外伝3 心の檻

カタッ。

高い塔の上で、牢の扉が開く音がした。

看守が小声で「どうぞ」と言い、見えない壁の陰に下がった。

私は顔を上げなかった。

誰が来ようとも、私の結末はもう変えられないことを知っていたからだ。

「……見てみろ、セモニエ皇女。今の君のその格好。華やかな衣服は藁と泥にまみれ、あれほど陽光のように美しかった金の髪も、嵐に打たれたようだ。」

その言葉の一つ一つが、古びた壁の隙間から吹き込む冷たい風のように身を刺した。

――ヴァレン公爵。

複雑な装飾の金具が触れ合う音、傲慢で上品な話し方。

この声を聞き間違えることはない。

ゆっくりと近づく足音。

私は思わず背を向け、今の自分の表情を見られたくなかった。

「……陛下がどんな裁きを下されようと、異議はありません。」

「やれやれ、相変わらず石頭だな。」

ヴァレン公爵はあざけるように言い、私のすぐそばで足を止めた。

「惜しいことをしたね。最初からヴァレンと組んでいれば、こんな小細工で失敗することもなかったろうに。密輸だろうが、殺人の隠蔽だろうが、ヴァレン家にとっちゃ朝飯前だ。」

「……ふっ。なるほど、そうやって財務大臣の座を奪ったのですね。わたくしには真似できませんわ。」

「愚かで、そして決断力が足りない――それが君の敗因だ。」

その冷たい声は刃のように胸に突き刺さる。

「わたくしが望んだのはただ一つ。婚約を解き、帝国の皇族に報いを受けさせること。それだけです。」

「では一つ聞こう。なぜ妹を巻き込んだ?」

それまで軽かった口調が、一瞬で重く低く変わった。

その奥には、隠しきれない怒りが潜んでいた。

「護國卿や他の誰を狙おうと構わん。だが、ヘローナだけには――決して手を出してはならない。」

「……私は――」

声が喉につかえ、言葉が出なかった。

頭の中をよぎったのは、ヘローナ様と過ごした日々の記憶。

私は知っていた。

自分が彼女を陥れようとしたのは、嫉妬からだということを。

計画が完璧でないことも分かっていたのに、それでも突き進んだ。

どこで間違えたのだろう?

最初にサノー伯爵の密書を受け取ったときか。

あの宿屋の外で気絶した二人を運び出したときか。

それとも、皇都に戻って従兄様に二人の密通を告発したあの瞬間か。

いや――違う。

最初から、全部間違いだったんだ。

おそらくすべては、あの日。

キャストレイの軍事機密を従兄へ送ると決めた、その時点で腐っていたのだ。

まるでバタフライ効果のように、あの日を境に踏み出す一歩一歩がすべて連鎖し、逃げ場のない迷路へと変わっていった。

――そして私は、結局“詰み”を迎える日から逃れることはできなかった。

対照的に、ヘローナ様の盤上には最初から有利な駒が並んでいた。

彼女の盤上は、彼女を深く愛する兄によって操られていた。

彼女はそれに気づいていなかったが、盤が開かれた時点で、すでに圧倒的な先手を取っていたのだ。

そして彼女もまた、自らの意志で駒を進め始めた。

少し乱暴ではあったが、確かに彼女には盤を壊すだけの勇気と意志があった。

ましてや、彼女の相手――もし従兄様が彼女の対戦相手だと言うのなら、あまりにも手加減しすぎていた。

行宮の地下室で見つけた鉄箱の秘密も、結局は二人の関係を壊すことはできなかった。

ならば、もうどうしようもない。

裁きの言葉が読み上げられた瞬間、私は自分の結末を受け入れた。

運命の不公平を嘆いても、何の意味もない。

誰かを呪うより、せめて最後は、皇族としての誇りを持って死にたい。

「どうした?もう弁解もないのか?」

ヴァレン公爵の声が冷たく響いた。

私は首を横に振り、沈黙で答えた。

「まあいい。雑談はここまでだ。今日は人づてに、ある物を渡しに来た。」

何かが背後の床に置かれる音がした。

――ガラスの瓶の、軽い音。

「もしすべてに絶望したのなら、これを使えば楽になれる。」

――人づてに?

いくつもの考えが頭をよぎる。

「……誰がこれを?」

「さあな。それを言わないのは、送り主が望んでいるからだ。でないと、その人は君の死に罪悪感を抱くことになるだろうからな。」

従兄様?ヘローナ様?それともランスヴィル?あるいは――ヴァレン公爵自身?

わざと私を惑わせようとしているのかもしれない。

「もちろん、使わなくてもいい。皇太子殿下は君の命を残す方法を考えているそうだ。もしかしたら生き延びられるかもしれないな――平民に落とされるか、辺境に流されるかは分からんが。」

「……分かりました。」

「今度こそ、正しい選択をしろ。これが――君の最後の幕だ。」

ヴァレン公爵が背を向ける。靴音が石の床に響き、やがて遠ざかって、死神の足音のように長く尾を引いた。


「皇帝陛下および皇太子殿下は、汝に対し最終の裁きを下された。罪を負う者セモニエ、その心正しからず。重臣と皇族の名誉を陥れ、皇室の威信と帝国の安寧を損なう罪、重大なり。貴族会議の一致により、汝の皇族としての称号および継承権を永久に剥奪し、庶民に降格。アスカーナ北部山脈の修道院へと流し、終生、自らの罪を悔い改めよ――即日執行とする。」

判決文を読み上げたのは、あの日法廷で裁きを行った教皇だった。

その傍らに立ち、証人として見届けていたのは、かつて私の主治医であるフォスタスだった。一年ものあいだ私を看護してくれた彼は、もはやその平穏な瞳で私を見つめることはなく、濃い睫毛の陰に視線を落としていた。

「フォスタス様……」

教皇が出ていこうとするその背に、私は声を掛けた。

「何であれ……皇都での間、ありがとうございました。」

「私は医師としての務めを果たしただけです。――お身体は来た頃よりずいぶん良くなられた。けれど、心の病は薬では癒せません。願わくば、真摯な悔悟が神の赦しに届きますように。」

別れ際、レンガ色の瞳が一瞬だけこちらを見た。そのまま彼は静かに踵を返し、回廊の奥へと消えていった。

即日執行、つまり明日。

これを「赦し」と呼ぶべきなのだろうか。

だが帝国に生きる者なら誰もが知っている。アスカーナ北部山脈――そこは不毛の地、氷雪と岩しかない荒野だ。

修道院の生活とは、毎日の労働と祈り。まるで自らを鞭打ち、罪を洗い流すための儀式のような、寒々しく単調な日々が待っている。

それはもう、別の牢獄にすぎない。

しかも、かつて貴族だった私を、そこにいる者たちが受け入れるとは限らない。

贅沢に慣れきった私が、本当に何も望まず生きられるのだろうか?

……いや、無理だ。きっと私は変われない。

そんな生を続けるくらいなら、いっそ――。

最後に、もう一度だけ従兄に会いたい。

赦しなど望まない。ただ、もう一度その顔を見たい。

あの氷のような青い瞳が、今の私をどう見つめるのか。

哀れみ?嫌悪?それとも失望?

ほんの一瞬でもいい、神よ。

どうか、もう一度彼に会わせてください。

あの孤独な時、涙を拭ってくれた、私の優しい兄に。

「……皇太子様に、お会いしたいのです。」

見張りの兵士たちは驚いたように顔を見合わせた。

「……申し訳ありません、元皇女様。あなたは今、ただの庶民です。皇族に会う権利はありません。」

「お願いです……どうか、お願いします!これが私にとって最後なんです!」

兵士たちは困ったようにため息をつき、肩をすくめた。

「……正直、この結果なら悪くはないんだ。命があるだけでも上等だろ?これ以上騒がないで、早く休みなさい。」

「……」

壁の高い窓から、月光が差し込む。

瓶の中の液体が光を反射し、妖しく輝いた。

まるで私に選択を迫るように――。

もう、彼は来ない。

そんなの、私にとっては死んだも同じだ。

私の中の従兄への想いは、愛なのか、憎しみなのか。

優しさへの恋慕か、裏切りと支配への怒りか。

そう考えると、やっぱり憎しみの方がまだ強いのかもしれない。

なのに――どうしてこんなにも胸が痛いのだろう。

もう、彼を憎みたくない。

このまま、彼を愛したままでいたい。

愛した気持ちのまま、死にたい。

もし来世があるなら、ただの兄妹として、争いも陰謀もない世界で、静かに生きていたい。

――夜明けが近い。もう決める時だ。

私は、腐っていく物語の最後の一行を自ら書くように、ゆっくりとその瓶へ手を伸ばした。

だがその瞬間、鋭い金属音が響き、瓶は粉々に砕け散った。液体が手に飛び散り、冷たく滑る感触が残る。

悲鳴を上げる間もなく、見張りの兵たちが次々と倒れ込んだ。そして、通路の奥に立っていた黒い外套の影――

そこにいたのは、最も予想していなかった人物だった。

「何日か会わないうちに、ずいぶんと情けない顔になったじゃねぇか。そんなに死にたかったのか?……ったく、がっかりだぜ。」

「あんたは……!」

一瞬言葉を失った。

「……わたくしを殺しに来たの?」

「ハッ?殺す?俺様はそんな甘い真似はしねぇよ。」

ランスヴィルは顔に飛んだ血を指でぬぐい、倒れた兵から鍵を奪い取ると、鉄格子を開けて入ってきた。

「十年も皇太子の犬をやって、やっと上流貴族の仲間入りってとこだったのに……お前のせいで全部パァだ。もしお前が俺様の立場だったら、どうする?」

全身が凍りつく。

この男は――本気なの。

思わず後ずさりし、壁際に追い詰められた。

「ほう?いい目をしてるじゃねぇか。さっきまでの死んだ魚みてぇな目より、よっぽどマシだ。」

ランスヴィルは鉄の扉をゆっくりと開け、獲物を見下ろすように私を見た。

その緑の瞳は、飢えた獣のように光っていた。

私は爪を立てて自分の腕を強くつねり、恐怖を抑え込もうとした。

それでも声は震え、喉が勝手に震えてしまう。

「……こんなふうに堂々と牢を破るなんて、従兄様に罪を問われるのが怖くないの?」

「この期に及んで、まだあいつがお前の生死を気にするとでも思ってんのか?」

支配するように、ざらついた掌が私の細い首筋に絡みついた。

息が詰まる。

喉を締めつけられる痛みが、遠い昔の記憶を呼び覚ます。

その力加減は、数多の拷問を経て身につけた最適な刑罰――すぐに殺しはしないが、確実に圧迫と眩暈で心を折る。

そうだ。

この暴虐な男と初めて相まみえた、あの血の戦場でも同じだった。

どうして、あの時から何一つ変われなかったのだろう。

……本当に、悔しい。

「あいつにとって、お前はただの捨て駒だ。」

侮蔑の視線が冷たく射抜いて、瀕死の虫けらを踏み潰すような目だった。

やがて、首元の圧力がふっと緩み、支えを失った私は地面に崩れ落ち、激しく咳き込む。

「げほっ、げほっ……!」

「だがな、俺様の目から見りゃ、捨て駒には捨て駒なりの価値がある。もらった報酬が値下がりしたところで、返す理由はねぇだろ。

――覚えてるか、俺様との賭けを。さっきのあの、死に急ぐようなツラを見る限りじゃ、もう忘れちまったみてぇだな。」

ランスヴィルは乱暴に私の顎をつかみ、咳き込みながら涙を浮かべる私の顔を、上から覗き込んだ。満足げに目を細め、その表情には嗜虐的な笑みが浮かんでいる。

「お前の負けだ。」

「……ふ、ふふ……覚えてるわ。あの時言ったでしょう……婚約から結婚までの間に、って。でも今の私は庶民の身よ。婚約は無効、賭けも当然――」

「誰が、婚約が無効だと言った?」

ランスヴィルは眉をわずかに上げ、いたずらっぽく口角を吊り上げた。

「庶民同士――お似合いじゃねぇか。」

「……もう、狂ってるわ、あんた。」

「自分の意志で、この先の人生を俺様に捧げるって言ったんだぜ。」

その声は低く、静かで、それでいて底知れぬ確信に満ちていた。

「そんなこと、わたくしが――んっ!」

言葉の続きを遮ったのは、何の前触れもない口づけだった。至近距離に混ざり合う息、狂気と執着の宿る眼差し――

その圧に、私はようやく現実を悟る。

奪われた。

初めての口づけを。

――どうして、こんな形で?

背中を壁に押しつけられ、逃げることもできない。唇の隙間から流れ込んだのは、愛ではなく、苦い薬の味だった。異質な液体の匂いが、互いの吐息と混ざり合い、それは舌の上を這う毒蛇のように、私の意識をかき乱していく。

苦味はやがて甘い香へと変わり、頭の奥で花火のように弾けた。そして、抗う間もなく、抗えぬ眠気が全身を包み込む。

――いや……いやよ……。

もう抵抗する力は残っていなかった。

朦朧とする視界の中、揺らめく枯葉のような黄褐色の髪が見えた。

それが、目を閉じる前に見た、最後の光景だった。


再び目を覚ましたとき、両目には布が巻かれ、両手両足も荒縄で固く縛られていた。柔らかな感触が背中を包み――どうやら、ベッドの上らしいと気づく。

身じろぎして周囲を探ろうとした瞬間、あの聞き覚えのある、憎たらしい声が闇の中から響いた。

「目が覚めたか?」

「……」

嫌な予感が背筋を走った。逃げ出したい衝動が体の奥で叫んでいるのに、縛られた四肢は言うことをきかない。

「どうせ聞きたいんだろ?“ここがどこか”、“これから何をされるか”ってな?」

「……」

「ここは帝国の南部、ファインケンの領地。俺様はこれから――夫としてやるべきことをするだけだ。……口は塞いでないはずだが、少しくらい喋ってみたらどうだ?」

「……あんたと話す気はない。」

「ふん……そんなに俺様が嫌いか?」

「……」

「そのプライドはもう捨てる方がいいぞ、皇女ちゃん――いや、“元”皇女だったな。今のお前は、俺様に拾われた戸籍すらねぇ流民にすぎねぇ。」

「それは、どういう意味?」

「文字通りの意味だ。皇太子は“皇女が獄中で自殺した”と宣言した。皇都の連中はそれを信じてる。もう誰も、お前を皇女として扱いやしねぇ。」

もし本当にそうなら、どうして私を助けたのか、ますます分からない。

皇女としての価値で欲しているわけじゃないのなら――どうして、生かしておくの?

「……わたくしを辱めるために、生かしておいたってわけ?」

「お前の目にはそう映るかもな。」

すぐ近くに気配が迫り、荒い息が頬にかかった。粗い掌が顎を持ち上げて、暗闇の中でも分かった――あの妖しい緑の瞳。

「だが、俺様から見れば、“綺麗な婚約者を手放したくない”だけだ。」

顔を背けようとしたが、すぐに腕が回り、体を引き寄せられた。野獣のような心音が耳元で鳴り響き、その熱が怖いほど近い。

「……お願い、もうやめて。」

ほとんど懇願にも似た声だった。

「もう、疲れたの……これ以上、苦しめないで……。」

苦しみの涙が目を覆う布を濡らし、頬の輪郭を伝って落ちていった。

「はぁ……泣くなよ。俺様は、あの時牙を剥くお前の方が好き。」

ランスヴィルは不器用に指先で溢れた涙を拭った。

「お前の人生はまだ終わっちゃいねぇ、セモニエ。たとえ皇族の身分も継承権も奪われたとしても――もしお前に子どもができたら、どうなると思う?」

その一言に息をのんだ。

「皇女セモニエはもう死んだのよ!子どもなんていないのでは……」

「歴史なんて、書く者の都合でどうとでもなるもんだ。もしお前の子がいつか玉座に就くことになれば――そのとき、この歴史はいくらでも正しい形に書き換えられるさ。」

確かに、彼の言うことは理屈としては通っていた。涙が乾いた頃、頭の中に冷静さが少しずつ戻ってくる。

「お前が俺様の子を産むなら、俺様はお前の最強の味方になってやる。」

「……もし拒んだら?」

「拒んだとしても、お前を他の誰かに渡す気はねぇけどな。」

鬼のような声が耳の奥にまとわりつく。

私は理解した。もう、選択の余地はない。

この狡猾な男こそが、私を逃げられない場所へ追い詰めた張本人だ。

従うしかない。

「……分かった。あんたと手を組むわ。」

「賢い判断だな。だが、本当に協力する気があるかどうか――お前の覚悟をこの手で確かめさせてもらう。」

大きな手が腰をなぞるように動いている。

私は唇を噛み、別のことを考えようとする。

だが、視界を奪われた今、音も息づかいも、すべてが鮮明に胸を打った。

「俺様を楽しませてみろ。考えることもできねぇほどに、お前に惑わされるようにな。――そうなったら、お前が望むことを、何でもしてやる。」

ゆっくりと、情熱的にキスが降り注ぎ、その手は焦らすように、肩甲骨と腰の間になぞっていた。

……正気を失いそうなのは、私の方だった。

本能的に身をよじろうとするたびに、巧みに押さえつけられ、触れるたびに抑えきれない震えが走った。閉じていた花の蕾は何度も蹂躙され、やがて乱れるように咲いた。抑えきれない喘ぎ声とともに、快楽の波が全身に襲われ、何もかもが真っ白になっていった。

「今夜からお前は、俺様だけのものだ。……協力の誠意はどこまで見せられるか、試してみろ。」


(バッドエンド)

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皇太子妃となった私が掴んだのは、陰謀か愛か 霜パン @shimomodesuwa

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