豪雨 19:23 階段下にて 後編


妻サヨコの友人だというあの女、鈴村チカコと初めて対面したのは妻が死んだあの日だった。

病院の廊下で派手なショッキングピンクのワンピースを着ていて、チカコは僕の顔を見てニヤニヤと長く笑みを浮かべていた。


妻と僕はずっと2人の子供を望んでいた。

それがついに叶ったと分かったのが、妻の死の2日前だった。


体調に障ってはいけないので、妻の職場以外の人に知らせるのは安定期に入ってからにしようと2人で決めた。


僕は嬉しくて嬉しくて、家の中で玄関とトイレを何度も間違えたりした。

僕が妻をどれほど愛していたかというと、おそらく他人には到底理解してもらえないだろうが、妻の全てを何もかも知りたいという欲求をおさえられないほどだった。


象徴的な思い出がある。

妻の産まれた病院や実家はもちろん、幼稚園や小学校、それから彼女が上京し僕の妻に至るまでの、妻との関わりの深い土地も場所も、細かく全て2人で旅行した思い出だ。

あんな素晴らしい旅行はそれまでの僕の人生にも、これから先も二度とないだろう。


妻のクローゼットの引き出しの上から順に、妻の下着の何が入っていて、どんな色の並びになっているのかも知っている。

妻は茶色やベージュを後ろに、ピンクや白を手前に仕舞うクセがあった。


妻がパートで勤務している店では、最近になって店長が変わった。

新しい店長は、妻にとろいだの意地悪く罵倒を繰り返す人物だった。

僕は、もうパートは辞めたらどうかと提案した。

辞めても不自由はしないくらいの生活は出来ると。

しかし妻は好きな店で仲の良い同僚もいて、何より僕がいつもそばに居ると思うと平気だと言った。

「お腹が大きくなるまでは、離れていてもムネ君がいるって思える時間を味わいたいの」

そう言って笑う妻の顔を、残された音や声を聴きながら思い返している。




僕はいつも妻と一緒に居た。

交際し始めた頃から結婚後もずっと、1秒たりとも離れたことはなかった。


僕はずっと妻の服の下に盗聴器を着けさせていた。

ゆったりしたワンピースなら、ウエストにベルト状に装着していてもその形状は目立たない。

最初にずっとサヨコの声を聴いていたい、離れたくないんだとお願いをしたときは振られる覚悟だった。

彼女はそんな僕の要望も喜んで受け入れてくれた。

サヨコとはそういう女性だった。


僕はエンジニアという仕事の特性上、作業をしながら妻の声に耳を傾ける時間も取れたし、ちょっとした細工も出来る。

忙しいときは録音を聴くこともあったが、半日も妻を放置はしなかった。


妻のスマートフォンの内容は全て僕のPCに転送されてくる。

いつ誰とどんなメッセージのやり取りをしていて、どんな音声通話をしているのか。

何を検索して、どこへ行く予定を立てているのか、どんなアーティストの音楽を聴いているのか。


鈴村チカコのことは妻がSNSで出会って、妻がまだチカコの本名を知らないうちから、僕はチカコの本名、顔の他、住所、年齢、職場、出身地、出身校に至るまで把握していた。

仲の良い友達が出来たんだと微笑ましく感じながら、いつも2人の会話を聴いていた。




あの日、聴いたことのない雑音のあと、妻が最期に言った言葉の意味をずっと考えていた。


「ムネ君、助けて、チカちゃん、なんで」

チカちゃんなんで、とは何がチカちゃんなんで、なんだろうと。

憶測ならいくらでもできるが、全て憶測にすぎない。


その言葉の前後の数分間を何度も聴き返した。

聴き逃している音はないか、あらゆる方法で音声を抽出、解析した。

激しい雨音の中、妻のやめてという小さな声が拾えて、全てはやっと事実として繋がった。


返ってきた妻の持ち物の傘には、見慣れないシールが貼られていた。

妻の「え、なにこれ?」はこのシールだと分かった。

チカコは妻の傘の柄に、なくさないようにと目印のシールを貼り付けた。


妻はそのあとチカコに別れの挨拶をして、階段を降りようとしていた。

そのときに聴こえたやめては、チカコが妻に何かをしたからそう言ったのだろう。

驚きを帯びた小さな囁きだ、ものすごく近距離の人物に向けて語りかけている。

それはあの場面ではチカコしか考えられない。


妻はお腹の子供のことを考えて、雨の日でも滑りにくい靴を選んで慎重に外を歩いていた。

もし階段付近が人で混んでいたら、妻は少し待って階段を降りただろう。

浮かび上がる答えに、うっかり足を滑らせて、という死亡理由がどんどん霞んでいく。


そして初めてチカコに対面した病院での様子を思い返すと、考えたくもない動機が一つだけ残る。

思春期の頃から嫌というほど、異性のああいう顔を僕は見てきた。

妻が僕の写真を見せて、チカコに紹介した行動には何の罪もない。

妻は僕の顔なんか気にしない女性だった。

だから警戒心も抱かず、女友達に紹介したりできるのだ。


ああいう顔をする異性の行動は決まって同じだった。

必ず僕と親密になりたがる。


妻の死から間もなく、チカコは妻のSNSのメールを通して、僕宛のメッセージを複数回送ってきた。

妻の持ち物を返したいから会えないだろうか。

僕は一度も返事をしなかった。

それからまたすぐに、妻の電話にチカコからの着信があった。

留守番電話に僕に会えないだろうか、という内容の音声が残されていた。

返したいものがあったとすれば、郵送を願い出るのが自然だろう。

相手が返事をしないなら、今はそっとしておくべきだとも考えるはずだ。


妻を殺そうとまで考えたかは分からない。

怪我をしただけでも病院に運ばれれば、僕が駆けつけるのは間違いない。

チカコが狙ったのはそれだろう。


そんなくだらない動機のために妻は死んだのかと思うと、やりきれなかった。

全てに気づくと僕は、妻のSNSからチカコに伝えた〈おはよ☆〉と。

あの日、妻の声が途絶えた時間に。


妻のコンビニの袋にあった2つのシュークリームは、まだ冷蔵庫に並べてある。

賞味期限をずいぶん過ぎているけど、僕がこれを捨てることは生涯ないだろう。



          ⭐︎



友人を階段から突き落として殺した女、として逮捕された私に、面会に来た姉からムネヒコが自殺したと聞かされました。

サヨコ妊娠していたそうですね。


階段を降りようとしたサヨコを見て、とっさに思いついたんですよ。

結果が良ければ、ムネヒコが自分のものになるかもしれないとさえ、希望を抱きました。

最初に写真を見せられたときからずっと考えていたんだから、彼のことを。


サヨコがムネヒコのあれこれを語る度に、彼への憧れは歪な執着へと変わっていきました。

どうすれば彼に会えるだろう。

最近ではサヨコに接触する理由が、その向こう側に居るムネヒコに会いたいがためになっていました。

話したいことがあるわけでもないのに、お茶に誘ったりして。

あの日もそうでした。


どうして私のしたことがバレたのか知ったのですが、そんな相手ならわざわざサヨコを殺してまで欲しいと思わなかったのに、と思いました。

四六時中サヨコを盗聴していたなんて、変態じゃないですか。

いくら顔が良くたって気持ち悪いですよ。


サヨコもそんな変な趣味のある女性だって知っていたら、私は友達になんかならなかった。


私バカなことしちゃったなって後悔してます。

サヨコを傘で隠してまで突き落とすなんて、全部知っていたらそんな衝動、頭をよぎりもしなかったのに。

仮に盗聴プレイがバレたら、世間から後ろ指をさされて、恥ずかしい思いをするのは彼らだったでしょう。

なんで私がこんな…


私の思考を遮り無視するかのように、窓の外の月にすっと黒い雲がかかった。

消灯を過ぎて暗い独房は、一層暗くなった。




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豪雨 19:23 階段下にて 黒乃千冬 @ku_ronon

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