一位の作法

クソプライベート

粉ミルクと秒針

産声が出る前に、コーチ(母)がメトロノームを置いた。

 120bpm。産科の照明がテンポよく明滅する。

 「はい、吸って——はい、泣いて。フォーム良し」

 僕は生後三秒で呼吸筋トレの正しいテンポを身につけ、粉ミルクのボトルを“等間隔片手持ちリフト”で飲んだ。ベビーベッド脇の白いタオルには「二位禁止」と刺繍。紙コップの水は、いつでも半分だけ満ちていた。無駄を見せないためだ。




 物心がつく頃には、僕の一日は種目の寄せ鍋だった。

 朝は幅跳びで玄関マットを越え、登校は競歩、授業中は射撃の呼吸、給食は早食いではなく「噛む世界選手権」の公式回数。放課後はフェンシング→体操→相撲→チェス→ブレイキン→スプーン曲げ(世界大会があると聞いた)。

 すべての競技には理論があった。角度、速度、休息、そして……テンポ。

 メトロノームはいつも120。紙コップは半分。白いタオルで汗と無駄を拭く。三つの儀式は、僕の合図だ。


 やがて僕は、オリンピックと世界大会の全種目で一位を取り続けるようになった。

 マラソンの表彰台からダイビング台へ飛び込んで一位を取り、そこからカヤックに乗り換えて一位を取り、ゴールのついでに将棋の寄せを決めて一位を取る。大会スタッフは移動導線を最短化し、僕の紙コップが常に半分だけ満ちるよう補給班が走った。

 「全部で何種目あるの?」

 記者に聞かれ、僕は答えた。

 「競技が産まれるたび増えます。今日も増える予定です」

 「なぜわかる?」

 「メトロノームが早送りを要求している」


 決勝の朝、スタジアムがざわめいた。

 トラックが——動いた。

 「おい、床が逆走してるぞ!」

 主催者が発表した。「新設:逆回り陸上。公平性のため世界標準へ」

 観客席から笑いが起きる。僕は紙コップを半分だけ飲み、白いタオルで額を拭いた。メトロノームは120。

 ピストル。

 スタートしたのは僕ではなく、トラックの方だった。ゴールテープが僕に向かって走ってくる。物理が、競技者を迎えに来た。

 ——中盤ツイスト。

 それでも僕は一位だった。僕は「動く床に対する静止最短経路」の理論で、わずかに傾いた姿勢を作り、トラックの逆走エネルギーを足首で整流した。

 「走ってないのに速い!」

 「走らない速さも競技です」

 馬鹿っぽい会話に、スタジアムが笑う。


 同日、50m自由形の決勝。

 「プールが前に進んでる!」

 新設:自走式水泳。水が泳者を泳がせる。

 僕は流体の速度勾配を読んで、指先を“止める”。止めると進む。逆説のフォーム。

 紙コップは半分。白いタオルはきれい。メトロノームは120。

 「ねえ、それ全部、だれが決めた理論なの?」

 コーチ(母)がスタンドから小さく言う。

 「あなたよ」

 僕は笑ってうなずいた。理論は、母の子守歌の延長だった。


 夜、閉会式。僕はいつもの三点セットを足元に置いた。

 ——ここから、終盤ツイスト。

 司会者が新競技の追加を読み上げる。「応援設計世界選手権」

 会場が「は?」となる。説明によると、競技者は“観客が最も気持ちよく一位を祝える拍手と間(ま)”をデザインし、その総幸福量を競う。

 僕は胸ポケットのメトロノームを取り出した。120を……118に落とす。

 会場がすっと静かになる。

 僕は紙コップを半分だけ飲み、白いタオルでマイクを拭いた。

 「一位を取り続けると、誰かの一位を奪う日が来ます。だから僕は、拍手のテンポを標準化して、いつでも『あなたが一位の時はあなたが主役』にしたい」

 「つまり?」

 「僕の本当の種目は、“他人の一位を最短で美しく祝わせる”ことでした」


 僕は手拍子を提案した。

 パン、(0.42秒)パン、(0.84秒)パンパン。

 120ではない。人が自然に笑う間合いに調整した。観客の手のひらが波のようにそろう。選手村の食堂スタッフも、警備員も、ボランティアも、みんな同じテンポで笑った。

 会場の幸福量は跳ね上がり、審判の計器が振り切れる。

 「優勝——一位!」

 僕は深く礼をした。これで、応援設計でも一位。

 全種目一位、更新。


 表彰台の上で、メトロノームは静かになった。

 コーチ(母)が近づいてくる。

「紙コップ、半分残ってるわよ」

「うん。残り半分は、君たちの番のためにとってある」

 僕は白いタオルを客席へ投げた。誰かの汗を拭くために。


 記者が最後に聞く。

 「生涯すべての種目で一位を取り続けて、何を証明した?」

 「理論の目的は勝つことじゃない。勝ち方の“間”をそろえることだよ」

 観客が笑い、拍手が、提案どおりのテンポで鳴る。

 馬鹿っぽくて、少しだけ賢い音だった。

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