はじめてのおしごと③
夜の帳が下りたメルミュールは、昼間とは全く違う顔を見せる。灯の柔らかな光が石畳をまだらに照らし、軒先で揺れる瓢箪のようなランタンからは、様々な色が漏れている。
空を見上げれば――向こうの世界と変わらない、大きなまあるい、白銀に輝く月が浮かんでいた。
「さあ、着いたよ。ここがロゼの店だ。」
イレクトさんが足を止めたのは、蔦の絡まる小さな看板を掲げた、趣のあるお店の前だった。看板には『
「待っていたわ、二人とも。こっちへどうぞ。」
ロゼさんに案内されて店の中へ入ると、乾燥した香草の心地よい香りがふわりと鼻をくすぐった。壁一面に作り付けられた棚には、様々な種類の薬草が入ったガラス瓶が、月明かりを反射してきらきらと輝いている。その奥にある、ひときわ頑丈そうな扉が、問題の薬草庫のようだった。
「ここよ。……いちばん貴重な『月の涙』の棚が空っぽよ。」
ロゼさんは悔しそうに言う。扉を開けると、そこは店の棚以上に、濃密な植物の香りに満ちた空間だった。けれど、その一角だけが、ぽっかりと空になっている。まるで、食いしん坊が食べ散らかした後のように。
「……さて、マリ。準備はいいかい?」
イレクトさんは薬草庫の中央を指差した。そこには、小さな木製のスツールが一つ、ぽつんと置かれている。
「君は、あそこに座っているだけでいい。毛玉が現れても、決して動いたり、声を上げたりしないで。いいね?」
「……はい。」
「マヴリガータ――あの毛玉は、君という『不思議』に興味を持って近づいてくるはずだ。君の匂いを嗅いだり、周りをくるくる飛び回ったりするかもしれない。少し、くすぐったいかもしれないけどね。」
イレクトさんは悪戯っぽく笑うと、私の手のひらに、小さなガラスの小瓶を握らせた。中には、銀色に輝くさらさらとした砂が入っている。
「毛玉が君に夢中になっている隙に、僕が捕獲用の術を張る。もし、何か危険を感じたら、この『眠りの砂』をそっと床に撒くんだ。そうしたら、すぐに眠ってしまうはずだから。」
それは、私に与えられた、たった一つのお守りだった。ガラスの小瓶をぎゅっと握りしめる。冷たいガラスの感触が、不思議と私の心を落ち着かせてくれた。
「僕とロゼは、隣の部屋で息を潜めて見守っている。大丈夫、君は一人じゃない。」
優しい声でそう言うと、イレクトさんは私の頭をくしゃり、と一度だけ撫でた。その大きな手の感触に、私はこくりと頷く。
ロゼさんが心配そうな、それでいて期待するような眼差しを私に向ける。私はふたひに「大丈夫です」という気持ちを込めて、とびきりの笑顔を作ってみせた。
やがて、ふたりは静かに薬草庫の扉の向こうへと消えていく。ばたん、と重い扉が閉まる音がして、私はひとりきりになる。
しん、と静まり返った薬草庫。天井の天窓から差し込む月光はまるで舞台照明のように、スツールに座る私だけを照らし出している。その光は決して暑くない。
(本当に、来るのかな……)
自分の心臓の音が、やけに大きく聞こえる。どくん、どくん、という規則正しいリズムだけが、この静寂の中で唯一の音だった。鼻の奥をくすぐるのは、乾燥した薬草の、少しだけ青臭くて、どこか懐かしい香り。カモミール、ラベンダー、それから、知らない甘い香り。
イレクトさんに少しずつ教わっている知識を総動員して、香りの主を特定しようと試みるのは、恐怖から意識を逸らすためのささやかな抵抗だった。私は、ぎゅっと握りしめていた小瓶を、そっと膝の上に置いた。イレクトさんのお守り。これが最後の砦だと思うと、ほんの少し心強い。
私のいた世界には、こんな夜はなかった。街はいつだって明るくて、こんな風に、月の光だけで物のかたちを認識するような経験はしたことがない。魔法も、精霊も、もちろん「マヨイビト」なんていう存在も、空想の物語の中にしか出てこなかった――いや、物語にさえ、出てこなかった。
けれど、私はそんな空想の物語が誰よりも大好きなのだ。
(イレギュラーな、罠……)
イレクトさんの言葉が、頭の中で反響する。この世界に来てからずっと、私は異物で、迷子で、保護されるべき存在なのだと思っていた。けれど、イレクトさんは、違うと言ってくれた。この世界の理に染まっていないことが、力になるのだと。
それは、ほんの少しだけ、私の心を軽くした。ただ流されて生きるのではなく、私だからできる役割がある。その事実が、膝の上で固く握りしめた拳に、じんわりと熱を与えてくれるようだった。
「たいせつ」が何なのかはわからない。でも、きっと見つけれられる――そんな気がする。
どれくらいの時間が経っただろうか。1分か、あるいは1時間か。緊張で硬直していた身体が、そろそろ限界を迎え始めた、その時だった。
――ちりん。
とても、とても小さな、鈴の音のようなものが聞こえた。風もないのに、どこからか。幻聴かと思って耳を澄ますと、また、ちりん、と澄んだ音が響く。
それと同時に、今まで私を照らしていた月光が、ふわりと揺らめいた。まるで、水面に光が反射したみたいに。薬草庫の中を満たしていた空気が、ほんの少しだけ、密度を増したような気がした。
次の瞬間、私の目の前の空間、月光が一番強く差し込んでいるその場所に、小さな光の粒が集まり始めた。それはまるで、無数の蛍が一点に集まってくるかのようで、瞬く間にその密度を増していく。
やがて、光の粒は一つの塊となり、柔らかな輪郭を形作った。そこに現れたのは、小さくて、まんまるで――全身が綿毛みたいにふわふわな生き物だった。
大きさは、猫や小型犬と同じくらいだろうか。 たんぽぽの綿毛をぎゅっと集めて丸くしたような、淡い光を放つ身体。はっきりとした手足は見えないけれど、その中心には、吸い込まれそうなほど黒く、潤んだ二つの瞳が、きらきらと輝いていた。
「あれが、マヴリガータ……。」
私は、息を飲むのも忘れて、その神秘的な姿に見入っていた。毛玉は、しばらく空中でぷかぷかと浮いていたが、やがて、その大きな瞳をくるりと動かして、私の存在に気がついたようだった。
ぴたり、と動きを止める。黒曜石のような瞳が、じっと私を見つめている。警戒しているのか、あるいは、品定めでもしているのか。私はイレクトさんの言いつけを思い出し、身じろぎひとつせず、ただ静かにその場に座り続けた。
数秒の沈黙の後、毛玉は、そろり、と私の方へ近づいてきた。
音もなく、滑るように。
まずは、私の足元をくんくんと嗅ぐように一周する。そして、私のつま先に、その綿毛のような身体を、ぽすん、と軽くぶつけてきた。柔らかな光の感触。それは、温かいような、冷たいような、不思議な感覚だった。
私が何の反応も示さないでいると、毛玉は安心したらしい。今度はふわりと跳ね、私の目の前の高さまでやってくると、興味深そうに私の顔を覗き込んできた。大きな瞳に、驚きで固まっている私の顔が、小さく映り込んでいる。
怖い、という感情は、いつの間にかどこかへ消えていた。代わりに胸を満たしたのは、純粋な好奇心と、目の前の小さな命に対する、愛おしさにも似た感情だった。こんなに可愛らしい生き物が、薬草庫を荒らしていたなんて、にわかには信じがたい。
毛玉は、私の髪に興味を持ったようだった。一本、するりと指先からこぼれた私の髪を、小さな前足で、じゃれている。くすぐったくて、思わず笑みがこぼれそうになるのを、必死で堪えた。
そして、毛玉はついに、私の膝の上に置かれた、ガラスの小瓶に気づいた。
小瓶の中の『眠りの砂』が、マヴリガータの放つ光に呼応するように、淡い銀色の光を放っている。毛玉は、そのきらきらとした輝きに、完全に心を奪われたようだった。小瓶の周りを、ちりん、ちりん、と嬉しそうな音を立てながら、くるくると回り始める。
(今だ……!)
私がそう直感したのと、隣の部屋から光が流れ込んできたのは、ほぼ同時だった。
薬草庫の空気が、びりり、と微かに震える。見ると、マヴリガータが夢中になっているその周囲の空間に、翠色の光の線が、すうっと走り始めていた。一本、また一本と、光の線が幾何学模様を描きながら交差し、あっという間に、鳥かごのような形の、美しい結界を編み上げていく。
その気配に、毛玉もようやく気がついた。はっとして、慌ててその場から飛び去ろうとするが、既に遅い。最後の光の線が結ばれると、翠の鳥かごは、カチン、と涼やかな音を立てて完成した。
毛玉は、光の格子に何度か身体をぶつけたが、通り抜けることはできないらしい。ちりん、ちりん、と悲しそうな、不安そうな音を立てて、その場でしょんぼりと不貞腐れている。
ばたん、と勢いよく扉が開いて、イレクトさんとロゼさんが駆け込んできた。
「やったわね、マリちゃん!」
「見事だったよ、マリ。少しも怖がらずに、よくマヴリガータを引きつけてくれた。」
イレクトさんは、私の頭を今度こそ、わしゃわしゃと力強く撫でてくれた。その手つきが、誇らしい、と言ってくれているようで、胸の奥がじんわりと温かくなる。
ロゼさんは、結界のそばまで駆け寄ると、最初は犯人を睨みつけるような厳しい顔をしていたが、光の檻の中で悲しそうに揺れる毛玉の姿を見て、すぐにその表情を和らげた。
「……あら。本当に、綿毛みたい。こんなに小さな子が、私の薬草を?」
「ああ。この子はまだ、善悪の区別もつかないんだろう。ただ、この薬草庫に満ちる月の魔力が、美味しくて、心地よかっただけなんだ。」
イレクトさんは結界にそっと手を触れる。すると、毛玉はびくりと身体を震わせたが、イレクトさんが穏やかな魔力を送ると、少しだけ落ち着きを取り戻したようだった。
「どうするの、イレクト?この子。」
ロゼさんの問いに、イレクトさんは少しだけ考えると、にこりと微笑んだ。
「決まっているさ。月の光がもっとたくさん降り注ぐ、森の奥へ送ってやろう。そこなら、君のところの薬草よりも、もっと美味しくて、栄養のある『月の涙』の原種がたくさん自生しているからね。」
「森の奥へ……。そうね、それがいいわ。」
ロゼさんは、すっかり母親のような優しい顔で、頷いた。
私の、はじめてのおしごと。それは、犯人を捕まえて、罰を与えることではない。困っている人と、道に迷ってしまった小さな精霊。その両方を助けること。
イレクトさんは、くるりと私の方を振り返ると、満面の笑みを浮かべて言った。
「お疲れ様、マリ。君のおかげで、依頼は無事達成だ。マリ、改めてようこそ――『木漏れ日』へ。」
その言葉が、どんな報酬よりも、嬉しかった。天窓から差し込む月の光が、私たちの足元を、優しく、祝福するように照らしていた。
マヨイビトのコント・ドゥ・フェ 夏乃 @noche0727
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