夜伽篭りの夜
をはち
夜伽篭りの夜
道間家は、代々この小さな町の名士として君臨してきた。
古い家屋の裏手には、苔むした味噌蔵がひっそりと佇み、かつては家名を支えた財と権力の象徴だった。
だが、その蔵が今、町の誰もが避けて通る場所になるとは、誰も想像していなかった。
道間猛の二人の息子、清太と誠次は、まるで対極の存在だった。
清太は成績優秀で、医学部に進み、町の人々の誇りだった。
一方、誠次は地元の不良たちを従え、悪事を重ねる若者だった。
道間家の名声と金は、誠次の所業を水(みず)に流してきた。
だが、金があるほど、悪事の規模は膨らむ。
誠次はやがて、トルエンの売人から地域の流通元へと暗い階段を登り詰めていた。
誰も知らなかった。
道間家の味噌蔵に、トルエンがぎっしり詰まったドラム缶が隠されているなど、誰が想像できただろう。
夏の盛りのある日、東京から帰省した清太が、母と共に味噌を仕込んでいた。
蔵の中は、味噌の濃厚な香りに満ちていた。
揮発したトルエンが漏れ出し、蔵を満たしていたことなど、誰も気づかなかった。
その時、猛がタバコを手に蔵に近づいた。
次の瞬間、轟音と共に味噌蔵は炎に包まれた。
爆発は周辺を揺らし、蔵にいた者たちの命を一瞬で奪った。
唯一、猛だけが片腕を失いながら生き延びた。
清太も、母も、帰らぬ人となった。
事故は「ガス爆発」として処理された。
町の誰もが、道間家の悲劇に同情の目を向けたが、真相を知る者はごくわずかだった。
猛の弟、勇をはじめとする一部の親族だけが、誠次のトルエンに引火した事実を知らされていた。
誠次はその日を境に姿を消した。
だが、彼はただ逃げたのではなかった。実家を離れ、父との約束を胸に、誠次は改心していた。
兄と同じ医学の道を志し、医者になるまで故郷には戻らないと誓ったのだ。
猛の繰り返される優しい言葉が、誠次の心に刺さっていた。
誠次が医師国家試験に合格し、父に連絡を取った直後、電報が届いた。
猛が息を引き取ったという知らせだった。
誠次は急いで故郷へ戻った。
だが、親族の目は冷たかった。
「今さら帰ってきやがって。財産目当てだろう」と、誰もが彼を疑った。
特に叔父の勇は、誠次への怒りを抑えきれなかった。
この町には、古い風習が残っていた。
夜伽篭り(よどぎごもり)と呼ばれる儀式だ。
死者の棺に一晩寄り添い、故人の声を聞くというもの。
時に、故人が生前の秘密を囁き、聞き手の精神を蝕むこともあったという。
勇は、この風習を復活させ、誠次に父の「声」を聞かせる計画を立てた。
棺に潜むのは勇自身。
誠次を罵倒し、後悔と恐怖で追い詰め、改心させようという魂胆だった。
誠次は、夜伽篭りを拒むどころか、喜んで受け入れた。
親族は不審に思ったが、誰もが「財産目当ての芝居」と決めつけた。
夜の納屋は、闇に沈んでいた。
ロウソクの揺れる灯りが、粗末な木の壁に長い影を投げかける。
棺の前に座る誠次の顔は、どこか穏やかだった。
「親父、ごめんな。でも、約束は果たせそうだよ」と、彼は静かに呟いた。
その言葉を合図に、棺の中の勇が声を上げた。
「お前が死ねばよかった! 母さんも清太も、お前が殺したんだ! 金目当てで帰ってきたんだろう!」
罵詈雑言が、納屋の闇に響く。
誠次はただ黙って聞いていた。
「そんな風に思ってたなんて…親父、すまなかった」と、静かに呟いたきり、静かになった。
しばらくして、勇は棺から這い出した。
だが、その目に飛び込んできたのは、信じがたい光景だった。
誠次が、納屋の梁に縄をかけ、首を吊っていたのだ。
足元には、医師国家試験の合格証書が静かに揺れている。
ロウソクの灯りが、その紙を淡く照らしていた。
勇は凍りついた。
誠次の顔には、どこか安堵の表情が浮かんでいた。
まるで、父との約束を果たし、ようやく解放されたかのように。
その夜以来、道間家の納屋には、誰も近づかなくなった。
町の者たちは囁き合う。
夜伽篭りの夜、誠次が本当に父の声を聞いたのだと。
そして、その声が彼を闇の底へと引きずり込んだのだと。
だが、真実を知る者は誰もいない。
なぜなら、あれから勇は猛の声を耳にするのだとか
それ以来、彼は人としての精神を見失ってしまったそうだ。
夜伽篭りはこれを最後に村から消えた。
夜伽篭りの夜 をはち @kaginoo8
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