湖の乙女は泣くのが仕事
優夢
とぷん。
彼女は湖底にいた。
水面がきらきらと陽光を反射する。まるで光が躍っているよう。
湖面は少し光を吸い込むけれど、湖底までは届かない。
彼女は見上げ、手を伸ばした。
触れられない輝きを、そっと握ってみる。水がてのひらで揺れて、なにもつかめない。
とても遠くて、きれいなもの。
たとえ近づいても、さわれないもの。
ぽろぽろ。ぽろぽろ。
彼女は泣いた。
輝きが遠くて、自分の周囲はまっくらで、悲しくて泣いた。
それでいい。
それが彼女の仕事。
泣くことが彼女の存在意義。
湖面が赤みを帯び始める。
湖底からは、鮮やかな赤色の膜が水を覆っていくように見えた。
ベールのようだと思った。纏ってみたかった。
手を伸ばす。届かない。
急に、赤が色を変えた。紫がかったかと思うと、一気に闇になる。
木々の合間に漏れていた夕日が、湖まで届かなくなったのだ。
ぽろぽろ。ぽろぽろ。
彼女は泣いた。
赤い衣を纏えなくて、あっという間に消えてしまって、悲しくて泣いた。
それでいい。
それが彼女の仕事。
彼女は泣いていなければならない。
外の世界を想う。
彼女は外を知らない。
見上げる湖面だけでこんなに美しいのだから、外はもっときれいに違いない。
色がたくさんあるのだろうか。
ものがたくさんあるのだろうか。
外は、水ではなく風が周囲を包むのだという。
水のない世界?
彼女は少し不安になった。
そんなところで、息ができるの?
やっぱり、ここでいい。
慣れ親しんだ湖底でいい。
彼女は座り込んだ。
ふわふわの水草が、彼女をそっと受け止める。
青みがかってやんわり緑色に広がる湖底。
上はあんなにきらきらで透明なのに。
ここは、どうして靄のように薄く濁っているのだろう。
もしかしたら、外に近づいたら、水は宝石に変わるのだろうか。
ぽろぽろ。ぽろぽろ。
彼女は泣いた。
宝石になれない周囲の水が切なくて、悲しくて泣いた。
それでいい。
それが彼女の仕事。
彼女はここで、いつまでも悲哀に暮れるものだから。
どぼん!
その日は、湖面は灰色だった。きっと外は薄曇り。
光のダンスが見えなくてまた泣こうと思っていた彼女は、大きな音に驚いた。
ぶくぶくぶく。
空気の泡が湧きあがり、水が大きく揺れる。
彼女は、湖底までくる衝撃に水草を掴んで耐えた。
流されずに踏ん張ってから、泡に包まれたものを確認した。
にんげんだった。
ああ。
外にいるものだ。
周囲の泡はほとんど消えて、にんげんのまわりは水ばかり。
彼女は知っている。にんげんは、彼女と違う。
周囲に風がないと呼吸ができない。水を飲むと死んでしまう。
どうして呼吸ができないか、彼女にはわからない。
水を飲んでも平気な彼女には、水と相反するという本質がわからない。
ただ、経験から知っている。
人間が死ぬと、水がきたなくなる。
だめ。
にんげん、生きて。
どうしてこっちにきたの。
にんげんは、水じゃなくて風がいいのでしょう。
ここを汚さないで。こっちにこないで。
彼女はにんげんに手を伸ばした。
つかめた。
彼女は驚いた。
今まで、彼女はにんげんに触れることはなかったから。
いつも放っておいていた。
不快ではあるけれど、水の濁りは、時とともに自然ときれいになる。
今日はたまたま、濁るのが嫌だと強く思っただけ。
にんげんはやわからくて、あたたかかった。
とてもあたたかい。
手に吸い付くような、心地いいやわらかさ。
にんげんの腕を引っ張る。にんげんはゆらゆらした。目を閉じたままだ。
こんなにあたたかいなら、まだ生きているはず。
外に出せば、水はきたなくならない。
彼女は不安になった。
どこまで上に行ける?
上にいってはいけなかった。湖面に近づいてはいけなかった。
でも、なんとかしなければ。
放っておいたら、まわりが見えなくなって、くさくて、気持ち悪くなる。
にんげんの腕を引く。ぐいぐい引いて上にあがる。
灰色の湖面が、端からさあっと光に包まれた。太陽が出たみたい。
彼女はぎりぎりまで、すれすれまで、水と風の境目に近づいた。
これ以上は、こわい。
彼女は岸辺に寄った。寄りすぎると岩に体を打ってしまう。
気をつけて寄った。
にんげんを、思いっきり外に放り投げた。
ざばん。
光が宝石になって、水の中も外も、ぱらぱら散った。
とてもきれいだった。
宝石の水は一瞬でなくなった。彼女は手を伸ばしてつかもうとしたが、その前に消えた。
きらり。
彼女の指先に、なにかが絡まっていた。
水草かと思ったが、違った。
金色の糸だった。
彼女は歓喜した。
なんてきれいなの!
これは光の糸だ。決して触れられなかった光を、つかまえた!
ぽろぽろ。ぽろぽろ。
彼女は泣いた。
はじめて手にした光の欠片を抱きしめて、嬉しくて泣いた。
嬉しくてたくさん泣きながら、湖底に戻った。
「げほっ、げほっ、……かはっ!
はあ、はあっ、はあ……。
今、俺は……。幻を見たのか?」
足を滑らせ、湖に落ちた旅人は、なぜ自分が助かったのかわからずにいた。
もがいても水面にあがれず、意識が遠のいた時、息を呑むほど美しい乙女が手を掴んだ。
そして自分を引き上げてくれたのだ。
「俺を助けてくれたのか」
旅人は泣いた。感謝に泣いた。
湖の乙女が、慈悲と優しさで自分を救ってくれたこと、その奇跡に泣いた。
濡れた彼の金髪が、太陽に照らされてきらきら輝いていた。
湖の魚たちはささやく。
だめだよ、にんげん。
それは勘違い。
彼女に魅入られてはいけないよ。
どんなに恋焦がれても、彼女はきみのこと、迷惑としか思っていない。
湖の魚たちはささやく。
どうしてもというのなら。
それでもいいよ、にんげん。
彼女に恋焦がれ魅入られたというのなら、いつかきみは、
僕たちのごはんになるだけさ。
彼女の名は「水産み」。
ここにいて、泣くことで水を絶やさず守る、永遠の湖底の乙女。
湖の乙女は泣くのが仕事 優夢 @yurayurahituji
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