第5話 ハンドクリームの夜

 成人式を終えたばかりの達也は、雪の舞い散る夜道を一人歩いていた。

 忘れ物を取りに戻ろうにも、会場はすでに閉まり、携帯も財布もない。

凍える手をポケットに突っ込んで、駅前の明かりを目指したそのとき——


「達ちゃん?」

振り返れば、そこに沙織が立っていた。

幼い頃からずっと憧れていた、近所の五歳上のお姉さん。

来月、彼女が結婚するのだと噂で聞いたばかりだった。


「寒そうだね、家、寄ってきなよ」


 沙織の部屋に入ると、静かな暖房の音とほのかに甘い香りが迎えてくれた。

凍えた手を見て、沙織は小瓶を取り出す。


「ハンドクリーム、塗ってあげる」


 細い指先が達也の手を包む。

柔らかく、温かい。

左手の薬指に、小さなダイヤの輝き。


 達也は胸の奥で何かがはじける音を聞いた。


「余ったから、達ちゃんも塗って」

沙織の手のひらに、そっとクリームを塗り広げる。

 子どもの頃には到底及ばなかった、大人になった自分の手の大きさに、達也は少し驚きと温かさを覚えた。


「達ちゃん、手、大きくなったね」


「沙織ちゃん、もういつの話してんだよ。俺、もう20だよ」


「若いなぁ。私、もう25よ」


 言葉を交わしながらも、二人の手は自然に重なり、離れられなくなる。

甘いハンドクリームの香りが、少しずつ二人の間の距離を溶かしていった。


 達也は堪えきれず、そっと沙織を抱きしめる。

「…そんなの関係ない。ずっと、ずっと沙織ちゃんのことを…」


 沙織は一瞬驚いた表情を見せたが、そっと拒まない。

手の温もり、胸の高鳴り。

互いに秘めた想いは、ずっとそこにあったのかもしれない。


 雪の降る夜、二人の世界には、甘く切ないハンドクリームの香りだけが残った。



 達也の腕に抱かれた沙織は、一瞬戸惑ったように目を伏せた。

けれどそのまま、すっと達也の胸に顔を寄せる。


「…達ちゃん、本当に大人になったんだね」


 沙織の声はかすかに震えていた。

薬指の指輪が、達也の首筋に冷たく触れる。


達也はゆっくりと彼女の頬を撫で、

唇を重ねた。


 淡いバニラのようなハンドクリームの香りが、二人の間を満たしていく。


 最初は戸惑いながらも、沙織の手が達也の背中を撫でる。

その指先に迷いと熱が入り混じっていた。


「…沙織ちゃん、俺、ずっと…」


言いかけた瞬間、達也の唇に沙織の指がそっと触れ、言葉を止めさせる。


「言わないで…今だけ、ね」


 沙織の指先が、達也の手のひらをゆっくりと撫でる。

その温もりには、淡く甘いバニラの香りが漂うハンドクリームがしっかりと残っていた。


「この香り、覚えててくれる?」


囁く沙織の声は、いつもより少しだけ甘く、脆い。

達也は答えず、指先で沙織の頬を撫で、柔らかく額にキスを落とした。


 唇が重なると、微かにバニラの甘い香りが鼻腔を優しくくすぐる。

その香りは、沙織の体温と溶け合い、達也の感覚をゆっくりと酔わせていく。


「…達ちゃん、この香り、好き?」


「うん…昔から、沙織ちゃんの香りだなって思ってた」


その言葉に、沙織は少し潤んだ瞳で微笑む。

首筋にそっと唇を寄せると、バニラの甘さと彼女の肌の香りが絡み合い、

達也の心をゆっくりと蕩けさせていく。



「結婚する前に、バカなことしてるよね…」


そう言いながらも、沙織の指は達也のシャツのボタンを外し、

自分の肌をそっと達也の手に預ける。


バニラの香りに包まれた白い肌。

達也は震える手で沙織の髪を撫で、耳元に囁く。


「俺…ずっと、沙織ちゃんのこの香りが、忘れられなかった」


重なる体温、甘くて熱い吐息、

バニラの香りが、部屋の中に濃密に漂う。


指先に残るハンドクリームの感触も、

バニラの香りも、この夜限りの大人の秘密。


「ねぇ、達ちゃん。これ…一生、内緒ね」


そう言って涙を浮かべた沙織に、

達也はもう一度、深く唇を重ねた。


 甘く、切なく、淫らで優しい思い出になるだけの雪の夜、二人の肌に、バニラの香りだけが残った。



 

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Vanilla Memories 逸漣 @itsuren

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