第12話 無音の城
第12話 無音の城
白く染まった視界の中で、音がすべて遠のいていった。
耳鳴りのような高い残響だけが、長く尾を引いて消える。
まぶたの裏に残るのは、七色の蝶の残像。
それが音の粒子にほどけながら消えた瞬間
——世界が、息を止めた。
気づけば私は、どこかの中庭に立っていた。
石畳は湿り気を帯び、曇った空が灰色に滲んでいる。
あたりは不思議なほど静かだった。
風も、鳥も、遠くの人の声もない。
耳の奥を探っても、何ひとつ“音”が見つからない。
——まるで、音そのものがこの場所から奪われたみたいだ。
呼吸をすると、肺の中で空気が動く気配だけが伝わる。
それすらも次第に薄れ、私は自分の存在の輪郭を確かめるように胸に手を当てた。
どこかで、ここを知っている気がする。
この石畳の配置、壁の曲線……。
そうだ。
リアと一度だけ訪れた古い城の庭。
かつて彼女のオペラ公演が開かれた場所だ。
夜の終演後に2人で、この城の持ち主の系譜樹のレリーフ前で話した事を思い出した。
「この城はね、どんなに大きな声で歌っても、音は壁に吸い込まれるのよ。
だから、声を張ろうが、そっと歌おうが——どちらも同じように消えてしまう。面白いでしょう?」
リアは微笑みながらそう言った。理屈では説明できない、音の不思議を楽しむような目つきだった。
あのときの光景が、灰色の空の向こうにふわりと浮かぶ。
声の余韻も演奏のざわめきも、いまここにはない。
ただ、胸の奥に残るリアの声の残像だけが、静かな城の空気を微かに震わせている。
私は一歩、石畳を踏み出した。
靴が湿った石に触れる感触だけが確かにあるのに、音は消えたままだ。
風も、鳥も、人の声もない。
世界の輪郭だけが、淡く揺れる光のように存在している。
なのに、音がない事で私を城に隔離しているかのようだった。
壁際に目をやると、白く小さな花が絡みついているのが見えた。
最初はただの蔓草かと思ったが、近づくにつれてそれがツルアジサイだとわかる。
雪のように小さな花が静かに咲き誇り、甘い香りが微かに漂う。
花々は壁を覆い、一枚の絵画のようになっていた。
蔦の下には、古びた扉の形をしたトンネルがある。
光はないのに、奥の空間が淡く明滅しているように感じられた。
無音の中で、そこから微かな呼吸が伝わってくる。
吸い込むたび、空気がかすかに震え、胸の奥をくすぐった。
私は深く息をつき、足を進める。
その呼吸に導かれるまま、無音の城を抜け出した。
——知らない旋律を探すように、見えない音に背を押されて。
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