短編小説|ポケットに残るもの

Popon

冒頭

ある楽曲をもとに広がった物語。

旋律に導かれるように、ページをめくるたび新しい景色が立ち上がる――それが「香味文学」です。


本作では、通常に加え物語の奥にさらにもう一曲の響きを重ねています。読み進めるうちに滲み出す二重の旋律を感じていただければと思います。



***



三月末日

助手席のドアを開けた瞬間、カルバンクラインのジャスミンの甘い香りが胸に広がった。

これを身近に感じられるのは、彼の隣にいる時だけだと知っている。


カーステレオからは、どこか遠い時代の歌が流れている。

題名も歌手もわからなかったが、「夜明けの足音」という言葉だけは聞き取れた。

私には縁のない世界のように思えたその旋律は、不思議と彼の雰囲気に溶け込んでいた。


彼に会えるのは月に一度きり。

月末の夜に駅前まで私を迎えに来て、そしてまたホテルから私をここに再び送り届ける。

その限られたやり取りが、知らぬ間に私の生活の一部になっていた。


ただ不思議と、私はその時間を確かに楽しんでいた。

彼といる限り、許されない関係の中にさえ安らぎと居場所を感じてしまう。


朝になり、街が人の流れを取り戻す少し手前、私は決まって日常に引き戻される。

駅前に着いた彼は、フロントガラスの向こうを黙って見据えたまま、もう別の時間に気持ちを移しているようだった。

私はそこで音を立てずにドアを開けた。


月に一度の私の秘密は、いつもそうして終わりを迎える。






四月末日

最近では日常の一部とさえ感じられる染みついた匂いと音楽が、車内を満たしていた。

月末の夕闇が点り始めるその風景は、この時間のお決まりとなってすらいた。


部屋に入り、ひとしきりたわいのない会話をした後で、彼はリモコンを手に取った。


「今日は映画でも観ようか」


少しはにかみながらつぶやく。


「ホテルはネット環境が良くないからね」

そう言って彼がモバイルルーターを取り出し、私に手渡した。

接続しようと私がパスワードを尋ねると、彼は短い間を置いて


——14106。

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