記憶の味

葉野亜依

記憶の味

 彼女が楽しそうに喋っている。心地良い声だと僕は思う。

 僕と彼女はアルバムを眺めていた。二人で旅行に行った時の写真だ。

 ページをぱらぱらと捲っていく。

 写真を見てももう覚えていないことの方が多い。

 あ、と彼女がとある写真を指差した。


「この時の絵付け体験で猫を描いたのに、『狐?』だなんて言われたのショックだったなー」

「今見ても狐に見えるけどね。猫にしては……ねぇ?」


 そう言えば、彼女は不服そうに膨れっ面になった。「猫ですぅー」と机の上に置いてあったコップを僕の目の前に掲げてみせた。

 ――やっぱり、狐にしか見えない……。

 大きな三角の耳と細長い顔。どう見ても猫には見えなかった。

 彼女は字は上手いけど、絵を描くのは下手なのだ。

 アルバムには彼女の丁寧な字で日付と何処に行ったのか、何を食べて何をしたのかが細かく記されている。

 写真を見ていれば、その時の食べ物の味や楽しかった記憶が鮮明によみがえってくる。けれど、過去になればなるほどその時の記憶はなくなっていった。

 ――でも、写真の中の僕たちは幸せそうだ。

 そう思っていると、くいっと服を引っ張られた。誰が引っ張ったかなんて、言わずもがな。


「ねえ、お腹空いちゃった。食べてもいい?」


 少し恥ずかしそうに彼女が言った。

 彼女の空腹は写真を見ていると訪れる場合が多い。普通のご飯も食べることはできるけれど、彼女にとってそれは味のない食べ物だ。

 彼女の好きな食べ物は人の記憶だ。特に、幸せな記憶はとても美味しいらしい。

 だから、時々僕はこうして彼女にねだられる。彼女との楽しかった僕の記憶を食べたい、と――。


「好きな人のわたしとの幸せな記憶は至高の味なの」


 うっとりと彼女はそう言う。

 ただ忘れるだけじゃない。僕の記憶が彼女の糧となるのなら本望だ。

 僕の中から記憶は消えるけど、二人で撮った写真はたくさんあるし、絵付けしたコップだってちゃんとここにある。

 記憶がなくなっても、二人の思い出が消える訳ではない。

 勿論、何も覚えていなくて寂しいと思う気持ちはある。

 だけど、僕が覚えていなくても、こうして二人で写真を眺めながら、この時こんなことをした、こんなことがあったと彼女が語ってくれるのを聞くのが僕は案外好きなのだ。


「どうぞ」


 僕は迷うことなく、彼女に記憶を差し出す。

 好きな子が喜ぶ姿を見るのは嬉しいもので。僕の記憶を幸せそうに食べる彼女の姿もまた、僕は好きなのだ。

 僕は彼女と向き合う。そっと彼女を抱きしめると、幸せそうな横顔が見えた。

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記憶の味 葉野亜依 @ai_hano

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