鬼とわたし

沙知乃ユリ

鬼とわたし


飛行機と電車を乗り継いで三時間、名来市は駅前からして眠ったように静かだった。

アーケードの下にはシャッターを下ろした商店が連なり、コンビニだけが煌々と輝いていた。

そこからさらにバスで三十分揺られて、山や森を抜けた先。

巨大な工場が姿を現した。

周りには社員寮のアパートが整然と並び、さきほど目にしたシャッター街を思い出してしまう。

「なんだか、すごいところに来ちゃったかも」

キャリーケースの重みが、不安と一緒にずしりと腕に食い込んだ。


大学時代、恋愛や旅行に熱中する同級生を横目に、私は必死で就活に打ち込んだ。

一日中、家族の帰りを待って、家で過ごす。そんな母のような人生は絶対に嫌だった。

華やかなオフィス街で働く未来を夢見て、やっと手に入れた内定だったのに。

告げられたのは地方工場の辞令だった。


同期のグループチャットでも、その地方工場はたびたび話題になっていた。

“何人も立て続けに辞めた”、“三ヶ月が最長記録”、“上司が鬼のよう”

あり得そうな話、あり得なさそうな話が混在し、みな他人事としてネタにしていた。

“私、そこ配属なんだけど、それってホントの話?詳しい人いたら教えてくれる?”

と打ち込んで、全て消した。適当なスタンプで存在証明だけはしておく。

チャット上の話題は、既に都会での生活プランに移っていた。


「ダメダメ、こんなんじゃ気持ちまで負けちゃう」

決まったことをクヨクヨ考えても仕方ない。

猫背になった身体に力を入れなおす。背筋を伸ばすと、工場の煙突が青空にすっと伸びていた。

「――なんとかなる。きっと」


工場に入ると、入り口は異界のように静寂に包まれていた。ひんやりとした空気と、わずかに油の匂いが混ざっていた。

春の日差しの下を歩き、少し汗ばんでいた私のからだは喜んでいた。

出迎えてくれたのは、姿勢の良い中年女性だった。凜々しい顔つきの中に、どこか抜けた雰囲気があった。親しみがもてる。

「新入社員の櫻田です。よろしくお願いします」

「主任の野崎です。遠いところ、お疲れ様でしたね。……あ、バスのなか、酔わなかった?あなたが来てくれて本当に感謝してるわ。仕事は、まずは一緒にやって覚えていきましょうね。慌てなくて良いからね」

あの噂の鬼が、この人なのか。ハッキリ言って拍子抜けだ。


「あとは、そうだなあ。私、ちょっとだけ忙しそうに見えると思うけど、いつでも話しかけて良いからね。本当に」

不器用な笑顔で、精いっぱいの気遣いを見せてくれているのがわかった。


「じゃあ、職場と、後は社員寮も案内するね」

この人となら大丈夫。そう信じて疑わなかった。

しかし、その期待はすぐに打ち砕かれた。


わずか数日で、野崎主任の仕事量は尋常ではなかったことは傍目にもわかった。本社で仕事自慢していたエース社員と比べてもざっと三倍。野崎主任は達人的なスピードで多種多様な仕事をさばいていたのだった。

私、あんな風になれるのかな。

でも、達人の隣で経験を積めば、私も免許皆伝くらいにはなれるかも。


そんな朝に、唐突な依頼が舞い込んできた。

「おはよう。今日の午後、本社から部長が来るの。工場の案内をお願いね。大丈夫、できるよ」

野崎主任は、私とすれ違う十数秒の間にそれだけ言い残していった。

「え!?あ……はい。案内……?」

初日に野崎主任と歩いたルートを思い出し、何度かシミュレーションしておいた。

作業場に搬出口、休憩室、ロッカー、事務所。他にも地図を見ておこう。

野崎主任から仕事をお願いされたのは初めてだ。

よーし、やってやるぞ。


午後、工場に部長ほか担当者が数名、視察にやって来た。

スーツの一団はみなパリッと折り目をつけて、洗練された装いだ。

そのなかには、私の同期の小松も居た。


小松と視線が一瞬ぶつかる。小松の口元がわずかに歪んだ気がした。

小松からは私がどう見えているのだろう。惨めなやつと思われているだろうか。

私が、その場所に立ちたかったのに。


そんな考えをよそに、部長から応接室に案内するよう頼まれた。

私は、妙に呼吸が荒くなっていることに気づいた。

「えっと……こちらです!」

慣れない笑顔を貼り付け、廊下を先導する。背後に靴音がそろって響く。


小松は涼しい顔で一団に溶け込んでいた。その横顔は、私の不安をますます際立たせた。

小松の横顔に心をうばわれ、確認していたはずのルートが曖昧になった。気づけば違う通路に足を踏み入れていた。

通路の先には「関係者以外立入禁止」の黄色い標識。鋭い機械音が響き、赤いランプが明滅する危険エリアだった。


「珍しい場所に応接室があるのかな」

背後で部長が可笑しそうに声を上げた。一団から失笑が漏れた。

小松の口元が動いた瞬間、足が止まった。

通路の奥で、赤いランプが無機質に点滅し続ける。

――間違えた。

「はいはい、こっちですよ!」

声が響いたときには、主任がもう前に立っていた。


颯爽と現れた野崎主任が、明るく笑いながら来客の前に立った。

主任は奥で別の取引先と会議中のはずだったのに。

「この辺りは工場の心臓部でね、迫力あるでしょう? 是非皆様にもご覧頂きたくてね。では応接室に向かいましょう」

そう言って軽快に方向を変えると、客たちはまた納得したように頷いていた。


さっきまで震えていた足が、今は床に張り付いたように動けなかった。

ただ謝ることしかできない私と違って、野崎主任はミスすら軽やかに処理し、場を和ませてしまう。


終業後、野崎主任がやってきた。足取りは重そうなのに、声は柔らかかった。

「昼はお疲れさま。急な仕事でもよく対応してくれたね。ありがとう。また仕事頼むかもしれないけど、頼りにしてるね」

「あの、私、道を間違っちゃったんですけど」

「ああ、大丈夫。あんなの大したことじゃないから、気にしないで。やってるうちにできうようになるよ。ちゃんとフォローするから」


何の含みもないカラッとした笑顔。去っていく背中を見ながら、思わずつぶやいた。

「……やっぱり鬼だ」

私の胸は、太陽を浴びたみたいに温かくなっていた。

都会では味わえなかった種類の温かさだった。


秋の終わり、主任が落としたボールペンを拾ったとき、指先に小さな火傷跡を見つけた。

その火傷跡が、一瞬だけ橙に光ったように見えた。

あの人の時間の重さが、ほんの少しだけ伝わった気がした。


山が少しずつ雪化粧を始めても、胸の奥の火種は小さくても確実に燃え続けた。

毎日の業務の意味を知り、それを丁寧に積み重ねる。最後まで気を抜かない。

地味で誰にも気づかれない努力かもしれない。でも私は毎日、それを繰り返してきた。

徐々に野崎主任からフォローされる頻度は減っていった。


少しでも野崎主任の負担を減らしたい。それが今の私の目標だった。

いつも夜遅くまで残っている野崎主任の背中を見て、いつしかそう願うようになった。

「いつか、対等な仕事仲間になりたい」

帰り道に、その言葉だけがぽつんと響いた。


師走の冷たい風が吹きすさぶ夜、野崎主任から珍しく「食事に行かない?」と声をかけられた。


シャッター商店街の端っこにある居酒屋。暖簾をくぐると、焼き鳥の煙と醤油の香ばしい匂いが迎えてくれた。小さな座敷にはガタガタのちゃぶ台がひとつ。オレンジ色の裸電球が部屋全体を橙に染めて、夕暮れみたいだった。


仕事や田舎暮らし生活のことなどひとしきり話した後、主任はビールを一口飲んでから、ぽつりと言った。

「私ね、実は出世コースから外れた人間なんだ」


私は唐揚げに伸ばした箸を止めた。主任が弱みを見せるなんて、初めてだった。

「いわゆる派閥争いの煽りを受けたのね。当時は納得できなかったし、やさぐれていた時期もあった。凹んだロッカーがあるでしょ?あれ私なの」

え、主任って意外と武闘派なの?

「でも――現場に来てみて、ここでの仕事も決して小さくないって気づいたの。むしろ誇れる仕事だって思ってる」


言葉の端に力がこもっていた。けれどすぐに苦笑が混じる。

「ただね、人に頼るのが本当に苦手で。自分でやる方が速いからね。だから後輩を育てるのも下手なのよ。今まで何人も辞めちゃったでしょ? 私のせいだって、わかってるんだけどね」


主任は串のネギマを口に運んだ。

座敷からは厨房の店長も、その奥にあるテレビも見えた。ブラウン管テレビは都会のロケ番組を写す。店長は焼き鳥を焼いていた。香ばしい匂いが漂ってくる。


主任は小声で続けた。

「実はね、櫻田さんまで困らせてるんじゃないかって、不安になることがあるの」


私は目を瞬いた。

あの“鬼”と呼ばれる人が、こんなことを思っていたなんて。

拍子抜けしたのと同時に、胸の奥で親しみがふっと広がった。


「えっと。私なんかまだまだで……でも、それでも――」

咄嗟に口をついて出たのは、不安の言葉だった。


「櫻田さんは、すごく成長してるわ。きっと私なんてすぐに追い越す」

こんな時でも野崎主任は私を励ましてくれる。

だけど、主任の弱さも、私は既に知ったのだ。

たどたどしくても、私の想いを伝えたい。


「私、主任のこと、すごく尊敬してて。初めて会ったときから鬼だなーって。でも優しくて達人みたいだな、って。ずっと手本にしてきました。だから、その……えっと……私、主任みたいになりたいんです!」


主任は箸を止め、ぽかんと私を見た。次の瞬間、顔を赤くして慌ててビールを煽る。

「な、何それ。私を酔わせてどうする気なのよ?」

その照れ隠しの仕草に、思わず笑いがこぼれた。


「ち、違いますよ! 本気ですから!」

「……ふふ、ありがと。鬼の野崎、そんなこと言われたら、ますます辞められないじゃない」

「主任も自分で鬼の呼び名、気に入ってるんですね」

私はビールを一口飲んで、笑った。

「……本当に、ありがと」

野崎主任の小さな感謝の言葉は、店員のオーダーの声に紛れた。


居酒屋を出ると、冷気が頬を刺した。

地方の暗い夜空には都会では見えない名前も知らない双子星が煌めいていた。

私もあの双子星みたいに、主任を支える光になるんだ。


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年が明け、工場は今年最初の呼吸を始めた。

その最初の納期前日の夕方。

パソコンの画面に映るフォルダを見て、思わず声を上げた。


「……え、嘘。データが……ない!?」


共有フォルダに保存していた提出用の書類の一部が、丸ごと消えていた。

頭が真っ白になり、マウスを何度もクリックする。けれど更新しても、どこにも見当たらない。


「どうしたの?」

背後から声がして、私は振り返った。

野崎主任が立っていた。


「し、主任! データが……提出書類の一部が消えてるんです!」

声が裏返った。手は汗でじっとり湿っている。

主任は眉を寄せつつも落ち着いた声で言った。

「見せて」

モニターを覗き込んだ主任は、しばらく沈黙した後、低く呟いた。

「……まずいな。明日の午前までに仕上げないと」


一気に心臓が跳ね上がった。

「ど、どうしましょう!? バックアップは? 印刷済みは?」

頭の中で選択肢を探すが、どれも徒労に終わる。

思考がぐるぐると空回りして、目の前が暗くなる。


「大丈夫。全体の流れは私が覚えてる」

主任はすぐにペンを取り、用紙に書き出し始めた。

「でも細かい数値や備考は……」


「わ、私がやります!」

気づけば叫んでいた。

自分が入力した箇所なら、メモに控えてある。頭にも残っている。

「ここの点検日は十月十二日、“部品交換済み”です! 隣は九月二十八日、“点検のみ”!」


二人で慌ただしくキーボードを叩いた。

私の震える指先と、主任の迷いのない手の動きが重なり合う。

一行ずつ、抜け落ちたデータが息を吹き返していく。


「……主任、ここ、違ってます!」

「あっ、本当だ。私としたことが……」

ほんの一瞬、主任の声が震えた。

それを見て、私はキーボードを叩く手を早めた。

「櫻田さん、ここ字が間違ってるわ」

「あっ・・・・・・すみません、ありがとうございます」

焦りながらの長時間の作業は、どうしてもミスを生む。

それをお互いにフォローしあった。

そして主任と私は、上司と部下ではなく、戦友のようになれた気がした。


気づけば深夜。

最後の項目を入力し終えた瞬間、私は椅子に崩れ落ちた。

「……はぁ、間に合った」

涙と汗が混じって、頬を熱く濡らしていた。


主任は大きく息をつき、私を見た。

「櫻田さん、よく覚えてたね。あなたのおかげで仕上がった」

「い、いえ……主任が全体を引っ張ってくれたからです」


主任はふっと笑った。

「一緒にやってきたからこそ、補えたんだよ」

胸がドクンと鳴った。

――あのとき“鬼”だと思った人は、今は背中を預けられる相棒だ。


深夜にようやく復旧した書類を提出し終えたとき、私は椅子に沈み込みながら思った。

――これからも、この人と一緒にやっていける。

失敗しても支えてくれる。だけど、ただ守られるだけじゃなく、私も支え返せる。

その実感が、身体の芯に温かく広がっていた。


「よし。櫻田さん、これで大丈夫だ」

野崎主任がモニターを閉じながら笑った。

その横顔を見て、私は小さく頷いた。

「はい。次も……私が支えます」


――翌週の月曜。


人事部からの封筒を手にした瞬間、心臓が高鳴った。

辞令。内容は一行。

「四月一日付で本社勤務を命ず」


一瞬、膝が抜けそうになった。

また突然の異動。自分の意思とは無関係に、人生が振り回されていく。

けれど、不思議と恐怖はなかった。


野崎主任の顔が浮かんだ。

あの人は現場に残る。私は都会へ戻る。

それでも、ここで学んだ「地道に働く強さ」は、もう揺らがない。


「……振り回されても、私は負けない」

声に出すと、胸の奥に小さな炎がともった。

私は笑っていた。


――春が来た。


四月。

私は実家に戻らず、都内で一人暮らしを始めた。

薄暗いアパートのワンルーム。狭いけれど、これが自分の場所だ。


初出社の日、ガラス張りの本社ビルに映る自分の姿を見て、息を整える。

洗練されたスーツの波の中に、同期の小松がいた。

涼しい顔の彼女と目が合う。

彼女は笑顔で手を振ってきた。


以前なら眩しさに目をそらしたかもしれない。

でも、今は違う。


「おはよう」

堂々と声をかける。

小松が目を丸くしたあと、少し照れくさそうに笑った。

それだけで十分だった。


私は都会に戻ってきた。

だけど、もうあの頃の私じゃない。

どこに配属されても、どんな状況でも――私は胸を張って進んでいける。


本社に戻って数日後、昼休みにスマホが震えた。

差出人は野崎主任。

件名はなく、本文はただ一行。


頑張って。


それだけだった。

けれど、目の奥がじんと熱くなった。

不器用で、いつも余計な飾りをつけない人らしい。

だからこそ、この言葉には余計なものが一切なくて、真っすぐに届いた。


スマホの画面が静かに暗転した。

昼休みの喧騒の中で、私は胸の奥の小さな炎が確かに灯り続けているのを感じていた。

その光は、もう誰のものでもなく、私自身のものだった。


――――――――――――――――――――――


◆あとがき

「鬼」と呼ばれる人にも、きっと理由があるのだと思います。

どんなに不器用でも、まっすぐに仕事や人と向き合う姿は、誰かの心に灯をともす。

櫻田にとっての野崎主任は、そんな存在でした。


シリーズ前半で描いた「影」に対して、この作品は「光」へと踏み出す一歩です。

不器用でも、温かい人間たちの物語を、これからも綴っていきたいと思います。

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