心臓が呼ぶ方へ

冷却クーラーの温度計が4℃を示しているのを確認した瞬間、胸の奥でわずかな安堵が揺れた。

だが──心はまったく落ち着かない。


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低温休眠。

この温度で心臓を保てる時間は、四〜六時間。

細胞損傷を最小限に抑えられる、唯一の方法だ。

だが目の前にあるのは、無数の手術を乗り越えてきた他人の臓器ではない。

自分の娘の心臓だ。

その事実が、医師としての理性の上に、容赦なく父親としての重さをのしかける。

脳裏を走るのは、幼い咲菊の笑顔。

眠る前、僕の手をぎゅっと握って離さなかった、小さな温もり。

──絶対に失わせない。

その思いだけが、今の僕を動かしている。

車が大学病院の救急入口を曲がると、胸の鼓動が一気に速まる。

ライトを浴びながら医療スタッフが駆け寄ってきた。

「心臓はここにある! すぐに手術室の準備を!」

叫ぶ声に反射するように、スタッフたちが動き出す。

その中心に、心臓外科主任の宮田が現れた。

「秋ノ宮先生、一体何が──」

「患者は僕の娘だ。緊急心肺再生手術を行う。心臓はまだ動いているが時間がない。

 心筋シートと細胞再生液は?」

「すでに準備完了しています!」

その答えに、胸がわずかに震えた。「よし……行くぞ」

手術着に袖を通し、キャップを被る。

深呼吸を一度、大きく。

父親を胸の奥に押し込み、医師だけを前面に出すために。


手術開始。

冷却クーラーから取り出した心臓は、低温で眠りながらも、かすかに生命を主張していた。

表面に広がる損傷は深く広い。

「心筋シート、準備。血管洗浄を開始する」

心臓を丁寧に洗い上げ、細胞増殖液を注入する。

だが──。

「先生、心拍が乱れています!」

モニターの波形が荒れ狂う。

「拒絶反応……!?」「心筋が不安定です!」

叫びが交錯する中、僕は迷わず指示を飛ばした。

「電流を流す。収縮を一度止めろ!」

ビクッと心臓が跳ね、室内の空気が凍る。

微調整を繰り返し、心筋シートの位置を整えると波形がようやく安定した。

しかし、次の難関がすぐに襲ってくる。


電気信号が届かない。

「信号が……反応しません!」

モニターは沈黙している。

「伝導路が……死んでいる?」

ルーペを覗き込むと、極小の断裂が浮かび上がった。

「見つけた……!」

補助伝導シートをピンセットで摘み、蜘蛛の糸を繋ぐように慎重に貼り付けていく。

緊張で汗が指先を濡らす。

「信号を送れ!」

波形が一瞬だけ震え、又すぐに平坦に戻った。

「……まだだ。諦めるな!」

「電流を上げろ。50ジュールだ!」

心臓が跳ね、再び波形が乱れ、不整脈が走る。

「心室細動です!」

「75ジュールで行く!」

強い電流が心筋を貫いた瞬間、モニターの線が乱れる。

そして──。

……トン。

 ……トン。

 ……トン。

心臓が規則正しい鼓動を刻み始めた。

「心拍……戻りました!」

悲鳴のような歓声が上がる。

僕の胸の奥で、長く張り詰めていた糸が、わずかにほどけた。


数時間後、再生した心臓は透明の生命維持ポッドに移された。

規則的な鼓動が、青い光の中で淡々と響く。

僕はその前に立ち尽くした。

娘の身体はもうない。

だが、この鼓動だけは、確かに生きている。

「咲菊……お前はまだここにいる。

 この鼓動が続く限り、お前は生きているんだ」

言葉に応えるように、心臓がひときわ強く打った。


「必ず、お前を元の姿に戻してみせる」

ポッドに映る自分の顔は、疲労と決意で泥のようだったが、

その瞳には確かな光が宿っていた。



【予告】


咲菊の心臓は生きていた。

だが、それは「救えた」という言葉とは程遠い。

父親としての絶望、医師としての冷徹な判断、その両方が胸を締めつける。

医学の常識も、確率も、奇跡も、頼りにはならない。

最後に残るのは——

折れない意志だけだった。


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鼓動の絆 NexaPulse ジュニ佳 @junik

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