白薔薇の誓い

御子神 花姫

白薔薇の誓い

夜空に浮かぶ満月が、王都アストレアの宮殿を白金に染めていた。

 百本の燭台がきらめく大広間では、絹のドレスと黒の燕尾服が波のように揺れ、楽団が奏でる緩やかなワルツに合わせて貴族たちが笑い合っていた。


 その夜は、王太子アルフォンス・ヴァン=クレメンス殿下の二十歳の誕生日を祝う盛大な舞踏会だった。

 王国中の貴族たちが集い、誰もが今日こそ、彼とローズベル侯爵家の令嬢エリシアとの正式な婚約が発表されると信じていた。


 白磁のように滑らかな肌、静かな微笑。

 淡いラベンダー色のドレスに縫い込まれた銀糸が、彼女の一歩ごとに月光を映してきらめく。

 彼女の名、エリシア・ローズベル。

 その名はすでに社交界で“完璧”の代名詞とされていた。


 彼女は扇を手に優雅に笑みを浮かべながらも、心の奥で冷たい緊張を押し殺していた。

 呼吸を整え、姿勢を保ち、言葉を選び、すべてを計算し尽くす──それが侯爵令嬢の務めであり、彼女の生き方だった。


 舞踏会場の中央で、王太子殿下が軽やかにステップを踏んでいる。

 彼の隣には、まだ正式な身分を持たぬ令嬢、セレーネ・フェルナーの姿があった。

 彼女は伯爵家の末娘。身分の差がありながら、最近になって殿下の側近として出入りを許されるようになった少女。

 薄紅のドレスがまるで花弁のように揺れ、彼女が笑うたびに周囲の青年貴族たちがため息を漏らした。


 エリシアはその光景を、扇の陰から静かに見つめた。

 嫉妬ではない。

 ただ、胸の奥に“違和感”が残った。

 アルフォンス殿下の笑顔が、どこか作り物めいて見えたのだ。


 やがて曲が終わり、次の瞬間、殿下が舞踏の中央に立った。

 楽団が音を止め、広間に澄んだ沈黙が広がる。

 誰もが、これから婚約発表が行われるものと思った。


 エリシアもまた、ゆっくりと歩み出ようとした。

 その瞬間、殿下の声が響く。

「ローズベル侯爵令嬢、エリシア・ローズベル」

 彼の声音には、かすかな冷たさがあった。

 会場の空気が、わずかに震える。


「君に、問いたださねばならぬことがある」


 ざわめきが波のように広がる。

 殿下の手には、王家の封蝋が押された一通の手紙があった。

 深紅の蝋が艶めき、金の紋章が淡く光る。


 エリシアの指先が、扇を握る力を少し強めた。

 誰もが見守る中、殿下は低く言葉を続けた。


「これは、君の筆跡で書かれたものだ。……中には、ある人物を侮辱する文が記されていた」


 どよめきが走った。

 視線が一斉に、セレーネへと向かう。

 彼女は驚いたように小さな悲鳴を上げ、口元を押さえた。


「そんな……まさか、エリシア様が……」


 涙のにじむ声が、広間に広がる。

 その震えを聞いた瞬間、会場の空気が変わった。

 好奇と嫌悪、同情と疑念。

 幾百もの視線が、鋭い矢のようにエリシアの心を刺した。


 エリシアは微動だにせず、ただ殿下を見つめ返した。

 瞳の奥で、何かがひっそりと砕ける音がした。


「筆跡は、鑑定により確認された」

 アルフォンスの声は硬い。

 「これは、婚約破棄に足る理由だ」


 静寂。

 そして、息を呑む音。


 その瞬間、エリシアの背後でグラスが倒れ、ワインが白い床に赤い花を咲かせた。

 音のすべてが遠くなり、視界の色が淡く褪せていく。


 ――嘘。

 ――こんな形で。


 唇が動いたが、声は出ない。

 けれど、誰よりも冷静だった。

 ここで取り乱せば、彼らの望む“悪役令嬢”になるだけだ。


 深く息を吸い、頭を下げた。

 礼儀正しく、完璧に。


「……殿下のご判断に、異議はございません」


 その言葉に、広間がざわめいた。

 誰かが「やはり」と囁き、誰かが「なんて女だ」と呟いた。


 そのとき、視線の海の奥に、ただひとつだけ静かな眼差しがあった。

 冷たくも、確かに彼女を見つめている。

 何かを理解しようとする、理知的な瞳。

 ――それが、クラウディオ・ヴェインだった。


 しかしエリシアは、その存在にまだ気づかない。

 ただ、自らの世界が音もなく崩れていくのを感じていた。


 燭台の炎が揺らめき、音楽のない広間に微かな風が通り抜ける。

 まるで、誰かが見えない手で最後の幕を引いたかのようだった。


誰もが、言葉を失っていた。


 金糸で飾られた天蓋の下、エリシア・ローズベルはただひとり、立ち尽くしていた。

 ワルツの余韻はとうに消え、楽団の奏者たちは楽器を抱いたまま動けずにいる。

 数百の視線が、ひとつの淑女に注がれていた。


 アルフォンス殿下が、手紙を卓上に置いた。

 その仕草ひとつで、群衆の空気が変わる。

 冷気が、白い手袋越しに指先をなぞるようだった。


「王家への忠誠と気品を疑わせる行為――これが、君の真実なのか」


 声はあくまで穏やかだった。

 だが、その穏やかさこそが残酷だった。


 周囲の貴婦人たちが顔を見合わせ、小さな囁きが波紋のように広がる。

 “筆跡は本人のものだと聞いたわ”

 “セレーネ様を侮辱した内容だったとか”

 “まさか、嫉妬でそんなことを?”


 ――違う。

 喉が動くのに、声にならなかった。


 エリシアは、ゆっくりと扇を閉じた。

 その音が、静まり返った広間に乾いた響きを残す。

 彼女の心は、薄氷の上を歩くような緊張の中にあった。

「殿下、私はそのような手紙を記した覚えはございません」

 震えぬ声で、淡々と告げる。


 しかしアルフォンスは、冷たい微笑を浮かべただけだった。

 「言い逃れは無意味だ、エリシア。王宮の筆跡鑑定官が確認している。君の字だ」


 その名が出た瞬間、エリシアの胸にわずかな痛みが走る。

 鑑定官――それは、王家直属の立場。

 捏造などありえない。そう思わされるだけの“制度的な威光”がある。


 だが、筆跡など、巧みに模倣できる者は少なくない。

 ましてや、侯爵令嬢の筆致は常に公の目にさらされているのだ。


 (誰が、何のために……)


 考えかけたその時。

 ひときわ澄んだ声が響いた。


「どうか……もうやめてください、殿下」


 ――セレーネ。


 彼女はアルフォンスの前に進み出る。

 涙に濡れた瞳、かすかに震える唇。

 まるで“悲劇の乙女”そのものの姿。


「きっと、エリシア様も……何か誤解があったのです。私が不快な思いをしたのも、偶然の……」


 その声音に、周囲の空気が一変した。

 なんという慈悲深さ、なんという純粋さ。

 そう囁く声が貴族たちの間に溢れた。


 ――演技。

 その一言が、エリシアの胸の奥でかすかに浮かぶ。


 だが、それを口に出すことはできなかった。

 この場で否定を叫べば、“嫉妬に狂った女”として歴史に刻まれる。

 沈黙だけが、彼女の誇りを守る盾だった。


「セレーネ、君は優しい……」

 アルフォンスが彼女の手を取り、柔らかく微笑む。

 その姿は、王子と姫の絵画のように美しく――そして、残酷だった。


 その瞬間、広間のすべての光が遠のいた気がした。

 音が消え、匂いが消え、ただ自分の心臓の鼓動だけが耳の奥で響く。


 ――私は、終わったのだ。


 そう理解したとき、エリシアはかすかに笑った。

 凍りつくような笑みだった。


「殿下。これ以上、貴殿の名を汚すような真似はいたしません」

 静かに、深く頭を下げる。


「本日をもって、婚約を破棄いたします。

 どうぞ、新たな幸福を」


 その言葉に、アルフォンスが一瞬だけ息をのんだ。

 だが、それを悟らせることなく、彼は冷たく頷いた。


「……了承する」


 その瞬間、群衆の間に微かな拍手が起こった。

 誰かが、祝福するように。

 誰かが、同情するように。

 そして大多数が――安堵していた。


 完璧すぎた令嬢が堕ちる姿を、彼らは見たかったのだ。


 胸の奥が焼けるように痛む。

 それでも、涙はこぼさなかった。

 泣けば、すべてが崩れる。

 自分という存在が“作られた仮面”であったと証明してしまうから。


 背を向け、静かに歩き出す。

 ヒールの音が、白い大理石の床を打つたびに響く。


 その音が、まるで“終焉の鐘”のようだった。


 出口の手前で、ふと感じた。

 背中に視線がある。


 群衆の中のひとり、

 ただひとりだけ、彼女を憐れむでも嘲るでもなく、

 冷静に、しかし確かに“観察している”瞳があった。


 ――誰?


 エリシアは振り返らなかった。

 ただ、その視線が不思議と温かかったことだけを、覚えていた。


 扉を抜けた瞬間、冷たい夜風が頬を撫でた。

 庭園に咲く白薔薇が、月光の中で揺れる。


 その花弁の白さを見たとき、

 エリシアの胸に、初めて“痛みではない感情”が生まれた。


 ――悔しさでも、悲しみでもない。

 ――ただ、静かに誓うような炎。


 “必ず、真実を見つける。”


 そう心に刻んだ瞬間、風が彼女の髪を揺らした。

 夜会の音楽は、もう聞こえない。

 けれど、その奥に確かに何かが動き出した気がした。


 ――幕は、まだ下りてはいない。


 彼女の物語は、ここから始まるのだ。


夜の空気は冷たく、月はまるで何も知らぬように美しく輝いていた。

 王宮を出たエリシアの足取りは静かだった。

 誰の助けもなく、馬車へと向かう。

 従僕たちは顔を伏せ、誰も彼女の目を見ようとしない。


 ――沈黙こそ、残酷な処刑だ。


 そう思いながら、彼女はゆっくりと馬車に乗り込む。

 扉が閉まると同時に、外の喧噪が遠のいた。

 窓越しに見えるのは、煌めく宮殿の灯り。

 その光は、まるで自分がかつていた場所を示す墓標のように見えた。


 侯爵家の紋章を刻んだ馬車が夜の石畳を進む。

 蹄の音が規則正しく響くたび、胸の中の空洞が広がっていくようだった。


 ――終わった。

 そう、思うべきなのだろう。

 けれども、心の奥で何かがまだ燃えていた。

 悔しさではない。憤りでもない。

 それは、名誉と誇りを踏みにじられた者だけが知る、静かな炎。


 “なぜ、殿下は私を信じなかったのか”

 “なぜ、あの手紙が現れたのか”


 答えのない問いが、月の光と共に心を巡る。


 馬車の窓に映る自分の顔を見て、エリシアはかすかに笑った。

 頬に涙の跡ひとつない。

 完璧に整った髪、崩れぬ姿勢。

 “侯爵令嬢”としての矜持が、彼女を支えていた。


 (泣くのは、まだ早いわ)


 小さくつぶやき、窓の外に目を向けた。

 遠くで鐘が鳴る。王都の中央塔が、真夜中を告げていた。


 やがて馬車が止まり、屋敷の扉が開かれる。

 執事が深く頭を下げたが、その瞳には憐れみが宿っていた。

 その視線が、今夜ほど痛かったことはない。


 父である侯爵はまだ帰邸していなかった。

 母は病床にあり、妹の姿も見えない。

 広い屋敷の廊下を歩くたびに、足音が孤独を映す。


 寝室に入ると、侍女が涙をこらえながら髪飾りを外そうとした。

 だが、エリシアは手を上げて制した。


「いいの。……自分でできるわ」


 鏡の前に座り、ゆっくりと髪を解く。

 夜会のために結い上げた銀の髪が、肩に滑り落ちる。

 その重みが、まるで過ぎ去った栄光の名残のようだった。


 机の上には、誰かが置いた花束があった。

 白薔薇。――彼女が最も愛した花。

 だが、差出人の名はなかった。


 ひとつ、花弁を指先で触れる。

 柔らかく、冷たい。

 その瞬間、脳裏に夜会の最後の光景が蘇る。

 あの群衆の視線、殿下の言葉、セレーネの涙。

そして、遠くで自分を見ていた“誰か”の眼差し。


 思い出そうとしたが、顔は浮かばない。

 ただ、その目だけが、妙に静かで温かかった。


 (あれは、誰だったのかしら……)


 そう思いながら、エリシアは鏡越しに自分の瞳を見た。

 光を失っていない。

 まだ、戦える。

 そう感じた瞬間、胸の奥でかすかな決意が芽生えた。


 “真実を探す”


 それは復讐の誓いではなかった。

 名誉を取り戻すためでもない。

 ただ、己の“誇り”を証明するために。

 その夜、エリシアは眠らなかった。

 筆記机に向かい、ひとり静かに書き始めた。

 手紙ではない。

 記録だった。


 自らの行動、会話、周囲の様子――

 全てを日付順に書き留める。

 理性的に、冷静に、まるで事件を分析するかのように。

 侯爵家に生まれ、政務補佐の教育を受けてきた彼女の頭脳は、沈黙の中で正確に動いていた。


 “この国では、感情ではなく記録が真実を証明する”


 その言葉を、かつて教えてくれた人物がいた。

 ――宰相直属の文官、クラウディオ・ヴェイン。


 彼女が十六の頃、王立学園の政治理論講義で出会った。

 口数は少ないが、どの言葉にも理があった男。

 “人の言葉は曖昧だが、行動の痕跡は嘘をつかない”

 そう語った彼の声を、今でも覚えている。


 ふと、窓の外で車輪の音が止まった。

 静寂に包まれた屋敷の前に、一台の馬車が停まる。

 この時間に客など来るはずがない。

 エリシアは軽く眉をひそめ、窓辺に歩み寄った。


 月明かりの下、黒い外套の男が降り立つ。

 顔までは見えない。

 だが、扉の前に立つ姿には、どこか見覚えがあった。


 執事が対応に出ようとするが、その男は小さく首を振り、何かを差し出した。

 一通の封筒。

 白い封に、王立文官院の印章。

 それを受け取った執事が部屋の扉をノックした。

「お嬢様……こちらに、匿名でお届け物が」

 封を開くと、中から一枚の紙が現れた。

 筆跡は整い、感情の色がない。

 ただ、一行だけ。


 『真実を見極めたいのなら、明朝、図書院の裏庭へ。――C・V』


 ――C・V。

 その頭文字に、エリシアの指先がわずかに震えた。

 クラウディオ・ヴェイン。


 思いもよらぬ名が、静かな夜に浮かび上がる。

 彼が、なぜ――。


 胸の奥で、理性と直感が交差する。

 罠かもしれない。

 だが、行かねばならない気がした。


 そのとき、窓の外で夜風が吹いた。

 白薔薇の花弁がひとつ、机の上に落ちる。

 その白さを見つめながら、エリシアは微かに微笑んだ。


 「……明朝、ね」


 月が雲に隠れ、部屋が闇に沈む。

 けれども彼女の瞳には、確かな光が宿っていた。


 ――絶望の果てに、初めて“希望”が生まれる夜だった。


夜が明ける少し前、王都は薄い霧に包まれていた。

 王立図書院――王族や高位貴族しか立ち入れない知の殿堂。

 朝の冷たい空気の中、その裏庭にはまだ誰の足跡もない。


 エリシア・ローズベルは、フード付きの外套に身を包み、静かに佇んでいた。

 足元の露がドレスの裾を濡らす。

 心臓は落ち着いていた。

 昨夜の絶望を越え、彼女の中にあったのは、もはや怯えではなく、研ぎ澄まされた理性だった。


 ――来るかしら。

 そう思った瞬間、霧の向こうから、黒い影が現れた。


 「……お待たせしましたか」


 低く、落ち着いた声。

 霧を割って現れた男は、黒髪に銀縁の眼鏡をかけた青年だった。

 その表情には驚きも焦りもなく、ただ静かな知性だけが宿っていた。


 「クラウディオ・ヴェイン殿下付き文官、今は宰相府の査察官補佐をしております」

 彼は軽く頭を下げた。

 “殿下付き”――つまり、かつてはアルフォンス王太子の側近だった男。


 「……あなたが、あの手紙を?」

 エリシアの声は氷のように冷たかった。


 クラウディオは頷く。

 「ええ。貴女が昨夜、殿下から不当な断罪を受けたことは耳にしました」


 「不当? そう思うのですか?」

 「そうです。筆跡鑑定には、明らかな不自然がある」


 その言葉に、エリシアの眉がわずかに動いた。

 「……不自然?」

 クラウディオは懐から封筒を取り出した。

 白い封を開け、中から一枚の紙を差し出す。


 「これは、王立文官院が保管する“貴女の公式文書”の筆跡見本です。

  殿下に提示された手紙と比べたところ――線の癖が異なっていた」


 「……筆跡鑑定官が間違いを?」

 「いいえ。彼らは“上からの命令”で動くのです」


 クラウディオの声は穏やかだが、言葉には鋭い刃があった。


 「上から、とは……」

 「王太子府です。殿下の命令で筆跡の照合報告を“改ざん”させた可能性が高い」


 沈黙。

 エリシアは目を伏せ、ゆっくりと息を吐いた。

 想像していたよりも、真実はずっと冷たく、重い。


 「……なぜ、そのようなことを?」

 「殿下が新たに寵愛する令嬢――セレーネ・フェルナーの背後に、フェルナー伯爵家の資金があります。

  殿下は軍事予算の拡大を目論んでおられる。フェルナー家はその資金源。

  つまり、貴女を排除することで、政治的にも都合が良かったのです」


 エリシアの心が、静かにざわめいた。

 権力と欲望。その渦中に自分が利用されたのだ。


 「……お話は理解しました。ですが、なぜあなたがそのようなことを私に?」


 クラウディオは一瞬、言葉を探すように沈黙した。

 そして、ふっと微笑む。


 「私は、嘘を嫌うのです。

  真実を知っていながら、沈黙する者にはなりたくない」


 その言葉に、エリシアは胸の奥で何かが揺れた。

 彼の目は冷たいのに、言葉には誠実さがあった。

 まるで、理性の奥に静かな情熱を隠しているようだった。


 「……では、どうなさるおつもりですか?」

 「証拠を集めましょう。殿下の命令文、筆跡改ざんの報告書、セレーネ令嬢の周辺証言。 いずれも、記録として残っているはずです」


 エリシアは微かに笑った。

 「大胆ですわね。そんなことをすれば、あなたの身が危ういのでは?」


 「危うくとも、意味のある危険です」

 クラウディオの声音は穏やかで、しかし不思議な確信に満ちていた。


 「そして、貴女のような方なら――必ず、真実に辿り着ける」


 その言葉に、心の奥がわずかに熱くなる。

 久しく忘れていた感情だった。

 “誰かに信じられる”ということ。


 風が吹き抜け、霧が少し晴れた。

 図書院の裏庭に差し込む朝日が、二人の影を長く伸ばす。


 エリシアは視線を上げ、まっすぐ彼を見つめた。

 「……協力を、願えるかしら?」

 クラウディオは静かに頷いた。

 「もちろん。私は真実の証人になります」


 二人の間に、言葉以上の何かが生まれた。

 それは恋と呼ぶにはあまりにも静かで、

 けれど確かに、魂の奥で響く共鳴だった。

 やがて、エリシアが一歩前へ進む。

 「では、始めましょう。

  “悪役令嬢”のまま終わるつもりは、ございませんから」


 クラウディオがわずかに微笑む。

 「……それを聞けて、安心しました」


 霧が完全に晴れ、朝の光が二人を包み込む。

 新しい一日が始まる――

 けれどそれは、ただの日常ではない。

 失われた名誉と、隠された真実を取り戻すための、静かな闘いの幕開けだった。


王都の朝は、静けさの奥にざわめきを隠していた。

 エリシアは図書院の一室――古文書閲覧室の机に向かっていた。

 机の上には、王立文官院から取り寄せた報告書の束が並ぶ。

 筆跡鑑定、通信記録、宰相府の決裁文書。

 その中に、ひときわ新しい羊皮紙があった。


 『宰相府査察官による再調査の要請に関する報告書』。


 ――査察官。

 その文字を見た瞬間、エリシアの指先がわずかに震えた。

 昨夜、クラウディオが口にした「上からの命令」。

 その裏を取る存在が、実際に動いている。


 「クラウディオ殿、これは……?」

 机の向かいで、黒髪の青年が微笑んだ。

 「ええ、宰相閣下が密かに命じた再調査の通達です。

  ただし――殿下の耳には、まだ入っていません」


 クラウディオ・ヴェイン。

 その瞳は相変わらず静かで、感情を見せない。

 けれどその沈黙には、確かな信頼があった。


 「査察官が来るのは三日後。

  その前に、我々で“証拠”を整える必要があります」


 エリシアはうなずき、報告書を手に取った。

 紙の匂い。古いインクの跡。

 貴族社会の裏側に渦巻く、見えない意志の重み。


 「クラウディオ様……貴方は、なぜここまで?」

 彼は少しだけ目を細めた。

 「貴女が信じるに足る人間だからです」


 「……私が?」

 「貴女は、王家に仕える立場でありながら、常に理と誇りを守ってきた。

  それが、誰にも理解されなかっただけのことです」


 エリシアの胸の奥に、小さな灯がともる。

 久しく感じたことのない温度。

 ――理解、されるということ。


 その時、扉がノックされた。

 クラウディオが立ち上がり、軽く会釈して扉を開ける。


 「入れ」


 現れたのは、緋色の外套を纏った壮年の男だった。

 髪には白いものが混じり、鋭い灰色の瞳が部屋を見渡す。


 「宰相府査察官、カリスト・ヴァーレンだ」


 低く響く声が、室内の空気を一変させた。

 「君が……例の“令嬢”か」

 エリシアは立ち上がり、深く礼をした。

 「はい。エリシア・ローズベルと申します」


 査察官は彼女の目をまっすぐ見つめた。

 「婚約破棄の件、そして誹謗の手紙。すでに噂は届いている。

  だが、我々が知りたいのは一つ――“真実はどこにあるのか”だ」


 クラウディオが静かに言葉を継ぐ。

 「殿、筆跡鑑定に不自然な点がございます。

  殿下の直命で報告書が改ざんされた可能性が高い」


 「ほう……」

 カリストは無表情のまま椅子に腰を下ろす。

 「証拠はあるのか?」

 「今、集めております」


 査察官の視線が、エリシアへと向けられる。

 「君は恐ろしく静かだな」

 「……感情を表に出すより、事実を語る方が早いでしょう」


 その答えに、カリストは口の端をわずかに上げた。

 「気に入った。よかろう。

  三日後、殿下の前で我々が事実を開示する。その時までに、証を揃えろ」


 彼が去った後、部屋には再び静寂が戻った。

 エリシアは大きく息を吐き、椅子に腰を下ろした。


 「……試されているのですね」

 「ええ。彼は、“嘘を憎む男”です。

  我々が中途半端な真実を提示すれば、むしろ敵に回るでしょう」


 窓の外には午後の陽が傾き始めていた。

 金色の光が、埃の粒を照らす。

 エリシアはその光の中で、指先をぎゅっと握りしめた。


 「クラウディオ様……」

 「はい?」

 「貴方が傍にいてくださると、少しだけ……呼吸が楽になります」


 その一言に、クラウディオは小さく息を呑んだ。

 感情を見せない彼の瞳に、微かに波紋が走る。


 「……そう言っていただけるなら、報われます」

 それだけ言って、彼はまた表情を整えた。


 夕陽の光が二人の間を黄金に染める。

 沈黙は、もはや気まずさではなかった。

 そこにあったのは、確かな信頼と、まだ名を持たぬ想い。


 外の鐘が六つを打つ。

 エリシアは立ち上がり、静かに呟いた。


 「私は“悪役令嬢”ではなく、“理を尽くす女”として証を示します」


 クラウディオは微笑む。

 「その言葉を、きっと査察官殿も気に入るでしょう」


 二人の視線が交わる。

 そこには、もはや初対面のぎこちなさはなく――

 信頼が、ゆるやかに恋へと変わる前触れのような、静かな光が宿っていた。


王宮の大広間に、荘厳な鐘が鳴り響いていた。

 金糸の垂れ幕が揺れ、紅い絨毯の上に光が差し込む。

 王国でもっとも高貴な場所。

 そして、かつてエリシアが婚約を誓った――その同じ場所。

 けれど今日は、すべてが違っていた。

 玉座の前に立つのは王太子アルフォンスと、その傍らに立つセレーネ・フェルナー。

 その美しい微笑は、まるで勝利を確信した花のようだった。


 対するは、深紅のドレスを纏ったエリシア・ローズベル。

 その隣に、黒衣の文官クラウディオ・ヴェイン。

 そして背後には、宰相府査察官カリスト・ヴァーレン。


 「これより、婚約破棄の是非および関連文書の真偽について再審を行う」

 カリストの声が響く。

 集まった貴族たちのざわめきが、まるで風のように広がった。


 アルフォンスは冷ややかに視線を向けた。

 「このような茶番を、なぜ宰相府が開く必要がある?私はすでに、婚約破棄を正式に通達したはずだ」


 「殿下、その通達に添付された“証拠”に、疑義が生じております」

 クラウディオが静かに答える。

 彼の声は柔らかいが、一言一言が刃のように正確だった。


 「疑義、だと?」

 「はい。殿下がご覧になった手紙、あれは――筆跡が模倣されております」


 大広間が一斉にざわめいた。

 アルフォンスの眉がぴくりと動く。

 「……何を根拠に、そんなことを?」


 クラウディオは一歩前へ進み、文書を掲げた。

 「宰相府文官局による再鑑定の報告書です。

  筆圧、線の癖、文体、すべてがローズベル令嬢本人のものとは一致しません」


 「そんな馬鹿な!」

 セレーネが声を上げる。

「では、あの手紙は誰が書いたというの? 殿下を愚弄するような――!」


 その時、カリストが重々しく言葉を落とした。

 「――筆跡は、フェルナー家の侍女筆録と一致している」


 空気が止まった。

 誰もが息を飲む。

セレーネの顔から血の気が引いていく。


 「そ、そんな……!」

 「侍女が勝手にしたことか、あるいは指示を受けたか。

  いずれにせよ、フェルナー家に調査が入る」


カリストの目が冷たく光った。

 「王太子殿下、貴殿の決断は虚偽の証拠に基づくものであった可能性が高い」


 沈黙。

 アルフォンスの唇がわずかに震える。

 それは怒りか、それとも恐怖か。


 「……馬鹿な。私は、嘘など――!」

 「ならば、真実を受け入れるべきです」

 エリシアが口を開いた。


 その声は震えていなかった。

 高くも低くもなく、ただ澄んだ響きで空気を貫いた。


 「殿下、私はあの日、誇りを捨てることなく退きました。

  なぜなら、私の名が“偽り”に汚されるよりも、沈黙の方が気高いと信じたからです。  けれど――理をねじ曲げることは、決して許されません」



その言葉に、場の空気が変わった。

群衆が、静まり返る。

 かつて「悪役令嬢」と囁かれた女が、いまや王宮で最も気高い存在となっていた。


 カリストが宣言した。

 「これをもって、婚約破棄は無効。

 ローズベル令嬢への断罪は不当と認める」

 その瞬間、エリシアはようやく息を吐いた。

長く張り詰めていた糸が、静かに緩む。


 クラウディオが彼女のそばに歩み寄り、小声で言う。

 「お疲れさまでした」

 「……貴方のおかげですわ」

 「いいえ、貴女が最後まで理を曲げなかったからです」


 その時、陽光が高窓から差し込み、エリシアの髪を照らした。

 金糸のように輝く光の中で、クラウディオは目を細める。


 「ローズベル嬢。

  もし今後、貴女がもう一度信じられる誰かを探すなら――」


 「ええ?」


 「その相手が、“言葉ではなく行動で支える者”であることを、願っています」


 彼の瞳は、まっすぐに彼女を見ていた。

 その奥に、言葉にならない想いが宿っていた。


 けれど、今はまだ何も言わない。

 ――真実が示されたばかりのこの瞬間に、恋の告白は似つかわしくないから。


 彼はただ、深く一礼し、静かに彼女の傍らを去っていった。

 その背を見つめながら、エリシアは胸の奥に初めて“痛みではない熱”を感じた。

 それが恋だと気づくのは、もう少し先のこと。


王都の春は短い。

 冬の名残を残した風が、まだ少しだけ冷たかった。

 けれど、王宮の白薔薇の庭だけは季節を先取りしたように、柔らかな光をまとっていた。


 エリシア・ローズベルは、庭の奥の白い東屋に佇んでいた。

 淡いクリーム色のドレスに身を包み、風に揺れる花弁を見つめている。


 婚約破棄の撤回が正式に布告されてから、三週間が経った。

 彼女の名誉は回復し、貴族社会もようやく沈黙を取り戻した。

 だが、心の中にはまだ複雑な感情が渦巻いていた。


 ――誇りを守った。けれど、何を失ったのかしら。


 そこへ、足音がした。

 低く、整った歩調。

 振り向かずとも分かる。


 「クラウディオ様」


 「やはり、ここにいらしたのですね」

 彼の声は柔らかく、春の風に溶けるようだった。


 エリシアは微笑み、白薔薇を一輪手に取る。

 「この庭は、母が好きだった場所ですの。幼いころ、よくここで物語を聞かせてもらいました」


 「どんな物語を?」

 「――どんなに清らかな心も、誤解されることがある。

  けれど、真に気高い者は、いつか必ず真実に照らされる……そんなお話」


 クラウディオは静かに微笑んだ。

 「まるで、今の貴女のようですね」


 「そうでしょうか?」

 「ええ。理を信じ、沈黙で己を守る。

 殿下が貴女を疑ったのは、貴女があまりに潔癖だったからです」


 エリシアはその言葉に、わずかに俯いた。

 「……潔癖、ですか。皮肉ですわね」

 「皮肉ではありません」

 クラウディオの声が、少しだけ近づいた。

 「私はその強さを、美しいと思っています」


 エリシアの胸の奥で、何かが微かに鳴った。

 花弁が一枚、風に乗って舞い落ちる。


 「クラウディオ様。……貴方は、殿下の側にいながら、なぜ私を?」

 彼は少しだけ目を伏せた。

 「殿下に仕える前に、私はひとりの“観察者”でした。

  人の理を測り、誠を見抜くことを仕事としてきた。

  だからこそ、あの夜会で貴女の沈黙に気づいたのです。

  ――あれは罪人の沈黙ではなかった」


 エリシアは息を呑んだ。

 彼の言葉は、穏やかでありながら、胸の奥深くを貫いていく。


 「……あの時、誰かが私を見ていたなんて、思いもしませんでした」

 「見ていただけではありません。忘れられなかったのです」


 風が、静かに止まる。

 その瞬間、二人の間に流れる時間が、ふと遅くなったように感じられた。


 クラウディオは彼女を見つめ、少しだけ声を低めた。

 「エリシア様。

  貴女が誰に何を思われようと、私はひとつだけ確信しています。

  貴女は、誰よりも真実に近い人だ」


 その名を呼ばれた瞬間、心臓が静かに高鳴った。

 “様”をつけた丁寧な呼び方の中に、確かな敬意と、それを超える何かが混じっていた。


 「……ありがとう、ございます」

 「礼など不要です」


 クラウディオは一歩前に出て、白薔薇を一輪摘み取る。

 花弁に光が透ける。


 「この薔薇のように、貴女は純白ではない。

  けれど、だからこそ人の痛みを知っている。

  私は、その色を尊いと思う」


 エリシアは言葉を失った。

 彼の瞳の奥に、自分の姿が映っているのが分かる。

 その視線に、言葉にならない熱が宿っていた。


 「……クラウディオ様。もし――もし、私がまた王宮の渦に巻き込まれるようなことがあっても」

 「その時は、私が貴女の盾になります」


 即答だった。

 その静かな確信に、エリシアの胸の奥で何かが解けた。


 彼女はゆっくりと白薔薇を差し出した。

 「では、この花を――感謝の印として」

 クラウディオは微かに笑い、受け取る。


 「では、私はそれを誓いの証として持ちましょう」


 沈黙。

 けれど、その沈黙は美しかった。

 風が再び吹き、白薔薇の花弁が舞う。


 遠くで鐘が鳴る。

 王都に新しい季節が訪れる音。


 エリシアはその音を聞きながら、心の中で静かに誓った。

 ――もう誰にも、私の誇りも理も、踏みにじらせはしない。

 そして――

 その隣に、静かに立つ彼の姿があれば、それでいいと。

 それはまだ恋という名を持たない。

 けれど、確かに二人の心を照らす“灯”となっていた。


夜明け前の王都は、まだ青い。

 塔の上で鳴る鐘の音が、冷たい空気を震わせていた。


 エリシア・ローズベルは、その音を遠くに聞きながら机に向かっていた。

 窓辺には灯を落とした燭台、未開封の封蝋付きの文書が一通。

 ――王宮からの召喚状である。


 「……また、始まるのね」

 彼女はそっと目を伏せた。

 平穏は短かった。

 クラウディオが告発書の真偽を明らかにし、真実が世に出た後も、

 セレーネ公爵令嬢の家は、決して沈黙してはいなかった。


 今度は、別の噂が流れていた。

 ――エリシアが、査察官クラウディオに色仕掛けで取り入った。

 ――証拠を改ざんして、無実を装った。


 流言の根は深く、毒のように静かに広がっていた。


 エリシアは胸の奥に痛みを感じながら、立ち上がる。

 それでも、あの夜、白薔薇の庭で交わした言葉が、彼女の背を支えていた。

 「その時は、私が貴女の盾になります」――その約束を。


 ◆


 王宮の謁見の間には、再び人が集まっていた。

 以前の夜会の光景を思い出させるように、金のシャンデリアが輝き、

 重々しい空気が満ちていた。


 王太子アレクシスは玉座の下に立ち、表情を硬くしていた。

 その隣に立つのは、セレーネ公爵令嬢――白衣のように淡いドレスに身を包み、

 まるで悲劇の聖女を演じるように、瞳を伏せている。


 「エリシア・ローズベル。お前に新たな嫌疑がかかっている」


 アレクシスの声は冷ややかだった。

 「査察官クラウディオ・レオナルドを色仕掛けで操り、調査結果を歪めた――そう申す者がいる」


 会場にざわめきが走る。

 エリシアは一歩、前に進んだ。

 「……また、証拠をお持ちで?」

 「手紙がある」


 アレクシスが示したのは、一通の封書。

 そこには、確かに彼女の筆跡を模した文字が並んでいた。


 クラウディオが一歩前に出る。

 「殿下、その文書は既に確認済みです。筆跡も印も、全て偽造です」

 「だが、誰が偽造したか証明できるのか?」


 その瞬間、セレーネが悲しげに顔を上げた。

 「殿下……わたくし、もうこれ以上は――」

 「セレーネ、黙っていろ」

 アレクシスが彼女の肩に手を置く。その様子が、群衆の同情を誘った。


 エリシアはその光景を見つめながら、心の中で静かに息を吐いた。

 「……王太子殿下。

  わたくしが貴方に誓えるのは、ただひとつ――“理”に背いたことは一度もございません」


 「理だと?」

 アレクシスが笑う。

 「理があれば、愛はいらぬというのか?」

 その言葉に、エリシアの胸の奥がわずかに痛んだ。

 愛。

 彼の愛を拒んだ日から、どれほどの時が経ったのだろう。


 けれど、今の彼女はもう、あの頃の少女ではない。

 沈黙のまま、クラウディオが一歩、彼女の前に出た。


 「殿下。理は愛を否定しません。むしろ、愛こそが理の証です」

 「何を言う」

 「真実を捻じ曲げ、愛という言葉で己の過ちを飾る――それは、最も醜い欺瞞です」


 会場の空気が凍る。

 クラウディオはゆっくりと手にした文書を掲げた。

 「この封書は、セレーネ公爵令嬢の侍女の屋敷から発見されました。

  筆跡も印も、そこに保管されていた模造印章によるもの。

  全て、今この瞬間、ここで確認できます」


 ざわめきが広がる。

 アレクシスの顔色が変わった。

 セレーネの指先が震える。


 「そんな……これは、誤解ですわ……殿下、わたくしは……」

 しかし、誰ももう彼女の言葉に耳を貸さなかった。


 エリシアは静かにその場を見つめていた。

 怒りも、悲しみもなかった。

 ただ、すべてが終わったのだと、心の奥で感じていた。


 クラウディオが一歩、彼女の傍らに立つ。

 その瞳が言葉よりも確かな誓いを宿していた。


 「エリシア様。

  貴女が信じた“理”は、決して裏切りません。

  どうか、この国を去らぬでください」


 「……私が、この国に留まる理由を、お与えくださるのですか?」

 「ええ。――私が、その理由になります」


 エリシアの瞳に、光が差した。

 それは涙の輝きではなく、夜明けの光のように静かで温かいものだった。


 会場に新しい風が吹き抜けた。

 誰もが沈黙する中、二人だけが見つめ合っていた。


 「理を超えて、貴女を選ぶ」

 クラウディオの声は低く、確かな響きを持っていた。

 「それが、私の誓いです」


 エリシアは微笑んだ。

 「……では、私も誓います。

  愛を恐れず、理を貫く――その隣で」


 鐘が鳴る。

 黎明の光が、二人の頬を照らした。

 長い夜が終わり、静かな朝が訪れる。


 それは、理と愛がようやく交わった瞬間だった。


 ――白薔薇の庭に、新しい花が咲くのは、もうすぐのことだった。


春の終わり、風は柔らかく、陽光は金糸のように輝いていた。

 王都の外れ、小高い丘の上に広がる白薔薇の庭。

 そこには、かつて夜会で断罪された令嬢と、彼女を救った男の姿があった。


 エリシア・ローズベルは白い日傘を差し、ゆっくりと花の間を歩いていた。

 新しい季節の香りが、胸いっぱいに広がる。


 婚約破棄の騒動から半年。

 王太子アレクシスは退位し、国外で療養中と伝えられている。

 セレーネ公爵令嬢の家は爵位を返上し、王都を去った。

 そして、王国は新たな時代を迎えつつあった。


 その転換の渦中で、エリシアは貴族の立場を離れ、王立文書院の顧問として迎えられた。

 “理”を重んじ、冷静に言葉を扱う者として。

 クラウディオ・レオナルドは、今や新政務院の副長官。

 改革の中心で、静かに国を支えている。


 「――こうして見ると、まるで別の国のようですね」

 振り返ると、いつの間にかクラウディオが立っていた。

 淡い灰色の外套に、胸元には白薔薇のピン。

 風に揺れる髪の間からのぞく瞳が、柔らかく笑っていた。


 「貴女が戻ってきたからですよ」


 エリシアは、少しだけ笑った。

 「……大袈裟ですわ。わたくしなど、ただの顧問です」

 「王国は理を失いかけていました。

  理を取り戻すために、貴女のような人が必要だった。

  ――それを証明するために、私はここにいるのです」


 クラウディオの言葉は、風よりも静かで、しかし深く響いた。


 「貴方は、いつもそう言いますのね。

  まるで、私を慰めるための詩人のように」

 「慰めではありません。真実です」


 ふと、クラウディオが一歩近づいた。

 白薔薇が二人の間をわずかに揺らす。


 「貴女は覚えていますか、あの日の夜会を。

  ――沈黙の中でも、誰よりも強く、気高く立っていた貴女を」


 「ええ。忘れたことなど、一度もありません」

 エリシアは目を閉じる。

 あの夜の音、あの冷たさ、あの孤独。

 だが今は、それらすべてが、ひとつの“物語”として胸に宿っている。


 「もしあの日、クラウディオ様が現れなければ……

  私は、誰も信じられぬまま終わっていたでしょうね」

 「それでも、貴女は立ち続けたはずです」

 彼の声には確信があった。

 「私が信じたのは、証拠や理ではありません。

  あの夜の貴女の瞳です」


 エリシアは微笑む。

 「……そんなことを言われては、また誤解されてしまいますわ」

 「誤解でも構いません。

  真実を語れば、きっともっと誤解されるでしょうから」


 クラウディオが、懐から小箱を取り出した。

 黒いビロードに包まれたそれを、静かに開く。


 中には、白薔薇を模した金の指輪があった。

 中央の小さな宝石が、朝の光を受けて淡く輝いている。


 「エリシア・ローズベル。

  貴女が教えてくれた“理”の意味を、私は胸に刻みました。

  けれど、これからは――理だけでなく、貴女の“心”も共に歩ませてほしい」


 彼の言葉は穏やかだった。

 それなのに、エリシアの心臓は静かに震えていた。


 「……それは、求婚の言葉として受け取っても?」

 「もちろんです」


 短い沈黙。

 白薔薇の花弁が風に舞い、二人の間を包む。

 エリシアは一歩、彼に近づいた。


 「クラウディオ様。

  貴方がくれた“理”の灯を、私は決して忘れません。

  そして今――それを“愛”と呼ばせてください」


 クラウディオの表情が、穏やかにほどけた。

 彼はそっと彼女の手を取り、その指に指輪を嵌める。


 指先が触れた瞬間、時間が止まったように感じられた。

 風が音を立て、白薔薇が一斉に揺れた。

 まるでこの庭そのものが、二人の誓いを祝福しているかのようだった。


 「これでようやく、私は貴女の傍に立てる」

 「いいえ。最初から、貴方はそこにいました」


 柔らかな陽光が、二人を包む。

 静かに、しかし確かに結ばれた“理と愛”。


 エリシアは笑った。

 「王国の未来に、少しだけ希望が見えますわ」

 クラウディオが頷く。

 「ええ。それは貴女のような人が、この国を見つめているから」


 遠くで鐘が鳴った。

 かつて絶望を告げたその音が、今は祝福の音に変わっていた。


 エリシアは彼の手を取り、囁いた。

 「――共に、歩みましょう。理の光の下で」

 「そして、その理の隣に、貴女の心がある限り」


 二人の影が、白薔薇の間でひとつに溶けた。


 春の風が吹き抜け、花弁が空に舞う。

 それはまるで、誰も知らぬ新しい物語の始まりを告げるようだった。


 ――白薔薇の庭に、永遠の誓いが結ばれる。




===






数年の歳月が流れた。


 王都はかつての混乱を脱し、

 新たな王が即位してからというもの、国政は穏やかに進んでいた。

 陽光の下、街は活気を取り戻し、人々は笑い合いながら市場を行き交う。


 王立文書院の片隅。

 かつて“悪役令嬢”と呼ばれた女性が、今では静かに羽ペンを走らせている。


 エリシア・レオナルド――旧姓ローズベル。

 白薔薇の庭での婚儀から三年が経った今も、彼女の手は止まることを知らない。


 机の上には、整然と並べられた文書と、

 開かれた窓から差し込む柔らかな陽光。

 風に運ばれて、どこからか白薔薇の香りが漂ってくる。


 「……今日もお忙しそうですね、エリシア」


 低く優しい声に振り向くと、

 そこにはクラウディオが立っていた。

 相変わらず淡い灰の外套をまとい、手には資料の束。


 「仕事が終わったら、庭を散歩しませんか?」

 「ええ、喜んで」


 エリシアは微笑んで立ち上がる。

 その瞳には、かつての孤独な硬さはもうない。

 代わりに、柔らかな光と、確かな誇りが宿っていた。


 「そういえば、王都の学校で理学の授業に“ローズベル理論”が導入されたそうですよ」

 クラウディオが微笑を浮かべる。

 「子供たちが貴女の名を教科書で見る日が来るとは」

 「……少し、くすぐったい気分ですわ」


 ふたりは並んで廊下を歩き出した。

 窓の外、王都の空は青く澄み渡っている。

 かつて冷たい石畳の上で孤独に立っていた少女が、

 今は穏やかな春の光の中を、愛する人と歩いていた。


 白薔薇の庭に着くと、花々が風に揺れ、

 淡い香りがふたりを包んだ。


 「クラウディオ様」

 「なんでしょう?」

 「時々思うのです。

  あの夜、もし私が涙を流していたら……今の私はいなかったのかもしれないと」


 クラウディオは静かに首を振る。

 「いいえ。貴女はきっと、それでも同じように立っていた」

 「根拠もなく、そう言い切れるのですか?」

 「ええ。貴女を見てきたから」


 エリシアは微笑み、白薔薇を一輪摘み取った。

 「この花のように、誇り高くありたいものですわ」

 「誇りも愛も、貴女の中ではもう分かちがたいものですよ」


 風が吹いた。

 白薔薇の花弁がふたりの間を舞い、

 光の中で一枚が彼の肩に落ちる。


 エリシアはその花弁をそっと指で払いながら、

 微笑を浮かべて囁いた。


 「この花が散るたびに、私は思い出すのです。

  あの夜会のことも、貴方の誓いも」

 「ならば、毎年この季節に共に思い出しましょう」

 クラウディオはそう言って、彼女の手を取った。


 沈黙があった。

 けれどその沈黙は、かつての孤独ではない。

 理と愛が、ひとつの静けさとして溶け合っていた。


 遠くで鐘の音が響く。

 それはもう、断罪の鐘ではなかった。

 王都の新しい時代を告げる穏やかな音色。


 エリシアは瞳を閉じ、風に囁くように言った。

 「理を愛し、愛に理を――

  この国が、永くその光に包まれますように」


 クラウディオが微笑む。

 「きっと、そうなります。

  だって――その理を信じた貴女が、この国にいるのですから」


 ふたりの影が寄り添い、白薔薇の庭に静かな影を落とす。

 春の陽が、その上に優しく降り注いだ。


 やがて、風が過ぎる。

 花弁が舞い、空に消える。

 その姿は、まるで物語が永遠へと続いていくことを告げているかのようだった。


 ――白薔薇は、今日も風に語る。

 誇り高く、愛おしく。

 かつて悪役と呼ばれた令嬢が、理と愛をもって新しい未来を紡いだことを。

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白薔薇の誓い 御子神 花姫 @mikogami7

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