二つの願い
スター☆にゅう・いっち
第1話
白い。
どこまでも広がる、境界のない白だった。
足元には影すらなく、上下も左右も曖昧で、自分が立っているのか浮かんでいるのかさえわからない。
ただ、白の静寂の中に高橋はいた。音がなく、時間が止まっているような感覚――。
そのとき、白の彼方から誰かが歩いてきた。
白衣をまとった医師だった。四十代ほどの男。痩せた頬に穏やかな笑みをたたえ、まっすぐこちらを見ている。見覚えはない。だが、なぜか恐怖はなく、胸の奥に懐かしさに似た温もりが広がった。
その傍らに、一匹の黒柴がいた。艶やかな毛並み、つぶらな瞳。リードをつけられ、静かに座っている。
――尻尾が、軽く揺れた。
「愛情のある飼い主は、皆ふたつの願いを持っている」
医師はそう言って、白の中をゆっくり歩み寄った。
「ひとつは、犬が幸せであること。もうひとつは、いつまでも一緒にいられること」
その声はやさしく、どこかで聞いた子守唄のように心地よい。
高橋は思わず問いかけた。
「……あなたは、誰ですか?」
医師は微笑んだ。
「私は、あなたと同じように犬を愛した人間です。もっとも、今はもう生きてはいませんがね」
その言葉と同時に、黒柴が立ち上がり、高橋の足元に寄ってきた。鼻先で手を押しつけるようにして、ひとつ、短く鳴いた。
高橋の胸の奥が震えた。
――この感触を、知っている。
十年前、最期を看取った愛犬「ハル」。あの小さな命の温もりが、確かにここにあった。
医師が静かに続けた。
「犬はね、別れのあと、飼い主を待っているんです。虹の橋のたもとで。
飼い主の寿命が尽きてここへ来たとき、再び出会い、一緒に虹の橋を渡る。そうして初めて、ふたつの願いが叶うのです」
高橋は息をのんだ。
胸の奥に、懐かしさと痛みが交錯する。
「ただし……」
医師は一瞬、目を伏せた。
「飼い主が自ら命を絶ってしまった場合、虹の橋を渡ることはできません。そこだけは、どうか注意してほしい」
その声が余韻のように響いた瞬間、白い世界がわずかに揺れた。
遠くで水面が波立つように、光がひらめく。
次の瞬間――
高橋は目を開けた。
まぶしいライト。鼻をつく消毒薬の匂い。
ここは、病院の手術室だった。
「……手術は成功しましたよ」
マスク越しの声が耳に届く。ぼやけた視界の中、白衣の影がいくつも動いていた。
涙が頬を伝った。理由はわからない。ただ、生きているという事実が、胸を熱くした。
退院後、病室の窓辺で、高橋は看護師に白い夢の話をした。
白い空間、白衣の医師、黒柴犬。
看護師は最初、戸惑った表情を見せたが、やがて思い出したように言った。
「……三年前まで、この病院にいた先生がいました。独身で、すごくやさしい先生。黒柴を飼ってらして。
でも犬が亡くなってから、どんどん元気をなくして……。最後はご自分も癌で亡くなられたんです」
高橋は言葉を失った。
あの医師は――。
彼は静かにうなずいた。
六十歳を迎え、妻を亡くし、愛犬にも先立たれ、天涯孤独だった自分。
癌を宣告されたとき、「もうこのまま死んでもいい」と思った。
だが今は違う。
窓の外では、夏の光が眩しく降り注いでいた。
青空の向こう、白い雲の隙間に、あの白い世界の記憶が微かに重なる。
「……あの子との再会は、もう少し先になりそうだな」
声に出してみると、不思議と心が軽くなった。
生きることは、待つことでもある。
彼はそっと目を閉じ、あの小さな黒い尻尾を思い浮かべた。
――また、いつか会おう。
その約束を胸に抱いて。
二つの願い スター☆にゅう・いっち @star_new_icchi
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