落ちた。


「ああ、マシュー。あいつは凄腕のスパイだった。なのに、あんなことになるなんて…………本当に、俺が殺したようなものなんだ」


 自分を責め立てるような言葉たちが、私の心に、まるで懺悔のように、重くのしかかる。


 おじいちゃんは、壊れた機械みたいにひたすら同じ言葉を繰り返した。


 おれがしねばよかったんだ、おれがしねばよかったんだ……と。


 息が詰まって、なぐさめようにも、どうしたらいいのかわからない。


「いやだ、やめてよ。そんなの、あんまりだよ。おじいちゃん」


 ようやく絞り出した私の声は、情けないくらいに掠れ、震えていた。


 それでも、私は伝える。


「自分が死ねば良かったなんて、そんなの、そんなの……マシューさんが聞いたら、きっと悲しむよ…………!」


 だってマシューさんは、最期の瞬間まで、大好きな弟分の幸せを祈っていたから。


「それでも、あいつの代わりに、おれが……」


「あの時おじいちゃんが選んでくれなかったら、いまっ……私はここにいないでしょ!」


「ッ、あかり!」


 追う声をほとんど振り払うようにして、私は家を後にした。


 向かう場所は、あそこしかなかった。



 私は裸足で、早朝の海の、肌を突き刺すような温度にさらされる。


「どうしたんだい? そんなに慌てて……って」


 パジャマのまま家を飛び出してきた私から、尋常じゃない何かを悟ったのか、マシューさんはその目をすっ――と細めた。


「ま、マシューさん、マシューさああぁん」


 見慣れた顔を見るなり安心して、子どもみたいに泣きじゃくる。マシューさんは私が落ち着くまで、事情も聞かずに背中をさすり続けてくれた。



 しゃくり上げる回数がいくらか減ってくると、マシューさんはスーツのポケットに手を突っ込んだまま、すくっと立ち上がった。


 遠ざかる、どこまでも孤独で寂しげな背中に、反射的に手を伸ばすも、それが届くことはなかった。


「いつか君に、本当のことを言うべき日が来るんじゃないかと思っていた…………その様子だと、もう気づいているみたいだね」


「うん……私、すごく怖い夢を見て、でもそれは本当にあったことで、それで、マシューさんは……!」


「大丈夫、皆まで言わなくていいよ。たしかに、少し酷なものを見せてしまったのかもしれないけれど、君には関係のないことだから」


 今でも震え続けている肩を押さえつけながら、私はマシューさんを見上げる。


「ねえ、マシューさん。私にぜんぶ、教えてくれる? あの日、何があったのかを……」


 だから、線引きはもうやめて。


 途端に、苦虫を噛み潰したような顔になったマシューさんと、視線が絡み合う。





 私は一歩も譲らなかった。しばらくお互いの無言が続くうちに、マシューさんが言った。


「俺だって、あんまり手荒な真似はしたくなかったのに……」


 すると。


 割れ物を扱うような丁寧な手つきで、頭に人差し指が当てられた。


「わっ……」


 つぷり、と、私の脳内に、マシューさんの記憶の欠片が直接注ぎ込まれていった。


***


 まるで古い映画みたいな質感の、私のおじいちゃん、そしてマシューさんは、色違いのスーツを着込んで、ボードゲームに興じていたところだった。


「……チェックメイト」


「ぐぬっ⁈」


 あの厳格なおじいちゃんが、マシューさんに完膚なきまでに叩きのめされている……チェス盤をひっくり返してまで、イカサマだなんだと騒いでいる光景が、なんだかおかしくてしょうがなかった。


 マシューさんはここでも一枚上手のようで、にこにこ笑顔で毒を吐く。


「相変わらず弱いねえ、信夫しのぶは。そんなふうに単純な攻防ばっかりしてると、可愛いガールフレンドにいつか愛想を尽かされるよ」


「うるせえ独身貴族。順風満帆だから心配すんな」


「あははっ、本当かな」


 穏やかな昼下がり、非番の日に洋館で息抜きをし、談笑する二人の姿が、私の目には同じ部活の先輩後輩のように映ったのだった。





 見ての通り、君のおじいさんと俺は、ライバルであり、相棒であり――盟友だったんだ。


 マシューさんの穏やかな声が、脳内に響く。


 日本と米国の二重スパイをしていた俺たちは、キューバに配備されたミサイルの写真を撮り、情報を収集するために、偵察機に乗り込むよう言われてね。


……ああ、そうだ。この平和な世の中を生きる君には、あまり実感が湧かないかもしれないけれど……俺たちの時代にはまだ、御国のためだとか言って、第三次世界大戦を望む輩も少なからずいたんだよ。


 もちろん、危険な仕事になることは重々承知していたさ。その日も、あいつとの合同任務になるはずだった。

 でも、決行の日、いくら待ってもあいつは現れなかった。


――ま、うすうす勘づいていたんだけれどね。


 記憶の中でマシューさんは、目を伏せながら頭をぽりぽりとかいていた。


 いっちょまえにあいつ、俺より先に所帯なんて持っていたからね。だから、報告が来るより先に気づいたんだ。あいつの奥さん――つまり、君のおばあさんに当たる人の、臨月が近いってことに。




 正直、腹が立ったよ。恨みつらみの一つも言ってやりたくなった。ここまで来て、俺を見捨てる気かって。


 だけどあいつ、曲がりなりにも、ちゃんと借りは返すような、変に律儀なやつだからさ。


 一瞬、やんちゃな弟を見守る兄のような優しい目つきをしたマシューさんを、私は見逃さなかった。


 今思い返してみれば、ほとんどやけくそだったし、自分の力を過信しすぎていたのもあったと思う。俺はあいつを信じると同時に、お前の力を借りなくとも俺はやれるんだぞって…………馬鹿だよね。妙なところで意地を張ってしまったんだ。


 マシューさんは、力なく笑う。


…………出産に立ち会うためとはいえ、相棒を裏切ったおじいちゃんと、最期の瞬間まで何者にもならず、スパイという役目に徹したマシューさん。


 どちらが正しいのかなんて、私には分かるはずもなくて。ただ、その場に、ぼーっと立ち尽くすことしかできなかった。


「応答せよ、応答せよ。こちらマシュー、七◯三号機、墜落」


 頭に痛いほど響く、無機質な音声。



 結局、任務は失敗したよ。そうして、ここから見える水平線の、そのまたずっと先に、俺は沈んだんだと思う……


 マシューさんはただ、静かに告げる。


 やっぱり、生きていると、どうしたって予期せぬ事態に晒されることがあるだろう。むしろ、想定できないことのほうが多いと言ってもいいくらいだ。


 だからね、あかりさん。


 スパイとして生きた俺からひとつ言わせてもらうと、一番大事にすべきこと、それは……その時の自分に何ができるか、常に考え続けることだと思うんだ。


 ああ、いきなりこんな説教じみたことを言ってしまってごめんよ。


 君はあいつと同じ、まっすぐな目をしてるから、だから……なんて言ったらいいのかな、なおさら、気にかけてやりたくなってしまったんだよね。



 しかしなあ。こんな体たらく、あいつが知ったらなんて言うのかな。結局最後まで、化けて出てやることはできなかったなあ。




――ちょっと待って、と私は思う。


 雲間から、いよいよ太陽が顔を出し始めた。


「……マシューさん。さいご、って、どういうこと?」


「言葉通りの意味さ」


 そう言って、マシューさんは片腕を柔らかな日の光に透かしてみせる。私はまばたきを繰り返す。マシューさんの体は……出会った頃より、ずっと透明に近付いていた。


 冷や水をかけられたように、全身に鳥肌が立ってゆく。


――今日は、8月16日だった。


「ねえあかりさん、あいつによろしく頼むよ。自慢の筋肉がよれよれになるまで長生きしろよって、そう伝えてくれないか?」



「おい…………そこにいるのか……秀太郎っ」


 私は、ばっ、と後ろを振り返る。そこには息を切らしたおじいちゃんが、汗をかきながら立っていた。


 私が横を向くと、マシューさんも驚いていたようで、切れ長の目が真ん丸になっていた。


「ま、さか……」途端に口をはくはくさせる、マシューさん。


 ふたりの間を、一陣の風が吹き抜けてゆく。


「いるんだな」苦しそうに、おじいちゃんが言う。


おじいちゃんは、大きく息を吸った。


「あの日から、いっときたりとも、お前を忘れたことなんてなかった! 叶うことなら、産まれた息子だって、一番に抱かせてやりたかった……っ!」


 朝焼けが、マシューさんを影のように焦がしている。ふたりにだけ注がれた強い光のせいで、いま、彼がどんな表情をしているのか、私にはよく見えなかった。


「ニ度と許さなくていいから、恨むなら、この俺を恨んでくれ……だからっ、孫を、連れていかないでくれっ……」


 おじいちゃんが、嗚咽まじりに叫んだのと同時に、マシューさんが何か言いかけたのをやめる。


……そうか、おじいちゃんにはきっと、マシューさんの声が届かないんだ。


 でも、と思う。


 私の帽子を拾ってくれた時も、一緒に線香花火をした時も。


 砂浜に落ちた細い木の枝が、視界に入る。


 立ち尽くすマシューさんに、私は迷わずそれを手渡した。


 物に触れられないわけじゃないなら。


 マシューさんの気持ちだって、おじいちゃんに直接伝えることができるはずだ。


 マシューさんはハッとした様子で、固く結ばれた口もとを綻ばせた。


「……ありがとう」



「おおい、聞こえてるのか、秀太郎!」


「馬鹿だな、信夫しのぶは」と、マシューさんは、おおげさに肩をすくめてみせたけど、まるで旧友に再会した時みたいに、その口角は楽しげに上がっていた。


「じいさんになっても、早とちりの癖は直らなかったな」


 言いながら、マシューさんが砂浜に文字を書いていく。おじいちゃんには、木の枝がただ浮遊しているように見えているみたいだった。


 おじいちゃんは私と顔を見合わせると、いきなり、照れたようにそっぽを向いた。


「う、うるせえ」


 おじいちゃんのぶっきらぼうな返事に、涙が出るすんでのところまで、マシューさんの瞳は潤んだ。


「俺が憎くて、化けて出てきたんじゃねえのか」


「ちょっとおじいちゃん、そんな言い方ないでしょ――」


「恨んじゃいないさ」


 さらさらした砂の音に、おじいちゃんの耳が、ぴくりと動く。

 

「お前は人間として、ひとりの男として、正しい選択をしたまでだ」


 だから、と続く。


「自分を誇れ」


 マシューさんの一言は、長い間おじいちゃんの心に折り重なった澱を払拭するものだった。



「身寄りのない俺を、ここまで丁寧に弔ってくれてありがとう。お前みたいなやつの兄貴分になれて幸せだった」


「……こっちの台詞だ、ばかやろう」


 自分の書いたものを音読するマシューさんの声は、涙に濡れている。


「俺のぶんまで、生きて、生きて、生き抜いて……いつかまた会うその日まで、あかりさんを守ってくれ」


 おじいちゃんは、何も言わず、ただ、重く頷いていた。


 マシューさんが、ふいに、私の両手を取って言う。


「君は俺に、一生ぶんの恋をくれたから」


 それは、私だけに向けられた言葉だった。マシューさんはまるで、恋人にするみたいに、私の頬を慈しむように撫でた。


「巡り巡った縁の先が、君という素敵な人に繋がってるんだと思ったらね――ふふっ。無駄死にしたのも、悪くないって思えてくるんだ」


 彼が、この世の人じゃないって、分かってても。


「わたし、やっぱりマシューさんが好き」


 好きに、なっちゃった。


「大好きなの」


 もう、息をするのが苦しかった。ワガママみたいな私の告白に、マシューさんは穏やかに微笑み、私を強い力で引き寄せた。マシューさんの大きな体に、私はすっぽり包まれる。やっぱり、心音なんてどこからも聞こえてこなかった。ああ、これでお別れなんだ、と思ったら、ぼろぼろと涙が溢れてきて、ついには止まらなくなってしまった。


 最悪だ。こんな可愛くない顔、マシューさんに見られたくなかったのに。


 マシューさんは、すらりとした長い指で、私の涙を拭い去る。


「こんなことしておいて、ごめんね……あかりさん」


 マシューさんの姿は、すでにほとんど形を保てなくなっている。脳裏に反芻するその声は、胸が痛くなるほどに切なげだった。


「やだよ、マシューさん。いかないで、ずっと私のそばにいてよ……!」


 私だって知ってた。無理なお願いだってことくらい。


 マシューさんが、静かに首を振ったのが分かった。


「……どんなに苦しい時も、辛い時も、俺がずーっと見守っているから。最後の瞬間まで、輝かしい光の中を生きなさい」


 やがて、マシューさんは光の粒となり、空へと霧散していく。


 乾いた涙が、やけに虚しかった。隣のおじいちゃんが、指を指す。私はゆっくりと、顔をあげる。


 頭上の飛行機雲は、どこまでも澄み渡る青い空に。


 それはまるで、自由を得た鳥のようにまっすぐ伸びていた。

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八月、田舎の海辺で出会ったシャドー・ピープルさんと、一生忘れられない恋をした。 目玉木 明助 @fuziakemi

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