慈しみの仇花

はばたきUFO

慈しみの仇花

 

 「あ、レシートいら……あ、いや、ごめんなさい何でもないです。 もらいます、レシート……はい……。 ……すいません、ありがとうございました」

 

 コンビニを出て、受け取った小銭とレシートとパンをコートのポケットに突っ込んでから、ようやくフードを取って顔を上げた。

 仄暗ほのくらい景色の中、冷たい風が耳と頬を刺す。ここの店員は、お釣りを渡す時にトレーを使わないから苦手だな……。と、情けないクレームを頭に浮かべながら、買ったミルクコーヒーの蓋を開け、軽く口に流し込んでから歩きだした。

 

 

 曇り空、街灯のライトの下を一つひとつ潜り抜けるように進んでいく。ガードレールを挟んだ向こうの大通りは、こんな時間でも車の往来がひっきりなしだ。代わりに、歩道を行き違う人の数はまばらで、平日の夜らしい寂寥せきりょうを思わせる。もしも近辺に飲み屋がいくつかあったら、道の治安はもう少し悪かっただろう。この辺りにある店といえば薬局やコンビニぐらいのもので、あとは皆マンションだったりオフィスビルだったりと、なんの面白みもない建造物たちがまばらに並び立つだけだった。

 

 

 「寒っ……」

 

 

 まだ一口分しか減っていないミルクコーヒーと一緒に、両手をポケットに入れる。中で小銭が擦れる音がした。バイト代が振り込まれるのは明後日だから、それまでの間は、今しがた買ったコッペパンと、ポケットにある小銭だけで生き延びなければならない。……まぁ、八百三十四円もあれば、二日分の飯ぐらいどうとてもなるだろうけど。

 

 

 東京に移り住んでから、今年で六年目になる。都内の大学を出て有名企業に就職して、二年足らずで退職して……それでも東京から離れられなかった僕は今、在宅のコピーライターとアルバイ卜を掛け持ちしながら生活している。

 大学の頃からずっと一人暮らしだったから、一人の生活にはもう慣れた。ただ、料理だけは本当に苦手で、いつもコンビニで買うか惣菜を買うかしてしのいでいる。母や兄貴が何かにつけて「ちゃんとご飯食べてる?」と聞いてくるのが面倒で、周囲には「ちゃんと自炊してるよ」と笑顔で嘘をつくのが定番になってしまったのだが。

 

 

 周囲……と言っても、自分の生活状況を誰かに伝えるような機会などほとんどなかったことに今更ながら気づいた。それこそ、家族や一部の友人に話すことがあるぐらいだ。関わりの薄い人間に対して自分のことを素直に話すのは抵抗があったし、そもそもその家族にすら嘘をついている時点で、素直なんてものを語る資格は僕には無い。実に狭い交友関係の中で、僕は寂しく生き永らえている。

 


 ✳✳✳


 

 『───何ていうかさ……ゆうくんって優しいけど、っていうか。 正直、一緒に過ごしてて……退屈だなって、思っちゃった。 だから、ごめん……やっぱり君のこと、彼氏として好きには……なれない』

 


 ✳✳✳

 

 

 …………あぁ、また余計なこと思い出した。

 

 

 静けさのただよう夜は、いつもこうだ。心の感傷的な部分を突っつかれるみたいにして、嫌な記憶がほじくり出される。僕はコートの襟を立てて、駆け足気味にその場を去った。人通りの少ない静かな歩道を、切れかけの街灯と無数のライト達が不必要なほど明るく照らしている。対して、月明かりすら見えない曇り空からは、ポツ、ポツ、と雨粒がこぼれはじめていた。

 

 

 「はぁ……だる」

 

 

 いつもなら大通りに沿った道で帰るのだが、そちらは遠回りになる。このまま雨が強まるようなら、近道を通って帰った方が良いかもしれない。僕は、不気味だからと普段は使うのを避けていた路地裏へと方向を転換した。

 既に頭や肩は濡れはじめている。特有の土っぽい香りや、皮膚が重くなるような湿気が、壁とダクトとシャッターに囲まれた狭い空間に立ち込めていた。次第に、辺りを叩く雨音も強くなっている。こんなことなら、折り畳みもポケットに入れてくるんだった……と後悔するが、もう遅い。大きなため息をつきながら、僕は再びフードを被ると、より地面をグッと蹴るようにしてさっさと路地裏を抜けようと駆け出した。

 

 


 「───待って!」

 

 

 たった一声。雨音を裂くようなその声で、僕の足はすぐに止まった。


 女性の声だった。だが、駆け足で路地を走り行く間、僕の視界に人影は一度も映らなかったはずだ。

 恐る恐る辺りを見回す。路地に入ってすぐの店にある一本の蛍光灯しか光源がないせいで見通しが悪く、人を見つけられない。しかし、コートの裾をグッと下に引っ張られる感覚があったことで初めて、声の主が自分の足元でうずくまっていたのだと気づいた。

 

 

 「えっ、と……」

 

 

 「お願い……助けて下さい。 何でもしますから……私、もう二日も何も食べてなくて……お金も、ないんです」

 

 

 第一声の時とは裏腹に、おびえたような震え声でその女は言った。

 本格的に雨が降り始める。僕は、何が何だか分からないまま、とりあえず明かりを確保しようと思いポケットからスマホを取り出した。ところが、それを操作する前に、女が僕の腕にしがみつく。

 


 「待って! 警察はっ……警察は呼ばっ、呼ばないで! お願い! フェラでも何でもっ、ゴム無しでシても良いから! だからお願い、警察には……!」

 

 

 ロック画面のまま、僕の手から滑り落ちるスマホ。その僅かな光が、僕の腕を掴んですがり付く女の姿を真下から照らした。

 黒のワンピースに、セーターみたいな灰色のカーディガン。癖のあるショートの髪は、雨に濡れて顔の周りに張り付いたり、水をしたたらせたりしている。だが、よく見ると服の一部がボロボロになっていたり、カーディガンに目立つシミが出来たりしていた。極めつけに、その女は靴を履いていなかった。異常な状況であるということは、明白だった。

 

 

 「あの……お、落ち着いてください。 とりあえずその、事情を話してもらえると……ありがたい、んですけど……」

 

 

 まず予想したのは、「暴力夫(あるいは彼氏)から逃げてきた」というパターン。酷い場合は、監禁されていたけれど隙を突いて逃げ出した、というのもあるかもしれない。警察への連絡を怖がるということは、警察が自分を保護してくれず、夫(彼氏)の元に返される可能性を危惧している、とも考えられるだろう。


 あるいは、女の方が犯罪者であるパターンも考えられる。罪を犯してしまい、行き場もなく逃げ続けた結果、お金も食べるものも無くなって此処に行き着いた、という可能性とてゼロではない。……ただ、もしそうだった場合、僕がここで彼女を手助けしてしまうと、僕まで罪に問われてしまうことになる。『犯人隠避罪いんぴざい』とか何とか、そんなのがあったはずだ。

 ……いや、最悪の場合、女が殺人犯とかだったら、ここで僕も殺されてしまうかもしれない。


 

 「えっと……まず、名前から教えてもらえませんか? 事情は一旦置いといて、名前ぐらいは」

 

 

 さんざん迷った挙げ句、僕は一旦小難しく考えるのを止めた。そして、気がついた時には彼女にそう話しかけていた。

 人当たりの良い人を演じること……目の前で困ってる人がいたら優しくすること。その染み付いた悪癖あくへきが、どうやらこんな場面でも発揮されるみたいだ。それで今までたくさん損してきた癖に……などと自嘲しながら、僕は、僕の腕を掴みつづける女の手に、そっともう片方の手を添えた。雨に濡れた女の手は、血が通っていないみたいに冷たかった。

 

 

 「私……私、は…………」

 

 

 雨音の中に消え入るような声で、女が呟く。僕は、軽く頭を下げ、女の声に耳を傾けようと努めた。

 

 

 「マキ…………オダ、マキ……」

 

 

 「──────は?」

 

 

 刹那。僕の思考がショートする。

 

 雨音も、光も、体温も、全ての感覚がシャットアウトされる。それと同時に、心臓を鷲掴みにされたかのような震えが……恐怖と共に血の気が引いていくような感覚が、僕の全身を駆け巡った。

 


 嘘だ……こんなこと、あり得ない。

 こんな偶然、あるはずない……

 

 強迫観念にも似た思考が、動悸どうきとなって内臓を襲う。溺れたかのように息が詰まる。生理的なパニックによって途切れかけた思考の中、ただ、彼女が今しがた告げた名前が……『オダマキ』という響きだけが、僕の頭をぐるぐると回っていた。ぐるぐる、ぐるぐると回っていた。

 

 

 その名前を。

 

 

 僕は。

 


 僕は──────その名前を、知っていた。

 

 

 

 ✳✳✳

 

 

 「───お待たせ! ごめんね遅れちゃって。 ……それで、用事って何?」

 

 

 大学二年生の春。僕に、初めての彼女ができた。

 

 同じサークルの友達が紹介してくれた子だった。飲み会で話して、すぐに意気投合し、ラインを交換した。それからは毎日途切れることなくメッセージを送りあっていたし、何回か二人きりで食事にも行った。そうして会って話していく内に、自分のことを深くまで理解してくれる彼女に僕は心酔していった。その一ヶ月後、海の見える公園のベンチで彼女に告白し、晴れて付き合うこととなったのだ。

 

 

 彼女の名は、緒田おだ麻希まき


 快活で愛想がよく、誰にでも分け隔てなく接するタイプの女性だった。しかし、上品な落ち着きも同時に持ち合わせていて、他の同級生と比べてもかなり大人びている。噂では、モデルやアイドルにスカウトされたこともあるとか。



 そんな高嶺たかねの華とも言うべき彼女と、今こうして付き合えている。それは、何よりも幸せな事実だった。

 ……別に、彼女のことをステータスとしてしか見ていなかったとか、そういう訳じゃない。僕の彼女に対する思いは本物だったし、僕自身、彼女がいることで毎日が光り輝いていた。彼女に尽くして、「ゆうくんって、優しいね」と褒められる度に、自分の存在意義を感じられた。いつしか彼女の存在そのものが、僕を生かす原動力になっていったのだ。

 

 

 「うん……あのさ、ちょっと話したいことあって……」

 

 

 その日最後の講義が終わってすぐ、彼女からメッセージがあった。僕はすぐに、彼女が指定した公園へと向かった。大学の正門を出て五分ほど歩いた先にある、広めの公園だ。灰色の雲が立ち込める怪しい天候の中、彼女は噴水の向かい側にある屋根つきのベンチに座って待っていた。

 

 

 「何? ……あ、今度の休みに、どっか遊びに行きたいとか? マキさんが行きたい所だったら、どこでも連れて───」

 

 

 「───あのさ! ごめん……もう、今日でそういうの終わりにしたいの。

 ……別れたいんだよね、私」

 

 

 「え…………」

 

 

 予想だにしなかった展開に、僕は言葉を失った。頭が真っ白になった。

 

 

 「いや、え…………? な、何で……? いきなり、そんな…………」

 

 

 途切れ途切れになりながら、何とか言葉を絞り出す。それでも、心臓は縄で縛り付けられたかのように苦しかったし、膝や手も震えていた。酸素をうまく取り込めない感じ……とでも言おうか。とにかく、全身に必要な血が徐々に欠乏けつぼうしていくかのような恐ろしい感覚が、僕から力をどんどん奪っていった。

 

 

 「何ていうかさ……ゆうくんって優しいけど、っていうか。 正直、一緒に過ごしてて……退屈だなって、思っちゃった。 だから、ごめん……やっぱり君のこと、彼氏として好きには……なれない」

 

 

 「は…………いや、え……?」

 

 

 すぐに理解することが出来なかった。言葉も、意図も、何一つ受け入れることが出来なかった。

 冷や汗が背中を伝う。パクパクと、声もなく口が動くせいで喉が痛いほど渇いていく。頭と目をグルグルと回しながら混乱に陥っていく僕を、彼女はただ冷ややかな目で見つめていた。

 

 

 「な……僕、君を困らせるようなこと、何かしたかな? 何か、僕がふと言ったことで傷つけたとか……それか、デートに誘う回数が少なかったから、とか」

 

 

 「だから、そんなんじゃないってば」

 

 

 「ちゃんと教えてよ、何が駄目だったのか……。 僕、ちゃんと直すから……マキさんのためだったら、僕、何でもするから……」

 

 

 情けなく食い下がる僕の姿を見て、彼女はその時、確かにため息をついた。失望、という感情を吐き出すかのような重い息づかいが、巨大な大気圧のように僕をまとい、押さえつける。

 

 

 「別に優くんは何も悪くないよ。 でも……良くもない。 それだけ」

 

 

 それが、最後の言葉だった。

 彼女は、冷めた瞳でこちらを見つめ、にこりと笑ってから背を向けた。そして、でくの坊みたいに固まる僕を置いて、あっという間にその場を去ってしまったのだった。

 

 

 ポツ、ポツと雨が降り始め、その後すぐににわか雨へ変わった。公園にいた子供や老人たちが、慌てて帰っていく。

 そんな中で僕は、目の前に屋根があるにもかかわらず、その場で立ち尽くしたまま、しばらくの間雨に打たれ続けていた。

 

 

 ***

 

 

 ……その日の夜。僕は、虚ろな瞳でスマホの画面を眺めていた。

 「恋愛相談」というトピックスは、今も昔も変わらず、常に人々の話題の中心にある。それは、ネットも例外ではない。掲示板や知恵袋、SNSなどを漁ると、恋愛心理や経験談がわんさか出てくる。こんなもの、普段だったら絶対アテにしたりなんかしない。でも、今の僕はそんなことを気にする余裕もないぐらい、心がすさんでいた。

 

 

 ───とにかく、答えが知りたかった。

 

 

 『別に優くんは何も悪くないよ。 でも……良くもない。 それだけ』

 

 

 何が良くなかったのか。

 どうして、マキさんは僕にあんな事を言ったのか。

 分からない。何も分からない。

 ……だから、知りたい。

 

 

 検索欄に、「優しい 彼氏 ダメ」と、頭に浮かんだ単語を羅列して入力する。そして、出てきた記事をスクロール。その繰り返し。けれど、僕が望むような答えが出てくることは一向に無かった。

 

 

 ……ただ、時折見つかる批判的な言葉が、一つ、また一つと、目に留まる度に胸をグサリと突き刺す。

 

 

 『優しい彼氏が良い、とかよく言われるけど、優しくするのなんて誰でも出来るじゃん? 優しいだけの彼氏って、正直つまんないし魅力ないよね?』


 『優しすぎても、むしろ不安になるし、こっちまで逆に気を遣ってしまいます』


 『優しい男性って、結局は男らしさが足りないから頼りなく感じる。 優しさは大前提として、もっと引っ張って欲しい』


 『嫌われたくないだけでしょ? それって優しさじゃなくて、嫌われるのを恐れてるだけの自己保身だよ』

 

 

 「……何だよそれ。 じゃあどうすりゃ良いんだよ……」

 

 

 ───優しさは、人を幸せにするのではないのか?

 

 ───優しい人間であることの、何が駄目だというのだろう?

 

 ───僕の優しさは、何の意味もなかったということなのか?

 

 

 「優しさって……何なんだ……」

 

 

 

 考えに考え続けて───僕はいつしか、人を避けるようになっていった。

 

 友達や、見知らぬ人への親切。今までは当たり前のように出来ていたそれらの行為が、欺瞞ぎまんのように思えてしまうのだ。こんなことしても意味はない、結局はないがしろにされるか、都合よく利用されるだけ。……そう考える中で、自分は、優しいフリをしていただけの空っぽな人間だったんだと思うようになった。

 

 

 「優しい子であって欲しい」という願いを込めて付けられた『ゆう』という名前も、今の自分にとっては一種の呪縛のようなものでしかない。

 結局のところ僕は、人が怖いのだ。人付き合いに並々ならぬ恐怖を抱えるが故に、自分自身を隠すようになった。外面だけ優しい人のフリをしつつ、他者に踏み込まれないようバリアを張って生きるようになった。……いや、元よりそういう人間だったからこそ、「優しさ」なんて安易なレッテルに逃げていただけなのかもしれない。

 

 

 「優しさ」なんて、無い方がいい。

 そんなもの持っているから、絶望する羽目になるんだ。

 

 

 それが、僕の出した結論。

 

 

 そうして僕は、「優しさ」などという忌々いまいましい言葉が嫌いになり、そのまま、空洞のような人間に成り果てたのだ。

 

 

 ✳✳✳

 

 

 「オダ、マキ……………………」

 

 

 腕にしがみつく、ずぶ濡れの彼女が告げたその名前を反芻はんすうする。あの時と同じように、心臓が縄で縛られ、膝と手が震え、酸素をうまく取り込めずに血が欠乏けつぼうしていく感覚に見舞われた。

 

 

 「……?」

 

 

 そんな僕の身体の異変に気づいたのか、彼女がゆっくりと顔を上げて不思議そうに僕の顔を覗き込んできた。ちょうどうつむくように視線を落としていた僕は、はからずしも彼女と目を合わせるような格好になってしまう。

 

 

 辺りは相変わらず暗い。どしゃ降りの雨が、フードに浸透してひっきりなしに顔へと流れ落ちてくる。睫毛まつげに溜まった水滴が視界をぼんやりとゆがませる。加えて、寒さでぶるぶると眼球が震えるから焦点も定まらない。こんな状況で彼女の顔をしっかりと認識できるはずもなく、僕はただ暗がりにぼんやりと浮かぶ輪郭に、かつての彼女の顔を想像であてがうことしか出来なかった。

 

 

 「……僕は、綾目あやめ ゆうっていいます」

 

 

 「アヤメ……ユウ……」

 

 

 「あの……人違いじゃなければ、その……貴女と昔、ちょっとだけ付き合ってたことがある気がする……んだけど……覚えてない、かな?」

 

 

 我ながら、辿々たどたどしい質問だと思う。はやる呼吸から何とか声を絞り出した僕だったが、対する彼女は、いぶかしむように小首を傾げながら、静かに口を開いて言った。

 

 

 「……ごめんなさい。 ちょっと、思い出せない……」

 

 

 「…………そう、ですか」

 

 

  またしても、脳みその血液が止まるような感覚で思考が途絶えた。僕の腕から、そっと彼女の手が離れる。ひんやりとした外気にさらされた腕が、かすかに震えた。

 

 

 「じゃあ、大学はどこ出身ですか?」「年齢は?」「もしかして、僕と同じ二十四歳ぐらいだったりしません?」と、聞きたいことが矢継ぎ早に頭に浮かぶ。が、それらの言葉は何一つ発せられることなく、胸の内に滞留たいりゅうした。

 聞いて、何になるというのだろう。仮に、目の前の彼女が僕の知ってるオダマキだったとして……それで、僕は何を話せば良いのか。「あの時の僕とは違うよ!」とアピールでも出来れば良いのかもしれないけど、残念ながら、僕はあの時と全く変わっていない。「あの時はごめんね」などと、心にもない謝罪をする気も起きない。

 ……だったら、彼女の正体など分からないままだった方がマシだ。

 

 

 「……お願い。 何か、食べるものを……下さい」

 

 

 雨音が強まる中、彼女が絞り出した声は、まるで消え入るかのように細く、かすれていた。

 僕は、しばらくの間じっと動かずに考え込んていた。そして結局、コッペパンと飲みかけのミルクコーヒーをポケットから取り出すと、そっと両手で彼女の眼前に差し出した。ため息混じりに。

 

 

 「っ……!」

 

 

 彼女はコッペパンに飛び付くと、一心不乱に袋を開け、むさぼるようにかじりついた。よほど腹が減っていたのだろう。さながら、飢えた野生動物のようだ。

 僕は、彼女の側にしゃがみ、持っていたミルクコーヒーをコトン、と地面に置いた。雨にさらされたミルクコーヒーのボトルは、ポツポツと雨粒がぶつかる度に、その音色を変化させている。不規則なビートが、彼女の咀嚼そしゃく音と重なる。僕は、はぁ……と再び重いため息をつきながら立ち上がった。

 

 

 「……それで。 何があったのか、聞かせて貰えるんですよね?」

 

 

 あぁ……もう引き返せないな、と思った。聞かずにそのまま去っていれば良いものを……なんて考える間もなく、僕の忌々いまいましい口は、また偽善的な台詞を吐く。

 彼女は、ちょうどパンを食べ終えた所だったのか、ミルクコーヒーを手に取って蓋を開けようとしていた。僕の声にピクリと肩を震わせると、彼女は蓋を開ける手を止めてうつむく。先ほどまでの生き生きとしたオーラは、この数秒間のうちに一気に消え失せてしまっていた。

 

 

 「……それ、は…………」

 

 

 「その……言いづらい事だったら、無理には聞かないんで。 それと、別に事情を聞いたからってすぐに家族とか警察に連絡する、みたいな事はしませんから。 ひとまずは、貴女の味方です」

 

 

 「っ……」

 

 

 クイ、と彼女が顔を上げる。暗くて見えないが、その瞳はパアッと大きく見開かれていたような気がした。対して、眼差しを向けられた方の僕はというと、苦い顔で、まるで眩しい光から目を背けるかのように、ぷいと反射的に横を向くのだった。



 二人の言葉が途切れ、長い静寂に包まれる。彼女は、口をもごもごさせながら、第一声に迷っている様子だった。

 地面に落としたままのスマホが、スリープモードに移行する。足元の僅かな光さえ失った路地裏には、蛍光灯のぼんやりとした薄明かりのみ。ただ、二人の輪郭が淡く薄く映し出されるだけだった。

 

 

 

 「…………人を、刺しちゃったの」

 

 

 長い長い沈黙の末に絞り出されたその言葉を聞いて、「あぁ、終わった」と思った。

 予測していた中で、一番最悪のケースだ。

 

 

 「でも違うのっ! 殺してはない! 脇腹の辺りを刺して、血が出て……けど、アイツその後ちゃんとしゃ、喋れてた!」

 

 

 そうすぐにまくし立てる彼女の声は、上擦うわずっていた。二人の間に沈黙が生まれるその度に、ざあざあと降りしきる雨音がその隙間を埋める。

 

 

 「えっ、と……もうちょっと、順を追って話してもらえますか? その事件の前後に何があったのかとか、どうして刺しちゃったのかとか……」

 

 

 興奮気味の彼女をなだめるつもりで、そう尋ねる。言葉を遮られるような格好になったことで、彼女は声をはたと止め、見上げる顔をくしゃくしゃにする他なくなった。そうしてまた、数十秒ほど雨音に空間が支配される。


 

 「……半年前から、カガチっていう男と付き合ってたの」

 

 

 ポツリ、と彼女が小さな声で漏らす。暗くてよく分からなかったが、多分、彼女はうつむいたまま地面に目を落として話していた。濡れた髪の先を伝う水滴が、ポタポタとその視線の先へ向かってこぼれ落ちている。

 

 

 「バイト先の先輩に誘われた飲み会で一緒になって、仲良くなって……いい感じに酔っちゃった後でさ、こう、無理やり迫られて。 そのままホテル行ってシちゃって……それで付き合った。

 あいつ、ガサツだし無駄に力強いし金遣いも荒いしで最悪なんだけどさ……でも、私のこといつも気にかけてくれるし、強引なようで優しいから……そういうところが、好きだった」

 

 

 「っ……」

 

 

 途中に織り込まれた「優しい」というワードに、思わず顔をしかめる。しかし、そんな僕の変化になど気付かないまま、彼女は話を続ける。

 

 

 「カガチってね、めちゃくちゃモテるの。 あいつ、小っちゃい会社の経営者なんだけどさ……いや、だからかな。 女の顧客とか多くて、前までは、そういう子たちにもガンガン手出してたんだって聞いた。 いわゆるプレイボーイ、ってヤツ?

 ……でもね、私と付き合い始めてからは、そういうの一切なくなったの。 付き合いでたまに別の女とご飯行くことはあったみたいだけど、一線を超えることはなかった。 何があっても最後には「マキのこと一番愛してるから」って……いつも言ってくれた」

 

 

 彼女の声が、また微かに震え始める。雨で身体が冷えたから……だけではなさそうだ。僕は、彼女の頭頂部辺りを注視しながら、なんとなく先の展開が見える気がするような彼女の話に耳を傾けた。

 

 

 「あいつ、私が居ないとダメなの。 経営者のクセにいつも金ない金ないって困ってるし、マトモにご飯も作れないから、いつも私が用意しなきゃだし。 ……なんか、放っておけないんだよね。 それに、私が側にいないと、他の女がホイホイ寄ってきたりとかしそうだったしさ。

 でも、結局そんな感じの時間が幸せだった。 一緒にコーヒー飲みに行ったり、家で一緒にドラマ一気見したり、川沿いに座ってキスしたり、車でセックスしたり……そんな毎日が。 私にとってカガチは、私の存在意義そのものだったから」

 

 

 でも、ね…………と、そこで彼女の言葉が途切れる。言いよどむ、というよりは、言葉に詰まっているような様子だった。だから僕は、ふぅ……と小さく息を漏らしつつ、彼女の代わりに呟いた。

 

 

 「そのカガチとかいう人が、隠れて別の女と付き合ってた……ですよね?」

 

 

 「…………そう。 しかも、私と付き合うよりもずっと前から」

 

 

 その時の言葉は、今まで彼女が発したどの言葉よりも弱々しく、雨音にかすむほど小さかった。

 うわ……と、僕も無意識に声を漏らしていた。恋愛マンガやドラマで死ぬほど見てきたようなベタな展開だが、こうして現実でそういう話を聞かされると、胸の奥をえぐられるような嫌悪感と不快感に襲われる。まるで、粉ごと混ぜたドリップコーヒーを飲んだかのような胸糞悪い感覚に、僕は顔をしかめた。

 

 

 「二日前に、カガチの家に遊びに行ったら……ソイツが居てさ。 ベッドの上で、二人でキスしてて……私、頭ブン殴られたみたいな衝撃で……もう、ワケわかんなくて……っ!」

 

 

 彼女はもはや、僕に対して話しかけてはいなかった。うつむいた体制のまま、彼女は濡れたコンクリートの地面に向かって言葉を発し続けている。行きどころのない憎しみをただ空虚にぶつけるしか出来ない今の様子を体現したその姿は、正直痛々しかった。

 

 

 ふと、遠くでパトカーのサイレンらしき音が鳴った。その瞬間、彼女はビクッ!? と肩を大きく震わせて縮み込んだ。激昂する寸前までいっていた彼女の語気は、そこでプツリと途切れてしまう。

 サイレンが遠ざかるまでの間、二人はただ押し黙っていた。そうしてしばらく経ってから、彼女はまた、恐る恐るといった様子で口を開いた。

 

 

 「それで、三つ巴のケンカになってね。 不意にアイツが……その女が私に向かって言ったの。 「私とカガチは、一年以上前から結婚を前提に付き合ってた。 お前みたいな浮気女がカガチに近づくな」って。 その瞬間、私ブチ切れちゃって……キッチンに出しっぱなしだった包丁、掴んで…………

 ……気がついたら、女が、お腹から血、出して……倒れてた」

 

 

 「そう、ですか……」

 

 

 気の効いた言葉など、かけられるはずもなかった。いつくばるような格好の彼女を見下ろしながら、僕は胸に渦巻く感情を落ち着かせるのに必死だった。

 恐らく彼女は、女を包丁で刺した後、その格好のまま家を飛び出して逃げたのだろう。そうして、警察などの目をくぐって逃亡を続け、その果てに、この場所に行き着いた。最初に彼女を見たとき気になっていたカーディガンの染みも、裸足の状態も……きっと、そういうことなのだろう。

 

 

 「…………」

 

 

 雨足が、ほんの少し弱まってきたらしい。水たまりを跳ねながら走る車たちの音が向こうから聞こえてくる。ヘッドライトが交差する明るい世界から数十メートル離れた、暗闇の世界。そこに、僕と殺人未遂の容疑者の二人だけが取り残されていた。

 

 

 

 「…………私のこと、警察に突き出す?」

 

 

 長い静寂の末に、彼女がそう切り出した。言葉のすぐ後で、彼女は思い出したかのように持っていたミルクコーヒーの蓋を開けて、口をつけて一気にあおった。ゴキュ、ゴキュ、と喉が鳴る。まるでやけ酒だ。

 やがて、ぷはっ……と息を漏らしながら、彼女はボトルを身体の横に置いて、またうつむいた。僕の返事を待っているらしかった。

 

 

 「……貴女は、これからどうしたいんですか?」

 

 

 彼女の質問から逃げるように、僕は別の質問を盾にした。冷えきった身体と心が、切れかけの街灯に群がる虫のように震える。彼女はうつむいたまま、キョロキョロと辺りを見回すように小さく頭を動かしていた。答えに迷っている、というのが見てとれた。

 が、数秒と経たない内に、彼女はぐいっと顔をあげて、

 

 

 「…………カガチに、会いたい」

 

 

 消え入るような声で、そう言った。刹那、僕の脳内で、街灯に触れた虫がバチン! と音を立てて死んだ。

 

 

 「浮気されてたのは絶対、許せないけど……でも、あいつには、私が居ないとダメだから。 ……ううん、私も……あいつが居ないとダメなの」

 

 

 「…………」

 

 

 彼女の言いたいことは分かる。でもその上で、理解したくはなかった。コンビニを出たときに飲んだミルクコーヒーの微かな苦味が、ふいに舌の奥をじわりと覆う。

 

 

 「人を殺そうとしたのに、虫が良すぎるだろ」とか、「そんな浮気者の男、信用しちゃ駄目だ」とか。言いたいことは矢継ぎ早に頭に浮かぶ。が、それらの言葉は何一つ発せられることなく、胸の内に滞留たいりゅうした。

 ……言ったところでどうにもならない、と思ったからだ。

 

 

 ただ、元カノと同じ姓名を有していただけのこと。彼女があの時の『オダマキ』と同じだろうと別人だろうと、恩義をかける筋合いなんて一つもない。

 ……それなのに今。目の前で震える犯罪者を相手に、心を揺さぶられている自分がいる。説明のつかない感情に、困惑する自分がいる。何となく居心地の悪い、妙な気分にさいなまれる僕の様子に気づくことなく、彼女はポツリと、しかしハッキリとした声でこう言った。

 

 

 「何ていうのかな……カガチってやっぱり、優しいから。 あいつと一緒に過ごす時間が、私には必要なの。 何を犠牲にしてでも……私は、カガチとずっと一緒にいたい」

 

 

 「っ…………」

 

 

 ✳✳✳

 

 

 「何ていうかさ……ゆうくんって優しいけど、っていうか。 正直、一緒に過ごしてて……退屈だなって、思っちゃった。 だから、ごめん……やっぱり君のこと、彼氏として好きには……なれない」

 

 

 ✳✳✳

 

 

 ……あぁ、そうか。

 彼女にとって僕は───僕の優しさは、のものだったんだ。

 


 僕は、ただ僕のためだけに優しくしていた。

 嫌われたくない。失敗したくない。良い彼氏でありたい。

 ……そんな、独りよがりの優しさだけをたずさえて彼女と接していた。

 

 

 ……今、僕の足元で捨て猫のようにうずくまる彼女もまた、独りよがりの愛を抱えている。それは、僕の抱えていたものとは少し違うかもしれないけど。でも、きっと彼女は、これからもカガチという男に尽くそうとするだろう。

 ……たとえ、それが報われないものだったとしても。

 

 

 けど……彼女の瞳に映る「優しさ」というものが。

 カガチという男が有するそれが、「優しさ」というものの最適解なのだとしたら。

 

 

 ───「優しさ」なんて、無い方がいい。

 

 

 

 

 「…………行かないで、欲しいです」

 

 

 「え……?」

 

 

 細い声で呟いたその言葉は、水溜まりを跳ねる車の音によって簡単に掻き消されてしまった。彼女がそれを聞き返そうとするよりも前に、僕はポケットに突っ込んだ手から小銭とレシートを取り出し、砂のように地面にバラ撒いた。チャリチャリチャリ……と小気味良い音を奏でながら地面に転がる小銭を、彼女は目で追いかけている。

 

 

 「本当は、アンタのこと止めたい……です。 これ以上、辛い目に遭って欲しくない。 ……それだけは、どうしても伝えときたかった」

 

 

 これが、僕なりの偽善だった。

 彼女の口車にうまく乗せられて、利用されているだけかもしれない。恋愛ドラマで見るような勇気ある行動とは程遠いのかもしれない。


 ……ただ、あの時の自分とは違う。そう思えたことだけが、僕にとって唯一の救いだった。

 


 

 勢いが収まった雨が、涙みたいにポツポツと降り注ぐ。冷えきった空気は雨のおかげか妙に澄んでいて、微かな蛍光灯の光をよく通している。最初に見たときよりもハッキリと浮かび上がる彼女の輪郭を見下ろしながら、僕は彼女を待った。



 少しの沈黙。体感にして三分ぐらいの間があった後、彼女は震える手をゆっくりと伸ばし、ぐしゃぐしゃになったレシートごと小銭を一枚一枚拾い集めていった。端から見れば、あまり気分の良い絵面ではないかもしれないけれど、そんなことはもうどうでも良い。薄暗く閉ざされた二人だけの空間で、僕たちはただ、冷たい雨の下で静かに悲嘆を洗い落とすのだ。

 

 

 「…………」

 

 

 やがて、小銭を全て拾い終えた彼女がゆっくりと立ち上がった。大学生の頃、二人で並び立った時は身長差がほとんど無かったけど、今、目の前にいる彼女の頭のてっぺんは、僕の顎先ぐらいの位置だった。

 

 

 「ありがとう……。 ……優しいね、君」

 

 

 それが、最後の言葉。

 くるりと背を向けた彼女は、濡れた服を引きずるかのように、重い足取りのまま歩き去っていった。黒のワンピースも、灰色のカーディガンも、夜の闇に紛れてしまって良く見えない。ほどなくして、僕は彼女の背中を見失った。ひどく寒い空間に、僕一人だけが残される。

 

 

 「…………優しい、か」

 

 

 顔と前髪を手の甲でぬぐってから、落としたままだったスマホを拾おうとしゃがみ込む。すると、さっきまで彼女が座り込んでいた場所で、何かが揺れているのに気がついた。スマホの画面をコートの袖で軽く拭き、電源を入れて画面を向こうに向ける。

 

 

 ……そこにあったのは、茎の折れ曲がった紫色の小さな花だった。

 

 

 

 ***

 

 

 窓から射す、柔らかな日差しで目を覚ます。時刻はもう十時を回っていた。

 

 

 のそのそと布団から身体を出し、ちゃぶ台の上に置いてあったペットボトルに手を伸ばす。

 もう二日も何も食べていない。バイト代が振り込まれるのは、今日の夕方。それまで、この気だるい感覚のまま過ごさねばならないのかと思うと、余計にしんどさが増してしまいそうだった。

 

 

 「はぁ……だる」

 

 

 寒さに身を震わせつつ、気合いで布団から抜け出した。ペットボトルの蓋を開け、中の水道水をがぶがぶと喉へ流し入れていく。そして、最後に残った一口分ほどの水を、栄養ドリンクの空き瓶に注ぎ入れた。瓶の飲み口にもたれかかっていた紫の花が、水を注ぐたびにユラユラと揺れ動く。それを見届けてから、空になったペットボトルに再び水道水をみ入れるため、スッと立ち上がった。

 

 

 ───ピンポーン。

 

 

 唐突に響くインターホン。僕は、ペットボトルを持ったまましばらく棒立ちしていたが、やがて諦めたように息を吐くと、ペットボトルを流しに置き、髪もそのまま、寝間着のままで玄関へと向かった。「はーい」と気の抜けた返事をしつつ、ドアに手をついてスリッパを履く。

 

 

 『───中央警察署の者です』

 

 

 覗き穴を確認するよりも前に、ドアの向こうから声が聞こえた。

 ギュッ、と心臓が急冷される感覚。でも、もう逃げられないと思い、観念してドアを開けた。

 

 

 「突然すみません。 綾目あやめ ゆうさん……でよろしいですね?」

 

 

 ドアの向こうに立っていたのは、スーツを着た中年の男と、制服姿のいかにも警察官らしい見た目の青年二人。真ん中のスーツの男が片手に持つ警察手帳の記章が、後ろ二人のゴチャゴチャした装備品と共にキラリと光っている。

 

 

 「はい。 ……何の用ですか?」



 僕が尋ねると、男は警察手帳をポケットにしまい、

 

 

 「えぇ、実はですね……一昨日の未明、とあるマンションの一室での遺体が発見されまして。 犯人はまだ見つかっていませんが、殺人、あるいは無理心中……両方の可能性があるとみて、捜査を進めています」

 

 

 ……それは、予想していた結末のうちの一つだった。

 

 

 だから、男が話す内容もすんなりと受け入れられたし、顔色も変わらなかった。

 ただ、しんと静まった水面に毒を一滴垂らした時のような、ほんのわずかな苦悶くもんが心の淵に広がっただけ。……それだけだった。

 

 

 「それで……捜査一課が現場を調べたところ、被害者女性のポケットから、一枚のレシートが見つかったんです」

 

 

 後ろにいた警官の一人が、スマートフォンを操作して、こちらに一枚の画像を見せてきた。透明な袋に入れられた、ぐしゃぐしゃのレシートを写した写真だ。

 

 

 「レシートに印字された情報を元にコンビニの監視カメラ情報なんかを調べさせてもらったらですね。 どうやらこのレシートの持ち主は……このコンビニでコッペパンとミルクコーヒーを購入したのは、被害者女性ではなく、綾目さん……貴方だったのではないかと、そういうことになりまして」

 

 

 ───優しさは、報われるとは限らない。

 

 そもそも、「報われる」とか「報われない」という軸で考えている時点で、それはただの独善に過ぎないのだろう。自分を守るためだけの優しさ、見返りを得るためだけの優しさに、きっと価値なんてない。価値のある優しさが何なのかも、結局のところ分からない。

 

 

 「綾目優さん……重要参考人として、警察署までご同行願います。 良いですね?」

 

 

 ───けど、それでも。

 



 「……分かりました。 僕が知ってること、全部話します」

 

 


 ───あの時、僕が掴んだ気がする「優しさ」の片鱗へんりんは、忘れずに留めておきたいと、そう思った。

 

 


 日の光が降り注ぎ、街一帯に明るい輝きが広がっている。水玉模様みたいにポツポツと数個ほど雲が点在するだけで、空は心地良いほど青々としていた。風はやはり冷たいが、秋晴れの空の下は、どこかほのかな暖かさを感じさせる。

 

 

 今日は、天気が良い。

 雨のない晴れやかな空をこうして見上げたのは、随分と久しぶりな気がした。

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慈しみの仇花 はばたきUFO @ufo-wings

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