第13話 溺れる列車
第13話 溺れる列車
無音の城の庭を、私は知らない旋律に背を押されるように歩いた。
空気は重く、耳の奥には何も残らなかったが、胸の内で微かな鼓動だけが鳴っていた。
突然、風が吹き抜けた。音はしない。ただ、柔らかい幕のような圧が世界を包み込む。
目を細めると、灰色の空の向こうから、黒い鉄の影がすべるように近づいてきた。
——列車だ。
地面を踏みしめる音すらなく、巨大な影は目の前で静止する。
金属の表面は濡れているように光り、ガラス越しにゆらりと青い光が揺れていた。
呼吸をひとつのみ込み、私は列車の扉に手をかける。
重いはずのドアは、まるで水の膜を割るように静かに開いた。
中はしんと静まり返っていた。
通路の奥へ進むと、窓の向こうはすでに水に沈んでいて、魚がゆっくりと泳いでいる。
金色や銀色、虹色の鱗が列車の揺れに合わせて反射し、かすかな光が音符のように宙に跳ねた。
入口が開いても水は流れ込まず、魚だけが足元をくすぐるようにすり抜け、次の車両へと消えていく。
アナカリスとミクロソリウムの水草が列車の床を撫でるたび、かすかな和音が響いた。
それは耳ではなく、皮膚の下に届く音だった。
食堂車に足を踏み入れると、誰もいないはずの座席に、魚の頭をした乗客が静かに腰かけていた。
彼らは微動だにせず、ただ水の中の揺らぎのように、そこに“いる”だけだった。
私は視線を逸らすように、窓際の席に腰を下ろす。
深い海の底にいるような感覚が、胸の奥をやわらかく締めつけた。
遠く、崩れ落ちた街の廃墟が見える。
瓦礫の間を魚が群れをなして泳ぎ、街の残骸を彩っていく。
波紋のような揺らぎが窓を震わせ、記憶の奥の光景を呼び起こした。
「ねぇ、会いに来て」
声がした。
振り向くと、リアが目の前に座っていた。
いつの間にかテーブルには、ふたつのコーヒーカップが湯気を立てて並んでいる。
白い蒸気が、列車の揺れに合わせて細くたゆたった。
「私は、ここにいるよ」
そう答えると、リアは少し目を細めて、いつものように口元を緩めた。
「そうじゃないわよ。おバカさん。場所は知ってるでしょ?」
「分からないよ」
「嘘つきね」
リアはふっと立ち上がる。
魚たちが、彼女の足元を泳ぎながら列車の出口へと向かっていく。
ドアが静かに開き、淡い水の光が差し込んだ。
彼女は振り返ることなく、そのまま降りていってしまう。
追いかけようとしたのに、足が水の重みに絡め取られて動かなかった。
目の前に残ったのは、ゆらめく魚と、淡い光と、テーブルの上のコーヒーだけ。
リアが座っていた席の温もりが、ゆっくりと薄れていく。
私は手を伸ばすこともなく、静かに目を閉じた。
耳の奥で、水草が擦れる音と魚の鱗が弾く音が、名もない旋律となって漂っている。
―――知ってるよ。
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電脳の庭で眠る 鉢 @ulan
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