逢魔が刻の風景
犬神堂
骨の市
この街は、夕暮れになると音が消える。昼間は騒がしい。
車の音、工場の機械音、子どもの叫び声。
汽車の悲鳴、食堂の食器のならす音、大人の
どれも、早く次、早く終了と、切羽詰まり、
だが、陽が傾きはじめると、すべてが沈黙に向かう。
空は灰色に染まり、建物の影が長く伸びる。人々は家の中へと吸い込まれていく。
誰も、夕刻の街を歩かない。
歩道の端に並ぶ電柱は、まるで墓標のように立ち尽くしてゐる。
風は吹かない。
鳥も鳴かない。
ただ、空気だけが重くなる。
重く、湿って、骨の匂いが混じる。
倉庫街の奥に、誰も使ってゐない広場がある。壁はひび割れ、地面は苔に覆われてゐる。鉄の扉は錆びて、開けるたびに軋む音がする。その音は、骨を削るような響きを持ってゐる。
広場の隅には、崩れかけた台がある。
かつて荷物を積んでいた台だ。
今は、骨を並べるために使われてゐる。地面には、無数の小さな穴がある。穴の中には、骨が埋まってゐる。誰の骨かはわからない。だが、骨は確かにゐる。ゐて、待ってゐる。
どこか遠くでチャルメラの音がする。
びぃぃぃ
ぷぅぅぅ
それが合図だ。
骨の市が始まる前、空が一段暗くなる。
雲が低く垂れこめ、空気がざらつく。
肌に触れる風が、紙のように乾いてゐる。
誰かが、穴に手を入れる。
誰かが、骨を並べる。
誰かが、値札を刻む。
骨の市が、静かに開かれる。
右腕
値札は骨に直接刻まれてゐる。
売る者は笑う。
買ふ者は泣く。
涙は、骨の表面に染み込み、値段を少しだけ上げる。
骨は、泣かれることで価値を持つ。
笑われることで、意味を失ふ。
「今日は、
老婆の背は曲がり、腰には骨の束が
「膝は、記憶が濃いからね。歩いた分だけ、思い出が詰まってる」老婆は笑いながら、膝の骨を磨いてゐた。その手は、指が三本しかなかった。残りの指は、売られたのだろう。
「あなた、何を探してるの?」声をかけてきたのは、骨を抱えた少女だった。年の頃は十歳ほど、だが目の奥に百年分の疲れがあった。髪は短く、服は古びてゐる。骨を抱く腕は細く、骨よりも軽そうだった。
「探してるわけじゃない。ただ、見てるだけ」わたしはそう答えた。少女は、骨を抱きしめたまま、首を傾げる。「この骨、わたしの弟。…名前はもう忘れたけど、笑い方は覚えてる」少女は、骨に耳を当ててゐた。骨は、何も言わなかった。だが、少女は微笑んだ。
市の奥に、男がゐる。名はない。誰も訊かない。
彼は、骨を喰ふ。
喰ふことで、記憶を得る。
記憶が戻ると言ふ。
何の記憶かは、誰も知らぬ。だが、喰った者は必ず叫ぶ。「記憶が戻るって、本当なのか?」
わたしは男に訊いた。男は、骨を噛み砕きながら、答えた。
「戻るよ。戻るけど、誰の記憶かは選べない」
「それは、意味があるのか?」
「骨にはないよ。ただ、叫びがあるだけだ」
男が喰った骨は、誰かの指だった。その指は、ピアノを弾いてゐた記憶を持ってゐた。男は、口の中で音を鳴らした。
「母がゐた」
「父がゐた」
「わたしは誰だ」
叫びは、市の天井にぶつかり、反響する。
その音が、骨を震わせる。
骨は、震えながら踊り始める。肋骨が空を飛び、指骨が地面を這ふ。
踊る骨は、風景を歪める。倉庫の壁が波打ち、地面が呼吸する。空が沈み、影が立ち上がる。
「見てるだけじゃ、だめだよ」少女が言った。
「骨は、見られるためにゐるんじゃない。喰われるためにゐるの」
「それは、あなたの弟なのに?」
「弟だったかもしれないけれど、もう弟じゃない。骨になったら、誰のものでもない」
少女の声は、骨の隙間から漏れるようだった。
わたしは、踊る骨を見てゐる。見てゐるうちに、身体が軽くなる。
自分の骨が、少しずつ外へ出て行く。皮膚の下で、骨が動く。動いて、外へ出ようとしてゐる。
「売るか?」と、老婆が言ふ。
「まだだ」と、わたしは答える。
だが、右腕が勝手に値札を刻んでゐる。参阡円。
それは、わたしの右腕の値段。誰かがそれを見て、泣いた。
泣いた者は、骨を買わなかった。
ただ、見てゐた。
その夜、わたしは市の奥に座り、右腕を台に乗せた。
骨を喰らう男が近づいてくる。「売るのか?」と訊かれ、「売る」と答えた。
男はわたしの腕を見て、少しだけ笑った。「この骨は、よく歩いたな。重い記憶が詰まってる」わたしは何も言わず、腕を差し出した。
骨が抜かれる感覚は、痛みではなく、空洞だった。
腕の中にあったものが、すべて風になって抜けていくようだった。
骨を失った腕は、まだそこにあった。だが、重さがなかった。
骨の市が終わると、骨は土に還る。
土に還った骨は、また芽を出す。
芽は、人の形をしてゐる。
その芽は、目を開ける。
目の奥には、誰かの記憶がある。
それをまた、売るのだ。
その夜、芽がわたしに語りかけた。「あなたは、わたしだった」「わたしは、あなたの右腕だった」「あなたが歩いた道を、わたしは夢で見た」
芽の声は、風のように静かで、確かだった。「わたしは、あなたの記憶を持ってゐる。でも、あなたはもう持ってゐない」わたしは、芽を見てゐる。
芽は、わたしに似てゐる。
でも、わたしではない。
「買ふか?」と、老婆が言ふ。
「まだだ」と、わたしは答える。だが、左手が夢を欲しがってゐる。
骨を売った右腕の空洞が、左手の指先にまで染み込んでゐる。
骨を失った側が軽くなれば、残った側は重くなる。
夢の重さが、指の関節に溜まっていく。
わたしは、芽の目を見てゐる。
芽は、わたしの右腕だった。
芽は、わたしの記憶だった。
だが、芽はもうわたしではない。
「わたしは、あなたの代わりに歩く」芽が言った。
「あなたが忘れた道を、わたしが辿る。あなたが見なかった空を、わたしが見る」芽の声は、骨の隙間から漏れる風のようだった。
わたしは、芽に手を伸ばす。
左手が震える。
指が、夢を欲しがってゐる。
夢は、骨の中にある。
骨は、土に還る。
土は、芽を育てる。
芽は、記憶を持つ。
記憶は、誰のものでもない。
「買ふか?」老婆がまた言ふ。
声は、錆びた鉄のように軋んでゐる。「買ふ」と、わたしは答えた。
左手の小指を、
それは、誰かの夢を含んでゐた。夢は、左手にあった。小指は、冷たかった。だが、冷たさの奥に、微かな温もりがあった。それは、誰かが見た夕暮れの匂いだった。
骨の市は、今日も開かれる。
夕暮れが来る限り、終わることはない。
売る者は笑い、買ふ者は泣く。
叫びが空に溶け、骨が踊り、芽が語る。
わたしは、骨を売った者として、骨を買った者として、ただゐる。ゐて、見てゐる。芽が歩き出すのを。骨が土に還るのを。記憶が、誰かの中で育つのを。
そして、わたしは、まだゐる。
骨を売った記憶と、骨を買った夢と、骨を見てゐる目とともに。
骨の市の夜は長い。
風は吹かない。
鳥は鳴かない。
だが、骨は語る。
骨は、わたしの中で、まだ語ってゐる。
芽は、夜明け前に街を出た。誰にも見送られず、誰にも気づかれず、ただ静かに歩いていった。
足音はなかった。
影もなかった。
だが、芽は確かに歩いていた。
歩道の端を、電柱の列を、錆びたフェンスを越えて、街の外へと向かっていった。
芽の背には、骨の記憶が詰まってゐた。
わたしの右腕の記憶。誰かの夢。誰かの叫び。
芽は、それらを抱えて歩いていった。
空はまだ暗かった。
雲は低く、風は冷たかった。
だが、芽の歩みは止まらなかった。芽は、街の外にある何かを知ってゐた。わたしには見えないものを、芽は見てゐた。芽の目は、わたしの目だった。だが、もうわたしではなかった。
「行くのか?」と、わたしは訊いた。
芽は振り返らなかった。
ただ、歩いた。「わたしは、あなたの代わりに歩く。あなたが忘れた道を、わたしが辿る」芽の声は、風に溶けて消えた。
わたしは、芽の背を見送った。
芽が街を出ていくのを、ただ見てゐた。
それから、幾日かが過ぎた。街は変わらなかった。夕暮れになると音が消え、空気が重くなる。倉庫街の奥に、広場がある。骨の市が、また開かれる。わたしは、再びその場所へ向かう。
理由はない。
誰も理由など持ってゐない。
ただ、夕暮れが近づくと、足が勝手に路地へ向かふのだ。
市は、前と同じように始まる。
穴が開き、骨が並べられ、値札が刻まれる。
右腕
肋骨一枚
売る者は笑い、買ふ者は泣く。
老婆はまだゐる。少女はゐない。男は、骨を喰ってゐる。
「戻ってきたか」と、男が言った。
「戻る場所があるなら、人は戻る」
わたしは、「戻ってきた」と答える。
右腕はない。左手には、小指がある。夢の重さが、指先に残ってゐる。
「今日は、何を売る?」老婆が訊く。
「売らない」と、わたしは答える。
「今日は、見るだけだ」老婆は笑った。
「見るだけの者が、一番長くゐる。骨は、見られることで育つ。喰われることで語る」
わたしは、骨を見てゐる。
骨は、踊ってゐる。叫びが空に溶け、骨が土に還る。
芽は、もうゐない。
だが、芽の記憶は、骨の中に残ってゐる。骨は、語ってゐる。わたしの右腕のことを。わたしの夢のことを。わたしが忘れた道のことを。
骨の市は、今日も開かれる。
夕暮れが来る限り、終わることはない。
売る者は笑い、買ふ者は泣く。
そして、わたしは、またゐる。骨を売った者として、骨を買った者として、骨を見てゐる者として。それだけが、わたしの記憶だ。
<了>
逢魔が刻の風景 犬神堂 @Inuzow
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