エピローグ:光の香りが満ちる場所
あれから、三年の歳月が流れた。
窓から差し込む柔らかな秋の日差しが、ガラスの小瓶(フラスコ)をきらきらと照らしている。私の目の前には、何十種類ものエッセンシャルオイルが、まるで虹のパレットのように並んでいた。ここは、暁さんが私だけのために屋敷の離れに建ててくれた、ガラス張りのアトリエ。かつて母が使っていたあのアトリエの、温かい魂を受け継いだような、光に満ちた私の城だ。
指先に染み込んだベルガモットの爽やかな香りをそっと嗅ぐ。集中しすぎたせいか、少しだけ強張っていた肩の力が、ふっと抜けていくのを感じた。今、私が創っているのは、IJUINの新作ではない。もっとずっと個人的で、大切で、愛おしい、世界でたった一つの香り。
「紬。またここに籠っていたのか」
背後から聞こえた優しい声に、顔が綻ぶのがわかった。振り向くと、マグカップを二つ持った暁さんが、少し呆れたような、それでいてたまらなく愛おしそうな顔で立っていた。氷の皇帝と呼ばれた面影は、もうどこにもない。休日の彼は、上質なカシミアのセーターに身を包んだ、ただ一人の、私の夫の顔をしていた。
「暁さん、おかえりなさい」
「ただいま。高遠との打ち合わせが思ったより長引いてしまった。…無理はしていないか? 顔色が少し白い」
そう言って、彼は私の頬を大きな手で包み込む。ひんやりとした彼の指が、火照った肌に心地よかった。差し出されたマグカップを受け取ると、カモミールと蜂蜜の甘い香りが湯気と共に立ち上った。
「ありがとうございます。大丈夫ですよ、夢中になっていただけですから」
「その夢中になりすぎるのが、君の悪い癖だ」
彼はそう言いながらも、私の手元にある小さな試験用のブレンドに興味深そうに目を向けた。
「今日の香りは、どんな香りだ?」
「ふふ。今日の香りは、“お昼寝の香り”です」
「お昼寝?」
「はい。日向で干したふわふわのお布団と、ほんの少し、ミルクの匂い。そして…」
私が言葉を続けるより早く、アトリエのドアがそろりと開いた。小さな足音が、てちてちと可愛らしいリズムを刻みながら、私たちの方へ近づいてくる。
「…ぱぱ? まま?」
舌足らずな、天使の声。
私と暁さんは顔を見合わせて、同時に微笑んだ。
「おいで、光(ひかり)」
暁が腕を広げると、二歳になったばかりの娘、光は、きゃっきゃと笑い声を上げながら、彼の足元に飛び込んでいった。彼は、いとも容易く光を抱き上げると、その柔らかな頬に何度もキスをする。その光景は、三年前の私には想像もできなかった、温かく、かけがえのない日常だった。
光は、私の腕の中から小さなブレンド用の小瓶を指差して、「あうー」と声を上げた。
「光には、まだ少し早いかな」
「いや、分かるのかもしれないな。母親の才能を受け継いでいるのなら」
暁は、本当に誇らしそうにそう言う。
光が生まれてから、彼の溺愛ぶりは、秘書の高遠さんが「社長の威厳が…」と頭を抱えるほどに加速していた。けれど、会社の業績は、不思議なことに右肩上がりを続けている。彼が私と共に発表した香水『アキラとツムギ』は世界的な大ヒットを記録し、「愛を伝える香り」として、今もなお多くの人々に愛され続けている。氷の皇帝が手に入れた“愛”は、彼のビジネスにさえ、温かな光をもたらしたのだ。
光を抱いた暁が、私の隣に静かに座る。
私は、かつて自分がそうしてもらったように、彼の大きな背中にそっと寄り添った。
ふと、あの結婚式の日のことを思い出す。
教会の祭壇の前で、「ガラスの小瓶を突き立てる」と、物騒な誓いを立てていた私。あの頃はまだ、自分に与えられる幸福を信じきれず、どこかで怖がっていた。叔母に虐げられていた日々の記憶が、心の奥底で疼いていたのだ。
けれど、暁さんは、そんな私の臆病な心を、三年間、一日たりとも欠かすことなく、その大きな愛で溶かし続けてくれた。
「君が俺の聖域だ」と、何度も、何度も、飽きることなく囁きながら。
私が創る香りは、変わった。
以前は、どこか切なさや、痛みを伴う香りだった。けれど今は、温かさや、優しさ、そして、どうしようもないほどの幸福感を表現できるようになった。彼が、私の心を豊かにしてくれたからだ。
「紬」
「はい」
「光の香水が完成したら、次は、俺たちの香水を創ってくれないか」
「私たちの…ですか?」
「ああ。十年後、二十年後の、俺たちのための香りを」
彼の言葉に、胸の奥がきゅうっと甘く締め付けられる。
十年後、二十年後。
その言葉が、当たり前のように彼の口から紡がれることが、どれほど幸せなことだろう。
「…はい。創ります」
「どんな香りになるだろうな」
「そうですね…きっと、今日淹れてくださったカモミールティーみたいに、穏やかで、少し甘くて。そして、このアトリエの陽だまりのような、温かい香りになると思います」
私がそう言うと、彼は「最高の香りだ」と囁いて、光を抱いた腕とは反対の腕で、私の肩を強く抱きしめた。
窓の外では、庭の金木犀が夕日に照らされて、黄金色に輝いている。
甘い香りを乗せた風が、開け放たれた窓からアトリエに流れ込み、私たちの創る香りと優しく混じり合っていく。
かつて、私の世界は、無音で、無臭で、色のない、ただ息をするだけの場所だった。
今は、どうだろう。
愛する夫の低い声。
娘の無邪気な笑い声。
そして、私の心を震わせる、無限の美しい香り。
その全てが、ここにある。
私は、暁の肩にそっと頭を預けた。
彼が探し求めていた“聖域”は、母が遺した香りではなく、私という存在だったのかもしれない。
そして、私がずっと焦がれていた“帰る場所”は、失われた過去ではなく、彼と光がいる、この腕の中だったのだ。
「暁さん」
「ん?」
「私、今、世界で一番、幸せです」
返事の代わりに、彼は私の額に、慈しむような優しいキスを落とした。
ガラスの小瓶に込めるのは、もう誓いや覚悟ではない。
ただ、そこにある愛と、感謝と、そして未来への祈り。
光の香りが満ちるこの場所で、私たちの物語は、これからも続いていく。
どこまでも甘く、どこまでも穏やかに、永遠に。
虐げられていた私、冷徹な“氷の皇帝”に『君の香りは俺の聖域だ』と見初められ、世界一甘い独占欲の檻に囚われました クソプライベート @1232INMN
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