告白ゲーム

ちょむくま

第一話

 カチリ。


 乾いた音が、教室のどこかで響いた。


 午後十一時を過ぎた教室。窓の外ではグラウンドの照明が既に落ち、校舎は闇に沈んでいた。

埃っぽい蛍光灯が天井で唸りをあげ、誰も口を開かない沈黙の中に、不穏な気配がじわりと染み出していく。


 「……今の、何?」


 最初に口を開いたのは、前列の端に座っていた佐伯紗季だった。やや鼻にかかった声が、静まり返った空間に違和感を孕んで落ちる。


 続けざまに、生徒たちの視線が教室の入り口へと向いた。


 扉の取っ手が、わずかに揺れていた。


 試すように、何人かが立ち上がり、扉を押す。しかし、開かない。鍵がかかっているのではない。電子ロックだ。外部から完全に制御された……そう思わせる、異常な硬直だった。


 「……え?なんで閉まってんの……? 先生、さっき職員室行くって……」


 「スマホも、圏外……」


 空気が濃くなる。誰かが喉を鳴らし、誰かが無言で窓に駆け寄る。だが、そこもまた、同じだった。頑丈なシャッターがすでに降りている。遮断された夜。出口のない檻。


 そのとき、教室の黒板が不意に明滅した。


 誰も触れていないはずの電子黒板に、白文字が浮かび上がる。


 『この中に、一年前の屋上転落事件の真相を知る者がいる』


 教室の中心に沈黙が走った。誰もがその言葉を読み、理解し、そして固まった。


 「ふざけてんの……?」


 誰かの声が、震えていた。


 『神崎玲奈』……その名を心のどこかで避けていたのだと、生徒たちはその瞬間に思い知らされる。


 玲奈は死んだ。ちょうど一年前の、六月。期末試験の帰り道。校舎の屋上から落ちた。


 警察は事故と結論づけた。柵が老朽化していたこと、足元にヒールの片方が落ちていたこと。カメラに不自然な映像の空白があったことさえ、誤作動として片づけられた。


 けれど、その誤作動が三十分にわたる空白であったことを、ここにいる生徒たちは知っている。


 そして、今夜。


 その事実が再び、彼らの前に差し出された。


 『この教室から出るには、告白が必要だ』

 『誰が、玲奈を殺したのか』

 『嘘をつけば……全員、加害者となる』


 黒板の文字が、血のように赤く染まる。


 息を呑んだ誰かが、ぽつりと呟いた。


 「……ゲーム、ってこと?」


 だが、その言葉に応じる声はなかった。


 沈黙が重く、教室に蓄積していく。誰もが、「あの夜」の記憶を心の奥から掘り起こそうとし、しかし口には出せなかった。


 封鎖された深夜の教室。


 10人の生徒。


 そして、封じられたひとつの死。


 ゲームは、すでに始まっていた。



 電子黒板に映し出された文字は、次第にぼやけていった。

 

 蛍光灯が一度、チカリと瞬いたかと思えば、天井の隅から低く機械音のような唸りが聞こえ始める。


 教室の空気が、変わっていた。


 不安ではない。恐怖とも少し違う。

 言葉にすれば、期待に近いものだった。


 何かが始まる。

 何かが暴かれる。

 誰かが壊れる。


 それを、誰かが望んでいる。


 ……そう感じさせる、奇妙な熱があった。



「……冗談でしょ。誰がこんなこと……」


 ポニーテールの女子、三嶋麻由が苦笑を浮かべながら呟いた。白い指先が机の角をカリカリと掻いている。軽く震えるその手は、彼女が平静を装っているだけであることを露骨に物語っていた。


 教室の中央、島状に並んだ机の間に、各自のカバンと補習教材が雑然と置かれている。十人はそれぞれ距離をとりつつも、徐々に輪を縮めるように集まりつつあった。


「監視カメラとか、いたずら……?だってこれ、ホラー番組みたいじゃん」


 笑う者もいた。ひとり、ふたり……いや、三人。


 だが、そのどれもが本気で楽しんでいたわけではない。

 皆、どこかで気づいている。


 これは、偶然じゃない。


 「あの……ほんとに閉じ込められたんですか?」


 小さく手を挙げたのは、白石優菜だった。成績は中の上、目立たない性格で、普段は他人の顔色を見ながら生きているような少女だった。だが、その瞳は今、誰よりも現実を受け止めようとしていた。


 「扉もダメ。窓も。先生にも連絡取れない……」

 

「てか、誰も外にいないの変じゃね?」


 野球部の木下蓮が眉をひそめる。短く刈った髪、腕には筋肉がついているが、表情は怯えきっていた。


 「守衛とか、清掃のおばさんとか、普通いるだろ。真夜中じゃあるまいし」


 「今、十一時半くらい……?」

 

「ていうかさ、こんな時間に補習やってたのがそもそもおかしいよ」


 ぽつぽつと、言葉がこぼれていく。

 だがそれらはすべて、核心を避けていた。


 神崎玲奈の死……その名前だけは、誰も口にしようとしない。


 「ねえ」


 ひときわ落ち着いた声が、空気を割った。


 その場にいた全員の視線が、声の主……榊真澄へと向けられる。

 彼は教室の窓際、最後列に腰掛けていた。制服の第一ボタンを外し、腕を組んだ姿勢のまま、半眼で天井を見上げていた。

 その声は静かで、だがどこか苛立ちを孕んでいる。


 「……おまえらさ、本気で知らないって顔できんのか?」


 誰も答えない。


 「一年経ったってのに、事故だったって言い張るのか?」


 しん、と音がするような沈黙。

 榊の視線が、ゆっくりと他の生徒たちをなぞる。


 「俺は……少なくとも、あの屋上で誰かと玲奈が口論してたのを、見た奴がいると思ってる」


 その言葉に、二人の顔がぴくりと動いた。

 だが、すぐに何事もなかったように目を逸らす。


 榊はそれを見逃さなかった。


 「……今さら隠す理由あるか?」


 「理由があるから隠してんでしょ」


 切り返したのは、佐伯紗季だった。声は鋭く、視線は榊に向けられたまま一歩も引かない。


 「私たちは目撃者じゃない。容疑者にされたい人間なんて、いないわよ」


 その言葉に、一部の生徒が小さくうなずいた。だが、誰かが呟く。


 「……でも、もし本当に、誰かが見てたのなら?」


 全員が息を止める。

 そのとき、再び黒板が光った。


 【第一のヒント】

 『事件の前日、屋上の鍵は既に開けられていた』


 ざわ、と空気が乱れる。


 「は?屋上って、鍵ついてんの?」


 「当たり前じゃん。通常は閉まってるって」


 「でも、玲奈はそこにいた。夜に」


 またしても、誰かの声がそう呟いた。


 重ねるように、黒板に新たな文字が表示される。


 『誰が鍵を開けたのか。誰が彼女を呼び出したのか』

 『鍵は、まだこの中にある』


 生徒たちの誰かが、ぞっとしたように肩を抱えた。


 沈黙。


 言葉のかわりに、誰かの心臓の音が聞こえるようだった。


 この中に、知っている者がいる。

 もしかすると、仕掛けた者がいる。


 十人の視線が交錯する。探るように、恐れるように、疑うように。


 それでも誰も、最初の「名」を挙げることができなかった。


 なぜなら、この教室には、名前のない目撃者が……複数、いたからだ。



 黒板の文字が、音もなく消えていった。


 だがその言葉は、生徒たちの意識に刻み込まれたまま消えない。


 「鍵は、まだこの中にある」


 いったい何の鍵だ? 屋上の鍵なのか、それとも、もっと別の……。

 そんな疑問が誰の頭にも浮かんでいたが、口に出せる者はいなかった。


 静かに、教室がざわめく。誰かが立ち上がり、別の誰かが机の下を覗く。まるで意味もなく、何か見つけたというアリバイ作りをしているようにも見えた。


 全員が、「自分が疑われたくない」その一点で動いている。


 そんな中、教室の後方。ロッカーの列に向かって歩き出したのは、白石優菜だった。


 誰に声をかけるでもなく、足音を忍ばせながら、静かに近づいていく。彼女の目は、どこか遠くを見ていた。

 それは、記憶の中にある何かを確かめるような目だった。


 十人が過ごした、一年前のあの夜。


 あのときの空、あの匂い、屋上の金属の手すり、そして……誰かの泣き声。


 (わたし……あの夜、見てたよね)


 でも、どうして今まで、思い出せなかった?


 いや、思い出さないようにしていたのか。

 あの夜、自分が誰かを見たことを。


 ……それは、確かに「告白」と呼ばれるものだった。


 ロッカーの最下段、錆びた蝶番を押し上げると、小さな布袋が見つかった。巾着袋。藍染めのような色味。指でつまみ上げると、金属がぶつかる小さな音がした。


 「……これ」


 白石の手から、布袋がこぼれた。


 中身が教室の床に散らばる。

 鍵だった。三本。

 ひとつは小さく、ひとつは重厚、もうひとつは何かの電子タグがついていた。


 「なにそれ……」


 最初に反応したのは、佐伯紗季だった。立ち上がり、音を立てて近づいてくる。


 「どこにあったの?それ」


 「……ロッカーの中」


 「誰のロッカー?」


 白石は答えなかった。ただ、鍵の一本をじっと見ている。


 「ちょっと、それ……!」


 声を上げたのは、三嶋麻由だった。足音を強めて近づき、白石の手元を覗き込む。


 「……その袋、見たことある」


 「は?」


 「多分、藤沢の。ほら、あの子いつも弁当袋それと同じの使ってたじゃん。藍染めのやつ」


 その場にいた数人が、顔を上げた。


 藤沢遼……クラスでも特に目立たない、眼鏡の男子。成績は優秀だが、人付き合いが悪いことで有名だった。玲奈とは接点がないように見えたが、同じ文芸部に在籍していた過去があった。


 「……おい、藤沢」


 木下蓮が一歩踏み出し、低い声を出す。


 「おまえ、これおまえのだろ」


 藤沢は、教室の隅に座ったまま、顔を上げなかった。


 「違うよ」


 小さな声だった。だが、その静けさは異様な緊張を生んだ。


 「見たことないし、俺じゃない」


 「じゃあ何で、あんたのロッカーに入ってたのよ」


 佐伯が鋭く言い放つ。藤沢は口を閉ざした。顎を引き、目元が陰る。


 「俺じゃないって言ってる」


 「じゃあ誰?誰がそんな偶然で、あんたのロッカーに鍵を入れるっての?」


 その瞬間。


 カチ。


 再び、電子黒板が点いた。


 全員が無意識にそちらを振り向く。


 【第二のヒント】

 『彼女は、告白を断った』

 『そして、その直後に屋上に呼び出された』


 短い沈黙の後、誰かが言った。


 「……じゃあ、玲奈は、告白されたってこと?」


 「誰に」


 「男か女かも書いてない」


 「でも、断ったってことは、恋愛的な告白ってことじゃ……」


 「文芸部」


 その言葉を漏らしたのは、白石だった。


 誰も彼女を見ていない。視線はまだ黒板の文字に釘付けになっている。


 「文芸部で、告白の手紙の推敲を頼んでた子がいた」


 「誰?」


 「……藤沢くん、じゃなかった?」


 それは、決定的な言葉ではなかった。

 ただ、静かに落ちたひと粒の雨のように、その場を濡らす。


 藤沢はゆっくりと立ち上がった。誰とも視線を合わせない。


 「俺じゃない」


 それだけを言い残し、黒板の方へ歩き出す。手にはまだ何も持っていない。だがその背中からは、確かな怒りと、そして……焦りの気配がにじみ出ていた。


 佐伯が、ぽつりとつぶやいた。


 「鍵って、屋上の鍵のことだけじゃないんじゃない?」


 「どういう意味」


 「記憶の鍵。事件の扉を開ける、そういう意味かも」


 再び、全員が黙った。


 鍵は見つかった。だが、開けるべき扉がまだ分からない。

 そして、その扉の先に何があるのかも……誰も、知らなかった。


 白石は、教室の隅でひとり、呟いた。


 「……でも、あの夜、もうひとりいたよね。玲奈と藤沢くんの他に……」



白石優菜の言葉は、誰の耳にも届かなかった。届いたとしても、誰もそれを拾い上げようとはしなかった。まるで聞かなかったふりをするように。


 けれど、それはたしかに真実に触れていた。


 彼女の記憶は、ずっと曇っていた。あの夜、補習が終わった後、何気なく取りに戻った教室。そこで鞄を忘れたことに気づき、職員室を通って三階に戻る途中、階段の踊り場で聞いた誰かの声。


「……やめてよ」


 誰かが怒っていた。怯えていた。泣きそうな声だった。


 思い出そうとするたびに、その記憶の扉は固く閉ざされていた。だが、さっき黒板に浮かんだ彼女は告白を断ったという言葉が、優菜の心のどこかに刺さったまま抜けなかった。


 (わたし、あの声……玲奈の声だった)


 そう思うと、胸が苦しくなった。自分はその声を聞いたのに、すぐに踵を返して逃げた。誰かに見られるのが怖かった。関わりたくなかった。自分には何の関係もないと、自分に言い聞かせた。


 けれどそれが、誰かの死とつながっていたのなら?

 優菜は、いまようやくその問いと向き合おうとしていた。



 「鍵のこと、もう少し調べてみよう」


 榊真澄の声が、教室に重たく響いた。


 全員がその言葉に従うわけではなかったが、誰も口答えはしなかった。彼の言葉には、それを拒めない圧がある。

普段から強気なタイプではないのに、妙に中心に立つ雰囲気を持っている。


 「三本あったうち、電子タグの付いた鍵はおそらくこの学校の職員用。重たいのが屋上、もうひとつの小さいやつは……どこだ?」


 「文芸部の準備室じゃない?」


 誰かが言った。文芸部……神崎玲奈と藤沢遼が所属していた部活だ。今は休部状態で、準備室も使われていない。


 「確認する術がないのが厄介ね。ここから出られないんだし」


 佐伯紗季が、静かに呟いた。


 「あんた、なんか知ってんじゃないの」


 突然、木下蓮が藤沢に詰め寄った。


 「いや、もうさっきから黙ってるだけでイラつくんだよ、こっちは!黙ってりゃ疑われないって思ってんのかよ!?」


 「違う」


 藤沢が、ようやく口を開いた。眼鏡の奥の目は、どこか空虚だった。


 「俺は……玲奈に告白なんかしてない。ただ、相談には乗ってた。……誰かに追われてるって玲奈は言ってたんだ」


 「は?」


 「告白を断ったあと、誰かが彼女をつけ回してるって。文芸部の準備室に来て、鍵をかけて泣いてたこともある」


 藤沢の口調は淡々としていた。感情を排除しているように見えたが、それは感情を失わないための防衛だった。


 「けど、それを誰にも言えないって言うから……屋上に行けば誰にも見られない、って俺が言った」


 その場に冷たい沈黙が落ちた。


 「……じゃあ、お前が玲奈を屋上に呼んだってことか?」


 榊が問いかける。


 「いや、俺じゃない。そのとき俺は、教室で小説書いてた」


 「アリバイになるの、それ」


 佐伯がすかさず突っ込む。藤沢は眉をひそめた。


 「ならない。でも、俺じゃない。俺は……玲奈が誰かに呼び出されたってあとで聞いて、それが誰かは知らない」


 「うっそくせぇ」


 木下が小さく舌打ちをする。だがそれ以上の追及はなかった。全員、確証がない。疑いはあっても、それを裏付けるものが何ひとつない。


 教室の空気は、焦りとも苛立ちともつかないざらついたものに包まれていた。



 夜はまだ、終わらない。

 時計はすでに午前一時を回っている。

 

誰も眠ろうとはせず、誰も座り込もうとしなかった。まるで気を抜けば、この教室が飲み込んでしまうかのような錯覚。


 そんな中で、白石優菜は、そっと机の下に隠していたメモ帳を取り出した。


 それは彼女があの夜から持ち歩いていたもの。記憶の断片を、薄紙のように書き留めた、誰にも見せたことのない手帳。


 その最終ページに、こう書かれていた。


 『屋上で誰かが玲奈に叫んでた。殺すぞって』


 震える手で書いたその文字を、優菜はじっと見つめた。

 あの夜、彼女はそれを聞いた。でも、怖くて名を確かめることができなかった。


 (でも、声に聞き覚えがある……)


 少しだけ掠れた、けれど低くて怒鳴るような、男の声。

 あのときは怖くて耳を塞いだけれど、今なら……今なら思い出せるかもしれない。


 (あれは……)


 その瞬間、教室のスピーカーが唐突に鳴った。

 誰もが飛び上がる。スクリーンが再び光を帯び、音声が流れ出した。


 「やめろって言ってんだろ!! ふざけんなよ、お前なんか、殺すぞ!!」


 その音声は、録音されたものだった。おそらく、あの夜、屋上で録音されたもの。断片的に、荒々しく、再生されるたびに教室の誰かが顔色を変えた。


 白石優菜の背筋が凍りついた。


 (この声……知ってる……)


 そのとき、藤沢が口を開いた。


 「この声……榊だよな」


 教室が、一瞬で静まり返った。


 榊真澄は微動だにしない。


 彼は、スクリーンをじっと見ていた。何も言わない。口元を硬く閉じて、唇を白くしていた。


 佐伯が震える声で訊いた。


 「……榊、なんで玲奈と屋上にいたの?」


 沈黙。


 それが、長く、長く続いた。


 だが、その静寂を破ったのは、榊自身だった。


 「……俺が、玲奈を屋上に呼び出した」


 全員が息を呑む音が重なった。


 「けど、俺は……殺してない。手は出してない。あいつが……勝手に足を滑らせたんだ」


 「じゃあ、なんで今まで黙ってたのよ!!」


 佐伯が叫ぶ。榊は、悔しそうに唇を噛んだ。


 「信じてもらえるわけないだろ。あの夜、俺は玲奈に告白して、振られただ。……で、声を荒げた。怒鳴った。そしたら、あいつ、逃げるみたいに手すりを越えたんだ……そのまま、落ちた」


 「それ、ほんとに事故?」


 木下が低い声で問う。榊は目を逸らさない。


 「信じてもらえなくてもいい……でも、俺は押してない。追いかけようとした。でも、間に合わなかった」


 教室に、再び重い空気が落ちた。


 誰もが混乱していた。これが真実かどうか分からない。ただ、最初の「告白」がようやく行われた……その事実だけが、じわじわと空気を変えていく。


 電子黒板に、新たなメッセージが浮かんだ。


 『最初の告白を確認』

 『しかし、真相はまだ隠されている』

 『あの夜、屋上には三人いた』


 その言葉が、再び空気を凍らせた。


 榊は顔を上げた。

 白石も、息を詰めた。


 もうひとり、いた。



 電子黒板に浮かんだ言葉は、たった一行だった。


 あの夜、屋上には三人いた。


 だが、それは全員の胸に鉛のような重みを落とした。

 榊真澄の告白が事実であろうとなかろうと、彼だけではなかった。玲奈を屋上に呼び出した者が一人。

 玲奈に怒鳴った者が一人。そして、それを見ていた者がいた。


 白石優菜は、座ったまま両手を強く握りしめた。掌が痛いほど指を食い込ませ、それでも身体の震えを止められなかった。


 (そうだ。いた。確かにいた。あの声……あの足音……)


 あの夜。優菜は踊り場で、玲奈の叫び声を聞いた。誰かが怒鳴る声。そして、もうひとつ。

 階段の上から、別の誰かの足音が聞こえていたのだ。


 その人物は声を出さなかった。ただ、足音だけが残っている。

 重く、ゆっくりと……まるで、躊躇いながら近づいていくような足音。


 (あれは……あたしが帰ったあと、屋上に上がった……)


 彼女は、はっきりと思い出した。

 確かに、あのとき屋上には“もうひとり”いたのだ。



「誰なんだよ、三人目って……!」


 木下蓮が苛立ったように叫んだ。


 「おい、藤沢、お前なんじゃねぇのか? 結局さっきから怪しいことしか言ってねぇし」


 「違う」


 藤沢遼は、静かに言い返した。だが、その目はどこか焦っていた。


 「じゃあ、誰が玲奈と榊のやり取りを、屋上で見てたっていうんだよ。黙ってたってことは……やましいことがあるからだろ」


 そのとき。


 「……わたし、かも」


 教室の隅から、小さな声が響いた。


 一瞬、誰の声か分からなかった。全員がそちらを振り返る。

 それは、秋月澪の声だった。


 地味で、大人しい子。あまり話さないし、授業中もずっとノートに何かを書いている。まさか、彼女の口からそんな言葉が出るとは思わなかった。


 「……わたし、たしかに、あの日……屋上に行った」


 全員が息を呑む。藤沢も榊も、何も言わなかった。


 秋月は、少し震えながら、それでもはっきりと話し始めた。


 「補習のあと、図書室に行こうとしたの。そしたら……屋上の方で誰かの声が聞こえて。気になって……」


 「……見たの? 玲奈と、榊が話してるところ」


 白石が、思わず前のめりに訊いた。秋月は首を縦に振る。


 「でも、はっきりは見えなかった。遠くて……ただ、玲奈がすごく怒ってて、榊くんが何か必死に言ってた。でも、そのあと……玲奈が叫んで……落ちて」


 「だったら、何で言わなかった!」


 木下が苛立ちをあらわにする。秋月は唇を噛んだ。


 「……こわかったの」


 その言葉に、教室が一瞬しんと静まり返る。


 「誰かに見られてる気がして、あのときすぐに階段に隠れて……。それに、もしあのとき見たのが事故じゃなかったら、わたし……巻き込まれるのがこわくて……」


 佐伯が小さくつぶやいた。


 「……みんな、そうだったんだ」


 その言葉には、責める響きはなかった。ただ、諦めにも似た、悲しみがあった。


 「見たけど言わなかった。聞いたけど黙ってた。思い出したけど……怖くて、記憶を閉じた」


 佐伯は、前を向いたまま言った。


 「わたしも、実は知ってたよ。玲奈が、誰かから脅されてたこと。誰にも言うなって言われてたけど……それも、この中の誰かだったの」


 「……誰?」


 白石が問いかけた。佐伯は、すっと息を吸った。


 「……藤沢くん、あなただよ」


 その瞬間、教室の空気が一変した。



 藤沢遼は、動かなかった。表情も変わらなかった。だが、その沈黙こそが、全員に疑惑を深めさせた。


 「玲奈に関わるなって言ってたでしょ。屋上で誰かに告白されたって話を、わたしが聞いてきたときも、余計なことしないでって……わたし、あのとき、なんでそんなこと言うんだろって思ってた。でも今なら分かる。藤沢くん、なにかを知ってたんだよ」


 「違う」


 ようやく、藤沢が口を開いた。声は静かだったが、張り詰めていた。


 「俺は玲奈を守りたかった。誰かがあいつを狙ってるって知って……そいつから遠ざけようとしただけだ」


 「その誰かって、誰?」


 誰もが待っていた問いだった。藤沢は、誰も見ずに答えた。


 「……わからない。けど、玲奈は女の子に狙われてるって言ってた」


 「女……?」


 思わぬ答えに、全員が戸惑った。


 藤沢は続けた。


 「女の子に好きだって言われて、断った。そしたら、無視されるようになって、LINEで嫌がらせが来て、教科書がなくなって、机に『死ね』って書かれた。玲奈は、そのことを……俺にだけ話してくれた」


 「それ、誰?」


 佐伯が食い気味に訊いた。藤沢は、わずかに目を伏せる。


 「玲奈は最後まで名前を言わなかった。ただ、その子はずっと仲良しのふりしてたって……」



 教室の灯りが、一瞬、ちらついた。


 続けて、スクリーンが再び点灯する。そこに映し出されたのは、ただひとつのメッセージだった。


 『次の告白者を選べ』

 『黙っている者には罰を与える』


 同時に、電子錠のロックが一度だけ「カチ」と鳴った。

 それはまるで、時限式の猶予が与えられたかのように……誰かが選ばれるまでの時間を刻み始めたことを告げているようだった。



教室の空気は、もはや疑いではなかった。

 それは恐れだった。

 真実が近いということが、こんなにも痛いものだとは……誰も知らなかった。


 スクリーンには、なおも言葉が浮かんでいる。


 『黙っている者には罰を与える』

 『最後の告白を求める』


 ざわり、と誰かが息を呑む音。

 時計の針が、午前二時を指した。


 それは、白石優菜だった。

 彼女は机の前に立った。

 震える脚で、それでも真っ直ぐに。


 「……わたし、言わなきゃいけないことがある」


 誰も言葉を返さなかった。

 榊も、藤沢も、秋月も、木下も。

 全員が、その声を覚悟の声だと感じていた。


 「わたし、あの夜……階段の踊り場で、玲奈の声を聞いたの。怒鳴られて、泣いてて。怖くて、そのまま逃げた。でも、音がしたの。上から……誰かが、ゆっくり、屋上に向かう足音」


 秋月が顔を上げた。

 佐伯が唇を噛んだ。

 藤沢は、眼鏡の奥で目を閉じていた。


 「その足音……今ならわかる。あれ、女子だった。ヒールじゃなくて、でも、スニーカーでもない。……パンプス。小さくて、細くて……軽い足音」


 誰かの喉が鳴った。


 「わたし、もう気づいてる。玲奈を屋上に呼び出したのは榊くん。でも……最初に玲奈を追い詰めたのは、藤沢くんでも榊くんでもなかった」


 白石の視線が、ゆっくりと教室の後方に向けられる。

 秋月澪。


 彼女は微動だにしなかった。

 ただ、顔色だけが、まるで血を失ったように真っ青だった。


 「わたし、知ってるよ。文芸部の準備室。玲奈の机の引き出しに、毎週手紙が入ってたの。誰にも見せてなかったけど、あれ……澪ちゃんが書いてたんだよね」


 秋月の唇が震える。

 涙が、静かに頬を伝った。


 「玲奈が話してくれた。自分を好きだって言った女の子がいるって。断ったけど、関係は壊したくなかったから曖昧にしたって……」


 「うそ」


 ようやく、秋月が声を出した。掠れた、細い声だった。


 「わたし、玲奈を……傷つけたりなんかしてない。好きだった。本当に、好きだったのに……なんで、わたしだけ」


 「玲奈は、誰にもはっきり嫌いって言えなかった。榊くんにも、藤沢くんにも、澪ちゃんにも……だから、全部が中途半端に重なった」


 白石の声には、もう怒りはなかった。

 ただ、悲しみと悔しさだけがあった。


 「玲奈は、誰かに殺されたんじゃない。みんなに、追い詰められたんだよ」



 スクリーンに、最後のメッセージが浮かんだ。


 『真実は語られた』

 『沈黙の罰を受け入れた者が、真の告白者である』

 『白石優菜。扉を開ける権利を与える』


 電子錠が「カチッ」と音を立てて外れる。

 窓のロックも、すべて自動で解かれていく。


 ――選ばれたのは、白石だった。


 告白された者でもなく、加害者でもなく。

 真実に目を向け、それを言葉にした者。

 見逃した過去と向き合い、それでも語ろうとした者。


 白石は、ドアの前に立つ。

 だが、すぐには手をかけなかった。


 「……ここから出たって、終わらないよ。だって、玲奈はもう戻らないし、澪ちゃんの気持ちも消えないし……あたしも、あの夜、逃げたことを許せないままだし」


 振り返る。


 全員が、沈黙していた。

 今度は、真の意味での沈黙……罪の重さに、それぞれが自分の形で向き合っていた。


 白石はゆっくりと、扉のノブに手をかけた。


 重い音とともに、教室のドアが、開く。


 夜が、終わった。


【後日談】



あの夜から、一週間が経った。


 事件は、学校側によって設備トラブルによる閉じ込めとして処理された。

 もちろん、そんな単純な話でなかったことを知るのは、あの教室にいた十人だけだ。


 教師たちも警察も、「1年前の事故」と今を結びつけることはなかった。

 記録も証拠も、どこにも残っていない。

 あの電子ロックも、黒板の映像も⋯…翌朝には、跡形もなかったという。


 けれど、私たちは知っている。

 あの夜、誰かが私たちを試したのだ。

 玲奈の死と向き合えるのか、真実と自分を偽らずにいられるのか。

 それともまた、見なかったふりをして、過ぎていくのか。



 榊は、転校した。

 詳しくは誰も知らない。

 でも、最後に私にだけ、短いメッセージを残した。


 「俺の言葉を信じてくれてありがとう。たとえ、全部を許してなくても」


 秋月澪は、今も学校に通っている。

 以前よりも少し痩せて、でも、誰とも目を合わせなくなった。

 それでも彼女は、毎朝、玲奈の机に小さな折り鶴を置いている。

 何かを贖うように。

 何かを、今も言えずにいるように。


 藤沢は……変わらない。

 表向きは、優等生。

 でも、あの夜から私にだけは、少しだけ本音を見せるようになった。

 彼は玲奈を好きだった。でも、彼女を守れなかった。

 その事実に、今も縛られている。


 私たちは、あの夜を「終わったこと」にできない。

 でもそれでいい。

 終わらせないことでしか、玲奈のことを忘れずにいられないから。

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