背が高くて、掌の大きな彼女から『憑いてるよ』って言われたらどうする?

雅枝恭幸

副題:僕と彼女と彼女(一挙完結です)

【終章】

 ◇

 今から八十二年前、あの街で、僕はその後の人生を左右する人と出逢った。

 そんな大昔の記憶にひたりながら、僕は、永遠の眠りについた。



【第一話:野菜ジュースは、まとめ買いがお得】

 ◇

 僕は【カ◯メ野菜生活100】を毎日欠かさず飲んでいる。

 小学生の頃、母が僕に勧めたのが、そもそものきっかけかもしれない。

「野菜にも含まれるビタミンKは記憶力の向上にも効くらしいから、洋輔は、たくさん食べなさいよ」と母は言ったが、実際にそんな効能があるのかは、正直、僕も調べたことはない。

 小学生の息子に、少しでも勉強ができるように……と期待して、母も勧めたのかもしれないけれど。

 野菜ジュースという印象自体、健康に良さそうなイメージなので、それ以来、ずっと毎日欠かさず飲んでいる。(※個人の感想です)

 ちなみに、いつも買うのは、200mL入りの長方形の紙パック。

 なぜ、このサイズなのか。

 家の冷蔵庫が小さいので、720mLのペットボトルだと、何本も買い置きを入れておくスペースがない。

 200mLだと、毎朝、学校へ行く前に飲み切るのに、ちょうど良い。

 一個ずつ買うよりも、十二個まとめた箱入りのを買うと、一個あたりの価格が安くなる。

 ビタミンKのことは、さておき。

 オーソドックスな、オレンジ色のオリジナル味も好きだけれど。

 鉄分・ポリフェノールが多く入っている、紫色のベリーサラダ味が特にお気に入り。

 個人的には、食物繊維・鉄分・カルシウムが多い緑色のグリーンサラダ味がほしいんだけれど、残念ながら、この味の十二個入りを置いているお店が近くにはない。

 グリーンサラダ味を初めて飲んだとき、見た目が緑色だから、青汁みたいな味を覚悟して口にしてみたら、葡萄のような甘い味がして、それ以来、グリーンサラダ味は、カ◯メ野菜生活100シリーズの中では、一、二を争う味だ。(※個人の感想です)

 見た目のイメージと、飲んでみたときの味が違うという典型的な例だと、僕は思った。

 200mLパッケージを十二個まとめた箱入りとは言っても、簡易パッケージだから、薄いダンボール箱の部分は土台しかなくて、商品全体を覆っていない。

 中の製品パッケージがよく見えるように、天辺のダンボール部分は、すべて空いているし、側面のダンボール部分も、上のほうが一部空いていて、箱全体をシュリンクで包んである。

 だから、店頭で、十二個入りの箱を買うときは、力を込めてつかむと、柔らかい紙のパッケージが、ぐしゃっと潰れそうが気がする。(※個人の感想です)

 陳列棚に二段ずつ積んである商品を見て、そんなことを考えながら、オリジナル味とベリーサラダ味を一箱ずつ選ぶ。

 中の紙パッケージがつぶれないように、そっと両手で支えるように、ダンボール箱の底全体を持ち上げる。

 そのまま、カートの買い物カゴの中へ入れて、売場をゴロゴロと押す。

 他にもお弁当、コロッケなども見繕って、買い物カゴへ入れていく。

 お目当ての商品を買い揃えると、有人レジ前にできている列の最後尾に並んだ。

 無人レジも有人レジも、同じくらい多くの客がレジ待ちしている。

 無人レジという名前なのに、ベテランにみえる店員さんが、必ず横に一人ついている。

 おそらく、そのベテランの店員さんが有人レジを使ったら、無人レジよりも数倍早く、バーコードをピッピッとスキャンして、この長いレジ待ちの整列も、さらに早く進んでいくと思うのだけれど。

 人の手の助けがないと、機械だけでは安心して仕事を任せられない無人レジ。

 店員さんの数を減らすために、導入された無人レジ。

 たとえば、公道を走るクルマに、マニュアルミッション車をほぼ見なくなって、オートマ車ばかりになったように。

 いずれは、スーパーのレジも、無人ばかりになってしまう未来もあるのかもなんて、長い整列を待ちながら、上の空で考えていた。

 気がつくと、もうすぐ僕の番だ、

 目の前で、老婦人が、お肉、魚、野菜、冷凍食品など、たくさんの食材をカゴに入れて、カートに載せて待っていた。

 背の高い女子店員さんが、老婦人の重いカゴをレジ台の上へと持ち上げる。

 買い物カゴの商品を、右から左へと、次々とバーコードスキャンしては、もうひとつのカゴへと移し替えていく。

 店員さんは、すべての商品のスキャンを済ませると、商品を収めたカゴを、老婦人のカートへ戻して、会釈をした。

「いつも、ありがとうございます。一番の精算機でお願いします」

 老婦人も、店員さんに丁寧に礼を言う。

「こちらこそ、いつも助かるわ。歳がいくと重いカゴを持ち上げるのもつらくてね」

 この老婦人は、店員さんとは、顔馴染みなのかもしれない。

 僕の番が来た。

 店員さんは、僕と同じ十八歳ぐらいに見える。

 身長が百七十二センチある僕よりも、さらに数センチは高い。

 他のレジの女性店員さんのように、笑顔を振りまくタイプではないらしい。

 真摯な表情で、店員さんが、僕へ一礼する。

「いらっしゃいませ」

 僕は、カゴをカートから持ち上げて、レジ台の上へ置いた。

 すると、店員さんは、カ◯メ野菜生活100十二個入りオリジナル味の箱を、右の掌(てのひら)の指を広げて、そのまま上から鷲づかみにすると、軽々と持ち上げた。

 UFOキャッチャーのような危うさもなく、がっしりとつかんだ箱は、素早くピっと、バーコードスキャンを済まされ、もう一方のカゴへと収められる。

 僕は、片手で軽々と、十二個入りの箱をつかんで持ち上げる目の前の店員さんの握力と、掌の大きさに、目を奪われた。

 店員さんは、続けて、ベリーサラダ味の箱も、右の掌でつかみ上げ、バーコードスキャンをして、もう一方のカゴへ収める。

 僕は頭の中で、この箱は何キロぐらいあるのだろうと暗算する。

 仮に200mLを200グラムと換算すると……

 200グラム×十二個=合計2・4キログラムぐらいか……

 そんなことを考えていたら、また上の空になっていたらしい。

 店員さんは、先の老夫婦と同様に、僕の買い物カゴもカートへ載せてくれた。

「あ、ありがとうございます!」

 カートに載せてもらったことに恐縮しながら、僕は会釈をする。

 店員さんが一礼して言う。

「ありがとうございます。二番の精算機でお願いします」

 僕はカートを押して、二番の精算機へと移った。

 隣の一番の精算機では、先の老婦人が精算を済ませたところだ。

 僕は、ふと気になって、レジへと視線を戻す。

 店員さんは、次の客のバーコードスキャンを、テキパキと進めている。

 さっきまでは、細かいところまで見ていなかったが、その店員さんの顔立ちは、一重まぶたで、鼻筋が通り、意志の強そうなキリリとした眉毛の持ち主だ。

 身長が百八十センチはありそうな頑丈な身体つきと、透けるような白い肌が対照的だ。

 インドアスポーツの部活動でもしているのだろうか。

 僕は高校生の頃は、文化系の部活だった。

 この四月からは大学生としての新生活が始まる。

 大学では、まだ何のサークルに入るかも決めていない。

 高校卒業後の束の間の春休み、僕は、カ◯メ野菜生活100十二個入りの箱を、片手で軽々とつかみ上げる女子店員さんのことが、頭から離れなくなっていた。



【第二話:夢の中の彼女】

 ◇

 その晩、こんな夢を見た。

 小人になった僕が、高さのあるガラスの塀に囲まれた箱の中に、ひとりだけ入っている。

 巨人になった、あのレジの店員さんが、真上から覗くと、大きな掌を広げて、僕の身体を鷲づかみにする。

 UFOキャッチャーのように、真上に持ち上げられる。

「うわーっ!!」

 僕は大声で叫ぶ。

 つかまれた僕は、店員さんの目と鼻の先に近づけられて、ジロジロと見つめられた。

 今にも、このまま、口に放り込まれて、食べられそうだ。

 そこで、夢が終わった。

 目が覚めると、高校の真新しいブレザーの制服を着た、妹の優子が、僕の目の前で呼びかけていた。

「うるさいなぁ、何、叫んでるん? 早くしないと遅刻するよって、下でお母さんが呼んでるよ」

 ぶっきらぼうに、それだけ言うと、妹は、僕の部屋から出て、階段を降りていった。



【第三話:この再会は偶然、それとも必然?】

 ◇

 今日から、いよいよ、大学の授業が始まる。

 午前中の講義を受けるために、電車に乗り、途中の駅で乗り換える。

 大学の最寄駅に着いて下車した。

 駅から大学までは、川沿いの道を二十分ほど歩く。

 同じ大学に通う学生たちも、ぞろぞろと同じ道を歩いていく。

 川の向こうの山並みを眺める。ピンクと緑の色彩が桜餅と草餅みたいだなと、朝から甘いものがほしくなる。

 対岸には、桜の咲き誇る並木道も見える。

 僕の通う大学には四年制と二年制とがある。

 四年制よりも時間的余裕もない二年制に通う僕は、これからの日々、講義と実習のカリキュラムに追われることになる。

 科目は、英語などの一般科目の講義と、絵を描いたりする実習科目とに分かれている。

 一般科目の講義は大きな講義室で、履修科目ごとに、全学科の学生が一同に集まって受ける。

 おもしろい話をする教授だったので、入学早々、居眠りすることもなく、事なきを得る。

 午後からの実習は、科ごとに教室が分かれている。

 僕の所属する視覚デザイン科では、八十名ほどの学生がいた。

 机の座席は、名前の五十音順に割り振られていて、教室の中を、前から順に縦に、右の列から左の列へと横に、所狭しと並んでいる。

 僕の名前は【山田洋輔(やまだようすけ)】

【や行】は後ろから数えたほうが早いので、左寄りの後列になりそうだなと思っていたら、【や行・わ行】の学生が意外と多くて、僕は左から二列目の前から二番目の席になった。

 四年制に比べて、二年制の学生は男子が少なくて、周りの席も女子ばかりだ。

 まだ実習が始まるまで、二十分ほど時間がある。

 すでに気の合う人どうしが、それぞれグループを組んで集っている。

 僕の左隣の机の周囲にも、数人が集まり女子トークに華を咲かせている。

 女子とつきあったことがない僕には、女子トークに参加することは憚られた。

 もともと、僕は女子に対して、あまり憧れを抱くことがない。

 異性に対しても、一般的に十代の男子が持つような【彼女がほしい】という気持ちは薄いのかもしれない。

 だからといって、男子を好きというわけでもない。やはり恋愛対象としてなら、好きなのは女の子だし。可愛い顔をした女の子を見ると、素直に可愛いと思う。

 そういうわけで、今のところは、恋愛対象を求めてはいないけれど、短い二年制とはいえ、袖振り合うも他生の縁。同じ教室の仲間どうし、最低限のコミュニケーションぐらいは育みたい。

 僕も妹から借りて読んでいた少女漫画などを話題に出して、お喋りに参加するうちに、近くの席の女子たちの輪にも、少しは混じれるような気にはなった。

 周りを見渡すと、僕の一つ前の机だけが、まだ空席だった。

 そのうち誰か来るのだろうと思っていた矢先、教室の扉を開けて、ひとりの女子が入ってきた。

 背が高くて、バスケなどをしてそうな雰囲気で、黒髪のショートカット、黒縁の樹脂フレームの眼鏡をかけている。

 その女子は、つかつかと歩いてきて、僕を一瞥することもなく、目の前の空席に座った。

 僕は、彼女の顔を見て、一瞬で気づく。

 あのスーパーのレジの店員さんだ。

 レジでは、頭に三角巾をかぶっていて、髪型も見えず、メガネも掛けてなかったけれど。

 彼女は背が高いのと、昨晩の夢にも出てきたので、顔も覚えていて、僕にはすぐにわかった。

 でも、彼女は、僕には気づいてもいないようだ。視線も合わせなかった。

 漫画みたいな、こんな偶然があるのかと嬉しくなった反面、僕のことなんて、やはり覚えていないんだという、当たり前の現実に、気落ちした。

 ところが、その彼女が後ろを振り返り、僕を一瞥すると「君、ついてるよ。気がつかないの?」と、ひと言だけ言って、またすぐに前へと向いた。

 僕には唐突すぎて、一瞬、意味がわからない。

 髪の毛に、ゴミか何かついてるのだろうか?

 頭の毛を、ワシャワシャと手櫛で掻いてみる。

 僕は天然パーマの癖毛だから、少々、掻いても、髪の毛が乱れることはない。

 机の上を見ても、大きなゴミは落ちていない。

 ゴミがついてたのとは、違うのかもしれない。

【ついてる】といえば、たしかに、前の席の子との、偶然の出会いは、ラッキーで、ついてる。

 でも【気がつかないの?】とは、どういう意味だろう。

【ついてるのに気がつかない?】

 ついてる……付いてる……着いてる……気がつかない?……憑いてる!?

「えーっ!?」

 僕は大声を上げて、座席から立ち上がった。

 周りの女子たちは、そんな僕を見て、一瞬、不思議に思ったようだが。前の席の子が言った言葉を聞いていなかったようで、クスクスと笑ったあとは、気にせず、また女子トークを再開している。

 僕は、気を取り直して着席したが、茫然としたままだった。

 そのとき、僕の左斜め後ろの席に座る女子が、声を掛けてきた。

「山田くん、大丈夫?」

 振り返ると、黒髪ロングヘアで、垂れ目で瞳がくるっとしてて、頬が少し日焼けした、可愛い女子だった。

 その女子が、僕に対して、首を傾げて心配そうな顔を向けている。

 一見、大人しそうな子に見える。顔に見合って声も可愛い。正直なところ、僕の好みの顔立ちだ。

 でも、さっきまでの女子トークには、この子は参加してなかったと思う。

 なぜ、授業の初日に、いきなり僕の名前を覚えているのだろう?

「えっと、ごめん。君のことは、なんて呼べばいいかな?」

 戸惑いながら、可愛いその子の前で、僕は照れながらたずねる。

 その子も察したらしい。

「ああ、さっき、前の子たちと喋っていたときに、君が【山田洋輔です】と名乗っていたでしょ。それを耳にしてて知ったの。私は【雪下綾(ゆきしたあや)】っていうの。【あ〜ちゃん】か【ゆっきー】と呼んでくれたらいいよ」

 そうか、さっき、僕は隣の席の子たちには、自己紹介を済ませていたんだった。

 親しみやすい人なんだなとは思ったが、さすがに、初対面の女子を【あ〜ちゃん】や【ゆっきー】なんて呼べない。

「雪下さんだね。はじめまして、よろしく。山田です」

 僕は軽く会釈をした。

「名前は、もう知ってる」

 雪下さんは、少し残念そうな表情をしたあと、口に手を当てて笑った。

 僕は照れて頭を掻く。

「今さっき、僕に【大丈夫?】って、訊いてくれたけれど。やっぱり、前の席の子が僕に言ったことが聞こえてたから?」

 雪下さんは、また心配そうな表情に戻る。

「うん……あの子はね。私と同じ高校出身で【薬師寺寿美礼(やくしじすみれ)】という名前なんだけど」

「薬師寺スミレさん……珍しい名前だね」

 スミレという漢字が、耳で聞くだけではわからなかったけれど。

 薬師寺という苗字には、由緒を感じる。

 雪下さんが補足してくる。

「【お寿司】の【寿】、【美大】の【美】、【礼節】の【礼】で【寿美礼】。家が神社の子なのよ」

 神社の子なんだ……。

 だったら、余計に気になる。

 恐る恐る、たずねる。

「【ついてる】と言う意味は【憑依】の【憑いてる】ってことなのかな……」

 雪下さんが、うなずく。

「高校の頃にも、寿美礼から、そういうことを言われる子が何人かいたわ」

 鳥肌が立ち寒気がした。

 雪下さんが、僕の驚く顔をみて、くすっと笑う。

「でも、程度により差もあるらしいし。そんなに気にする必要はないかも」

 僕は、かぶりを振る。

「いや、気になるよ」

 いったい何が、僕に憑いてるというのだ。

 僕は振り返り、前の席の薬師寺さんに問いただそうとした。

 しかし、授業開始のチャイムが鳴って、講師が教室へと入ってきた。

 机の周りに、たむろしていた女子たちも、お喋りをやめて、各々の座席へと戻る。

 薬師寺さんにたずねるタイミングを逃してしまった。

 僕は、このあとも【憑いてる】という言葉が頭から離れず、講師の教える内容も、耳を素通りしていった。

 気がつくと、授業は終わっていて、薬師寺さんは席を立って、教室の扉から出ていくところだった。

 今更、追っかけられない。

 僕は、左斜め後ろの雪下さんへ振り返る。

「このあと、ちょっといい?」

 雪下さんは、鞄に筆記具などを片付けて、席を立とうとしていた。

「え、いいけど。さっきの話の続きなら、私よりも、直接、寿美礼に聞いてみたら?」

 雪下さんは、そう言うと席を立って、サッサと帰ろうとする。

「あ、待って、雪下さん」

 僕は、筆記具を鞄に急いで詰めて、雪下さんのあとを追う。

 校舎どうしを繋ぐ、渡り廊下で追いついた。

「学校へは何で通ってるの? 僕は電車だけど」

 雪下さんは、僕に構うことなく、早足で先に歩いていく。

「私も電車」

 追いかけながら、ダメもとでお願いしてみる。

「だったら、駅まで歩きながらでもいいから、話を聞いてもらえる?」

 まるで、何かの勧誘みたいだと、自分でもら思う。

 ちなみに、僕は人生で一度もナンパなんてしたこともない。

 でも、薬師寺さんのことは知りたい。

「雪下さんの知ってる範囲でいいから、薬師寺さんのことを教えてほしいんだ」

 僕は早足で歩きながら、雪下さんに頭を下げる。

 ほんと、これじゃ、しつこいキャッチだ。

 僕の真剣な姿勢を見てか、雪下さんが立ち止まった。

「もう、仕方ないなぁ。じゃあ、途中の乗換駅のモ◯バーガーでもいいかな? もちろん山田の奢りで」

「うん、もちろん、奢りで……ありがとう」

 僕は何度も頭を下げる。

 しかし、いつの間にまにか、雪下さんは僕のことを【山田くん】から【山田】と呼び捨てに変えている。

 まあ、それもいいとしよう。

 こっちは、たずねる身だ。

 モ◯バーガーでも、なんでも、奢る。

 バイトもまだしていない僕には、外食にかけるお金も厳しいけれど……この際、仕方ない。

 背に腹はかえられない。 



【第四話:女子グループの中に男子ひとり】

 ◇

 僕は、小学生低学年の頃、クラスのリーダー的存在の女子グループの中に、男子ひとりだけ混じって、よく遊んでいた。

 物心がつくかどうかの低学年だったのもあり、今から思うと、周りの女子たちからは、背も低かった僕は、男子扱いもされてなかったみたいだ。

 放課後は、皆で女子の家へ遊びに行ったりもしていた。

 もちろん、男子の友達ともよく遊んだ。

 でも、目立つ女子たちと遊んでいたからか、それまでは仲の良かったクラスのリーダー的存在の男子から、いっとき、僕は無視されたことがあった。

 小学校低学年で、皆が、まだこどもだったし。その男子にしてみれば、僕が女子と仲よくしているのを見て、こどもじみた嫉妬から無視したんだと、後から、その男子から打ち明けられて、理由を知ったぐらいだ。

 女子たちからは、僕が男子として扱われていないことがわかると、その男子とも、すぐに仲直りして、またよく遊んだ。

 当時の友達は、みんな良い子ばかりで、平和な下町に住み、親どうしも皆が顔見知りの学区というのもあったのかもしれない。

 男子どうしで、イジメみたいなことには発展しなかったのは幸いだった。



【第五話:魔の夏休み】

 ◇

 小学二年生の夏休みだったか、僕は、いつもの女子グループ数人と一緒に、校庭の砂場で遊んでいた。

 皆が砂遊びに飽きた頃「教室へ行こう」と、クラスのリーダー的存在の女子が言いだした。

 ぞろぞろと校舎に入っていく女子たちの後について、廊下を進み、僕も教室へと入った。

 授業中じゃない休みの日の教室は、渇いた日差しが窓から射し込み、いつもとは違う埃ぽい匂いがした。

 教室の窓際の棚には、皆が図工の授業でつくった工作が並べてあった。

 女子たちが、皆それぞれの工作を手に取りあって喋っている。

 そのうち、リーダー的存在の女子が、とある女子のつくった工作を手に取って、その子の悪口を言いはじめた。

 他の女子たちも同調して、悪口を言い続けた。

 その工作は、ダンボール紙で作ってあって、水彩絵の具で、緑色一色に塗られている筆立てだった。

 生徒の皆が、それぞれ好きなモノを作るという授業だった気がする。

 その筆立ての、作り手の女子は、僕の隣の町内に住んでいた子で、親どうしも面識があり、幼稚園でも一緒だった。

 勉強ができる優等生で、とても大人しくて、クラスでも目立たない真面目な子だった。

 いつのまにか、女子たちが、その子の工作を壊しはじめた。

 女子たちは、僕にも、その工作を壊すことを勧めた。

 でも、僕は、工作の作り手の子とは、幼馴染だったし。恨みも嫌悪感もまったくなかったので、工作を壊すことを拒否した。

 でも、リーダー的存在の女子は、まるで踏み絵のように、僕にも工作を壊すように唆した。

 リーダー的存在の女子は、勉強もできて活発で、真面目な子で、普段一緒に遊んでいても、面倒見もよく、まさに文武両道の、とても優しい性格の子だったし。

 他の女子たちも同様に優しくて、良い子たちだった。

 でも、工作を壊している最中の女子たちの、知らなかった一面を目の当たりにして、「女の子って怖いな……」と、そのときは、こども心に、しみじみと思った。

 しかし、周りの女子たちからの圧力に負けて、結局、僕は、その工作に貼ってあるセロテープを少しだけ剥がした。



【第六話:女子への幻想や憧れとは無縁】

 ◇

 僕は、最初、男だけの兄弟二人で育った。

 兄は結婚もしていて、今は、海を隔てた遠く離れた場所で、夫婦で幸せに暮らしている。

 お盆と年末年始には、兄も帰省してくれる。

 四つ年上の兄は、面倒見も良くて、こどもの頃には、よく遊んだ。

 あの工作の事件の数年後に、妹も生まれた。

 僕にとっての妹は、兄妹というよりも、まるで、娘を心配する親の感覚なのもしれなかった。

 そんな妹も、小学生、中学生、高校生と成長するうちに、どんどん生意気になっていった。

 こどもの頃の僕は、生意気な妹も増えて、ますます、女性に対しての幻想や憧れなんてものには、無頓着になっていた。



【第七話:モ◯バーガーを器用に食べる雪下さん】

 ◇

 目の前に、ホットのカフェラテ、モ◯バーガー、テルヤキバーガー、フレンチポテトフライを並べて、全部ひとりで食べるつもりの雪下さんに、僕はたずねた。

「薬師寺さんの神社は、どこにあるの?」

 雪下さんは、ポテトをつまむ。

「個人情報だから教えられないよ」

「そんな……」

 いきなり、これでは、奢る意味がないのではないか。

 雪下さんが笑う。

「嘘、嘘、山田がおもしろいから、つい」

「ついって……」

 本来なら、僕がムッとするところかもしれないが、可愛い表情で言われると許せてしまう不思議さが、雪下さんにはあると、僕は思う。

 雪下さんが、熱いカフェラテに、ふーふーっと息を吹きかける。

「【清水神社(きよみずじんじゃ)】という名前で、街の東のほうにあるよ」

 僕はスマホで検索する。

 街の東の端の山手にあるようだ。

「ありがとう。場所はここであってるかな?」

 スマホの画面を見せる。

「そうだよ。地元の人しか知らない、知る人ぞ知る神社みたいだけどね」

 雪下さんは、スマホ画面を一瞥したあと、モ◯バーガーのソースが垂れないように、器用に食べている。

 バーガーの端から少しずつ食べて、ソースが垂れそうになると、回転させて、反対側の端からかじる。

 ソースの垂れ具合に応じて、モ◯バーガーを器用に回転させながら、手を汚すことなく、かじっていく。

 少しずつかじる様子が、まるで、ハムスターかリスのようで可愛い。

 僕はバニラ味のモ◯シェイクをストローですすった。

「高校のときに、僕と同じように【憑いてる】って言われた人は、結局どうなったの?」

 雪下さんは、カフェラテを飲める手を止めて、そっけなく言う。

「知らない。あのあと、あの子たちは転校したから」

「えっ、転校?」

 雪下さんが、ポテトを二本まとめてつまむ。

「そう、その子たちは家族で引っ越して、結局、みんな転校していったよ」

 僕はモ◯シェイクのストローを、勢い余って、指で折ってしまう。

「それって、全然、大丈夫じゃないよ!」

 雪下さんは、今度はポテトを三本つかむ。

「でも、今は元気らしいよ。風の噂だけれど」

「風の噂って……」

 やるせなくなる。

 雪下さんは、次のテルヤキバーガーへと食指を動かす。

「結局、あの子たちは、寿美礼のお父さんが、憑いていたモノを祓ってくれたそうだよ。ただ、理由はそれぞれ違うけれど、あの子たちは皆、家族と引っ越しただけ」

「薬師寺さんのお父さんは、宮司さんか何かなの?」

 雪下さんは、ポテトを一本、口にくわえたまま答える。

「そう。でも、寿美礼のお父さんは昨年、癌で亡くなったんだ。そのあと、寿美礼の家族も大変だった。でも、寿美礼のお兄さんが神社も継いでくれて、今では、もう寿美礼も元気を取り戻してる」

「そうなんだ……お父さんを亡くしてるんだ」

 だったら、薬師寺さんのお父さんに頼ることも、もう無理なんだ。

 ちなみに、僕にも父親はいない。

 妹が生まれたあと、交通事故で、父を亡くしている。

 居眠り運転のトラックが、対向車線からはみ出してきて、通勤途中の父の運転するクルマにぶつかった。

 父は即死だった。

「薬師寺さんは【憑き物】が見えるということは、除霊とかもできる人なの?」

「それは私も知らない。寿美礼は高二の頃、バスケでインターハイに出たことあるぐらい優秀な選手なんだけど。お父さんが亡くなったあと無理して膝を故障して、それからバスケも辞めてる」

 やっぱり、バスケしてたんだ。

 僕は、片手の掌で、バスケットボールかハンドボールをつかむみたいに、カ◯メ野菜生活100十二個入りの箱を軽々とつかむ、薬師寺さんのことが、ここにきて、少しわかった気がした。

 雪下さんが、可愛い顔を左に少し傾けて、僕にねだる。

「追加で、メンチカツチーズバーガーと、チキンナゲットと、モ◯シェイクの抹茶も頼んでいい?」

 断れるはずがない。

「いいよ。好きなだけ食べて」

 追加注文で、席を立ち、カウンターへと向かう雪下さんの後ろ姿を、何気なく見る。

 雪下さんは、僕より少し身長が低い。百六十八センチぐらいだろうか。太ってもいなくて、むしろ、読者モデルのようにスタイルも良い。

 そんな身体のどこに、これだけの量を収められるのか。不思議に思った。

 雪下さんが、戻ってきて、席に座ると、

ほんのり日焼けした頬を、少し赤くして、僕を睨む。

「あんまり、女子のことを、後ろからジロジロみないでほしいなぁ。私は大食漢だけど、いくら食べても太らない人だから平気なんだけど」

「ごめん、そんなつもりじゃ」

 僕は謝る。たしかに女子をジロジロみるのはダメだ。

「そんなつもりじゃなくって、どんなつもりなのかな?」

 雪下さんは、僕の気持ちをくすぐるように、意味深な笑みをたたえて、僕の顔を覗き込む。

「ち、近いよっ!」

 僕は、慌てて顔を引き、背中を背もたれにぶつける。

「山田は、ほんと、おもしろいなぁ」

 クスクスと雪下さんが笑う。

「おもしろくなんてないよ」

 僕は照れ隠しに、モ◯シェイクをすすり、

 コップの中が空なことに気づく。

「明日は午前中、休講だから、薬師寺さんに会いに行ってみるよ」

 そう答えると、僕はまた、空のストローをすすった。

 雪下さんが納得顔で、つぶやく。

「そっか、やっぱり行くのね」

 このあとも、雪下さんは、僕の財布が空になるまで、追加注文をし続けた。

 本当に、太らないのだろうか。

 こんなに食べても……。



【第八話:神様のお告げ?】

 ◇

 翌日、金曜日の早朝、僕は観光客であふれかえる坂道を、歩いて上がっていく。

 この坂の途中には、有名なお寺がある。

 外国人観光客などが多いのはそれが理由だ。

 お昼頃になると、さらに観光客で、ごった返して、寄りつけなくなりそうだ。

 坂を上がり続けて、有名なお寺を過ぎると、観光客の数もまばらになっていく。

 その先には、人知れず存在しているような、樹々の狭間に細道が続く。

 スマホ画面の地図を確認する。

「この道であってるはずだ」

 細道を、さらに進む。

 少し開けた場所にでた。

 その先には、よくあるような色使いの黒色と朱色の大きな鳥居が立っている。

 鳥居の先には、さらに昇り階段が続く。

 何段ぐらいあるのだろうか。

 下から見上げても、先が見えない。

 僕は一息ついて、階段を昇りはじめた。

 階段は、人が三人ほど通ると一杯になるぐらいの狭さ。

 左右には木々が密に繁っている。

 鳩がクークーと鳴く声が聞こえてくる。

 時折、ホーホケキョと、鶯の鳴く声もする。

 階段を昇りきる。数えてはいないけれど、おそらく四百段ほどあっただろうか。

 また、鳥居がある。

 鳥居をくぐると石畳の道が続く。

 その先に、お社がある。

 観光客で賑わうような、大きな神社ではなくて、地元密着型のような、小さな神社だ。

 僕は、とりあえず、ご利益もとい……厄祓いの前準備にでもなったらと、参詣をすることにした。

 右手にある手水舎で、神妙に手を洗う。

 ひとつだけ置いてある、お賽銭箱の前で会釈をして、五百円玉をそっと投げ込む。

 大きな鈴のついた紐をつかんで鳴らす。

 二度、パンパンと鳴らして、手を叩いた。

「郵便番号◯◯◯ー◯◯◯◯、◯◯市、◯◯区、◯◯町、◯番地の山田洋輔と申します。もし、僕に【憑いてるモノ】があるのでしたら、なんとかしていただけないでしょうか」

 他には参詣客がいなくて、油断した。

 つい、いつもの癖で、声を出して、願いを言ってしまった。

 ちなみに、初詣で自分の【住所など】を申告するようになったのは、高校生の頃からだ。

 あるとき、ふと【神様って、どこの誰かもわからない人から拝まれても、願いを叶えようがないのかも?】と、気づいた。

 日本国内の一億人の住所と名前を一致させるなんて、お役所だって難しい。

 同姓同名だってある。

 日本だけでなく、どこの国から来たのか、わからない外国人観光客までが訪れる。

 だったら、お役所に書類を提出する時のように、せめて、自分自身の住所と氏名ぐらいは申告するほうが、神様も、後から、その人の家を探す手間も減って、早く願いも叶うはずだと考えたのが、きっかけだ。

 郵便番号までは、さすがに必要ないのかもしれないけれど。

 この街は、本来の長い住所表記にある【交差する通り名】と【上ル、下ル、西入、東入】などを省略する風潮もある。

 だから、たとえば、桜の名所の由縁で【桜見町】など、どこにでもあるような町名だったら、ややこしい。

 もしも、同じ町名【桜見町】が【同じ区内】の【離れた別の場所】にもあって、それぞれの町内に、同姓同名の人がいたら、神様も間違えて、願いを届けてしまうかもしれない……なんて考えたんだ。

 お役所だって、住所が全然違うのに、同姓同名で、登録ミスがあるくらいだ。

 神様だって、忙しい。

 だから、唯一無二の郵便番号も、併せて申告しておけば大丈夫なはずだ。

 しかし、もしもだけれど……郵便番号も同じ町内に、同姓同名が住んでいるのなら、親などの世帯主の名前と、本人と世帯主との続柄まで併せて祈願すれば、神様も絶対に間違えることもないだろう。

 そんなことを、年始の初詣から帰ってきたとき、妹に話してたら「アホちゃう?」と一蹴されたことはあるが。

 たしかに、初詣の長い整列がある神前で で、そんな長ったらしい個人情報を羅列して、祈願していたら、後ろで待ってる人たちからは「どれだけ、たくさんのお願いをしているんだ?」と、迷惑がられるのが、玉に瑕だけれど。

 たとえ、全知全能の神様相手であっても、自身の身分の申告は忘れずに祈願したほうが、後悔先に立たずだ。

 もし、それでも、願いが叶わないのなら、自分自身の力不足で、自業自得だと納得できる。

 そんなことを考えながら祈願していたら、また上の空になった。

「これでは、願いも叶わないか……」

 僕は独り言を、ぼそっと、つぶやく。

 そのとき、どこからか声が聞こえてきた。

「郵便番号◯◯◯ー◯◯◯◯、◯◯町、◯番地の山田洋輔だな。よかろう、承った。必ず叶えたもう」

 まるで、宝塚歌劇団の男役みたいな威厳のある声だ。

 僕は、付近を何度も見回す。

 他に誰もいない……。

 でも、声が聞こえたのは、前方の神前からだ。

 まさか、僕は、神様のお告げが聞こえるようになったのか?

 そんなわけはないだろうと、半信半疑ながらも、神前に向かって、恭しく礼をする。

「何卒よろしくお願いします」

「ふふふ……」

 可愛い笑い声がして、お賽銭箱の陰から人が立ち上がった。

 僕は、飛び上がるほど驚いた。

 目前に現れたのは、神様ではなく、巫女姿の薬師寺寿美礼さんだった。



【第九話:紅茶には砂糖を入れない】

 ◇

 お賽銭箱の影から姿を現した薬師寺さんが、神前の階段を降りてくる。

 右手には竹箒を持ち、白色の上衣に、赤色の袴。

 典型的な巫女姿の薬師寺さんは、スーパーのレジや、学校での前の席に座っていたときとは違って、親しみやすい笑顔を僕へ向けた。

 僕は焦ったが、気を落ち着けて、挨拶をする。

「僕は【山田洋輔】と言います。同じ美大の視覚デザイン科の一回生です。薬師寺さんに用事があって来ました」

 薬師寺さんが、うなずく。

「ゆっきーからLINEきてた。山田くんが来るかもって」

 ゆっきー? ああ……

「雪下さんですね。薬師寺さんとは同じ高校出身だと聞いてます。それで、この神社も教えてもらったんです」

「知ってる」

 薬師寺さんはクスクスと笑う。

「山田くんの願いを聞いてあげると、何でも奢ってもらえるよって、ゆっきーも言ってる」

「何でもって……」

 雪下さん、何を勝手に広めてるんだ。

 でも、薬師寺さんには、このあと世話になるから、奢るのも道理かもしれない。

 気を取り直す。

「もちろん! 薬師寺さんのほしいものなら何でも奢ります! こちらこそ、いきなり訪ねて、ごめんなさい」

 僕は、薬師寺さんに頭を下げる。

「そんな堅苦しくしなくていいよ。同級生なんだし。それから、私のことは【寿美礼】って呼んでいいよ。このあと、兄にも相談するかもしれないし。同じ【薬師寺さん】と呼ばれても、ややこしいしね」

 そっか、お兄さんが宮司だった。

 面識も少ない女子を、いきなり名前で呼ぶのは憚れるが、仕方ない。

 寿美礼さんが、僕に微笑む。

「山田くんのことは、レジで野菜ジュースを買ってたときから知ってたのよ。私の手をジロジロと見ていたから」

 寿美礼さんが笑う。

「ご、ごめん……」

 僕は頭を掻きながら下げる。

「いいのよ、気にしてない。私は、このとおり、背も高いから。レジでもお客様からは、びっくりして見上げられることも多いけれど。山田くんは、私の背の高さには驚いてなかったみたいだし。背の高さは、昔の私にはコンプレックスでもあったしね。でも、そのおかげでバスケもできたし。今は平気だけど」

「そうなんだ」

 僕も何と答えたら良いか、わからない。

 寿美礼さんが笑顔から一転して、申し訳なさそうな表情になる。

「それと、野菜ジュースの箱を片手でつかんだこと、私のほうこそ謝りたい。バスケでボールをつかむ癖で、大きな商品でも、つい無意識に、片手で持ち上げてしまうんだけど。お店のマネージャーからは【大切なお客様の商品だから片手で強く持って、凹ましたりしてはダメですよ】と、よく怒られてるのよ。高級なメロンでも、ボールみたいにつかんでしまうから……こちらこそ、ごめんなさい。今後は気をつけるから」

 メロンでも、丸ごとつかんでしまうんだ……。

 西瓜ならどうだろう……と、聞いてみたくなったが、やめておく。

 僕の気持ちを察したのか、寿美礼さんは笑って補足する。

「あ、大きな西瓜とかは重すぎて、落とすといけないから、さすがに片手では持たないわ。でも小振りの西瓜なら持つことあるんだけど……あっ、ごめんね」

 寿美礼さんも、自分の言ったことに照れている。

 僕は考えていることが、すぐに顔に出るらしい。誰からも【気持ちを察すられる】ことが度々ある。

 僕は、笑顔を取り繕う。

「大丈夫だよ。カ◯メ野菜生活100の紙パッケージは結構丈夫だし。あのときの寿美礼さんは、片手で持ち上げても、優しくつかんでくれていたから、凹んでなかったよ」

「そう……ふふふ」

 寿美礼さんは口に手を立てて笑う。

「僕のほうこそ、ははは……」

 僕も、お互いの話す内容の滑稽さに気づき、照れ笑いをする。

 おっと、こんな話をしに来たんじゃない。

「では……寿美礼さん。本題から言うね。教室で、僕に【何かが憑いてる】と教えてくれたけれど、それについて、教えてもらいたいんだ。僕自身は【何かに取り憑かれてる】自覚はないんだけれど……」

 寿美礼さんは戸惑う。

「取り憑かれてるのと違うわ……でも?」

 寿美礼さんが、僕のことを、じっと見つめる。

 今日も、教室のときと同じ、黒縁メガネをかけている。

 僕は、知りたいことを訊いてみる。

「僕に【憑いてる】と気づいたのは、いつからなの? 何が憑いてるの?」

 寿美礼さんが神妙な表情をする。

「スーパーで会ったときには【ついてる】ものは、何も見えなかったわ。気づいたのは、学校で、あなたを見たときからよ」

「学校で?」

 寿美礼さんが、うなずく。

「そう」

「学校にまつわる地縛霊とかなのかな?」

 寿美礼さんが思案している。

「霊とは違うわ。今、山田くんの周りに見えているのは、山田くん自身の心に秘めたことが表出しているのかもしれない。何かが、きっかけで、現れたのかもしれないわね」

「今、見えるの!?」

 僕は自分の全身を見返し、犬のウ◯チを踏んでしまったみたいに、その場で両足を交互に上げて、ジタバタする。

 寿美礼さんが、僕の仕草をみて、クスクスと笑う。

「足の裏で踏んで、憑いたりしてるわけじゃないわ」

 やっぱり、僕は考えていることが、すぐ顔に出るのか?

 姿勢を正して、一番、訊きたいことをたずねる。

「寿美礼さんに頼めば、除霊とか、お祓いとかできるの?」

 寿美礼さんが、かぶりを振る。

「私にはまだ無理だと思う。霊というよりも、心の内の深層心理の自我意識が表出した怪異みたいなものかもしれないわ。こういった怪異は、最終的には、その人の心の内を解決するしかないのよ。私よりも兄が詳しいんだけど、今日は留守なの。また今度、聞いてみるから」

 頼みのお兄さんは留守なのか。残念。

 でも、事前に約束もなく、いきなり訪れたからには仕方ない。

 むしろ、こんなお願いに応えてくれる、寿美礼さんには、感謝の気持ちしかない。

 ところで、一番気になるのが、何が憑いているのかだ。

「ちなみに、寿美礼さんからは、今、どんなモノが見えているの?」

 寿美礼さんが、すーっと息を吸って、ゆっくりと吐き出す。

 僕の全身をじっと見つめる、メガネのレンズの向こうで瞳孔が大きく開く。

 心の奥底まで探られているような気がする。

 寿美礼さんが、遠くを見るような表情をした。

「今、見えているのは、螺旋状の薄い透明の帯みたいなモノが見えるわ」

「薄い透明の帯みたいなモノ?」

「そうね。セロテープみたいな細い帯状のモノが、延々と螺旋状に、山田くんの身体から出てきて、巻きついているの」

「セロテープ……」

 僕には、セロテープという言葉が、なぜか心に引っかかった。

 しかし、その理由が何なのか、わからない。

 僕を見て、寿美礼さんが、困惑している。

 やはり、いきなり来たのは、迷惑だったかもしれない。

「今日はこれで帰るね。急に来てごめん。それでは、明日また学校で」

 そう言って、踵を返す。

「山田くん、ちょっと待って、紅茶でも飲んでいかない?」

 寿美礼さんの声に、僕は振り返る。

「いいのかい? 今から家にまで、お邪魔しても」

「大丈夫、すぐそこだから」

 神社の境内にある社務所を指差すと、寿美礼さんは、石畳の道をサッサと歩いていく。

 僕は、慌てて追いかけた。

 寿美礼さんが振り返る。

「紅茶は、ミルクティーとレモンティーとストレートティーの、どれが一番好きかな?」

 僕は迷った、

「えっと、どれも好きだけれど、ストレートティーが一番好きかな。お砂糖は入れないほうが好みなんだ」

 ご馳走になる身で、細かいリクエストをしてしまったと、言ったあと自省する。

「そう、私も、お砂糖は入れないストレートティーが好きなの、奇遇ね」

 寿美礼さんが、満面の笑みを僕に向けた。



【第十話:午前の紅茶の前に】

 ◇

 僕は、社務所の玄関で靴を脱いで上がった。

 社務所とはいっても、普通の民家とほとんど変わらない。

 廊下を寿美礼さんの後ろについていく。

 寿美礼さんが、襖の引き戸を開ける。

「散らかってて、恥ずかしいんだけど」

 散らかってるなんて、僕には思えないくらい、整頓されている部屋だ。

 六畳ほどの和室の中に、勉強机、小さな座卓、ベッド、箪笥などがある。

 ベッドの上に、茶色の熊のぬいぐるみが置いてある。

「ここは、寿美礼さんの部屋なの?」

 いきなり、女の子の部屋へ招かれて、戸惑う。

「そうよ。客間では、さっきまで、御守りをつくる作業をしてる途中だったの。材料で卓上が散らかってるから、そこでは、紅茶をお出しすることもできなくて、こんな狭い部屋でごめんね」

「ううん、平気だよ。こっちこそ、忙しいときにお邪魔してごめん」

「大丈夫よ。祭事前や年末でもないし、御守りづくりも締切とかあるわけじゃないし。根をつめて作業してると疲れるから、さっきは息抜きに掃除をしてたのよ。そしたら、山田くんが来るのが見えたから、驚かそうと思って。ふふふ」

 寿美礼さんが、また微笑する。

「だからか。お賽銭箱の後ろから、急に声が聞こえて、びっくりしたよ」

「ふふふ……私の声を耳にしたときの、山田くんの驚いた顔は、おもしろかったわ」

「そうかい」

 僕は照れて頭を掻く。

「ベッドにでも座って待ってて。紅茶とお菓子を持ってくるわ」

「うん、ありがとう」

 寿美礼さんが、廊下へ出ていく。

 座るといっても……。

 さすがに、ベッドの上には座れない。

 座卓の横に腰を下ろした。

 床は畳敷きだ。

 落ち着かない。

 キョロキョロと部屋を見渡す。

 女子の部屋をジロジロと見るのは、失礼か。

 僕は頭を掻いて、横を向いた。

 視線の先にある箪笥の上には、三つの写真立てが置いてあった。

 バスケの部活のときに撮ったものだろうか。チーム全員の集合写真だ。寿美礼さんが中央の前列に座っている。

 その横の写真立てには、こどもの頃の寿美礼さんが、七五三の飴の長い紙袋を手にして、お父さん、お母さん、お兄さんたちと一緒に写っている。背景は、ここの神社とは違うみたいだ。

 もう一つの写真立てには、小学生の頃の写真だろうか、卒業式でクラスの全員が並んでいる。

 最後列の真ん中に、寿美礼さんが立っている。ところが、この写真の中に、無意識下で、何かに注意喚起される感覚が芽生えた。

 でも、写真を、じっと眺めても、その理由はわからなかった。

 視線を箪笥から机へと向ける。

 部屋の隅にある勉強机は、寿美礼さんが小学生の頃から使っているのだろうか。

 上段の本棚と、下段の机とが合体した学習机だ。

 僕も昔、兄のお下がりで、こんな机を使っていたから、なんだか懐かしい。

 机の上には、筆記用具や文具などが、綺麗に整頓されて置いてある。

 水彩ペンなどを挿してある、緑色の筆立てと、セロテープをセットした緑色のテープカッターが、机の上にあるのが目に入る。

「セロテープか……」

 さっき、寿美礼さんと話していたことを思い出した。

 途端、なんだか、息切れがしてきた。

 呼吸が苦しくなる。

「ハァ、ハァ、ハァ……」

 喉を掻きむしる。

 息ができない。

 何かが首に巻きついているような感触に襲われた。

 その場に横向きに倒れ、身体を丸めて、喉を掻きむしり続ける。

 襖の引き戸を開けた寿美礼さんが、僕の様子に気づき、慌てる。

「山田くんっ!」

「す、寿美礼さん……息が……できない……」

 僕は苦し紛れに声を出す。

 寿美礼さんが、僕の首筋を一瞥した。

「大変、怪異が増大してる」

 寿美礼さんは、紅茶とお菓子を乗せたお盆を座卓の上に置くと、急いで、部屋から出ていった。

 すぐに、寿美礼さんが戻ってきた。

 白木の棒の先に、小さな白い四角形のギザギザの紙が、たくさんついているものを手にしている。

 神社のお祓いなどで使われるアレか?

 たしか【祓串(はらえぐし)】とかいう名前だったような。

 雪下さんからモ◯バーガーで話を聞いて、別れたあと【お祓い】などについても、スマホで検索していた。

 検索結果にも、あんなのがあったかも。

「助けて……」

 僕は、息絶え絶えになりながら、寿美礼さんの足元に縋りつく。

 白い足袋を履いた寿美礼さんが、僕の手を脚から振り解く。

 寿美礼さんが真剣な表情で、僕に一喝する。

「私から離れて! できるかどうか、わからないけど、やってみるから」

 寿美礼さんが、祓串を左、右、左と振り、呪文みたいな言葉を唱えはじめる。

「祓え給い、清め給え、神ながら守り給い、幸え給え……」

 助かるのか!?

 死ぬかというぐらい、息が苦しくなる中、僕は期待した。

 しかし、状況がさらに悪化する。

 喉を掻きむしる腕が、何か見えない力に巻きつかれて、締めつけられる。

 横向きに丸めていた身体が硬直して、畳の上で仰向けに、直立不動の姿勢に固定される。

 一切、動けない。

 これじゃ、金縛りと同じだ。

 寿美礼さんは、必死に同じ言葉を唱え続けている。

「祓え給い、清め給え、神ながら守り給い、幸え給え……」

 しかし、僕の金縛りは、さらにキツくなるばかりだ。

「うがっ……」

 息が止まり、とうとう、声も出せなくなった。

 意識が遠のき、目の前が暗転する。

 そのとき、男の声がした。

「寿美礼、何をやってるだ! やめろ!」

「お兄ちゃんっ!」

 お兄さんなのか!?

 目の前が真っ暗で、僕には、もう声しか聞こえない。

「それを渡しなさい」

 お兄さんが、冷静な声で、寿美礼さんに言う。

「お願い! 山田くんを助けて」

 寿美礼さんは、泣きそうな声だ。

「とにかく、この場を鎮めるのが先だ。詳しい話は後から聞く」

 お兄さんは、寿美礼さんに代わって、呪文みたいな言葉を唱えはじめた。

「臨兵闘者 皆陣列前行……」

 ああ、漫画などで、よく耳にするアレだ。

 僕は、耳だけしか効かない状況で、息絶え絶えになり、とうとう、意識を失ってしまった。



【第十一話:セロテープを剥がせない】

 ◇

 僕は夢を見ていた。

 夏休みの小学校の教室。

 周りの女子たちが、工作の手作りの緑色の筆立てを、ダンボールのセロテープを剥がしたり、足で踏んだりして壊している。

 僕も、そのダンボール紙に貼ってあるセロテープを剥がそうとしている。

 だけれど、手が空滑りして、セロテープをめくれない。

 何度も繰り返すんだけれど、セロテープを指先でつかめない。

 翌朝の教室へと、シーンが切り替わる。

 朝の授業の前に、担任の女性教師が、皆に説明をする。

「この教室に飾ってあった、ある生徒のつくった工作が、今朝、壊れていました。自然に壊れたのではないようです。もし、何か心当たりのある人は、後からでいいので、職員室へ来てください。以上です」

 僕は、工作の作り手の子のほうを見た。

 しかし、その子には、靄がかかっていて、顔がわからない。

 名前も思い出そうとしたけれど、なぜか、思い出せない。

 次に、工作を壊した女子たちのほうを見たけれど、その子たちにも靄がかかっていて、顔も名前も思い出せない。

 そこで、僕は夢から覚めた。



【第十二話:目覚めのあとで】

 ◇

 僕は目を覚ますと、見覚えのない天井が目の前に見えた。

 ここはどこだろう……。

「お兄ちゃん、山田くんが意識を取り戻したわ!」

 聞いたことのある声がする。

 部屋から出て、廊下を走っていく足音が響く。

 そうだ。寿美礼さんの声だ。

 ここはまだ、寿美礼さんの家なのか。

 首を左右に振ってみる。

 さっきまでいた寿美礼さんの部屋ではないようだ。

 ベッドではなく、畳の上に敷いた布団に寝かされている。

 すぐに寿美礼さんが戻ってきた。

 一緒に男性もいる。

 この人がお兄さんか。

 たしかに、寿美礼さんと顔が似ている。

 身長も百八十五センチぐらいはありそうだ。

 年齢は三十代半ばぐらいか。

 黒髪のウェーブのかかったセミロングヘアで、前髪が少し垂れて、右目が隠れている。

 一見すると、モデルさんか俳優さんみたいな雰囲気だ。

 僕は、お兄さんにお詫びを述べて、身体を起こそうとする。

「ごめんなさい。ご迷惑をおかけしました」

 でも、身体に力が入らなくて、起き上がれない。

「こちらこそ、寿美礼が余計なことをして、ご迷惑をおかけしました。大変申し訳ない。寝たままで大丈夫ですから、楽にしていてください」

 お兄さんが正座をして、深々と頭を下げふ。

「山田くん、私のせいで、ごめんなさい」

 お兄さんと並んで座る寿美礼さんも、同じように頭を下げる。

「寿美礼さんのせいじゃないよ。気にしないで。お兄さんには助けてもらえたんですし。こちらそ、ありがとうございます。お二人とも頭を上げてください」

 僕は寝たままで、会釈をした。

 今の寿美礼さんは、巫女姿から普段着に着替えていた。

 白いTシャツに、下は黒色の裾の長いスマートなお洒落なパンツ姿だ。

 さっきと同じ黒縁メガネをかけている。

 Tシャツの正面には【籠球女】と、荒い筆致の墨文字が描かれている。

 なんだかアンバランスな服装だけれど、不思議と、寿美礼さんのイメージに合ってる気がした。

 僕が寿美礼さんのTシャツを、じっと見つめていたのを察したのか、寿美礼さんが、Tシャツの胸元を指で引っ張りながら照れる。

「この胸の文字は私が書いたのよ。自作のTシャツなの」

「へぇー!」

 まだ体調が万全ではないらしい。

 間の抜けたトーンの声を出してしまった。

 咳払いの真似をして、ごまかそうとする。

「えへん、えへん……凄いね。それ、寿美礼さんに、とても似合ってると思った」

「そうでしょ! ゆっきーからも褒められたのよ。今度、同じの作って、ゆっきーにもあげるの。山田くんもほしい? サイズはメンズのLサイズでいい?」

 寿美礼さんは、すごく嬉しそうな顔をして、はしゃいでいる

「コホンっ……寿美礼、今はそんな話をしている場合じゃないだろう」

 お兄さんも咳払いをして、はしゃぐ寿美礼さんを制する。

 お兄さんが、神妙な表情をする。

「私は【薬師寺隆文(やくしじたかふみ)】と申します。山田さんの今の怪異についてですが、詳しくは調べてみないとわからないのですが。寿美礼の見立てのとおり、霊的なモノではなくて、山田さんの深層心理から表出した怪異みたいなものだと、私も考えております」

「やはり、そうなんですね」

 霊みたいなモノだと、映画みたいに、キッチリと除霊してもらえそうだと、期待したのだけれど。

 深層心理が原因だと、一朝一夕というわけには、いかないのかもしれない。

 隆文さんが、僕にたずねる。

「今の山田さんに憑いている怪異は、セロテープのような形状をしています。たとえばセロテープに何か、つらい思い出などはありますか?」

「セロテープに、つらい思い出ですか……人生でも、今までに数え切れないほど使っていますし。その度に息切れなんてしたこともないです」

 でも、そういえば……。

「今さっき、夢の中で、セロテープが出てきました。でも、あれは……」

 僕は、かぶりを振る。

「何でもいいので、話してみてください」

 隆文さんが、優しくたずねる。

 まるで、カウンセリングでも受けているみたいだ。

「あまり思い出したくないことなのですか……」

 僕は、記憶を紐解いて、隆文さんと寿美礼さんに打ち明けた。

 小学生の夏休みに、教室へ内緒で、女子たちと忍び込んだこと。

 女子たちが、ある同級生の図工の工作を壊しはじめたこと。

 女子たちから、僕にも、その工作を壊すように唆されたこと。

 僕は、その同級生には何の恨みもなくて。

 でも、女子たちから強要されて、仕方なく、少しだけ壊したこと。

 そのときの工作が、ダンボール紙でつくられた緑色の筆箱で、貼ってあったセロテープを少しだけ剥がしてしまったこと。

 でも、僕自身も、ずっと記憶の片隅に追いやっていたほど、些細な思い出にしか過ぎないことなども伝えた。

「緑色の筆箱……」

 寿美礼さんが、何かに気づく、

「そういえば、私の部屋の机の上に、緑色の筆箱とセロテープが置いてあるわ」

 僕も思い出した。

「たしかに。息苦しくなる直前に見た記憶があります。それと、写真立ての寿美礼さんの小学生の頃の写真なども……」

 隆文さんが、握った右手の拳を、広げた左の掌へ軽く打ちつけて、ポンと鳴らした。

「それかもしれませんね。いくつかの要素を偶然、目にして、その工作の作り手の同級生に、当時、芽生えた罪悪感が、無意識に思い出されて、今の深層心理に影響を与えているのかもしれません」

「……だったら、私が部屋に招いたせいね」

 寿美礼さんが困惑している。

 僕は、かぶりを振る。

「それは関係ないよ。僕自身の問題なんだから、気にしないで」

 隆文さんが提案する。

「では、こうしませんか? 罪悪感の元を和らげましょう。その工作の作り手の同級生に会って、謝罪するのです。【やったほうは忘れていても、やられたほうは、ずっと忘れない】という喩えもあります。今更、相手も許してくれないかもしれません。掘り返さないほうが良い場合もありますが。それでは何も解決しません」

 僕は、隆文さんの提案に躊躇した。

 小学生低学年のことを、今更、謝りにいくというのも……。

「私も一緒についていくから、山田くん、その同級生に会いに行ってみましょうよ!」

 意気込んだ寿美礼さんは、思い余って、寝ている僕に、顔を急接近させる。

 寿美礼さんの黒縁メガネのレンズに、僕の息がかかり、一瞬だけ曇る。

 あと数センチのところで、キスみたいになった。

 僕の頬が、赤くなるのを自覚する。

「コホンっ……寿美礼、近すぎだ」

 隆文さんが、微妙な表情になる。

「山田くん、すまない。寿美礼は、何かに没頭すると、見境がつかなくなるんだよ。寿美礼、山田くんも困っているじゃないか」

 寿美礼さんは、ハッと気づき、顔を離す。

「でも、私のせいだから……これは私の問題でもあるの。だから、絶対に一緒に行く」

 隆文さんは、眉間に右手をあてて、困惑している。

「このとおり、寿美礼は、こどもの頃から、一度言ったら、聞かない子なんだ。すまない。山田くん、妹も同行させてもらえるかな」

 僕はまだ【会いに行く】とも言ってないのに。目の前の薬師寺兄妹は、勝手に話をすすめていく。

 まあ、似たもの兄妹なんだろう。

 このままでは、またさっきみたいな発作が起きても困るし。医師に相談しても治るとは思えないし。

 僕も、乗りかかった船……もとい、乗せられた感は否めないが……毒を喰らわば何とかだ。

「わかりました。寿美礼さん、一緒に来てくれますか」

 僕は寝たまま、頭を下げる。

「そう! じゃ、出発は、いつにする?」

 寿美礼さんが急かしてくる。

 今からでも行こうと、言い出しかねない、いきおいだ。

「今日は、さすがに無理かな……明後日の日曜日でどうかな?」

「わかった。私も今から準備するわ」

 寿美礼さんは、正座から立ち上がって、部屋から出ていく。

「行くのは明後日なのに……」

 僕は困り果てて、ボソッとつぶやいた。

「本当にすまない」

 隆文さんが、また頭を下げる。

「でも、準備って、寿美礼さんは、何をどうするのですか?」

 隆文さんも困り果てている。

「ピクニックか何かと勘違いしているな……まったく」

 でも、寿美礼さんと二人で、旅に出かけるなんて。

 あらためて考えると、僕も楽しくなってきた。

「でも、僕のいた小学校は、ここからは遠いですよ。新幹線で行かないと、日帰りも無理です」

 隆文さんも、迂闊だったと気づいたようだ。

「そうなのか? さすがに男女ふたりきりで宿泊の旅行は、私も許可できない。二人分の交通費と諸経費などは、私から寿美礼に渡しておくから。日帰りで必ず帰ってきてもらえるかい」

「ええ、もちろんです」

 さすがに、お泊まり旅行は、僕にもハードルが高すぎる。

 それと、新幹線代や諸々の費用も出してもらえるのは、正直なところ助かる。

 僕も母に、こんな理由で旅行をするからなんて言って、心配もかけられないし。

 さて、旅行の名目を、どう母に説明するかだ。

 隆文さんが、僕に伝える。

「山田くん、しばらくのあいだは、筆立てやセロテープは、目に触れないほうがいい」

 美大での実習には、セロテープはよく使う。でも、初日の学校の実習室では、セロテープや筆立ては、目にした覚えもないし。目に留まるところに置いてなかった気がする。

 だとしたら、教室で、寿美礼さんから、僕の怪異が見えたのは、なぜなんだろう。

 スーパーのレジのときは、見えなかったと言ってたから。



【第十三話:親子も首ったけ】

 ◇

 隆文さんはクルマで、僕を家まで送ってくれた。

 寿美礼さんの家から帰る頃には、何事もなかったかのように、僕の体調もよくなっていた。

 これが怪異というものなのだろうか。

 もし病気が原因なら、こんなにすぐに回復するとは思えなかった。

 帰宅したときは、午後二十二時を過ぎていた。

 玄関先で、僕の母と隆文さんが挨拶を交わしている。

「妹の寿美礼が、同じ美大でお世話になっております。洋輔くんのことを、夜遅くまで引き留めてしまい、申し訳ございませんでした」

 隆文さんが、母に、お詫びを言ってくれたおかげで、僕も母からは、夜遅くなったことにも怒られることはなかった。

 隆文さんのクルマを見送ったあと、母が僕に言った。

「とても真摯な方のようね。清水神社の一人息子さんだそうね。育ちの違いを感じるわ」

「お母さんは、あの神社を知ってるの?」

 僕は、雪下さんから教えてもらうまで、神社の名前さえ知らなかったぐらいだ。

「いえ、私も知らないわよ。でも、あの方の人柄は、ひと目見て気に入ったわ。素敵な神社でしょうね。今度、私も行ってみようかしら」

 本気かどうかわからないが、僕の母は、隆文さんのことを気に入ったらしい。

 隆文さんは、たしかに、イケメンといえる男性かもしれないが。

 自分の母親が、若い男性のことを【素敵】だなんて言うのは、なんだか恥ずかしくて、見ていられない。

「そうかな、でも、妹さんはもっと素敵だよ」

 もう見えなくなったクルマのことを、いつまでも見送っている母のことは、置いといて、僕は家に入り、自分の部屋へと戻った。

 まあ、僕も母も案外、似たものどうしなのかもしれない。

 今もまだ、寿美礼さんのことが、頭から離れなくなっている。



【第十四話:洋輔は見た。雪下さんの彼氏を】

 ◇

 翌日の土曜日、僕はスーパーへ買い物に出かけた。

 今日もまた、カ◯メ野菜生活100の十二個入りの箱を二つ、カゴに入れたカートを押しながら、広い店内を巡回していた。

 お菓子のコーナーの棚で、柿の種を手に取る。

「寿美礼さんは、どんなお菓子が好きかなぁ」

 旅の目的よりも、寿美礼さんと一緒に新幹線で出かけることで、頭はいっぱいだ。

 本来の僕なら、異性に対して、こんなに熱心になるなんて、思いもしなかった。

 でも、今の僕は、自分でも、なんだか不思議だ。

 これも【怪異】のせいなのだろうか?

 そんな勝手な想いに、僕はかぶりを振る。

 ダメだ、ダメだ。冷静にならないと。

 そんな邪念に囚われつつ、カートを押していくと、棚と棚のあいだの先の通路に、見覚えのある人を見つけた。

 雪下さんだ!

 僕は声をかけようと思った。

 ところが、雪下さんの隣には、背の高い男性がいる。

 身長が百八十五センチくらいは、ありそうだ。

 天然かどうかはわからないけど、パーマのような癖毛で、もみあげと、うなじ付近は刈り上げている。バスケの漫画に出てきそうな髪型だ。

 雪下さんと男性は談笑しあいながら、店内の通路を歩いている。

 僕は、声をかけるのをやめた。

 雪下さんの彼氏なのかな?

 僕は、棚の陰から、雪下さんたちを覗き見た。

 別に隠れなくてもいいんだけれど……。

 雪下さんの彼氏? いや仮に彼氏と断定する。

 彼氏は、雪下さんと手を繋いでこそいないが、近接距離で、一緒にカートを押して買い物をしている。

 彼氏は、缶ビールを手に取っている。

 見た目は僕や雪下さんより若く見えるけれど、すでに成人しているのか?

 だとしたら、二十歳ぐらいか?

 すると、雪下さんは、彼氏の手から缶ビールをもぎ取り、棚へと戻した。

 少し言い争いをしているようだけれど、彼氏ならではの余裕か、雪下さんに、ぶー垂れた表情をしつつも、ジュースのコーナーへと足を向ける。

 口喧嘩できるなんて、雪下さんと、あの彼氏は付き合いが長いのかもしれない。

 二人でジュースを選んだあと、雪下さんがお菓子のコーナーで、何かを見つけたらしい。

 彼氏の腕をつかんで、引っ張っていって、「これにしようよ」と、お菓子をねだっている。

 こどもか!

 いや、彼氏彼女なんだ……ほんと、仲がよさそう。

 僕はクスクスと笑う。

 でも、そんな気持ちとは裏腹に、仲のよい雪下さんと彼氏を見て、僕の胸がチクッと痛んだ気がした。

 いや、僕には、寿美礼さんという人がいる……。

 なんて、つきあってもいないくせに、自分勝手な妄想が突っ走る。

 やっぱり、最近の僕は、なんだかおかしい。

 今までなら、顔見知りの同級生の女子が、彼氏と歩いているのに、偶然、街で遭遇しても、なんとも思わなかったのに。

 この微妙にザワザワとする感覚は何なんだ。

 僕は、雪下さんたちから距離を置き、そそくさと買い物を済ませて、帰宅した。

 そういえば、今日は、レジでも寿美礼さんは見かけなかった。



【第十五話:ささやかな食卓】

 ◇

 僕は帰宅後、食卓で、晩ごはんを食べながら、真正面の席でインスタントのアサリのお味噌汁を飲んでいる母に訊いた。

 昨日のうちに訊きたかったけれど、昨晩は隆文さんのことを、根掘り葉掘り聞かれそうで、帰宅後すぐ、お風呂に入って寝たから。

「僕が小学生のとき、隣の町内に幼馴染の女の子がいたよね。お母さんどうし仲がよかった、あの子。何という名前だったか、覚えてるかな?」

 僕には、その子の名前も、工作を壊していた女子たちの名前も、記憶が薄れて、覚えていなかった。

 たぶん、自分にとって、あの出来事は黒歴史で、記憶からも無意識に消去してしまったのかもしれない。

 母は、さんまの焼魚を箸でつついている。

「ああ、山口さんちの、あの子ね。名前、何だったかしら? たしか、あの子の弟さんが優子の同級生だったわよね?」

 山口さんという名前だったか……。

 母の隣で、妹の優子が、冷凍食品のナポリタンのスパゲッティを、ひたすら箸に巻きつけている。

 そこはフォークだろ……と思うけれど、うちは昔から、なぜか、スパゲッティのときも箸だけだ。

 幼稚園の頃に、母にたずねたことがある。

 そのときの母の返答は「洗い物は少ないほうがいいでしょう」だった。

 たしかにそうかもしれない。

 幼稚園のときは、母の大変さが、まだ僕にはわからなかったが。

 妹が生まれたあと、交通事故で父が亡くなり、僕と妹を育てるために、母は生命保険の外交員のほか、いくつもの仕事を掛け持ちして働いていた。

 今から思うと、フォークの一つでも洗う手間を省きたいほど、激務だったのだと、僕は母への感謝の念が尽きない。

 優子も小学六年生になる頃には、食器の後片付けなど、簡単な家事などを手伝うようになった。

 今では、家族の洗濯物も、優子がしてくれている。

 僕はといえば、切れた電球を交換したり、壊れた電化製品の面倒をみたり、買い替えたり、その程度しかできてない。ダメ兄貴だ。

 ごめん。お母さん、優子。

 僕が、だらしないだけだが。

 だから、同世代の女子より優子は、しっかり者に思える。

 他の子たちが、遊びに贅沢をしたい年頃だった頃も、妹は、母にねだることもしなかった。

 僕よりも、よっぽど、母の大変さを理解していたんだと思う。

 そんなことを考えていたら、上の空になっていた。

「ねえ、お兄ちゃん、聞いてる!?」

 妹がスパゲッティを巻いたまま箸の手を止めている。

「隣の町内にいた子。私の同級生の【進(すすむ)くん】。お姉さんの下の名前までは、私も覚えないんだけど。お母さんの言うとおり、苗字は【山口さん】だよ」

「そっか【山口さん】だったか。ありがと」

 さっきまで、山口さんという名前すら、すっかり忘れていたことに気づく。

 こうして名前を耳にしても、思い出せない。

 よっぽど、あの頃のことは、僕にとって、封印せざるを得ないほどの黒歴史だったのかもしれないが。

 その記憶すらない。

「もう、自分から訊いたくせに、ちゃんと人の話を聞いてよね」

 妹が、ブツブツ言いながら、箸に巻きつけたスパゲッティを口に入れる。

 僕は、永◯園おとなのふりかけのカツオ味を掛けたごはんを、箸で掻き混ぜる。

 以前まで、百均で五袋入りのふりかけも、最近、四袋入り仕様に変わり、値上げされてしまった。

 ただでさえ、苦しい家計に、物価高騰の波が、こんなところにまで押し寄せてくる。

 そんなときに、新幹線代を出してほしいだなんて、母にも言えるわけもなく。

 寿美礼さんが同行するからという理由で、隆文さんからの援助はありがたかった。

 もしかすると、それを察して、寿美礼さんも、僕と一緒に会いに行くと……言ってくれたのかもしれない。

 考えすぎかな?

 そのあと、僕はすっかり失念していた、あの子の住所を妹に訊いた。

「たぶん、分かると思う。進くんからは、転校したあとも、しばらくのあいだ、年賀状は来ていたから、あとで探してみる」

「ほんと、ありがとな」

 僕は妹にも頭が上がらない。



【第十六話:エスカレーターは右左どっち派?】

 ◇

 約束の日曜日。待ち合わせ時間の午前六時よりも、少し早く来てしまった。

 僕は、改札口の外にある、駅のKIOSKの前で、寿美礼さんが来るのを待っていた。

 新幹線のチケットは、寿美礼さんが用意してくれた。当日、僕に渡してくれるらしい。

 ちなみに【KIOSK】という名前は、各地域のJRよって、読み方が異なるらしい。

 北海道ではキヨスク、東日本ではキヨスク、東海はキヨスク、西日本はキヨスク、四国はキヨスク、九州はキヨスク。

 なぜ、そんなややこしいのかまでは、僕も知らない。

 そんなことを思い出しながら、手元のスマホで検索をしてみる。

「山田くん、お待たせ!」

 寿美礼さんの声がして、顔を上げた。

 日曜日の観光客で混む、改札口前の雑踏の中、白いカットソーに、黒のロングフレアパンツ、白い革のスニーカー姿の寿美礼さんを見つけた。今日は、スーパーのレジのときと同様、メガネをかけていない。

 でも……

「えっ、何で!?」

 寿美礼さんの横で、雪下さんが僕に手を振る。

「よっ、山田!」

 僕は、昨日スーパーで、雪下さんが彼氏と二人でいるのを見つけて、挨拶もできなかったこともあって、どう声を掛けたらいいのか、一瞬、躊躇した。

 寿美礼さんが、僕に微笑む。

「ふふふ、驚いたでしょ。最初から、ゆっきーも呼ぶつもりだったのよ。山田くんが帰ったあと、ゆっきーにLINEしたら、山田くんを驚かそうと、ゆっきーが言うから、内緒にしてたの」

 白いフワッとしたワンピースの下に、紺色のデニムのボトム履いて、赤いキャンバス地のスニーカー姿の、雪下さんが、腰に両手を立てて、胸を張り、首を可愛く傾けた仕草で、ドヤ顔をする。

「山田! 私に声を掛けないなんて、寂しいよぉ……」

 ドヤ顔から一転、両手を目に当てて、メソメソと嘘泣きのポーズをする。

 ホームにいる近くの人々が、雪下さんと僕に目を向けて、不思議な顔をしている。

「いや、学校で会ってから、まだ数日しか経ってないし。それに僕には、今回の件では、雪下さんを誘う理由もないし……」

 雪下さんは、一瞬、悲しそうな表情を見せたが、すぐに笑顔に戻る。

「モ◯バーガーで、あんなに語り合った仲じゃない」

 あれは、語り合ったというか、雪下さんが食べてばかりいただけじゃないか。

 でも、あれは、僕から頼んだことだし。

 その雪下さんのおかげで、寿美礼さんにも会いにいけたから。

 雪下さんには、本当に感謝している。

 でも、昨日、雪下さんが彼氏と一緒にいるとき、声を掛けられなかった僕は、やっぱり薄情なのだろうか……。

 その葛藤に躊躇するが、こんな場所で、どうすればいいのか。

 考え込む僕の気持ちを、察し間違いして、寿美礼さんが、その場を取り繕おうとする。

「ゆっきーの新幹線代も、兄が出してくれるから」

「いや、そっちの問題じゃなくて……いや、ありがとう。ごめん」

 僕は答えに戸惑う。

 もちろん、寿美礼さんと二人旅をしたいとかじゃなく。

 雪下さんには彼氏がいるのに……なんて言うこともできず。

 今の僕の整理し切れない気持ちを、察し切れないというような表情で、雪下さんもまた残念な顔をする。

「まっ、いいか。山田だから仕方ないか」

 そう言うと、雪下さんは、さっさと僕の前を横切っていき、新幹線のチケットを改札口に通して先に行く。

「山田だからって……どういう意味だ?」

 想定外の連続に、僕は理解に苦しむ。

「待って、ゆっきー」

 寿美礼さんは、雪下さんを追いかけようとするが、踏み留まり、僕に振り返って、詫びる。

「ごめん、山田くんも、雪下さんが一緒だと喜ぶと思ったから……あっ、これ、山田くんの分のチケットね」

 寿美礼さんは、紺色のリュックバッグから出した紙のチケットケースを僕に手渡すと、雪下さんを追っかけて、改札口へと駆けていった。

 僕も寿美礼さんを追いかける。

 チケットを改札口に通したときには、すでに、寿美礼さんは、ホームへの昇りエスカレーターの中段に差し掛かっていた。

 僕は、エスカレーターに乗り、空いている右側を駆け上がろうとしたが、左側に立つ中年男性から「エスカレーターは歩いて昇らない!」と一喝された。

「すみません」

 僕は謝って、その男性の後方二段に下がり、じっと立ったままエスカレーターを昇った。

 ちなみに、この街では、エスカレーターのどちら側に立つかは、特に決まっていない。

 昔から住んでいる人は、右側に立っていて、急いでいる人が歩いて昇れるように、左側は空けておく慣習もあったようだけれど。

 観光客や他所の地域からも人がよく訪れる駅やテナントビルでは、エスカレーターは歩かないのがルールだ。

 立つ側を右左どちらかにするのかは、その人次第という、この街ならではの自由なルールも浸透しているようだ。

 僕は、高校生のとき、途中から、この街に引っ越してきた。

 当初は、僕も前に住んでいた地域のルールに慣れていて、エスカレーターは歩かなかった。

 でも、しばらく住んで、慣れていくうちに、つい急ぐときは、歩いて昇り降りしていくようになった。

 たとえば【郷に入っては郷に従え】という言葉もあるけれど、この街では、出身も雑多な人々が増えてきて、昔からの地元密着の人々は【小さなバス停では整列待ちをしないで乗るのが当然】という不思議な慣習も、ちゃんと整列する人も増えてきた近年では、曖昧になってきていると聞いたことがある。

 こんなときに限って、エスカレーターの動く速度が、まるでスロウモーションに感じる。

 そんな、今はどうでもよいことを考えているうちに、やっとエスカレーターがホームへ、たどり着く。

 僕はホームを見渡す。

「いた!」

 僕の立つ位置から、新幹線の車両、一両分ほど先に、寿美礼さんと雪下さんを見つけた。

 寿美礼さんが、雪下さんの機嫌が直るように、身振り手振りで、何か釈明しているようにも見える。

 まだ、僕たちの乗る新幹線が、ホームへ到着するまで、時間は、たっぶりとある。

 僕は、ゆっくりと二人へ近づいた。

「私は、ゆっきーが喜ぶと思ったから」

 寿美礼さんの声が聴こえる。

「めっちゃ、私も嬉しいよ。でも、山田は寿美礼と二人で旅をしたいんじゃないかなと思っただけ。邪魔したら悪いんじゃない?」

 雪下さんが、腕を胸の前で組んでいる。

 表情は怒ってはいないけれど、神妙な顔つきだ。

「ゆっきーは、私に彼氏がいるって、知ってるでしょ。今回のことだって、山田くんが困ってる原因は、私が、何気なく言ったことだったし。責任もあるから」

 僕は、寿美礼さんの言葉が耳に入り、その場に立ち止まった。

 寿美礼さんは背後にいる僕には、まだ気づいていないようだ。

 雪下さんが、僕の視線に気づくと、笑顔に戻り、寿美礼さんの肩を軽く叩く。

「山田、遅すぎ! こんなんじゃ、目的地に着く前に日が暮れるよー」

 一転して明るく振る舞う雪下さん。

 僕が、さっきの二人の会話を耳にしたかどうかは、雪下さんも気づいてはいないようだ。

 よかった。僕も知らないふりを通そう。

「ごめんごめん。エスカレーターを歩いて昇ろうとしたら、怒られて」

 僕は、散々な目にあったとばかりの表情を取り繕い、頭を掻いた。

「そりゃ、当ったり前田のあっちゃんだよ」

 オヤジギャグなのかどうかわからない、微妙な冗談を、雪下さんが、のたまう。

 寿美礼さんも、僕に振り返るが、微妙な表情だ。

「山田くん、同級生のあの子の住所は、わかったの?」

 僕は平然と答える。

「ああ、妹に聞いたら、その子の弟さんと、年賀状のやりとりを少ししていたとかで、住所だけは、わかったよ。【山口さん】という苗字なんだけど、その子の下の名前は覚えてないらしくて」

「住所と苗字だけ? 名前も覚えてないの?」

 雪下さんが、不思議な顔をする。

「山田は、昔、その子の近所に住んでたんでしょう。名前も知らないんだ?」

 僕は悄気る。

「うん、当時のことは、覚えていたと思ってたんだけど、今回の【怪異】をきっかけに、思い出そうとしたら、小学生の頃のことは、ほとんど忘れてしまってることに気づいたんだ」

 僕の悄気た表情を見て、雪下さんは同情するような視線を向ける。

「誰にでも、忘れてしまいたい過去はあるもんね。気にしない、気にしない」

 雪下さんは、まるで自分自身にも言い聞かせるように、僕を励ましてくれた。

 僕と雪下さんのやりとりを、じっと静観していた寿美礼さんが、つぶやく。

「やっぱり、山田くんと、ゆっきーは相性が抜群だと、私は思うんだけど」

 雪下さんが、苦笑しながら、顔の前で思い切り手を振って弁解する

「マジ、勘弁してー。山田なんかと一緒にしないでー」

「そうだよ、雪下さんには、ちゃんと彼氏がいるんだから、失礼なこと言ったらダメだよ」

 僕は寿美礼さんに言い訳がましく言う。

 そう言う僕の胸が、またチクッと痛む感覚になる。

「私に彼氏が?」

 雪下さんが、一転して、不思議そうな顔をする。

 あっ、これは、言ってはいけない情報だったか……。

 しかし、変に思われても困る。

 正直に打ち明けることにした。

「昨日、スーパーに買い物に行ったら、雪下さんが彼氏と一緒にいるところを目撃したんだよ。仲良さそうだったから、邪魔したら悪いと思って、声をかけられなかったんだ」

 雪下さんが、納得顔をする。

「ああ、あれは、うちの弟だから。背が大きいから兄と間違えられるんだけど」

「弟さんだったの?」

 僕は安堵した。

 いや、なぜ安堵するんだ。

 僕は、雪下さんじゃなくて、寿美礼さんのほうが好きなはずなのに。

 いや、寿美礼さんには、彼氏がいるのか……。

 雪下さんが、ニヤニヤしながら、僕の顔を覗き込む。

「もしかして、彼氏じゃなくて弟だと、わかって安心した?」

 顔が近すぎる……。

 僕は焦って、後ろに退がった。

 雪下さんが、一歩詰めて、寄ってくる。

「そうなの? どうなの?」

 なぜ、そんな質問をするんだ。雪下さん!

「別にーっ」

 僕は、しらばっくれた。

「なんだ。つまらない。やっぱり山田だ」

 その【やっぱり】って、やめてほしい。

 でも、そんなことを口に出すことはできず。

 ちょうど、僕たちの乗る新幹線の到着アナウンスがホームに響く。

「あ、急がなきゃ」

 僕は、ずれ掛けていた、黒色のリュックバッグを肩に背負い直して、僕らの指定席の最寄りのホームの発着番号へと、早足で歩きだす。

 二人が僕を追ってこない気配がして、振り返る。

 さっき立ってた場所で、寿美礼さんと雪下さんが、僕の顔を見ながら、一緒に談笑している。

 しかし、ホームのアナウンスと乗客の雑踏に掻き消されて、あの二人が何を喋っているのかは、まったく聞こえなかった。



【第十七話:大切な本を君に】

 ◇

 僕らは、のぞみN700Aの7号車に乗った。

 車両の中程の二人掛け席で、僕は窓側のE席。

 寿美礼さんも窓側で、僕のひとつ前の列のE席。

 雪下さんは、僕と同じ列で通路側のD席に、隣どうしだ。

 寿美礼さんの隣の座席は空席だが、隆文さんが、僕ら三人が座席を回転させて、対面で座れるようにと、空席の分も買ってくれている。

 寿美礼さんの列を座席ごと、百八十度回転させて、三人は向かい合って座ることにした。

 進行方向に向いていたときは窓側だった寿美礼さんは、通路側に回ったので、雪下さんと向かい合わせになった。

 僕の真正面は空席になった。

 三人のリュックバッグは、頭上の荷物棚に置いた。

 新幹線が終着駅に着くまで、あと二時間ほどある。

 そこで新幹線を下車して、さらに在来線に乗り換える予定だ。

 雪下さんが、窓の風景をしきりに眺めようとしてるのに気づき、僕は窓側の席を雪下さんに譲って、通路側の席と交代した。

 僕と寿美礼さんが対面になる。

「私、新幹線って、数えるほどしか乗ったことないんだよ」

 雪下さんが、田んぼが広がる車窓の風景を眺めながら、神妙な表情をして、つぶやくように言った。

 僕も車窓に目を向ける。

 遠くの山と、手前の地方都市の街並みが、ゆったりと流れていく。

 対して、近くの架線柱が、ビュンビュンと猛スピードで流れては、消えるのを繰り返すのが、新幹線に乗っているんだ、という思いを実感させる。

「僕も、ちょっとしか乗ったことない。引っ越しのときと、そのあとの用事で何回か行き来しただけなんだ」

 寿美礼さんは、笑みをたたえながら、静かに、僕と雪下さんと会話を聞いている。

 のぞみが停車しない駅のホームが、僕らの目の前を流れて消え去る。

 雪下さんが、目の前の空席をみつめる。

「転校って、そのときは寂しいけれど、次の場所で、もし素敵な出会いがあったら、結果的には、よかったなと思えるものなのよね」

 僕も、うなずく。

「前に住んでいた街は、人と人との付き合いが密な気がした。まだ、僕がこどもだったから、そう思えたのかもしれないけれど。でも、今住んでいる街は、少し違う気がする」

 雪下さんも、うなずく。

「同感よ。それでも長く居続けると、人付き合いも濃くなっていく気もしたけれど。やっぱり、最初からあの街に生まれ育った人と、他所から引っ越してきた私とでは、見えない境界みたいな一線は感じるよ」

 僕は、少し首を傾げる。

「僕の場合は、そこは少し違うかな。僕自身が人付き合いが苦手だからかもしれないし、そんなに親しい友人もいないから、わからないだけかもしれないけどね」

 雪下さんが、寿美礼さんを見て言う。

「私は、寿美礼と出会えたから……」

 僕は、寿美礼さんにたずねる。

「雪下さんとは同じ高校出身だと聞いてたんだけど、二人はすごく仲が良いね。高校で知り合ったのかい?」

 寿美礼は、雪下さんを一目見て、かぶりを振った。

「正確に言うと違うわね。ゆっきーとは、小学校、中学校も一緒だったのよ。でも、同じクラスになったりもしたけど、そんなに接点がなかったから……私は、小学校のときからバスケ一色だったから」

 雪下さんが、うなずく。

「そうだよ。寿美礼と仲良くなりはじめたのは、寿美礼が膝を怪我して、バスケを休んでからかな」

 寿美礼さんが、遠くを見る目をする。

「そうね。あの頃の私は、医師から、このままでは一生バスケができなくなると知らされて、自暴自棄になりかけていたの」

 でも、そのとき、ゆっきーが、私のことを救ってくれた。

 寿美礼さんが、うつむく。

「そうだよ。あのときの寿美礼は、昼休みに学校の購買部で焼きそばパンが売り切れてて、買えなかったときでも、地球が滅亡する前みたいな絶望感を醸し出していたんだよ」

 寿美礼さんが、顔を上げて、ふふふっと笑う。

「ゆっきーたら……」

 その頃の寿美礼さんは、僕には想像もできないような苦境に立たされていたんだなと思った。

 雪下さんのあっけらかんとした性格が、寿美礼さんの気持ちを支えてくれたのかもしれない。

 なんて、勝手に妄想する。

 しかし、寿美礼さんの、その頃の話は続けないほうがよい気がした。

「雪下さんは、何の部活に入っていたの?」

「もちろん、帰宅部だよー」

 悪びれずに、雪下さんが、はははっと笑う。

「私は、もともと文化部にいるようなインドア人間だったからね」

「雪下さんがインドア?」

 意外だ。帰宅部と聞いても、放課後は、そのまま友達と、街の繁華街へ遊びに繰り出すタイプだと思っていたから。

「そうだよ。家に帰って、静かに小説や漫画を読んでばっかりいたんだよ」

 全く想像できない……。

「ちなみに、どんな小説が好きだったの?」

 雪下さんの読む小説の内容に、率直に興味を持った。

「そうね。本のタイトルを言っても、わからないでしょうし。内容だけ言うと【タイムリープもので、男の子と女の子が、過去と未来を行き来して活躍する話】だよ」

「タイムリープの作品かぁ。僕もそんなジャンル大好きだ。その本のタイトル、教えてくれるかな?」

 雪下さんは、席から立ち上がって、自分のリュックバッグを荷物棚から降ろした。

 膝の上に載せたリュックバッグを開け、ゴソゴソと一冊の文庫本を取り出す。

「これが、そうよ。ある意味、私のバイブルとも言えるわ」

「ちょっと見せてもらっても、大丈夫?」

「うん、いいよ。山田になら」

 僕にならいいってことは、誰ならダメなんだろうと、野暮なことは言わず、雪下さんから、文庫本を受け取る。

「【僕と君の未来世紀徒然草】かぁ」

 本のタイトルを口に出して読む。

 表紙絵は、主人公らしい女子と男子を中心に、背景には老若男女、さまざまなキャラクターが影絵のような筆致で、描かれている。

 本の裏側を見返す。

 あらすじを、つぶやくような声で読みあげる。

「現代から未来へ……様々な時代の古都の街をタイムトラベルで奔走する僕と君。大切な仲間たちとともに、運命の渦に翻弄されながら、活路を見い出していく。ボーイ・ミーツ・ガールのライトノベルから始まり、世代をまたぎ繰り広げられる、スペクタル長編」

 あらすじだけ見ると、壮大な物語にも思える。

 雪下さんが補足する。

「最初は、男子と女子が出会うところから始まるのよ。恋愛モノかと思っていたら、どんどん物語が進むにつれて、クローンたちと闘ったり、月面世界が出てきたり、SFぽく変化していくの。さまざまな登場人物が、各章ごとに増えていって、物語の中心人物が増えていくのも、おもしろいわ。でもまだ完結してなくて……とても長い文字数の物語なのだけど。嫌なことがあったりしたとき、この本を読んでいるあいだだけは、綺麗に忘れさせてくれたのよ」

 その本は一巻だ。

「この本は何巻まであるの?」

「六巻ね。でも、まだ完結してないのよ」

「そうなんだ……」

 本のページを丁寧に繰って、目で文字を追っていく。

「おもしろそうだね。今度、本屋さんに寄ったとき、僕も買って読んでみるよ」

 雪下さんが、悲しそうな顔になる。

「この本は、とっくに絶版なの。本屋さんでは買えないと思う」

「えっ、もう買えないの?」

 僕は、つかんで登る前から、梯子を外されたような気持ちになった。

「昔の本なの。作者がもうこの世にいないからね。だから、続きを読みたくても、読めないのよ」

「そうなんだ……でも、著者が亡くなったあとでも、シリーズが続くのって、あるよね」

 僕は気を取り直して、たずねる。

「この本自体、人気も全然なかったから、著者が亡くなる前から、すでに絶版になってたのよ。私が小学生の頃、たまたま発売当時に本屋さんの新刊コーナーの端のほうで見かけて、買っただけだから」

「でも、絶版になってても、電子書籍なら読むことができないかな?」

「それが、人気なさすぎて、電子書籍もないのよ」

「そっか、残念だね」

 もう読めないのか……。

 雪下さんが、僕の手元の文庫本を見つめながら言う。

「その本、山田になら貸してもいいよ。本当に読みたいのならだけど」

「大事な本じゃないの?」

 雪下さんが、うなずく。

「そうだけど、山田になら、いいよ」

【僕になら……】と繰り返す、雪下さん。

「ありがとう。じゃ、この旅から帰ったあと、借りてもいい? 今、借りても鞄の中で痛むといけないからね」

「そうね、わかった」

 僕が文庫本を返すと、雪下さんは、大切なものを片付けるみたいに、リュックバッグの中に、百均で売っている透明樹脂のケースに文庫本を入れて蓋を閉じた。

 その様子をみて、よほど大事な本なんだと、僕も再認識した。

 車両がトンネルを何度も通過する。

 トンネル内の真っ暗な車窓から、山間の風景へと次々と景色が切り替わる。

 僕は、腕時計に目を落とす。

 そろそろ、スマホ検索で、事前に調べておいた時間だ。

「窓の外をみて!」

 僕は、雪下さんと寿美礼さんを急かす。

「急に何?」

 雪下さんが、不思議な顔をする。

 寿美礼さんには、僕の言った意味がわかったようだ。

「ゆっきー、新幹線に乗ったら、必ずこれは見なきゃ」

「そうなん?」

 雪下さんが仕方ないとばかりに、窓に振り向いた瞬間、車両がトンネルから抜けた。

「うわー!」

 雪下さんが絶叫する。

「富士山だ〜」

 いくつものアーチ型が続く橋と、富士川を前景に構えた、絶景の富士山が、僕らの目の前に現れた。

 頭頂付近には、雪も積もっている。

 僕も写真や映像でしか、ほとんど見たことがない、この風景に、しばしのあいだ、目を奪われた。

「私が新幹線に乗ったときは、いつも家族三人で、こっちと反対の三人掛けの席にだったから……」

 雪下さんが、富士山が見えなくなったあと、振り返って言った。

「そうなんだ……でも、まだまだ、このあとも富士山は見えるよ」

 僕は笑顔で応える。

「山田、ありがと!」

 はしゃぐ雪下さんは、やっぱり可愛くて素敵だ。

 そのあとも、何度も、富士山のビューポイントを通り過ぎた。

 その度に、雪下さんは、遠足に来た、こどものように、窓にへばりつく。

 そんな雪下さんを、僕と寿美礼さんは笑うこともしない。

 僕は、見える角度を変えていく富士山の光景を、次々と目に焼きつけていく。

 富士山も人も、いろんな側面があるんだなと、雪下さんの一喜一憂する姿を見て、僕はしみじみと思った。

 富士山が見えなくなったあとも、僕らは、いろんな話をした。

 声が大きくなりすぎて、近くの席のビジネスマン風のおじさんから一瞥されたり。

 トイレに行こうとしても、ドアの上の表示が、ずっと使用中ばかりのとき。

 雪下さんが「どんだけ長ーいウ◯チなんだ」と、下品な冗談を言ったり。

 寿美礼さんから「ゆっきー、男子の前だよ」と、小言を言われたりしている。

 男子の前って、僕のことか……と、僕も一応、寿美礼さんからは、男子扱いなんだなと思ったりもした。



【第十八話:のれんに腕押し】

 ◇

 そんなとき、ふと、小学校時代のことを、思い出した。

 低学年の頃、クラスの女子たちに混じって遊ぶとき、男子は僕ひとりだった。

 そんなとき、女子たちからは、僕のことは、おそらく男子とは意識されてなかったぽい。

 でも、女子が繰り広げるトークの中で【クラスの中で誰が好き?】なんて話題も、時折は出てたから、当時まだまだ、こどもだった女子たちにも、好きな男子がいたのだろう。

 そういえば、そんなとき、女子たちから僕に【誰のことが好き?】と聞かれたことがある。

 その頃の僕はまだ、異性を好きとかの感覚はあっても、赤ちゃんがどう生まれるのかさえ知らない、エッチという感覚すら知らない、無垢のお子ちゃまだったと思う。

 幼稚園児どうし、近所の女子と遊ぶ感覚の延長だったのかもしれない。

 実は、幼稚園の年少組の頃、お遊戯の時間に、はしゃいで遊んでいて、何のはずみで、そうなったのか。僕は担任の若い女の先生のロングスカートの中に入ってしまって、出られなくなって、焦ったことがあった。

 そのときの僕には、エッチとかの感覚するなくて、喩えるなら、長いカーテンか一反木綿に巻かれて、迷い込んだ異空間から出られなくなったように感じたのを覚えている。

 年齢も知らなくて、若い先生だったと思うけれど、先生も、そんな物心もついていない僕の性格はわかっていたのか、恥ずかしいという感覚はなかったかもしれない。

 母親が、あとから、その話を聞いて、先生に謝っていたのだけは覚えている。

 でも、そのときの僕の視界は、周りの布地に、まさに【のれんに腕押し】状態に陥って、外側ばかりに気を取られていたので、先生のパンツも全く目にしてもいないことは、弁解したい。

 そもそも、スカートの中から救難されるまで、僕には、スカートの中に入り込んでたんだということさえ、わかっていなかったようだ。

 ほんと、どんなはずみで、あんなことになったのか。

 今考えても、不思議極まりない。

 幼稚園児が、よく、女の先生に、エッチな悪戯をするなんて表現は、漫画などではよくあるが、よくはないか?

 そんなことでは、断じてない。

 なんて、頭の中で、誰に言い訳してるのか。

 そういえば、僕には、幼稚園のときも、何人か、よく遊んだ女子がいたそうだ。

 学区が違ったから、小学校と中学校では、もう会わなくなったけれど。

 高校に入学したてのとき、同じクラスの女子から「幼稚園で一緒だったんだけど、私のこと、覚えてる?」と訊かれたことがあった。

 可愛い丸顔のショートカットの女子だったけれど、僕には身に覚えがまったくなかった。

 訊かれたとき、どう返答したのか、詳しくは覚えてないんだけど。

 知らないという意味の返事をしたんだと思う。

 後から思い出しても、まったく、そのときの僕も失礼な奴だ。

 帰宅後、母にそのことを話したら。

「さっちゃんだよ。よく一緒に遊んだじゃない」と咎められた。

 しかし、そのあと、僕はその女子に謝罪する機会を逃してしまった。

 その女子は、すぐに、同じクラスの別の男子と付きあいはじめたから。

 その女子の彼氏は、僕から見ても、男前でサッカー部だった。

 よその彼氏に、わざわざ、幼稚園児の頃のことを謝罪するのも野暮かと、そのままになった。

 そんなこんなのことは、記憶を遡れるのに……。

 なぜか、例の工作の女子のことは、顔も名前すらも思い出せない。

 その幼稚園でも一緒だったことは覚えているんだけど、顔と名前が思いだせない。

 前述の例のごとく、幼稚園の頃と、高校生になってからでは、久しぶりに会ってみても、顔つきもまったく別人に育っていて、気がつかないというのは、ありがちだと思う。

 そんなのは僕だけかもしれないけれど……。

 相手からすれば、すっかり忘れられてるって、悲しいなと、僕も今なら思える。

 しかし、例の工作の子のことは、どうしても名前も顔も思い出せない。

 その工作の筆立ての絵柄や、グリーン色だったことは、思い出せたのに……。

 やっぱり、当時の僕にとっては、無意識下で記憶から消したいほどの黒歴史だったのだろう。

「山田くん、大丈夫?」

 目の前で、寿美礼さんが、心配そうな顔をして、首を傾けている。

 また、上の空になっていたのに気づく。

 雪下さんは、そんな僕を無言で眺めている。

 いつものように、冗談でつっこまれることともない。

 僕は、よほど深刻な顔をしていたのかもしれない。

「ごめん。考えごとしてたから……」

 歯切れの悪い返事しかできなかった。



【第十九話:今、それを買う?】

 ◇

 新幹線から降りると、ホームも駅の構内も、ごった返す人熱で、いっぱいだった。

 せっかく、三人で来たんだから、JR在来線で直行ではなく、計画を変更して、路面電車の私鉄も使って、寿美礼さんと雪下さんにも、ここの車窓の風景を楽しんでもらいたいという考えもよぎった。

 でも、本来の目的に、このあと、どのくらい時間がかかるかわからない。

 予定通り、JR在来線に乗り換える。

 在来線に四十分ほど揺られたあと、目的地に着いた。

 改札口から出る前から「お腹が空いたよー」って、雪下さんが背中を曲げてお腹を抱える。

 雪下さんは、僕たちに「何を食べよっか?」と訊くこともせず、目の前にある駅構内に出店してるパン屋さんへ走っていく。

「走る元気はあるんだね」

 僕は呆れた。

 寿美礼さんも、僕と目を合わせて「ふふふっ」と笑う。

 雪下さんが、いくつかパンをサッサと選んで買って精算して、僕らのもとへ戻ってくる。

 手に提げた袋から、パンをひとつ取り出すと見せびらかした。

「私のはコレ!」

 その手には【あんバターコッペパン】が握られている。

 その名の通り、コッペパンの中に、粒あんとバターが挟んである。

「山田と寿美礼には、こっちのパンだよ」

 僕と寿美礼さんには【カレーパン】を手渡された。

 カレーがそのまま中に入っている感じの揚げパンだ。生地にはお米が練り込まれていて、福神漬けまで入っている、こだわりようだ。

「歩きながら食べようよ」

 雪下さんが、パンの包装を剥がそうとする。

「ゆっきー、歩きながら食べるのは行儀が悪いから」

 さすが、寿美礼さん。言うことが大人だ。

 雪下さんは残念そうに、僕らのパンを預かり直して、手に提げた袋の中に戻す。

 駅の南口から出て、ペデストリアンデッキを歩いていく。

 僕と寿美礼さんが並んで、先に歩く。

 その後ろを、キョロキョロしながら、雪下さんがついてくる。

 ペデストリアンデッキの先は、立ち並ぶ商業施設や駅ビルの二階とつながっている。

 駅ビルの二階には、路面電車の私鉄の駅が入っている。

 雪下さんが「百均へ寄って買いたいモノがあるんだ。ごめん、寄ってもいい?」と訊いてくる。

 僕らは、目の前の商業施設の中へ入って、四階にあるダ◯ソーへ行った。

 雪下さんは一人で勝手に方々へ歩きまわり、物色しながら、お目当てのモノを買い物カゴにいれていく。

 僕も寿美礼さんは一緒に、店内を巡る。

 僕は、LEDのペンライトを買った。

 寿美礼さんは、可愛い柄の便箋セットを買っている。

 やはり、寿美礼さん、買う物までが上品だ。

 雪下さんが「こっちの買い物は済んだよー」と元気に駆け寄ってきた。

 手に提げたレジ袋の中をゴソゴソと掻き回している。

 袋の中には、化粧品なども入っているのが見える。

 雪下さんは、袋から、ひとつだけ商品を取り出して見せた。

「じゃーん! 湯煎用袋」

「えっ、何それ?」

 なぜ、今、それを買う必要があるのか?

「このビニール袋は耐熱性だから、この袋の中に食べたいモノを入れて、鍋のお湯の中に袋ごと入れて温めれば、湯煎ができるんだよ。すごいよね。あっ、でも、お湯を沸騰させると、鍋の底が熱くなり過ぎて、袋が溶けてしまうから、鍋の底には、陶器のお皿などを敷いてから使うんだよ」

 いや、そんなことを聞きたいのではなくて……。

 たしかに、小学校の授業で習ったように、何も混じってない水は、沸騰させても百度以上にはならないから、理論的には、耐熱性が百度ある湯煎袋だと、お湯の温度にもビニール袋は溶けずに耐えられるのだけれど。

 しかし、実際には、金属製の鍋の底は、ガスなどの直火に触れると、百度を超えるから、鍋の底に直接触れると、湯煎袋でも溶けるリスクはあるということなのかもしれないが。

 小学校の先生が、そんなことを、おもしろおかしく、授業に直接関係のないのに、説明していたのを思いだした。

「そうじゃなくて……それ、今、使う必要あるの? 帰ってから地元のダ◯ソーでも買えるよね」

 時間を急いでいるときに、雪下さんが買いたいモノは、それだったのか?と思うと、つい、僕はつらく当たってしまった。

「ごめん、山田……」

 言ったあとに、僕も、そんなに怒ることでもないと気づき、すぐに自省する。

「ご、ごめん、言いすぎたよ。こっちこそ、雪下さんが、気分良く買い物してたのに。ほんと、ごめん」

 僕は正直に頭を下げた。

 ちょっと、むくれ顔をしてた雪下さんも、機嫌を直して、笑顔に戻る。

「平気、平気、こっちこそ、ほんとごめんね」

 雪下さんは、レジ袋をゴソゴソとして、他のモノを取り出して、僕と寿美礼さんに、ひとつずつ、手渡してくれた。

「はい! ご当地限定のエコバッグだよ」

 寿美礼さんが、もらって喜んでいる。

「ゆっきー、ありがと! 旅の記念になるね」

「雪下さんは、本当は、これを買おうとしてたんだね。さっきは早とちりして、ごめん」

 僕は、また素直に謝る。

「いいって、いいって、気にしてないから。さあさあ、さっそく、コレ使おうよ。このあと、もし荷物が増えてくると便利だよ」

 雪下さんは、エコバッグを広げて、肩に掛けて見せる。

 四十七都道府県ごとに、デザインの絵柄が違う商品があるそうだ。

 そういえば、以前に、SNSで見かけたことがある。

 お土産と、すぐに使える便利さと、両立させるなんて、雪下さん、見かけによらず、できるな……。

 さっきは、ほんと、怒ってごめん。

 心の内で、もう一度、謝る。

 でも、雪下さんって、ほんと、おもしろいな。いろんな側面を発見した。

 さっき、新幹線から見えた富士山もだけれど、写真や映像だけで思い込んでいた【富士山】という固定概念が、角度を変えて、実際に目にすると、趣きも異なっていくんだ。



【第二十話:変わる街並みに】

 ◇

 朝早くに新幹線に乗ったのに、もう、お昼前だ。

 たしかに、お腹も空いてきた。

 日帰りのことを考えると、さっさと目的地へは急いだほうがいい。

 僕らは駅前で、タクシーに乗った。

 前の助手席には僕。

 後方座席には、右に寿美礼さん、左に寿美礼さんが並んで座る。

 僕は、妹から教えてもらった住所を、スマホのメモアプリを見ながら、運転手さんに伝える。

 駅を中心に、方々へ放射状に延びている道路のひとつを、タクシーは走っていく。

 タクシーの車窓からは、高層マンションや商業施設が見える。

 コンサートなども観に行った市民会館の前の公園を通り過ぎる。

 公園の入口には、猫を象った石像がある。

 人々が憩いの場として、公園の、そこかしこに集っているのが見える。

 公園の奥に佇む樹木の根元では、アコースティックギターを静かに奏でる女の子の姿も見えた。女の子の前では、一人の男の子が座って演奏を聴いている。

 二十分ほどして、目的地に着いた。

 寿美礼さんが「お兄ちゃんから預かってるから」と言って、タクシー代を精算してくれている。

 僕と雪下さんが先にタクシーから降りる。

 寿美礼さんも降りたあとで「タクシー代は割り勘にしよう」と提案したが「大丈夫だから」と断られた。

 僕は素直にお礼だけ言う。

 タクシーから降りた真ん前の家が、僕らの目的地なはずだった。

 ところが、目の前の家は、僕が小学校の頃に、通学途中で毎日通っていた風景とは、がらりと変貌していた。

 当時、この付近は、個人のお宅や商店が軒を並べていたはずだ。

 今は、前にも後ろにも、大きなマンションが立ち並んでいる。

 寿美礼さんと雪下さんも、頭上を見上げている。

 寿美礼さんが、僕にたずねる。

「ここ?」

「うん、そのはず……」

 目的地の番地にあった家は、大きなマンションに変わっているが、通りの先にある、小さな公園などは、昔の佇まいのまま片鱗も残されている。間違いない。ここだ。

 工作の持ち主の子が、このマンションに、そのまま移って住み続けている可能性は低く感じた。

 小学生低学年の頃から、十一年もの歳月が流れている。

 マンションの一階には、喫茶店がテナントとして入っている。

 新しい雰囲気のお店だ。

 ダメもとで、僕は、お店の人に、尋ねてみることを提案する。

 雪下さんは「私は、あっちの公園で、パンを食べて待ってるから、山田と寿美礼で言ってきなよ。本来は、あなたたちの用事なんだし」と言って、サッサと歩いていく。

 雪下さんには、空腹を我慢して、ついてきてもらったんだし、仕方ない。

「じゃあ、あとで公園で落ち合おう」

 僕は、雪下さんの後ろ姿に声をかけた。

「うん、またね」

 雪下さんは、僕に軽く手を振ると、踵を返して、そのまま公園へと歩いていった。

 寿美礼さんは、雪下さんの後ろ姿を心配そうに見つめている。

「大丈夫かな、ゆっきー」

「大丈夫だよ。小学生じゃないんだし。僕らも、もう大学生なんだから」

 寿美礼さんを安心させるために、軽口を叩いたけれど、内心、僕も雪下さんのことが、心なしか心配になった。

 そのとき、僕のお腹が、グゥーっと鳴った。

 たしかに、お腹が減ったな。

 急ごう。



【第二十一話:ストレートアイスティーを二つ】

 ◇

 喫茶店の扉を開くと、カラン、カランと、古風な鈴の音が店内に響いた。

「いらっしゃいませ」

 アルバイトの店員さんだろうか、カウンター越しに、僕らと同じ年頃の女子が声を掛けてくれる。

「お好きな席にお座りください」

 お昼前だけに、店内は、それなりに混んでいて、二人掛けの空席がなくて、僕らは、窓際の四人掛けのテーブル席に座った。

 アンバー色の落ち着いた色合いの照明と、重厚な木目調のインテリアで、カフェというよりも、純喫茶という雰囲気のお店だ。

 さっきの女子店員さんの他に、カウンターの中でも、同じ年ぐらいの男子が調理などに勤しんでいる。

 店員さんは二人とも若そうだし。新しくできた、お店みたいだから、昔のことを訊いても、知ってそうにないかもと、期待はずれな気分にもなった。

 さっきの女子店員さんが、お盆に乗せて持ってきた水の入ったコップとメニューを、僕らに渡してくれる。

 僕は注文を告げる前に、店員さんに伝えた。

「外で友達を一人待たせていて、すぐに出ないといけないので、飲み物だけですみません」

 店員さんは、和かに笑顔で対応してくれる。

「ここは喫茶店ですから、お気になさらず」

 僕と寿美礼さんは、手っ取り早く作ってもらえそうものを選んで注文する。

「ストレートアイスティーをシロップなしで……」

「ストレートアイスティーをシロップなしでお願いし……」

 僕と寿美礼さんの声が、被ってしまった。

 なんだか、恥ずかしい。

「ごめん、先に寿美礼さんから、どうぞ」

 僕が譲歩する。

 寿美礼さんは、ふふふっと笑い、店員に注文しなおす。

「ストレートのアイスティーを二つ。シロップは無しで大丈夫です」

「かしこまりました」

 店員さんは、寿美礼さんと僕の顔を交互に見比べて会釈すると、カウンターの向こうへと戻っていった。

「山田くんは、やっぱり、ストレートティーが好きなんだね」

 寿美礼さんが言う。

 そういえば、寿美礼さんの部屋で【紅茶なら何が一番好き?】と訊かれたのを思い出す。

「そうだね。でも、声まで被って恥ずかしかったよ。寿美礼さんも、本当にストレートティーが好きなんだね。あのときは話を合わせてくれただけだと思ってたから」

 寿美礼さんは笑顔を絶やさない。

「私は、いつも本当のことしか言わないわよ。ふふふっ」

 店員さんが、僕らのテーブルにアイスティーを二つ持ってきてくれた。

「失礼いたします」

 僕と寿美礼さんと前に、アイスティーのグラスとストローを置いてくれた。

 寿美礼さんが店員さんに会釈をする。

「ありがとうございます」

 僕も続けて会釈をする。

「ありがとう」

 店員さんがカウンターへ戻るかと思いきや、急に振り返って、僕の顔をジロジロと見つめた。

「僕の顔に何かついてますか?」

 喫茶店で、店員さんから、こんなに見つめられたことがないので、不思議に思う。

 もしかすると、僕の顔に何かついてるのだろうか?

 怪異なら憑いてるそうだけれど。

 もしかすると、この店員さんも、寿美礼さんのように【見える人】なのだろうか。

 しかし、そんなことを訊くと、変に思われるので、顔に何かついてる風に、右手で顔を触ってみた。

 寿美礼さんも、店員さんの視線と、僕の仕草をみて、不思議そうにしている。

 寿美礼さんからは、今、僕に憑いているものが見えるのだろうか?

 しかし、店員さんがいる前では、寿美礼さんにも訊けない。

 店員さんも、自身の行動を失態だと気づいたのか詫びてきた。

「あっ、失礼しました。昔の同級生に似ている人だなって。違ってたら申し訳ありません。彼女さんが、さっき【山田くん】と呼んでるのを聞いて、もしかして……山田洋輔くんですか?」

 僕は合点がいった。

 たしかに、元々住んでいた地元なんだから、知っている人がいてもおかしくない。

 僕は店員さんにたずねる。

 もしも、小学校の同級生だったら、まさに一石二鳥だ。

 こちらから、たずねるほうが手っ取り早い。

「たしかに、山田洋輔です。小学校、中学校、高校? 何処の学校で同級でした? 高校は途中で僕が転校してしまって。この街へは用事があって、久しぶりに来たんですよ」

 店員さんが自己紹介してくる。

「えっと、◯◯小学校の二年一組の【熊谷由美(くまがいゆみ)】といいます。当時、よく一緒に遊んでいた男の子だと思ったのですが……まさか、同姓同名の山田洋輔さん違いじゃないとは思うのですが」

 なんて、ラッキーなんだ。

「そうです! 二年一組の山田洋輔です。でも、ごめんなさい。実は、その頃の記憶が曖昧でわからなくて。熊谷さんのことも覚えてなくて」

 店員さんが、ありえないって顔をして、急に友達口調に変わる。

「なんで!? 私のこと覚えてないの? 砂場とかで一緒に遊んでたし。一時期、一緒に日曜日にバレーボールもしてたじゃん」

 やはり、この店員さんは、本当に同級生なんだ。

 たしかに、小学三年生の頃。ほんの短期間だったけれど、学区の体育振興会とかで、日曜日に学校の校庭で行われていた、バレーボールにも参加していた。

 一回きりだったけれど、地域の市立体育館で、対外試合にも少しだけ参加したことがあるのを、今更、思い出した。

 僕の母が、同級生の母親から誘われたらしく。【チームのメンバーの数が足りないらしいから、洋輔、行ってあげたら?】と言われたから、参加してみたんだけど。

 当時、背が低かった僕は、一所懸命に練習に励んだけれど。ジャンプ力もなかったし。レシーブも下手で、リベロにも向いてなかったから。

 それと【メンバー数が足りてない】というは、母の嘘だとわかったから、すぐに辞めたんだと思う。

 あとから知ったことだけれど。

 メンバー数が足りないというのは方弁で、僕に何か運動をさせようと、母が勝手に企んだらしい。

 そういえば、バレーボールの前にも、たしか、二年生の頃だったと思う。少年野球も、母から勧められて、少しだけやって、辞めたんだった。

 野球のときも懸命に練習を重ねていたんだけれど、やっぱり下手だった。

 稀にプロ野球も来るような、地元の大きな市民球場での少年野球の大会にも、ほんの一瞬だけ、外野を守らせてもらったけれど、結局、ボールひとつ飛んでこなくて終わった。

 バレーボールのときと違って、メンバー数も二十人ほどいたし。背番号も後ろから数えたほうが早い【16】の補欠だった。

 そのうち、日曜日の野球の練習よりも、兄たちの友達と、ラジコンカーで遊ぶのに夢中になって、結果的に辞めたんだった。

 でも、そんな理由で、当時の僕は、野球を辞めたんだったけ?

 また、記憶が曖昧になる。

 とにかく、スポーツ競技自体、運動音痴の僕には、どだい無理だったらしい。

 だからか、バレーボールを辞めたあとは、ずっと文化系に勤しんでいる。

 小学校時代のそんな記憶も、別の意味で、僕には黒歴史かもしれない。

 目の前の店員さんから、バレーボールの話を持ち出されて、黒歴史つながりだからだろうか。

 当時の記憶が、芋づる式に引き摺り出されるかのように表出してきた。

 でも……【砂場で一緒に遊んだ】って?

 間違いない、あのときの子だ。

 しかし、まだ確信には至っていない。

「僕が男子ひとりだけ、砂場で女子たちと遊んでいたのは覚えていたんです。でも、当時の女子たちの名前さえも、僕の記憶からは抜け落ちていて……名前も忘れてて、ごめんなさい」

 店員さんは、僕のことを【可哀想な人】だというような目つきで見はじめた。

「山田くんは記憶喪失か、何かなの?」

「いえ、そういうのとは違うみたいなんです」

 相手のことを思い出せないだけに、僕からは、友達口調で話すのは憚られる。

 店員さんの顔を、あらためて見直す。

 僕よりも身長は低くて、百六十センチぐらいだろうか。

 しかし、小学生の頃なので、お互い身長も変わっているのか……。

 髪型に至っては、何の参考にもならないけれど。明るいブラウンで、頭のてっぺんを、お団子ヘアにしている。

 顔は美人だと思う。

 あのリーダー的存在の子の顔も、覚えてはいないんだけれど……。

 思い切って、訊いてみる。

「違ったら、ごめんなさい。もしかして、あの【クラスのリーダー的存在】の女子の?」

 店員さんが、パッと笑顔になる。

「そうそう! リーダー的存在かと言われると、自分で言うのも何だけど。その熊谷由美だよ。山田くんからも【由美ちゃん】って、当時、呼ばれてたんだぞー」

 由美ちゃん……。

 そうだ。熊谷さんという名前は、まだ思い出せないけれど。たしかに【由美ちゃん】と呼んでいた女子がいた。

「そうそう、由美さんですね! 思い出した。忘れてて、ごめんなさい」

 完璧には思い出せないけど、とりあえず、わかるところだけでも、話を合わすことにする。

 由美さんが、嬉しそうに、はしゃぐ。

 手に持っていたお盆をテーブルの上に置くと、身振り手振りで、話し始めた。

「そう、由美だよ!……えっと、そうだ! 学校の授業で飼ってた【蚕】を、ダンボール箱に桑の葉と一緒に入れて、それぞれの家へも持ち帰って育ててたよね」

 話し出すと、どんどん記憶が湧き出てくるのが、自分でも不思議だ。

「そうそう! あれ、僕の家でも、ちゃんと蚕が繭をつくったんだ。でも、絹の糸を取るには、繭をお湯で煮て、中の蚕を殺さないといけないらしくて、結局、可哀想で、そのままにしてたら、蛾になったのもいたんだよ」

 僕も、どんどん友達口調に変わる。

 由美さんも、思い出話に華が咲く。

 しかし、肝心の本題をたずねるには、どうしたらいいのだろう。

 僕の記憶が定かなら、この由美さんこそが、あの工作を壊した張本人だ。

 まるで【あなたが犯人ですよね】なんて訊くみたいだ。

 さすがに、それは無理だ。

 それまで、じっと静観してくれていた寿美礼さんが、話の流れから、僕の気持ちを察したらしい。助け舟を出してくれる。

「熊谷さん、話の途中で、ごめんなさい。私は、薬師寺寿美礼と申します。山田くんとは、大学の同級生なんです。彼女ではないんですけど……」

 寿美礼さんから【彼女ではない】という言葉が出て、僕の胸がチクリとなる。

 由美さんの興味が、寿美礼さんへ向く。

「あ、ずっと喋り続けて、こちらこそ、ごめんなさい」

 由美さんが、寿美礼さんに頭を下げる。

 寿美礼さんが、たずねる。

「実は、このお店がある辺りに、昔、住んでいらしたらしい、山田くんの小学校時代の同級生を探しに、今日は来たんです」

 由美さんは、一瞬考えたあと、何かを思い出したようだ。バツの悪そうな表情に変わった。

「それって、山口さんのことだよね」

 寿美礼さんが、神妙にうなずく。

 僕も、由美さんの表情から察した。

 由美さんは、おそらく、あの工作事件のことを思い出したんだ。

 この瞬間から、僕は針の筵に座らされた気分になった。



【第二十二話:彼女の行方】

 ◇

 僕と寿美礼さんは、喫茶店で、由美さんから、話を打ち明けられた。

 寿美礼さんが席を勧めたので、由美さんは、僕らの座っている四人掛けのテーブル席の空席、寿美礼さんの左隣に座った。

 由美さんは、渋々のいった感じで、話しはじめた。

「たしかに、山口さんは、昔、この場所に住んでいたわ。でも、その様子じゃ、山田くんは、あの出来事も、すっかり忘れているようね」

 あの出来事って、工作の事件のことだろう。

 でも、まだ言うときじゃないと、僕の心の内の警鐘が鳴る。

 しかし、由美さんが口にしたのは、僕には意外な事実だった。

「小学二年生の秋頃に、山口さんが自殺未遂をしたんだけど。それが関係あるのかどうかは、わからないんだけど。山口さんの両親が離婚して、家族も散り散りになって、山口さんは、結局、その年の冬には転校したのよ」

「えっ?」

 僕には、そんな記憶がまったくない。

 居た堪れなくなって、寿美礼さんの顔を見る。

 寿美礼さんは、かぶりを振る。

 このまま、話を聞いた方がいいという意味だと、僕は思った。

 由美さんは、僕に構わず、話を続ける。

「山口さんの、その後は、私も知らないの。でも、山口さんの自殺未遂の原因は、当時の私たちクラス全員にもあったと思う」

 由美さんは落胆している。

 僕も、思い切って、打ち明けた。

「小学二年生の夏休みに、校庭で砂遊びしてたのは、僕も覚えている。そんなある日、由美さんたちと僕は、教室に忍び込んだよね」

 由美さんが、うなずく。僕が言うことがわかっているみたいだ。

 僕も、うなずいて、話を続ける。

「あのとき、教室に飾ってあった、山口さんの図工の授業の工作……緑色に塗られたダンボール紙の筆立てだったと思う。それを、皆で一緒に壊したんだ。由美さんは、覚えてる?」

 由美さんは、両手を顔に当てて、苦しそうな表情になった。

「ごめん、由美さん。こんなこと、今更、掘り返したくないんだ。でも、僕には、山口さんに会って、どうしても、あのときのことを謝らなければならない事情があるんだ」

 由美さんが、両手を下ろして、僕を睨む。

「事情って、何? あの工作の事件の翌朝、担任の先生から【もし、何か心当たりのある人は、後からでいいので、職員室へ来てください】と言われたのに、犯人の私たちが名乗りでなかったから。そのあと先生がクラスの皆に【連帯責任】だなんて叱ったせいで、逆に、山口さんがクラス全員から無視されるようになったのよ。あの工作を壊したのは、私たち五人だけだったのに……クラス全体を巻き込んでしまったのよ。大人になった今の私たちなら、先生が言った【連帯責任】の意味もわかるけれど。小学二年生だった私たちには、そんな難しいこと、わかるわけないじゃない」

 そうだったのか。

 山口さんの自殺未遂のことは、まだ思い出せないけれど。

 たしかに、そんな理由で先生が、関係のない他のクラス全員にまで叱ったのなら、山口さんにとっては、教室全体が居づらい場所へと変貌してしまったんだろう。

 由美さんが続ける。

「山口さんは、元々、一人でいるのが好きな人みたいだったし。親しい友人もいなかったみたいで、味方になってくれる同級生もいなかったみたい。私には、山田くんは山口さんとは少し仲が良かったように見えたんだけど……そんな最中、山田くん、あなたは、少年野球でボールが頭に当たって、当たりどころが悪かったとかで入院して、半年ほど学校に来てなかったじゃない」

 由美さんは、僕のことを、その場から逃げ出した者みたいな目で睨む。

 僕が、そのとき入院してた?

 まったく、覚えていない。

 なぜだ……。

 一瞬、フラッシュバックする。



【第二十三話:上を向いて歩く】

 ◇

 少年野球の練習中、僕は球拾いをしていた。

 当時は【上を向いて歩く】的なカバー曲が流行っていて、皆が上を向くのも流行っていた。

 小学二年生だった僕は、歌の詞の全容と意味も理解せずに、単に【上を向いてたら良いことがある】と勘違いしてたんだ。

 元々、僕はこどもの頃、空を見上げるのが好きだったので。

 少年野球の練習中でも、青空ばかり見上げていた。

 球拾いといっても、強豪チームでも何でもない、弱いチームの少年野球では、外野にまで、頻繁にボールなんて飛んでこなかった。

 そんなこんなで、青空を眺めて、球拾いをサボっていた僕のところへ、打球が飛んできた。

「山田っー!!」

 皆の声が聞こえてきたときには、時すでに遅く……。

 僕が気がついたときは、病室だった。

 当たったのが頭部とのことで、様々な検査も続き、手術のあとも入院が長引いた。

 退院したあとも、母から「しばらく家で養生しなさい」と言われて、小学二年生の僕には、学校も休まざるを得なかったんだと思う。

 母も「それだけ良くなったら、もう安心でしょう」と言ったので、学校へも戻れた。

 しかし、そのときの教室には、空席の机は一つもなかった。

 クラス全員が出席していて、誰ひとり欠けていなかった。

 たまに、風邪を理由に、時々、休む子もいたけれど。

 皆が気にしないふりをしていた。

 僕は、この教室では、何かが欠けていると感じたが、なぜか思い出せなかった。



【第二十四話:知らなかったでは済まない】

 ◇

 僕は、また上の空だったようだ。

 喫茶店の四人掛けのテーブル席で、寿美礼さんと由美さんと、僕は座っているのに気づいた。

 由美さんが、心配そうに、僕の顔を見つめる。

「やっぱり、山田。少年野球でボールが当たったときの後遺症じゃない? 今も、しばらく、ぼーっとしてたよ」

 僕は寿美礼さんの顔を見た。

 寿美礼さんも神妙な顔をして、無言で、うなずく。

 もしかして、僕が、よく上の空になるのは、そういうことなのか?

 母と妹からも、僕に対して「ぼーっとしてたら、危ないわよ、気をつけてね」と、度々、言われているけれど。

 さっきのフラッシュバックのときの記憶が、今は鮮明に残っている。

 母が、僕の退院後も、頑なに【しばらく学校を休みなさい】と言ってたのは、もしかすると……。

 僕が入院した直後に、山口さんの自殺未遂の事件が起きて、退院直後の僕には辛い出来事だろうと、母は僕に知らせたくなくて。クラスの皆が落ち着くまで待ち、それまでは学校を休ませたのかもしれない。

 母は生命保険の外交員の仕事をしていたから、家族が自殺した家庭へも、何度も訪問したことがあるのかもしれない。

 自殺という出来事は、周りの人も、どれだけ悲しく、つらい思いをするのか、母は身に染みて、わかっていたのかもしれない。

 だから、僕には、自殺未遂をした幼馴染の山口さんのことで、悩ませたくなかったという、当時の親心だったのかもしれない。

 しかし、山口さんの自殺未遂のキッカケに、僕も関与していたのに、何も知らずに、ずっと学校を休んでいたなんて……。

 僕は、強く瞼を閉じた。

 涙腺が崩壊する。

 声にならない、声を上げる

「うぉーっ!!!」

 テーブルに両拳を叩きつける。

 アイスティーのグラスが一瞬、卓上から浮き上がり、音を立てる。

 テーブルの上に、水滴のような涙が落ち続ける。

 由美さんが驚いて席を立ち、テーブルから身を退く。

 寿美礼さんは、動じずに、じっとしている。

 そのとき、お店の入口の扉が開いて、カラン、カランと、鈴の音が鳴った。



【第二十五話:隠された秘密】

 ◇

 喫茶店の店内に雪下さんの声が響く。

「山田ー! 遅すぎ! 寿美礼さんと二人きりで、いつまでイチャイチャしてるん?」

 僕たちが遅いから、雪下さんも、しびれを切らして、お店へ来たのか。

「あのパンだけではお腹が持たないよ。山田の奢りで、ここでも何か食べさせてもらうからなー」

 雪下さんが偉そうに、店内にズカズカと入ってきた。

 気落ちしている僕の顔を見て、雪下さんが戸惑う。

「どうしたん? 山田」

「山口さんのことがわかったのよ」

 寿美礼さんが、静かに答える。

「わかったの? よかったじゃん。だったら、食べてる暇はないね。山口さんに早く会いに行こうよ。急がないと日帰りできなくなるよー。山田、早くーっ」

 雪下さんが、場違いな調子で、僕を急かして、席から立たそうとする。

 由美さんが、雪下さんを見て、怪訝な顔つきになった。

「あなた、山口さんじゃない?」

 雪下さんは、かぶりを振る。

「私は【雪下】という名前だよ。山口じゃないよ。なんで、私が山口さんなの?」

 由美さんが、怖いものでも見るような表情になる。

「あなた【山口綾】さんでしょ! 右目の涙袋の下に、小さなホクロが三角に三つ並んでいるじゃない。私、覚えてるの。当時は私も、こども心に【あ〜ちゃん】の、そのホクロがプラネタリウムの星座の【夏の大三角】みたいで可愛らしくて、いいなと思ってたから。あるとき、自分の顔に油性のマッキーで点々を塗って、真似したこともあるもの。そんな珍しいホクロ、絶対に忘れないわよ」

 雪下さんが、右目の下を、右手の人差し指で摩る。

「あぁ……ファンデ塗って隠してたのに。さっき、あんバターコッペパンを食べてたら、頬にバターが着いたとき、手で拭って、ファンデも取れてたのかな。気づかなかった」

 僕は、雪下さんの言う意味が一瞬わからなかった。

「ファンデで隠してた?」

 雪下さんが、右目の下を指差して、おどけるように言う。

「このホクロ、私的にはコンプレックスだったんだよね。だから、普段は、日焼け風のチークを塗って誤魔化してたんだ」

 たしかに、雪下さんの顔には、指差す辺りに、三つの小さなホクロがある。

 星座の【夏の大三角】のように、三つの

点が並んでいるホクロだ。

「でも、私は山口さんじゃなくて、雪下だよ」

 雪下さんが、悪びれずに言い張る。

 由美さんが、席から立ち上がり、雪下さんの左の頬を、右掌で張った。

 パシっという音が店内に響く。

 雪下さんは、叩かれた左頬を、左掌で覆う。

「何するのよ」

 雪下さんは、由美さんの左の頬を、右掌で張り返す。

 また、パシっと渇いた音が、店内に響く。

 由美さんが、また、雪下さんの左頬を張り返す。

 雪下さんも、由美さんの左頬を張り返す。

 まるで、動画をループ再生するみたいに、二人は、お互いの頬を張り合った。

 由美さんが、雪下さんの頬を十回ほど張ったタイミングで、寿美礼さんが席から立ち上がり、雪下さんの右腕をつかんだ。

「ゆっきー、その辺で終わりにしよ」

 雪下さんは、つかまれた腕を、何度も振り解こうとするが、ビクともしない寿美礼さんの力に根負けして諦める。

「寿美礼、もういいから、わかったから」

 寿美礼さんが、つかんだ手を離す。

 左頬を真っ赤に腫らした由美さんが、雪下さんに言い放つ。

「あのときは、お互い、こどもだったから仕方ないでは、済まないのもわかってるけど」

 同じように左頬の腫れた雪下さんは、黙ったままだ。

 由美さんが話を続ける。

「当時【あ〜ちゃん】が、山田くんのことを好きなのは、私、わかってたし。けど、山田くんは、私のことは、男子と一緒に遊ぶみたいな感覚だったのか、女の子扱いもしてくれてなかったから」

「ええーっ!」

 由美さんの話に、僕は耳を疑う。

 しかし、そんな僕を無視して、由美さんは話を続ける。

「だから、その仕返しに、山田くんの目の前で、あ〜ちゃんの工作を壊したのよ。でも、あのとき山田くんは、どれだけ皆から唆されても、あ〜ちゃんの筆立てを、頑なに壊そうとしなかったんだ。だから余計に腹が立って、貼ってあるセロテープも剥がしたんだ。でも、山田くんは、私の剥がし損じたセロテープを綺麗に剥がして、教壇の横に置いてあったテープカッターを持ってきて、新しく貼り直して、筆立てを直してあげたんだよ」

「えっ、僕が貼り直してた?」

 自分の記憶と、由美さんの話とが噛み合わない。

 由美さんが、やっと僕のほうを向く。

「そうよ。でも、それ以前に、私たちが足で踏んだりして、壊しまくってたから、山田くんのセロテープの貼り直しなんて、焼石に水だったけど」

「僕には、そんな記憶ないよ。最初は頑なに断ってたのは覚えてるけど、僕も最後は、由美さんたちの視線が怖くなって、セロテープを剥がしたのを覚えている」

 由美さんが、ハハハと笑う。

「だって、今までの山田くんは、記憶自体が曖昧だったんでしょう。そんな記憶なんて、当てにしないほうがいいよ。リーダー的存在だった私が言ってるだから、信じなさいよ」

 僕は、その話を信じてよいか、どうか迷った。

 雪下さんが、由美さんの顔を一瞥したあと、僕に向いて言った。

「靴の底で踏まれた痕があったり、ダンボールも破れたり、ぐちゃぐちゃに折り目だらけになってたけど、破れたところとかに、後からセロテープを貼って直してあったのは、私も覚えてる。ボロボロに壊しといて、なぜ、直してるのって、当時は不思議だったけど。山田が直してくれてたんだね。今になって、わかったよ。【ゆみちん】が言うなら本当だよ。納得した」

 本当に、そうなのか?

 でも、いつのまにか、由美さんは、雪下さんのことを【あ〜ちゃん】って呼んでるし。

 雪下さんも、由美さんのことを【ゆみちん】って呼んでる。

 この二人って、そんなに仲がよかったかな?

 でも、小学生の頃って、皆、そんなだったのかもしれない。

 僕は、二人の話を信じることにした。

 たとえ、嘘が混じっているとしても……。

 由美さんが、言い忘れたかのように、僕に言う。

「あっ、でも、今は山田くんのこと、何とも思ってないからね。私には、ちゃんと彼氏もいるから。山田くんは記憶が曖昧らしいから、彼のことも忘れてると思うけど」

 由美さんが、カウンターの男子に声をかける。

「克也っ! 山田くんのこと、覚えてるよね?」

 カウンターの男子が、食器を拭きながら、顔を上げて、僕を一瞥する。

「覚えてるよ。お店に入ってきたとき、すぐに俺は気づいてたけど、由美が気づくまで、おもしろそうだから言わずにいたら、何だか、話がややこしくなってきたから、静観してた」

 僕は、カウンターの男子と目を合わす。

「カッちゃん?」

 カッちゃんが、嬉しそうな顔をする。

「おう、俺のことは覚えててくれたかぁ。嬉しいな」



【第二十六話:本当の嘘つきは、どっち?】

 ◇

 カッちゃんといえば……僕は思い出したことを口にする。

「小学二年生の頃、由美さんたち女子と僕が一緒に遊んでいたのを嫉妬して、僕のことを一時期、無視してたよね。でも、そのあとすぐ仲直りしたけど」

 カッちゃんは照れ隠しに言う。

「それ、内緒だって、当時、言っただろ」

 由美さんがカウンターへ駆け寄り、カッちゃんの頬を指でつつく。

「何、何? 昔、そんなことあったの? 克也が当時から私のこと好きだったなんて、初耳なんですけどー」

 カッちゃんがドヤ顔で言う。

「でも、高校二年の同窓会のときは、由美のほうから、俺に告ってきたんじゃん」

 二人って、そんな仲なんだ。

 僕の気持ちを察したのか、由美さんが気軽に言う。

「小学校や中学の同級生どうし付き合ってる人って、他にも多いよ。ずっと地元から離れないでいると、狭い街だから新しい出会いも少ないし、勝手知ったる何とかで、久しぶりに会うと、幼馴染どうしで、くっついたりする人も多いのよ」

「そうなんだ……」

 僕は途中で転校した身だから、その感覚がわからない。

 カッちゃんが冷やかすように、僕に言う。

「山田も、あ〜ちゃんのことは大切にしろよ。あっ、違うか、今は、そこのお嬢さんのほうが山田の本命なのか? 三角関係なんて贅沢だねぇ」

 僕は雪下さんの顔を見れない。

 雪下さんは、そんな僕を気にせず、サラッと言い退けた。

「山田のことなんて、昔から、好きとか嫌いとかなかったよ。単なる幼馴染」

 雪下さんは、寿美礼さんに振り向く。

「寿美礼、あなたはどうなの。山田のことをどう思ってるの? 今、寿美礼がつきあってる彼氏と、山田とだったら、どっちが好きなのよ。山田は寿美礼のことを相当好きみたいだけど」

「えっ、えっ……」

 僕は戸惑う。今にも冷や汗が出てきそうだ。

 寿美礼さんは澄まし顔のままだ。

「あの人は彼氏じゃないわ。私が膝の故障でバスケを辞めることになったとき、リハビリ先の病院で一緒に居ただけよ。あの人もバスケしてて怪我をした人だから、お互い励ましあって、元気もらえたから、感謝はしてるけど。でも、それとこれとは別よ」

 雪下さんは、寿美礼さんに食いかかる。

「寿美礼の嘘つき。その気持ちは本心なの?」

「ええ、私は嘘をつかないわ。本当のことしか言わない」

 寿美礼さんはキッパリと答える。

 雪下さんは僕へ向いた。

「山田。ここで《なぞなぞ》だよ。【嘘ばかりつく人】が【私は本当のことしか言わない】と言いました。それは本当でしょうか、嘘でしょうか?」

 急に言われて、僕は戸惑う。

 心の内で考えてみる。

 たしかに、その理屈なら寿美礼さんは【嘘をついている】のかもしれない。

 でも……。

 僕は雪下さんに言い返す。

「【ずっと嘘をついていた人】が【あなたには好きとか嫌いとかない】と言いました。本当か嘘か、雪下さんは、どちらだと思う?」

 雪下さんが即答する。

「本当に決まってるでしょ」

 僕は、かぶりを振る。

「そうかな? 【嘘ばかりつく人】も【本当のことしか言わない人】も、【その人が言う言葉が嘘か本当か】なんて、僕にはわからない。そんなことを考えあぐねるのは、時間の無駄だと思う。大事なのは【その人の言うことを信じる】かどうかじゃないかな」

 他人の気持ちなんて、わかるわけがない。

 言った当の本人の気持ちだって、そのとき、そのときで変わることもあるし。

 もし言ったらあとに、考えが変わったのなら、嘘も本当になるし、その逆もありうる。

 寿美礼さんが雪下さんに、そっけなく言う。

「私が、もし嘘つきなら、ゆっきーも相当の嘘つきね」

 雪下さんがムキになる。

「私が今まで正体を隠してたことは謝るよ。でも、それは、山田のことを思っての嘘だったんだよ」

「そっちの嘘じゃないわ。今のゆっきーは、山田くんに対して、自分の気持ちに嘘をついているわ」

 寿美礼さんが、心を見透かすかのように瞳孔を開いて、雪下さんと僕を交互に見つめる。

「ゆっきーと山田くんは、今も【繋がっている】わ。授業初日の教室で、雪下さんが山田くんの左斜め後ろの席にいたときと同じ状態よ。雪下さんのほうから山田くんへと、赤い糸状のモノが今も伸び続けて、山田くんの背中に【ついている】わよ」

 雪下さんは、ハッとしたあと、そっぽを向く。

 僕は首を回して、自分の背中を見る。

 寿美礼さんには、何かが見えているのだろうけれど、僕には微塵たりとも見えない。

 僕は寿美礼さんに訊く。

「寿美礼さんの部屋で、怪異が起きたときのような息苦しさは、今はないんだけど」

「今見えている怪異は、私の部屋で山田くんの心の内から表出していた怪異とは別物よ。ゆっきーの心の内から、山田くんへ向けて表出しているの」

 雪下さんは、そっぽを向いたまま、知らぬ存ぜぬを決め込んでいる。

 僕は疑問に思う。

「怪異は、僕からだけではなく、雪下さんからも表出しているということ?」

 寿美礼さんが、うなずく。

「そうね。雪下さんの心から表出した赤い糸状の怪異に対しては、山田くんも息苦しさは感じないはず。このタイプの怪異は、私も、何度か他の子でも見たことあって、理由もわかっていたから」

「それで教室で、寿美礼さんは僕に教えてくれたの?」

 寿美礼さんが微妙な表情をする。

「教室のときのは無害な怪異だったから、本来なら、山田くんに知らせる必要はなかったんだけど……私の親友のゆっきーに関係してたから、ちょっとお節介気分で、山田くんに【君、ついてるよ。気がつかないの?】なんて、謎めいた言い方をしてしまったのよ」

「僕への警告じゃなくて、お節介気分で?」

「そう。入学早々に、ゆっきーみたいな可愛い女子から、好意を持った目で斜め後ろから見つめられているのに気づかない山田くんに【ラッキーね、ついてるよ】という意味もあったんだけど。山田くんは【憑依】の【憑いてる】と、勝手に勘違いして……」

 寿美礼さんが、ふふふっと、思い出し微笑む。

「あのあと、山田くんって、おもしろい人だなと、笑いを堪えるのが大変だったわ」

「そっか、僕の、とんでもない勘違いだったわけだ」

 今更、恥ずかしくなり、頭を掻く。

 寿美礼さんが神妙な表情に戻る。

「でも神社へ来てくれたとき、山田くんに別の怪異が出てるのに気づいて、このまま捨ておけないと思って、怪異の様子も見たくて、紅茶でもどう?って、家に招いたのよ」

「そういうわけだったんだ……」

 せっかく招いてもらった理由が、それでは、少し残念な気もした。

 寿美礼さんが続ける。

「教室で見たという怪異の原因は何だったの?」

 寿美礼さんは、かぶりを振る。

「それについては、私から明かすことはしたくないわ。でも、私の部屋で起きた怪異の原因なら、あのとき、兄が言ったとおりよ。山田くんは息苦しくなる直前、私の小学校時代の集合写真も見たと言ってたでしょ。実は、あの写真には、ゆっきーも一緒に写っていたのよ」



【第二十七話:鈍感な僕のせい?】

 ◇

 そういえば、雪下さんは、寿美礼さんとは同じ小学校だと言ってた。

 僕にも、やっと合点がいった。

「あの集合写真を見て、僕が無意識のうちに、雪下さんのことを思い出して……偶然、寿美礼さんの机の上にあった緑色の筆立てとセロテープを見て……ずっと内面に抱えていた罪悪感を、無意識のうちに、深層心理で増大させてしまった……ということ?」

 寿美礼さんが、うなずく。

 もう一つの疑問が湧く。

「雪下さんから表出している赤い糸状のモノは、僕の背中に、ついていても、影響はないの?」

「怪異の一種だけれど、本来は無害なんだけれど……」

 寿美礼さんが、雪下さんの顔を窺う。

 ひとまず、僕は安心した。

「無害なモノなら、放っておいても平気だよね?」

 でも、疑問は尽きない。

 僕は、寿美礼さんに詰め寄る。

「でも、雪下さんから怪異が表出した原因は何なの? 僕の怪異もだけど、雪下さんにも怪異があるなら、その原因を解消させてあげたいから」

「ゆっきーの怪異の原因か……」

 そう言うと、寿美礼さんは急に、ふふふっと和かに笑って、また雪下さんへ視線を向ける。

 さっきまで、無視を決め込んでいた雪下さんも、我慢の限界を超えたようだ。

「もーっ、寿美礼、そんなことを本人のいる前で、グダグダと考察しないでよ!」

 しかし、本当に怒っているようには見えない。

 寿美礼さんは、微笑みながら、雪下さんの顔を見つめる。

「そうね。やっぱり、ゆっきーから表出した怪異も、結局は山田くんが原因だよね。これも【鈍感な山田くん】のせいね……そう思わない? ゆっきー?」

 僕は唖然とする。

「僕が【鈍感】だって? むしろ【敏感】だから、怪異なんてモノに悪影響を受けてしまったんじゃないのか」

 カウンターで、寿美礼さんの話に耳を傾けていた由美さんが、急に声を上げる。

「あー、山田くん。そういうところ、小学生の頃から全然変わってないよね。ほんと【鈍感】なんだから」

 カッちゃんは、由美さんの隣で苦笑している。

「山田、ほんと変わってないな。小学生の頃、おまえを無視したときも、俺が由美のことを好きだから嫉妬したんだとカミングアウトしただろ。でも、山田は【そんな理由で無視されてたのか、わからなかった】と呆れてたときと同じだ」

 寿美礼さんは、口に手を当てて、ふふふっと笑いを堪えている。

 雪下さんは呆れて、ブー垂れている。

 寿美礼さんが雪下さんへ催促する。

「ゆっきー、このことは、私からではなくて、あなたから説明するべきよ」

 けれど、雪下さんは下を向く。

 雪下さんの様子を見て、寿美礼さんが、しびれを切らす。

「もう、二人とも、手がかかるわね。仕方ないわ……赤い糸状のような怪異は、相手に対して【強い恋心】を持ってると現れるのよ」

「恋心?」

 僕は、雪下さんへ振り向く。

 雪下さんは、僕に、そっぽを向く。

 寿美礼さんが説明をする。

「教室のときに思いがけず、ゆっきーは、あなたと十数年ぶりに再会したことで、赤い糸状の怪異が現れたのよ」

 寿美礼さんが、雪下さんに訊く。

「そうなんでしょ? 偶然とはいえ、十数年ぶりに再会したのに、当の山田くんは雪下さんのことに全く気づいてさえいない。本当は【山口綾だよ】と名乗らなくても、山田くんには気づいてほしかったんじゃないかな? 今日、由美さんから打ち明けられるまでは、ゆっきーが山口さんだとは、私もまったく知らなかったの。だから、この機会に、ゆっきーも山田くんと親交を深められたら……と思って、この旅に誘ったんだけど。逆につらい思いをさせてしまったのね。ほんと、ごめんね」

 寿美礼さんが悲しい顔をする。

 僕は納得した。

 雪下さんも、寿美礼さんの誘いだから断れなくて、この旅に来たんだ。

 でも本当なら、つらい思い出のある、昔の故郷なんて、来たくなかったに違いない。

 当時住んでいた、家のあった場所になんて入りたくなくて、喫茶店には入る気になれなくて、ひとりで公園へ行ったのかもしれない。

 その公園でさえ、つらい思い出しかなくて、雪下さんは、ひとりで泣いたのかもしれない。

 涙で、日焼けメイクが落ちて、三角のホクロが現れて、偶然、このお店にいた由美さんに見つかってしまったんだ。

 偶然とはいえ、何という奇遇だ。

 ある意味、今日、三人でここに来たことは、必然だったのかもしれない。

 雪下さんがムキになって、寿美礼さんに、また反論する。

「新幹線に乗る前に、ホームで寿美礼は【私にも好きな人はいるから、山田くんのことは気にしないで仲良くしてね】なんて言ってたくせに、さっきは【バスケの彼は彼氏じゃない】なんて、矛盾したこと言ってるじゃん」

 そうか、僕がエスカレーターを上がったとき、ホームで寿美礼さんと雪下さんが言い合っていたことは、その話なんだ。

 寿美礼さんが、言いにくそうに話す。

「駅のホームでは、二人の仲を邪魔したくなくて【私には彼氏がいるから】と、ゆっきーには嘘をついたの。でも、山田くんには【私は本当のことしか言わないわ】と話していたから……さっき、山田くんの前では【リハビリの知りあいの男子は彼氏じゃない】と言ったのよ。私の気持ちの問題だけれど【今はまだ彼氏じゃない】という思いもあったのだけれど。今そこまで言う必要もないと思ったから、ゆっきーには嘘をついて誤解を与えてしまったわね。ほんと、ごめん。たしかに矛盾してるわね。私も」

 そうだったのか。【今はまだ】なのか。

 雪下さんは、一度ため息をつくと、息継ぎすることなく、マシンガンのように喋りだした。

「もう……寿美礼のそういうところは、長所でもあり短所でもあるんだよ。そんな配慮は余計なお節介だったんだよ。そもそも、寿美礼が教室で山田に【ついてるよ】なんて、誤解を与えるようなこと言ったから、こんなことになったんだし。私は別に、山田には【私は山口綾だ】と気づいてほしくはなかったんだ。もちろん、そういう気持ちがゼロだったわけでもないけど。むしろ、別人として、新たに出会えて、新たな関係を築きなおせたら、それはそれでよかったんだよ。転校してきて寿美礼のいる小学校で、心機一転、やり直そうと、自分自身のイメージを変えるのに、どれだけ頑張ったか、寿美礼は知らないでしょう」

 だからか……僕の記憶の片隅に微かに残っていた山口さんの印象と、今の雪下さんとがあまりにも違うのは。

 しかし、口ではそうは言ってる雪下さんも、寿美礼さんに怒っているわけでないようだ。

「でも、小学校を転校してきた当初は、やっぱり、ここでも親友なんてできそうにないわ……と諦めかけていたとき。寿美礼は屈託のない笑顔で、私に話しかけてくれたんだよ。誰にでも優しくできる寿美礼からは、当時の私の印象なんて、薄かったと思うけど。私にとっては、寿美礼は出会った最初のときから、大切な憧れの存在だったんだよ」

 寿美礼は驚く。

「そんなふうに思っていてくれたなんて、知らなかった……私も膝を故障してバスケをやめたとき、寿美礼が心の支えになってくれた。あの頃の本当の心の支えは、さっき言ってたリハビリで知りあった男子じゃなくて、ゆっきーだったんだよ。それは本当よ。私が入院していたとき、たまたま、ゆっきーも病院へ来てて、そこで、ゆっきーと仲良くなったんだよ。覚えてる?」

 雪下さんは、すぐにうなずく。

「もちろん覚えてるよ。弟が怪我して入院してたとき、そこで偶然、寿美礼と出会ったんだよね。小学校のときから、私の憧れの存在だった寿美礼と、病院では何度も喋ったことで、私も仲良くなれた。それがキッカケだったんだよ」

 寿美礼さんが、うんうんと何度も、うなずいている。

 僕は、もしかして、未定な彼氏のことはさておき、寿美礼さんの【一番好きな人】というのは【雪下さん】のことじゃないかなと思った。

 寿美礼さんは、バスケを辞めたあと親交を深めた雪下さんのことを、いつのまにか好きになっていたんだ。

 雪下さんも、寿美礼さんのことは、大切な憧れの存在と認めている。

 まさに【相思相愛】じゃないか。

 僕は思ったことを口にした。

「寿美礼さんは、雪下さんのことが大好きなんだね」

 寿美礼さんは、堂々と答える。

「そうよ、一番大好きよ」



【第二十八話:僕は恋しているのか?】

 ◇

 寿美礼さんから【一番大好き】と、思わぬ告白をされた、雪下さんは茫然としている。

 戸惑うことなく、寿美礼さんは続ける。

「あの日、私が教室に入ってきたとき、ゆっきーの心の内から表出した赤い糸状の怪異が、山田くんの背中に【ついている】のを見つけて。【ゆっきーは山田くんのことを好きになったんだなぁ】と思ったわけ。だったら、私も応援したくなるじゃない。ゆっきーと山田くんが、仲良くなれたらいいなって」

 雪下さんは、悲しそうな表情をする。

「なんで、そんなことを言うの? 私にとっては、山田よりも寿美礼のほうが大事なのよ。たしかに私は、幼稚園と小学校のとき、山田とは幼馴染だった。こども心で男の子の山田に興味を持ったこともあったわ。でも、当時の山田は【女子への好きとか嫌いとかの感情】が無いのかな?って、私も気づいたのよ」

 たしかに、僕が、こどもの頃は、女子とも男子と同じ感覚で遊んでいた。

 小学生低学年頃までは、幼稚園児どうしの友達感覚の延長だったのかもしれない。

 そんな僕も、中学生や高校生になってからは、異性を意識する感情も芽生えた。

 可愛い女子に会うと、正直に【可愛い】と魅力は感じるようになった。

 教室やモ◯バーガーで会ったときも、可愛い顔や仕草をする雪下さんから言い寄られたりしたら、ドキドキした。

 雪下さんがスーパーで弟さんと買い物に来てたのを見て、僕が勝手に彼氏だと勘違いしたときは、心も痛んだ。

 寿美礼さんに彼氏がいると、聞いたときの気持ちも同様だった。

 でも、寿美礼さんか雪下さんか【どちらが好き?】と訊かれると……今の僕は、果たして、どちらが一番好きなんだろう。

 人間の価値観は【モノ】みたいに単純じゃない、紅茶のように【一番好きなもの】を簡単には選べない。

 好きな気持ちが、いつのまにか変わることだってある。

 寿美礼さんのことは、スーパーで、片手の掌でガッシリと野菜ジュースをつかみ上げる人でなかったら、僕の意識に留まるキッカケもなかったかもしれない。

 雪下さんも、斜め後ろの席から、僕へ声をかけなければ、大勢いる教室の女子たちのひとりになったかもしれない。

 その雪下さんから声をかけられたキッカケも、元をたどれば、僕が寿美礼さんから【ついてるよ】と言われたからだ。

 寿美礼さんから【ついてるよ】と言われたキッカケも、そもそも、雪下さんから表出した怪異が僕の背中についたからだ。

 そのキッカケも、僕と雪下さんが幼馴染で十数年ぶりの再会があったからだ。

 さまざまな【キッカケ】が、縦糸と横糸のように織り重なって、人と人の【出会い】が芽生える。【キッカケ】が人と人との心をさらに育んでいく。

 今の二人のことを、僕は【大好き】だ。

 だから、どちらも、僕の【恋心】かもしれない。

 でも、寿美礼さんか雪下さんか【どちらが一番好き?】と訊かれると……今の僕は、果たして、どうなんだろう。

【先に好きになった人】のことが一番好きになるのか。

【僕に好意をより多く示してくれた人】のことを一番好きになるのか。

 どちらも、僕にとっては【好き】という感情で、優劣をつけられない。

 また【好き】という感情と【恋心】は別物だと思う。

 人と人が【恋しあう】ことは【僕の気持ち】だけではなく【相手の気持ち】があればこそだ。

 僕だけの【片思い】なら、僕が一番好きな人を選ぶだけだと思う。

 相手に、その気持ちがないなら、僕は諦めるだろう。

 でも、もしも、お互いが【両思い】だとしたら、僕は自分の気持ちよりも、相手の気持ちの【強さ】で【選ぶ】のかもしれない。

「山田、また、上の空だ」

「そうね、上の空ね」

 雪下さんと寿美礼さんの声に、僕は我に返る。

 二人は僕の顔を見て、呆れて、顔を見合わせ、笑っている。

 由美さんが、僕たちに声をかける。

「もう、あなたたち、いつまで大きな声で言いあいしてるのよ。これじゃ営業妨害だよ。さあさあ、席に座って、追加注文もしてね。ランチタイムも、そろそろ終わるわよ」

 苦笑する由美さんの声に、僕たち三人は、お互いの顔を見合わせる。

「そうだね」僕が頭を掻く。

「そうよ」寿美礼さんの顔が今更赤くなる。

「そうだよ」雪絵さんが寿美礼さんの隣の席に腰を下ろす。

 僕のお腹が「ぐぅ〜」と、力の抜けた音を立てた。

 さっき、あんバターコッペパンを食べたはずの雪下さんが言いだす。

「私もお腹が空いた。何か食べたい」

 寿美礼さんがメニューを開く。

「何を食べようかしら」

 僕は、一番、目を惹いたものを注文する。

「この【スペシャルカレーセット】というのにするよ」

「私も山田のと同じのでいいよ」

「私もそれにするわ」

 由美さんが、また苦笑している。

「ランチタイムだから日替わり定食のほうが、お得なんだけど……まっ、お好きなので、どうぞ。飲み物は何にする?」

 僕と寿美礼さんの声が、かぶる。

『ストレートティーのお砂糖なしで』

 雪下さんが笑う。

「あんたら、ほんと、息がピッタリだね」

「ふふふっ」と、寿美礼さんが微笑む。

 この寿美礼さんの「ふふふっ」という笑い声は、いつも僕の心を軽やかにする。

「山田、ニヤつくな、キモい」

 雪下さんが笑顔でつっこみ、飲み物を注文する。

「えっと、私はミルクティーでいいよ。お砂糖もよろしく」

 しばらく待って、目の前に、スペシャルカレーセットが置かれたときに、僕は気づいた。

「あっ、さっき、駅でカレーパンを買ったんだった」

「大丈夫。さっき公園で、山田たちの分も二つとも、私が食べたから」

「えーっ」

 というか、パンを三つも食べても、まだ雪下さん、お腹が空いてるの?とは、さすがに言いづらい。

 モ◯バーガーのときも、驚いたけれど。正真正銘の大食漢だ。

「でも、ちょうど、よかったじゃない」

 そう言って、寿美礼さんが「ふふふっ」と、また微笑む。

「だよね」

 雪下さんがドヤ顔をする。

 僕たち三人の笑い声が店内に響く。

「もう、他のお客様もいらっしゃるんだから、声をもう少し下げてよね」

 由美さんがボヤく。

『ごめんなさい!』

 僕たち三人の声が、かぶる。

 雪下さんが当たり前のように言う。

「ここの分は、全部、山田の奢りだからね」

「えーっ」

「山田のせいで、ここまで来たんだから」

「僕のせいなの?」

『そうだよ!!』

 寿美礼さんと雪下さんの声が、綺麗にハモった。



【第二十九話:本物の鰻よりも、うなぎパイ】

 ◇

 帰路の新幹線も、僕たちは二人掛けの席を回転させて、向かい合わせで座った。

 僕の正面に、隣どうしで座る寿美礼さんと雪下さんは、二人で、ずっとお喋りを続けている。

 まだ日が暮れるまでには、時間もたっぷりある。

 裾野の広がる富士山が、車窓から見えてきた。

 寿美礼さんと雪下さんも、お喋りを止めて、車窓へ顔を向ける。

 富士山の右肩あたりには、残雪に覆われた、宝永噴火口の窪みと隆起が見える。

 僕たち三人は、無言のまま、その光景を心に刻む。

 今回の件では、僕の心に大きな傷跡と、新たな絆を芽生えさせてくれた。

 前の二人は、どうなんだろう。

 そのうち、浜名湖が目前に広がってきた。

「うなぎパイが食べたいな」

 雪下さんが唐突に、つぶやく。

「本物の鰻じゃなくて、パイのほう?」

 僕がたずねる。

「うん、お菓子のほう」

 雪下さんが、淡々と答える。

 大食漢の雪下さんなら、パイよりも鰻重とかのほうが、お腹もふくれそうなのに……と思うが。

「なんで?」

「だって、甘いモノが大好きだから」

「甘党なんだね」

「ちなみに【優柔不断で自分に甘すぎる男子】も、私は好きかもよ?」

 雪下さんが、にやけ顔で、意味不明なことを言い出す。

「雪下さんの彼氏の話なの?」

 僕が首を傾げると、寿美礼さんも「ふふふっ」と微笑む。

「どうだろうねぇ……」

 雪下さんが右脚を伸ばして、赤いスニーカーの爪先で、僕の右膝をつついた。



【第三十話:夏の大三角】

 ◇

 あっというまに、半袖の季節になった。

 大学の実習室の窓からも、夕方なのに、まだまだ強い陽射しが射し込んでくる。

 今回の実習の課題は、クラスメイトの顔のデッサンだ。

 僕と寿美礼さんと雪下さんの三人は、教室に居残り、課題を仕上げている。

 本来なら、二人どうしで向かい合って、それぞれの顔を模写するんだけど。

 僕らは、三角の位置に椅子を並べて座った。

 三人それぞれが、スケッチブックに鉛筆を走らせていく。

 僕は、雪下さんの長い黒髪をまとめている、額上のカチューシャを形取る。

 雪下さんは、寿美礼さんの黒髪のサイドを飾る、緑色のバレッタの模様を緻密に描写している。

 寿美礼さんは、僕の癖毛のウェーブを、丹念に柔らかいタッチで描き込んでいる。

 三人が描く鉛筆の音だけが、静かな実習室に響きわたる。

「できたよー」

 雪下さんが、両手をあげて、背もたれにもたれかかる。

「私は、もう少し」

 寿美礼さんが、瞳の虹彩を描き込んでいる。

 僕は、右目の下に、小さなホクロを三角に描き込んだ。

「完成!」

「でーきた♫ できたー♫」

 雪下さんは、席から立ち上がり、自分のスケッチブックを両手で掲げて、小学生みたいに、はしゃぐと、僕のスケッチブックを覗き込みにきた。

「美人に描けてるねぇー。やっぱりモデルがいいからかな」

 雪下さんが、自画自賛ならぬ、他画自賛……いや、雪下さんの顔の絵だから、自画自賛で合ってるのか。いや、僕が描いたんだから……。

「山田が、また、上の空になってるよ」

「そうね、ふふふっ」



【第三十話:八十二年後】

 ◇

 あれから、八十二年の歳月が過ぎた。

 僕と君は百歳になった。

 ベッドに眠っている僕に、君が静かに語りかけてくる。

「あなた……。私は長生きして、本当に幸せでした。もし、あのとき、命を絶っていたら……あなたに再会することもなかったですし。あの人と出会うこともなかったですものね」

 君の右頬にある、小さな三つホクロの上を、一筋の涙がつたっていく。

「あの人も、半年前に、先に逝ってしまわれたけれど、今頃は、雲の上で、夫婦水入らずで、ボールをつかんで、1on1でもしていることでしょうね」

『ああ、あの大きな掌でな』

 しかし、僕のこの思いは、声にならない。

 僕の身体は、もう死んでいる。

 意識だけが、君の頭上を、煙のように立ち昇っていく。

 僕は、声なき声を、君にかける。

『君のおかげで、僕も幸せだったよ。美味しいモノもたくさん食べに行けたし、素敵な家族にも恵まれたからね』

 僕のベッドの周りを、息子、娘、曾孫を抱いた孫たち、大勢の子孫が取り囲んでいる。

 曾孫の夏美が、目を閉じて返事をしない僕の顔を見つめて、つぶやく。

「ひいおじいちゃん、また、上の空なのかなぁ?」

「そうね、また、上の空だね」

 そう言って、君が「ふふふっ」と、あの人のように微笑んだ。

「私は、もう少し夏美たちと遊んだら、そっちへ行きますから、そのときは、また何か奢ってくださいね」

 君がそう呟いた。


 了

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背が高くて、掌の大きな彼女から『憑いてるよ』って言われたらどうする? 雅枝恭幸 @masaedatakayuki

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