【短編】雨に溶ける

冬野ゆな

雨に溶ける

 雨の日に外へ出てはならないと言われるようになってから、どのくらい経っただろう。

 

 さぁさぁと寂しく雨が降る。窓を閉め切っているのに、微かに音だけがした。こんな日は、憂鬱になる。いつか外からその音が聞こえやしないかと。

 外からカチャッと小さな金属音が聞こえたとき、僕は肩を震わせた。手を止めて、顔をあげる。閉めきったカーテンを見る。その向こうに広がる景色は、灰色がかった古いカーテンが完全に隠していた。強すぎる日差しを遮断するにはちょうどいいが、今ばかりは、窓の向こう側に広がる寂寥とした景色を夢想してしまう。

 向こう側を見ずにいられれば。無視さえしていれば。さっきの音など気のせいだったと片付けてしまえれば。

 それでも、確かめずにいられなかった。

 おもむろに立ち上がる。からりと回る回転椅子。

 ほんの少し。ほんの少しだけ、カーテンの合わさった真ん中へと指を伸ばす。微かにカーテンを開ける。

 怖い物見たさのような。見てしまったら、後戻りできないと知っているのに。


 視線は、隙間へ。

 ちらりと覗いた先には何もなかった。借家の二階からの景色は、家の前の道路に雨が寂しく降りしきる様子を映していた。ほっとする。何も見えなかった。その油断が命取りだった。よせばいいのに、視線をずらす。ほんの少し移動した先に、傘がひとつ落ちていた。

 僕は勢いよくカーテンを閉めて、気づかなかったと言わんばかりに目を逸らした。


 まただ。また人が消えた。

 溶けて、消えたのだ。


 雨の日になると、人が消える。

 まるでするりと雨に溶けるように、傘を残して消えてしまうのだ。

 特に、孤独を抱えている人々が、雨の中に消えていった。

 最初は都市伝説の類だと思われたそれは、瞬く間に拡散した。

 なにが原因なのかわからない。解明されるのかどうかも、わからない。


 ただ、消えた人達は、孤独を抱えていた。

 消えた人達の共通点は、みな孤独だったこと。

 家族や親戚のいない人間、というだけではない。

 自分は独りであると、強い孤独感を抱えている人間が、消えていく。


 それが多くの人々に理解される頃になると、みな雨の中に消えるようになった。

 どこか浪漫に満ちたものに見えるのか、孤独を自称する思春期の子供たちが次々に雨の中へと入っていった。


 衝動的に飛び出して、溶けてしまう人々は圧倒的に増えた。孤独を自称してもしなくても、雨は孤独な人々を溶かす。それが当たり前になって、いつしか「雨の日は外へ出ないように」という公式なお達しが出た。

 それでも日常生活は続き、僕らは雨の中でも普段通りの日常を送っていた。


 だからその日――僕が駅前のカフェで雨宿りをしていたときのこと。

 全面ガラス張りのカフェは、窓際はカウンター席になっていた。みんな静まり返り、雨がやむのを待っていた。どことなく、ぎこちなくて気まずい雰囲気。カウンター席に座っていた僕は動けずにいた。

 視線の先には駅があり、入り口から出られなくなった人々が、雨がやむのを待っていた。アーケードの中に慌てて逃げ込んだ男が、ほっと安堵するのが見えた。

 その入り口の近くで、セーラー服の女生徒たちが笑い合っていた。ふざけて女子のひとりを雨の中に押す。慌てて戻る彼女の肩を押し、再び雨の中へと送り出す。屋根に戻ろうとする彼女の前に立ち塞がり、彼女が雨から戻れずにいるのを笑っていた。ただの可愛いふざけあいか。

 見かねた誰かが女子生徒たちに向かっていく。怒る必要は無いのに。

 

「あっ」


 瞬間、誰かが声をあげた。

 セーラー服を着た女子生徒は、唐突に踵を返して雨の中に駆け出した。

 茶色いローファーが水たまりをはねあげて、カバンを投げ捨てた。どこまでもスローに、でも一瞬のできごとだった。カフェの窓際は映画のスクリーンと化した。彼女が腕を大きく振って雨を受け入れると同時に、膝が折れた。地面に座り込んだ彼女に雨が落ちる。


 ――雨に溶けていく様は、時に、美しく絶えたいとねがう心を虜にした。自らその身体を雨に晒し、その身を溶かして消えていく。そしてまたひとり。


 相貌は茫洋として、セーラー服の濃い色がとろりと滲んだ。

 僕も含めて、誰も彼もが、息を呑むのも忘れていた。

 絵空事のような、幻想的で甘美な時間があった。一瞬の永遠のような煌めきがそこにあった。

 はたと気づいたときには雨に溶けていた。

 あとに残されたのは、彼女が雨に溶けたという事実のみ。 

 悲鳴は遠い残響のようで、ほとんどの時間は凍り付いていた。


 雨がやんだ道を、家に向かって歩く。

 誰もいない家が孤独だというのなら、僕だって孤独でとっくに消えているはずだ。二階建ての家は静かで、誰も迎えにもこない。だけど僕は孤独ではない。社会と関係を持っているし、まだ親も生きている。

 苛立ちながら廊下を歩くと、通販で届いた荷物の段ボールに、足を引っかけそうになった。睨み付ける。こういうものを片付ける担当がいなくなったからだ。

 僕は誰も入っていない仏壇を見た。

 骨のひとつとして残らなかった仏壇には、妻と息子の写真だけが当時のままでいる。息子が生まれた直後に、病室で撮った写真だ。妻は「いやだ、こんな顔で」と嫌がったが、僕が撮りたかったのだ。それ以外になにもない。

 葬儀スタッフに「お写真はこれだけですか」と言われたとき、僕は危うく殴りかかるところだった。まるでお前は父親失格だと言われたみたいで。

 

 妻と息子は、庭で傘と洗濯物を残して消えていた。

 家の中は、子供の玩具と、昼飯の準備が進められた状態で消えていた。

 洗濯物を急いで取り込もうとして、雨に溶けてしまったのだ。


 二歳の息子の方は定かではない。一緒に外へ連れていったのか。妻の後を追って外へ出たのか。せめて息子だけでも助かれば良かった。

 あれから家の中は荒れ放題だ。片付ける奴がいないのだから、仕方ない。


 伸びきったシャツを適当に洗濯機の近くに置いておく。

 溜まったら動かせばいいと思って積み上げていたら、洗濯機からいつの間にか溢れてしまったのだ。いつか……いつか片付けないといけない。面倒臭い。

 外から、パパ待って、と子供の声が聞こえてきた。きゃあきゃあと笑い声がする。

 僕は思いきり窓を閉めた。耳障りだ。なにもかも。みんな、みんな雨の中に消えればいい。

 僕は孤独ではない。

 

 孤独。バカらしい。

 孤独だなんて。

 溶けたいやつは、さっさと溶けてしまえばいいのだ。


 外は雨がまだ降り始めた。

 傘を手に、外へ出る。

 誰も片付けない家から、逃げるように。

 ざあざあと雨の音が、耳障りなほどに響く。


 頭の片隅で、妻が雨の中、顔をあげる姿を夢想する。さしたはずの傘を不意に落とし、雨の中に両手を広げて、その身を雨の中に溶かしていく様を。

 僕という夫がいながら、何が孤独だったのか。

 わからない。理解できない。 

 でも、僕は孤独ではない。

 その言葉を、自分に何度も言い聞かせる。


 でも、もし――もしここで傘を落としたらどうなるのだろう。

 僕は空を見上げた。

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