5(後)(完)
椿の話はそれからも続いた。
どうしても桃花のことを知りたくなった椿は、制服からあたりをつけて、色々調べるうちに、桃花と同じ学校の生徒と交際している先輩がいることを知ったそうだ。それが瞳の幼なじみ、渡だったらしい。
「渡先輩を通じて、瞳さんからいろいろと教えていただきました」
なぬっ、と桃花は素早く反応した。
(瞳め、おかしなことを吹き込んでねえだろな)
桃花の表情を見た椿が、「あはは」と笑う。
「変なことじゃないですよ。新山さんが八百メートルでインターハイ連覇したとか、千五百でもいいところまで行ったとか、そんな話です。すごい人が助けてくれたんだなって、嬉しくて嬉しくて……。新山さんが警察官になったと聞いて、なら自分も警察官になれば、いずれ新山さんと同じ職場で働けるかもしれないと、国総、国家公務員の試験に合格したときに警察庁を希望したんです」
「え? そんなことのために?」
桃花は心の底から驚いていた。あほじゃねえの、と。
同じ警察組織の人間でも、キャリアとノンキャリアはまったく別種の生き物だ。
椿をはじめとするキャリア警察官は国家公務員だ。あちこち異動しまくって、そのたびに階級を上げ、いずれは警察庁の上級幹部として、我が国の警察行政を司ることになるスーパーエリートたち。それがキャリア、警察官僚だ。桃花たち県採用の、馬車馬のごとく現場を駆けずり回ることを使命とする警察官とは、存在意義からして異なる。
「たしかに褒められた動機ではありませんが」桃花の訝し気な視線を受けた椿が、照れたような笑みを浮かべた。「それぐらい、僕にとっては、新山さんの存在が大きかったってことです」
くいっと、椿はお猪口の中身を飲みほした。
「はあ、なるほど」
桃花はもう、あまり椿の話をまじめには聞いていなかった。やはり、頭の出来が違うと、考え方が根底から違う。理解しようとするのもあほらしい。
(知能指数が二十以上違う相手とは話にならないって聞いたことあるしな)
桃花は七杯目のウーロン茶をグイッといった。さすがに飲みすぎたのか、ブルリと体が震えた。下腹部の奥にある、尿意を司る器官が悲鳴を上げつつある。
「あ、私ちょっと……」
トイレ、と言おうとした桃花は、椿が自分をじっと見つめていることに気づいた。さっきまでの穏やかなものではなく、どこか真剣な光を帯びた眼。
「あ、あの、課長? なにか?」
「に、新山さん。そ、その、ですね……」
なぜか椿はためらっている。なにか話があるのだろうか。このまま、席を立つのは、どうもまずい気がする。
(あとじゃダメかな? ダメだろな)
そんなことを考える桃花をよそに、椿はもじもじしながら、「あの、えっと……」とじらす。
「えと、課長。その、早くして欲しいんですけど……」
「は、はい。その、覚悟は決めてきたつもりだったんですけど、いざとなると、ですね……」
えらくじらしやがる。その間にも、桃花の膀胱は膨張の一途をたどる。
(……これ、やばくね?)
桃花に、危機感が芽生えた。
「あ、あの課長、長くなるようでしたら、ちょっと先にですね――」
「い、いえ! すぐ、言います、言いますから! すぅ……はぁ……」
中座を阻止したにもかかわらず、のんきに深呼吸を始めた椿。桃花はだんだんイライラしてきた。
(や、ヤバい……万が一、ここで漏らしたりした日には、ほんとにお嫁に行けなくなっちゃう……。いや、それどころか、人としての最後の尊厳まで……っ。この小僧、私に何のうらみがあるってんだ! あぁっ、マジでヤバいっ!)
脂汗がにじんできた。プルプルと体が小刻みに震える。椿はまだ、動かない。
限界が、もうすぐそこまで来ていた。
「か、課長! とりあえず、後で聞きますから、私、先にトイレ――」
ガタンと椅子を跳ね飛ばし、桃花が立ち上がったと同時に、椿が叫んだ。
「に、新山さん。ず、ずっと、ずっと昔から、あなたのことが、好きでした!」
「…………は?」
桃花はフリーズした。カウンターの大将も、店にいたほかの客も、皆、一様にフリーズした。
ショックで体が硬直したおかげか、尿道口もがっちりと閉じたことは、桃花にとっても、そしておそらくは大将にとっても、大変な幸運だった。
桃花は、同じ方の手足を動かしながら、ギシギシと音がしそうな固い動きで、トイレから自席へと戻った。
「か、ッかちょ?」
声が裏返った。
「んッ、し、失礼ししましった。そ、それで、ささっきのは、いいいいったい?」
「に、新山さん? 少し、落ち着いて」
「いいいやそそそそんなこといわれても」
生まれて初めての受け身の告白。これほど動揺するとは、桃花自身思ってもみなかった。
幾多の合コンに参加し、数多の男性たちにアタックをかけ続けてきた桃花だが、今思い返してみると、男性側からアプローチを受けたことなど、ただの一度もなかった。いや、合コンだけではない。赤子の頃から小学校、中学校、高校、警察学校、所轄二つ、本部と、数々の居場所でたくさんの男性と交流してきたのに、桃花に好意を向ける男性など、ただの一人もいなかった。いや、それどころか、まともな女として見てもらえた記憶すら、ない。唯一、ちゃんと女として扱ってくれたのは、あの玄陀義成だけだ。椿を助けたとき、義成の野郎から言われた「マワすぞ」という言葉。あの言葉だけは、桃花を女として見てくれた証に違いない――義成が、Gでなければ、だが。
一体、自分は何なのかと、心がずうんと重くなる。
それが、なんだ。目の前のイケメンスーパーエリートが、自分のことを好き、だと? しかも、十年以上も、想い続けていた、だと?
感、極まってきた。
「しょ、しょんなことが、あるわけないじゃないですか~うわ~んがらがわないでよ~」
桃花は再び泣き出した。
カウンターの向こうで、大将が「うわ、また始まっちまった」と額を抑えて天を仰ぐ。
「ああ、新山さん、ごめんなさい、驚かせてしまって。泣かないで、ほら」
椿があたふたしながらハンカチを取り出して、桃花についと渡してくれた。やさしく微笑む椿を見て、桃花は涙を引っ込める。ヒックヒックとしゃくりあげながら、よくよく椿の表情を読み取る。
これでも桃花は、もう何年も刑事をしている。その人が嘘をついているかどうかぐらい、かなりの精度で見抜けるつもりだ。
「か、課長……? ほんと、なんですか?」
「ええ」
「なんで? 私、あのときも今日も、ただ暴れただけですよ? 自分でいうのもなんですが、好きになる要素なんか、どこにもないじゃないですか!」
「そんなことありません。新山さんはやさしくて、とても魅力的な女性だと思います」
「わ、私! やさしくなんか、ないです! ただイラっとして好き勝手に暴れただけ――」
「そんなに、自分を卑下しないでください。誰が何と言おうと、たとえ新山さん自身がどう思われているとしても、僕にとって新山さんは、やさしくて、美しくて、カッコいい、とても魅力的な女性なんです。それは何があっても変わりません」
「う……」
揺るぎない信念を込めた椿の言葉。これほどの高評価を受けたことなど、今までの人生で一度もない。どう反応すればいいのか、桃花には、もう、まったくわからなかった。
「長い間抱え続けていた想いを伝えられて、よかった。これでようやく、前に進めます」
「え? あの、それって、どういう――」
「新山さんのような素敵な女性に、お付き合いしている方がいないわけがない。本当は、気持ちを伝えるのもやめたほうがいいと、わかっていたんです。大体、あんな情けない姿を見せた僕みたいな弱虫なんかを、新山さんのようなきれいで素敵な大人の女性が相手にするわけがないじゃないですか。でも、あのとき颯爽と現れ、見事に玄陀先輩を退け、僕のペンダントを取り返してくれた新山さんの姿に、僕は憧れを超えた感情を抱いてしまった。どうしても、あきらめきれなかったんです。今日のお姿も素敵でした。何にもできなかった僕の代わりに、あの憎たらしい玄陀先輩をあそこまで怯ませるなんて。今日の新山さんを見て、もう、たまらなくなりました。想いだけは伝えたいと。たとえ結果が見えていようと、想いを伝えなければ僕は進めないんです、どこにも。だから僕はこの年まで誰とも交際したこともなくてですね――」
桃花なら途中で三回ほど舌を噛みそうな長台詞。やはり頭がいい人は違う。
(……って、そうじゃない!)
「か、課長! ストップ、ストップ!」
「――はっ。し、失礼しました。想いがあふれてしまって。申し訳ない」
椿が面目なさそうに頭を掻いた。
(……ちょっと、この人、病的なところありそう。でも――)
「あ、あの、課長。私、彼氏なんていたことないですけど」
「そんな馬鹿な。僕に気を遣わないでください」
「いやほんとに。だから今日も合コン行こうとしてたんですから」
「……本当に?」
「ひゃ、ひゃい」
桃花は声を裏返しながら、ぶんぶんと、何度も頭を縦方向に振った。
椿はしばし桃花の顔を見つめた後、コップに残っていた水をぐいと飲み干し、おもむろに立ち上がった。
「今日はこれで失礼します。お相手してくださって、本当にありがとうございました」
深々と、丁寧にお辞儀した椿は、何枚かのお札をカウンターにおいて大将にお礼を言ったあと、桃花に対してビシリと敬礼した。
「では新山さん。また明日」
きびきびと反転した椿は、弾むような足取りで軽やかに、そのまま『ぜん』を後にした。
桃花は、椿が出て行った入口の引き戸を、ぽけーっと口を開けながら、ただ、じっと、無言で見つめていた。
いつまでもずっと、見つめていた。
桃花はこれまで、女性にとっては極めて過酷な、刑事としての人生を、たくましく、強かに生き抜いてきた。
その優れたバイタリティと身体能力は、彼女を非常に優秀な刑事たらしめていた。同僚の海千山千の男性刑事たちですら、「行動がうざい」「声がうるさい」「ちょろちょろしてて目障り」「なのにめちゃくちゃ役立つのがめちゃくちゃ腹立つ」という大絶賛を送らざるを得ないほどである。
だが、彼女は一人で生きていけるほど、強い人間ではない。隣に寄り添って人生を共に歩んでくれる、かけがえのないパートナーを望んでやまない、一人のか弱い女性にすぎない――少なくとも、自己評価では。
暑さのせいで眠ることもままならない真夏の夜においてさえ、身も、心も、寒くて寒くて仕方がなかった。室温二十度に設定した自室のベッドで、切なさにぶるぶると震え、淋しさに涙を流しながら、布団にくるまり、夜が明けるのを、じっとまどろみの中で待ち続けていた――もしかしたら、もう少し眠りは深かったかもしれないが、まあ、それはそれとして。
厳しい冬を、一人で乗り越えてきた。豪雪で
新山桃花。二十九歳。S県警察本部に勤務する、女刑事である。
彼女の春は、案外、もうすぐそこまで来ているのかもしれない。
(了)
これが桃花の生きる道! 鷹森涼 @TAKAMORIRYO
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