〜見学会と自販機〜

1|富士野リトルシニア・見学会


「本日は富士野リトルシニア見学会です。アップから一緒にどうぞ」

「お願いします!」


 受付テーブルの名札を受け取って、俺とカズキは同時に一礼した。グラウンドの端には自転車の列。チェーンの油の匂いと、まだ熱の残る土のにおいが混ざる。ヒデは今日は部活。フェンスの外には、待ち合わせて来たユキノとアユミ、ナツミ。三人とも、少し離れた日陰から手を振ってくれた。


 ――カズキは小六へ上がる春休みに隣町へ転校した。校区は別になったけれど、富士野リトルシニアのグラウンドはどちらの町からも自転車圏内。だからまた、同じ白線の内側に立てる。ハンドルを握って来られる距離って、思っていたより心を近くする。


「タカ、ファイト!」

「姿勢、低く! 呼吸、三拍!」

「観測開始」ユキノがパスケースの角をコツン。目尻だけ、すこし笑う。


「雰囲気、ちょっと違うな」俺は小声で言う。初めて嗅ぐライン粉。見慣れないメニュー表。知らない先輩たちの名前。

「合図は昔と同じ。前、正面、腰」カズキは短く。声の芯は、ずっと変わらない。

「うん」


 キャッチボール。指に縫い目が戻ってくる感じ。基礎ノックは正面→右→左の三点セット。俺のグラブから芯でとらえた乾いた音が鳴り響く。コーチが一度だけ頷くのが見えた。フリー打撃の体験では投内連携の捕り役にも入り、ベースカバーの角度、握り替えの速さ、二歩目の出し方まで見られる。土の粉が手の甲に張り付き、指の隙間がきしんだ。


「キャッチング、いいじゃん」年上の先輩がボールを返しながら言う。

「ピッチングも見たいね」コーチが笑って、ブルペンを顎で示す。

「はい!」



2|言葉の刃


 ブルペン奥。プレート手前で肩を回し、グラブを胸に寄せる。スパイクの歯がプレートの角をとらえる感触が足首まで上がってくる。呼吸を三つ数えて、さあ、セット――その時。


「……あれ、ホークスの」

「夏の地区大会で当たったやつか。俺、あのとき全部三振だった」


 帽子のつばを上げた二人が近づく。痩せ型で目つきの鋭いレン、がっしり体型のサトル。汗の筋が頬を斜めに走っている。


「お前さ、“野球やめた”って聞いたけど?」レン。

「燃え尽きたとか。――正直、途中で投げ出すやつと同じチームはキツい」サトルが肩をすくめ、俺のグラブをちらり。


 手首が、わずかに震えた。スパイクが土を一粒だけ弾く音がやけに大きい。


「……やめたのは事実だ。でも戻ってきた。もう一回、やる」

「言うのは簡単だよなぁ」レンが鼻で笑う。

「“また”やめない保証、どこにあんの」サトルの声は乾いていた。砂の上で擦れる音みたいに。


「言い方、考えろよ」カズキが一歩出る。「戻ってくるほうが難しい。戻ってきたやつは強い」

「へぇ、フォロー付き?」レン。

「試合じゃフォローは入らないけどね」サトルが目だけ笑う。視線は冷たいのに、口角だけは動く。


 息を一度吸ったのに、吐く場所が見つからなかった。


「……すみません。続き、やります」

「おう、勝手にどうぞ」二人は笑って離れた。去り際にスパイクがコツと鳴る。


 もう一度、セットに入る。指先に汗。縫い目の粒が少し重い。視界が少し浮いて、白い的だけがやけにくっきりする。


「タカ」ミットの向こう、カズキの声が低く近い。

「わかってる。前、正面、腰」


 初球――わずかに抜けた直球。キャッチャーミットの土手をかすって「ポコン」。自分の投げた音なのに、知らない音に聞こえた。胸の中で、何かが一拍遅れて落ちる。



3|揺れる記憶


 “ポコン”の余韻に、べつの音が重なる。ダンボールを閉じるテープの“ビリッ”。あの夜の居間の、蛍光灯の白さ。


『――行くの?』

『行く。でも前へ』


 小五の終わり。隣町へ転校する前夜。段ボールの側面にマジックで「グラブ」「ユニ」「スパイク」。キャップのつばに指を当てて、ふざけ半分に敬礼して見せたカズキ。俺は笑えなかった。


『お前は?』

『……前へ。たぶん。たぶん、ね』


 “たぶん”の二回目で、舌が少し重くなったのを覚えている。言い終えたあと、部屋の時計の秒針が、やけにうるさかった。


「タカ、もう一球」

「……ああ」


 投げた。勢いのない球が、勢いのない音でミットに収まる。プレートの角にかけた右足だけが確かで、他は薄い。カズキの親指が、ミットの裏で小さく二度、トンと叩いた。



4|見学会の終わり


「今日はありがとう。入部案内はこの封筒に」

「ありがとうございました」


 整列してあいさつ。帽子を取り、また被る。解散の声が重なって、夕方の気配が芝と土の匂いに混ざる。俺はグラブを袋に押し込みながら、封筒の角で親指を撫でた。


「さっきのは気にすんな。レンとサトル、口が悪いだけだ」カズキが横で言う。歩幅を合わせてくれる。

「……うん」

「本当は“うん”の顔じゃない」

「……うん」


 上の空のまま足を動かしていると、フェンスの切れ目で三人が駆け寄ってきた。


「タカ、大丈夫?」アユミ。息が少し上がっている。

「水、飲も」ナツミが小さなボトルを差し出す。キャップを俺の代わりに回してくれた。

「観測の結果、顔色バツ」ユキノ。まっすぐに見てくる。


「大丈夫」俺は短く言った。自分の声が、少しだけ細い。

「ほんとに?」とアユミ。

「平気。先、帰る」


「ユキノ、頼める?」ナツミが目で合図。アユミも小さく頷く。

「もちろん」ユキノが一歩、俺の横へ移る。歩幅を合わせるのが、上手い。



5|自販機の前


 商店街を抜けた角――初めて言葉を交わした自販機。白色の蛍光灯がわずかにちらつき、缶の並びに薄い影が縞になる。俺は歩みを止めた。止まりたくなかったのに、止まった。


「タカ」

「……」


 ユキノは硬貨口に十円玉を当て、軽く“チン”と鳴らす。反射した高い音が、間をつくる。彼女のやり方だ。


「ねえ、さっきの言葉、ぜーんぶ聞いたよ」

「……悪い。平気」

「それ、“平気”の顔じゃない」


 ユキノはポケットから薄いメモを取り出す。表は英単語、裏は線と丸がいくつも繋がっている。

「今日の観測メモ」

「観測、ね」

「うん。“途中で野球をやめた”って言葉、心のどこに刺さった? 自分で自分に言ったとこ?」

「……わかんない」

「わかるはず。今の目、昔を見てる」


「ユキノ、ごめん。今は、ほんとに……」

「ねえ」ユキノは言葉を切らない。「小五の終わり、カズキくんが隣町へ行く前の日――その別れ、ここで話して」


 返却口の縁を、人差し指でなぞる。金属の冷たさが、指先だけを正気に戻す。


「……なんで」

「今日の“またやめるかも”に勝つ鍵、そこにある。私、変わってるって言われるけど、こういう計算はできる」


「……あの晩、段ボールに『ユニ』って書いてあってさ」

「うん」

「“前へ”って言った。言ったのに、心の中では“たぶん”って思ってた。――それで、前に進むのが怖くなった」

「その“たぶん”が、今日、戻ってきた」

「……かもな」


「続き、聞かせて。ちゃんと」

「……わかった。ゆっくりでいい?」

「ゆっくりで、正面で、腰低く。タカの得意な速度で」


 ユキノが小銭を落とす。ウィーン、ガコン。渡された缶は少しぬるい。ぬるさだけが、現実を正確に指す。プルタブを引くと、沈んだ音がして、炭酸の泡が喉の手前で止まった。


 自販機の蛍光灯が、俺たちの輪郭を細く縁取る。遠くでシャッターが下りる“ガラガラ”という音。風が、今日のグラウンドの白線の粉みたいな匂いを連れてくる。


 息を整えて、少しだけ空を見る。夕焼けの端っこが、缶の銀色に細く映った。

「――あの夜、カズキが置いていった言葉は……」


――つづく。

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恋と白線、長身くんは燃えていない らっく @luck1188

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