AIが完璧な微笑みを生成した時、本物は誰にも見られなくなった。
クソプライベート
モナ・リザ
2042年10月1日。その日、レオナルド・ダ・ヴィンチ作『モナ・リザ』の市場価値は、ゼロになった。
きっかけは、一ヶ月前にリリースされた画像生成AI「MUSE」だった。
それは、単なる画像生成ツールではなかった。ユーザーの好み、性格、その日の気分まで読み取り、その人のためだけの「完璧なモナ・リザ」を無限に生成する、魔法のアプリだった。
「背景を火星にして、微笑みをもう少し大胆に」
「僕の飼い猫を抱かせてみて」
「今日の僕を励ましてくれるような、優しい顔で」
MUSEはあらゆる要求に応え、本物以上に魅力的な「私だけのモナ・リザ」を瞬時にスマホの画面に映し出した。人々は熱狂した。SNSは、何億もの新しいモナ・リザで溢れかえった。
ルーヴル美術館の老警備員、ジュリアン・デュポンは、その変化を肌で感じていた。彼はもう三十年、この場所で、防弾ガラスの向こうにいる彼女を見守り続けてきた。彼女の微笑みは、彼にとって世界の不動の中心だった。
だが、MUSEの登場以降、彼女の前にできる長い行列は、日に日に短くなっていった。人々は列に並んでいる間も、スマホの画面に映る“自分の”モナ・リザに夢中で、本物には一瞥もくれない者さえいた。
「だって、こっちのモナ・リザの方が、私だけを見て笑ってくれるもの」
ある少女がそう言うのを聞いて、ジュリアンは時代の終わりを感じた。
やがて、美術品市場からモナ・リザの価値は消えた。誰もが無料で、本物以上の感動をスマホで手に入れられるのだ。誰が数千億円もの価値を、一枚の古い絵に見出すだろうか。
保険会社は保険契約の更新を拒否した。そして、ついにルーヴル美術館は、歴史的な決定を下した。
『モナ・リザは、明日より、防弾ガラス及び特別警備を撤廃し、他のルネサンス絵画と同様の通常展示とします』
それが、彼女の価値が公式に失われた日だった。
翌朝。
ジュリアンが出勤すると、昨日まで厳重な警備体制が敷かれていたホールは、がらんとしていた。ロープも、防弾ガラスも、そして、彼女を見る人の姿も、どこにもない。ただ、壁にかけられた一枚の絵画があるだけだった。
彼はゆっくりと絵に近づいた。三十年間、いつも数メートル離れた場所からしか見られなかった彼女の元へ。
ガラスの反射がない彼女は、驚くほど生々しかった。絵の具のひび割れ、かすかな筆の跡。五百年という時間が、そこに確かに息づいていた。
人々が熱狂したMUSEのモナ・リザたちには、この時間も、この手触りもない。
閉館後、ジュリアンは一人、ホールに戻ってきた。誰もいない空間で、彼は初めて、何の障害もなく彼女と対面した。
彼はそっと、囁いた。
「やあ、ジョコンダ。やっと、二人きりになれたね」
世界が彼女の価値を忘れた日、彼は、誰にも邪魔されず、静かに彼女と向き合うという、最高の贅沢を手に入れたのだ。
その微笑みは、ジュリアンにとって、昨日までと何も変わらず、ただ静かに、そこにあった。
AIが完璧な微笑みを生成した時、本物は誰にも見られなくなった。 クソプライベート @1232INMN
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