短編小説|心に蓋をする前に

Popon

冒頭

ある楽曲をもとに広がった物語。

旋律に導かれるように、ページをめくるたび新しい景色が立ち上がる――それが「香味文学」です。



***



朝になると、まず僕の仕事がある。彼女を起こすことだ。アラームが鳴り響くなか、僕は優しく髪を撫でた。


布団に顔をうずめて、「あと十分……あと五分……」と寝返りを打つ。その繰り返しだ。結局のところ、僕が動かないと起きない。


毎朝寝ぼけ声を聞くのは、儀式のようなものだった。うんざりするようで、ないと物足りない。これも僕の生活の一部だ。


ようやく彼女が上体を起こし、洗面所へ向かう。ドライヤーの音が狭い部屋に響く。「なんでもっと早く起こしてくれなかったのよー」そんな文句を言いながら化粧を整え、慌ただしく服を選んで着替える。僕は冷めた目でその様子をただ見ているだけで何も言わない。言わない方がうまくいくことを知っているから。


「いってくるね!」


そう言って、彼女は玄関を出る前に僕に頬を寄せる。柔らかい匂いが残り、ドアが閉まる音とともに静寂が訪れる。


ここからが僕の時間だ。


窓辺に座り、外の景色を眺める。目の前には住宅街の道路が走り、その向こうに線路が見える。


――なんとか今日は間に合った。


新幹線が白い閃光のように駆け抜けていく。


一日の過ごし方は決まっている。ベッドに横になったり、部屋の隅に置かれた雑誌を気まぐれにめくったり、台所の昨晩彼女が残した食事に手を付けたりする。大層なことは何もない。退屈といえば退屈だが、衣食住に困らない暮らしがどれほど贅沢であるかを僕は知っている。


同じことを繰り返すのは、ぬるま湯の中に浸かっているような心地よさがある。だからこそ、そこに余計な波紋が立つのを嫌うのだ。







玄関の鍵が回る音に気づき、僕は立ち上がった。扉が開いた瞬間、彼女の姿を迎える位置に立つ。


こういった日々の気遣いは、女性が最も大事にしていることだ。この積み重ねが関係悪化を防ぐ一つのコツであると僕は知っている。


「ただいまー……はぁ、疲れた」彼女はバッグをソファに投げ出し、コートを乱暴にハンガーへ掛ける。


「今日またあの新人がやらかしてさ。お客さんの予約を全部かぶせちゃって、結局私が調整するはめになったの。ほんとありえない」言葉は途切れることなく溢れ出す。僕は視線を合わせることもなく、せわしない彼女の様子をただ追っている。


僕の役割は、このリビングにあるセンサーライトのようなものだ。彼女が近づけばあわてて灯り、辺りを一定時間ほんの僅かに明るくする。それ以上でも、それ以下でもない。


「はぁ……もう、なんか食べてくればよかったな」彼女はキッチンに向かい、冷蔵庫を開けてため息をつく。「でも勝手に寄り道なんでしたら、また不機嫌な顔されるよね!」そう言って戻ってきた彼女は、僕に顔をすり寄せる。僕は黙って受け入れる。


その後も彼女の愚痴は続いた。仕事のこと、店のこと、思い出したようにまた新人のこと。彼女が眠りに落ちるまで、僕は何も言わずに隣にいた。


昼下がりの部屋は、外のざわめきと切り離されたように静かだった。時計の針の音がやけに大きく聞こえる。







窓際に移動し、観葉植物の葉にそっと触れて外へ視線をやる。住宅街を走る車、たまに遠くを駆け抜ける白い車体。それらが過ぎ去れば、再び静寂が戻る。



***



※この作品は冒頭部分のみを掲載しています。

続きはnoteにて公開中です。

👉 noteで続きを読む:https://note.com/poponfurukata/n/n51f955de4020

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