河川敷(カクコン11短編用)
いもたると
第1話
「帰りに備蓄米買ってくるから」
妻の明子は、そう言って仕事に出かけようとした。
「買えるかな」
と、私は他人事みたいにぼんやり言った。
日本を駄目にすること以外は消極的な政府がようやく重い腰を上げて、市場に出回るようになった備蓄米だが、大手スーパーでは開店前から行列ができ、すぐに売り切れてしまうとのことだった。
普段ニュースを見ない私だが、そのくらいのことは知っていた。
明子は、
「コンビニにも小さい袋が並ぶようになったんだって」
と、まるで小さな子供に説明するかのように言った。
「買えるといいね」
と私は言ったが、明子はそのまま出て行こうとしたので、
「気をつけて」
と、私は慌てて彼女の後ろ姿に向かって言った。
玄関のドアが閉まりかけて、二人暮らしの小さな家にぽっかりとした静寂が訪れるかと思いきや、またドアが大きく開いて、明子の半身が現れた。
「あなたは?」
「何?」
「今日の予定」
「あれ、まだ言ってなかったかな」
私は今日これからの私の行動予定を説明したが、聞いた割に明子はあまり興味がなさそうだった。
代わりに彼女の視線は、一定時間、部屋の押し入れの襖に注がれていた。
それから、ため息でもつくように外を向いた。
それきり、明子はバタンと扉を閉めて出ていった。
私は慌てて、
「暑いから気をつけて」
と言ったが、聞いていたのは扉だけだった。
私はしばらく期待してそのままぼんやり扉を眺めていた。もしかしたら何か忘れ物でもあって、また明子が顔を出すかもしれないと思ったのだ。でも、今度は扉が開くことはなかった。
明子の顔はしばらく見えないのだな、と思い、少しがっかりしている自分に気づいた。
彼女は美人だった。
すでに齢50の峠が、すぐそこまで迫ってきている。
年相応の疲れと諦念は隠すべくもなかったが、明子はまだ美人だと言えた。
ふと、私は彼女の顔が好きなんだろうか、と思った。
タイプ云々、ということを言えば、明子は私のタイプではなかった。
彼女は私が学生時代に恋心を抱いた、どんな女の子とも違っていた。
二人は同い年であったが、もし学校の同級生にいても、私は明子に恋をするということはなかったであろう。
それどころか、お互いに一言も言葉を交わすことなく、卒業していたに違いない。
それが、いろんな偶然とタイミングが重なり、我々は結婚することになったのだ。
結婚してから、もう10年を超える月日が経っている。
それなのに、今さら明子の顔が云々などということを考えている自分に嫌悪感を覚えた。
なんだかちっとも歳を取っていないみたいだった。
肉体的にはしっかり歳を取っているのに、精神年齢はまだ高校生のときのままのような気がした。
そのことが、今の状況を招いているのだ、という思いが、心のどこかにあった。
私は、ふう、と一つ大きく息を吐き出し、彼女の視線がしばらく留まっていた先に目を移した。
押し入れの襖を開けたところには、かつての私の仕事道具がしまってあった。
絵を描くときに使う道具だった。
もう、長い間、しまわれたままだった。
私はそこから目を背けるようにして、塩飴をポケットにねじ込んで家を出た。
歩いて駅に向かっている途中、私は瞼の裏に残像のように残っている、明子の顔を何度も思い浮かべた。
押し入れの奥にしまわれたままの絵画道具と、歳を重ね容色が衰えていく明子の顔が、交互に脳裏に浮かんでは消えた。
そのうちに最寄駅に着き、そこから電車に乗った。
車内は冷房が効いていたが、そこそこ混み合っていて、暑苦しさを感じた。
車内を見て、外国人が増えたなあ、と思った。
彼らは訳のわからない言葉をずっと喋っていて、それが電車の騒音に負けずに、私の耳にも入ってきた。
みんな私より成功しているように見えるのが癪だった。
どうしてずっと日本にいるこの私よりも、彼らの方がうまくやっているのだろう?
処理しきれない問題から目を背けるように、私は塩飴を一つ口に放り込んだ。
しばらくして、電車は目的地の駅に到着した。
車両を降りると、すぐに強烈な熱気に包まれた。
この駅では大勢の人が降りる日と、そうでない日がある。今日は大勢人が降りる日の方だった。
駅を出て進む方向は、途中まではその人たちと同じであった。とある分岐点の角で、人波は二つに分かれるのだ。
幸せな人と不幸せな人とを分ける角。
私はその角のことをそう呼んでいた。
私が曲がるのは、不幸せな方だった。
通りを歩いていると、選挙が近いのか、ゆっくり選挙カーが走っていた。
聞いたことのない政党の候補者で、拡声器で同じ言葉を繰り返しながら、私たちとは反対の方向へと走り去っていった。
なんの選挙だろう、と私は思った。
周りの人たちを見て、この人たちはそれを知っているのだろうか、と思った。
私だけが知らない、という可能性は十分にあった。
そのうちに例の角に来て、私は人の少ない方へ曲がった。
はたして向こう側に曲がった人たちは、本当に幸せなのだろうか、と思った。
改めて考えてみると、そうとは言えないような気がした。
本当に幸せな人は、こんなところで駅を降りたりはしないのだ。
政治の正解はわからないが、それが答えであることは間違いないような気がした。
ハローワークに着いた私を、生ぬるい冷気が出迎えてくれた。
私はいつもここに来ると気分が悪くなった。
なんだか自分が、100メートルもある壁を這いあがろうとしているナメクジになったような気分になる。
焦ったさと後ろめたさが交互にやってきた。
私は間違った方向に進もうとしているんじゃないだろうか。
私が進むべき道は、目の前の壁じゃないところにある。
そんな気になるのだが、ではどこにそんな道があるのか、探しても見つからなかった。
目の前の100メートルの壁以外に、行ける道はないような気がした。
でも、苦労して100メートル登り切った先には、塩が待っているかもしれないのだ。
いや、私はそれ以前に壁を登り切れないのではなかろうか?
しばらくの間、パソコンを使って求人を検索した。
いや、検索しているフリをした。
また後ろめたさが、今度は別の後ろめたさがやってきた。
驚くべきことに、後ろめたさにも種類があるのだ。
まあ、いいさ、と思うことにした。
熱中症にかかるよりはマシだろう。
私はそのまま昼近くになるまでそこにいた。
昼前に、ハローワークを後にした。
昼食を取るためだ。
失業中なのだから、家から持ってきたおにぎりでも頬張ればいいのだが、ハローワークには弁当を使えるようなところはない。
そもそもここは弁当持参で一日過ごすようなところではないのだ。
どの人も滞在時間は短い。
人生のうちの束の間の時間のみ立ち寄り、また次の場所へ出掛けていく。そういった場所なのだ。
ハローワークに通うようになってから、昼食を取る場所はいつも決めていた。
さっき曲がった角を反対に曲がり、目的地に向かう。
ちっとも幸せな気分にはなれないな、と思った。
それでも、私はいつもそこに行くことにしていた。
それはそこが大変魅力的な場所だから、というのではなく、私のようなおじさんが、昼日中にフラフラと街を歩いていると、それだけで怪しまれるからだった。
全くおかしな世の中だが、どの候補者もそれを黙認しているようなので、世間には期待すべくもない。
だから、この一級河川に面した競艇場には、いつも根無草のような中高年の男性が集まっているのだ。
「やあ、石部さん」
食堂で安いラーメンを食べていると、声をかけられた。
ついでにもう一杯のラーメンと、ビール瓶がテーブルに置かれた。
「滝村さん」
と、私は顔を上げて声の主を見た。
彼はそのまま私の向かい合わせに座った。
「今日は、あれ?」
「少しですけどねえ」
と、滝村さんは、毛むくじゃらの顔をくしゃっとさせて笑顔を作った。
滝村さんとは、ここの競艇場で知り合った人だった。
彼は私より一回りほど年上なだけだが、一度もまともな会社に就職したことはなく、今は親が残した遺産で生活をしていた。
独身で近くに身寄りもなく、彼もまた、私と同じような理由で、こんな場所にいた。
いつも時間を潰すためだけの賭けをし、ささやかだが勝ったときには、ビールを奢ってくれるのであった。
「ま、一杯」
「ありがとうございます」
トクトクとコップ一杯のビールが注がれ、私は精一杯、恐縮しているようにみせようとした。
自分の浅ましさを重々承知しつつ、それを3口ほどで飲み干す。
「今日は大穴でしたよ」
「へえ、そりゃすごい」
我々はひとしきり世間話のようなものをした。
人付き合いのあまり良くない私だが、滝村さんに対しては、心を開くことができた。
それはおそらく彼が、この社会からドロップアウトしたところにいる人であるからであった。
「石部さんは、今日もあそこ?」
「ええ、午前中に行ってきたところです」
「守備はどうでした?」
「相変わらずです」
私は苦笑いをするふりをして、滝村さんが注いでくれた、新しいビールに口をつけた。
「ちょっと考えてみたんですよ」と滝村さんは言った。「私は一生のうちにどれだけのビールを飲んだことになるのだろうってね」
「はあ」
「石部さんは、牛は食べますか?」
「ええ、もちろん。でも鶏や豚の方が多いですね。高いもんですから」
「どうでしょう?今まで食べた牛肉を換算すると、牛何頭ぐらいになると思われますか?」
変わった問いだな、と思った。
「うーん、そう大したものにはならないでしょうね。まだ一頭行ってないんじゃないでしょうか?子供の頃はほとんど食べたことありませんでしたし」
「私もですよ。ウチはケチが着物を着たような家庭だったから。肉といえば、あの、お弁当に入れるようなハンバーグが売ってるでしょう」
「ええ」
「あれぐらいしか食わなかったんです、肉なんて。あとは赤いウインナー」
「ああ」
「だからね、本当、まだ一頭行ってないんじゃないでしょうか。でも、ビールはきっと、10頭ぐらい飲んでるんじゃないかな。牛に換算すると」
牛に換算する、というのは新しい視点だった。
私はそれが具体的にどのくらいの分量になるのか、測りかねた。
こう言う場合、普通は何に例えるものだろう?ふと、東京ドーム何杯分というスケールを思い浮かべたが、その方が分かりにくいと思った。
あの、東京ドーム何杯分、というのは、一体誰に対して言っているのだろう。
その後、我々は取り止めもなく話をしたり、ぼんやりとレースを眺めたりして、午後の時間を潰した。
レースを見るのにも飽きてしまうと、売店で缶ビールを買って競艇場を出た。
日差しはまだ盛んであったが、他にやることもなく、ぼちぼちと河川敷を歩いていった。
しばらく歩くと、野球場が見える場所まできた。ここの河川敷には、プロ野球の球団の二軍のグラウンドがあるのだ。
私は練習風景が見えないかと思ったが、流石にこの時間に外で練習している選手はいなかった。
我々は木陰を選んで芝生に座ると、持ってきた缶ビールを開けた。
「なんかこういう風景を見ると、落ち着きますね」
と、私は野球場を眺めながら、永遠に対して言うように言った。
「本当です。でも、ここももうすぐ引っ越しちまうみたいですよ」
と、滝村さんは言った。
「え、そうなんですか。どこに?」
「なんでも、茨城の方に立派な施設を作ってるんだそうです」
「立派な施設、ですか……」
私はがっかりして、目を落とした。
足元の芝生では、アリたちの解体作業が行われていた。
体が半分になったバッタが、カラカラに乾いていた。
私はビールをゴクゴク喉に流し込んだ。もうぬるくなっていた。
「また一つ、昭和が消えますよ」と滝村さんは遠くを見ながら言った。「昔は良かったですよ。私はこっちに来る前、子供の頃は、多摩川べりに家があったんです。よく河川敷に行っては、野球の練習を眺めたものですよ。あの頃はよかったなあ。巨人も日本ハムも、河川敷だったんです」
「最後に残った聖地が消えますね」
「みんな立派になっていきますね」
「みんな立派なのがいいんですかね?」
私は中途半端に、指でビールの缶を凹ませた。まるで子供が拗ねているみたいだな、と思った。
「ねえ、滝村さん」
と、私はおもむろに話題を変えた。
「過ぎちゃいましたね、7月5日」
「ああ、そういえばそんなこともありましたね。私も過ぎてから気づきました。あれ、なんだもう過ぎてるじゃないかって」
「どう思われました?」
「うーん、また風俗に行けるぞ、ってぐらいですかね」
風俗通いが、滝村さんの唯一の趣味と言って良かった。
「石部さんは行ったことないんでしたっけ?」
「ええ、女性経験は妻だけです」
「奥さんか。羨ましいなあ」
「若い頃に行っておけば良かったかな、なんて思いますよ。あいつと出会う前、月給取りだった頃に」
私は遠い記憶を思い出していた。
「石部さんには、奥さんがいらっしゃって、サラリーマンの経験がお有りになる。どちらも私にはないものです。風俗なんか経験しなくてもいいですよ」
と、滝村さんは自嘲的だかなんだか分からない調子だった。
「いえ、ブラック企業ですよ。就職氷河期でね。せっかく就職できたと思っても、こんなところで働くくらいなら、できない方が良かったかな、と今になって思います。あのとき身を粉にして働いた経験は、その後なんの役にも立っていません。でも、当時はそんなこと考えませんでした。こんなところでも、職があるだけマシだ、なんて本気で思っていたんですから」
私は喋り過ぎたかな、なんて思いもしたが、もうどうでもいいや、という感じがしたので、続けることにした。
「私は、期待してたんですよ」
「何を?」
と、少し間を置いてから返事があった。
「今でも鮮明に覚えています。1999年の7月31日のことでした。処理しても処理しても終わらない書類の山に囲まれて、13階の会社の窓から東京の夜空を眺めていました。時計の針はもうじき深夜を回るところでした。どうすんだ、もう7月が終わっちゃうぞ、と。世界が滅亡しないまま、8月になっちゃうぞ、と。ノストラダムスの予言が、当時の私の唯一の希望だったんです」
「それはそれは」
「この世界が滅亡してくれと、私は真剣に期待していたんです」
「1999年か。そのとき私はどうしていたかなあ」
滝村さんは、遠くの空を眺めた。
「ああ、そうそう、思い出した。ストリップ通いをしていた頃です。ああ言うところに行くとね、もう、まるで魚の死んだような目をした人がいるんです。お客さんの中に。ここにしか希望を見出せなくなったような人たちが。何人もいるんです。いつもいるんですよ。いつ行っても、かぶりつきの一番いい席に陣取っているんです。最初、この人たちは、仕事何してるのかな、とか、お金どうしてるのかな、とか思いましたけど、すぐに考えるのをやめました。それよりも、なんだか世の中捨てたもんじゃないなあ、と思いましたよ。なぜか。この人たちがいるうちは、世界が滅亡することはないな、なんて思ったりしました」
「滝村さんは、世界が滅亡してしまえばいいのに、って考えたことないですか?」
「どうでしたかねえ?それって一種の希望ではないでしょうか」
「希望?」
「ええ。何かを願うのは希望でしょう。たとえそれが世界が滅びてほしい、という願いだったとしても」
「希望、ですかね……?」
滝村さんは、顔をこちらに向けて言った。
「そういうことを考えるのは、案外、まともなことかもしれません」
「そうでしょうか」
滝村さんは、また顔を空に戻した。
「私は、そういったことすら考えられなくなっていたと思います。前に話したと思いますけど、ウチの親は毒親で。両親だけじゃなくて、祖父母も、兄も姉も毒でした。何もかも、彼らに指示されていました。私の人生のことは全部彼らが決めてしまっていたんです。将来のことはもちろんのこと、服装や持ち物から、誰と友達になるかまで、全部です。そればかりではなく、恋愛のこともそうなんです。あれは小学校に入ったばかりのことでした。近所に少しかわいい女の子がいたんです。だからといって、その頃はまだなんとも思っちゃいません。異性を意識するなんてことはありませんでした。でも、急に母親に言われたんです。あなたはあの子を好きになりなさいって。急に何を言い出すんだろう、この人はって、今ならそう思いますけど、当時はただ、よく分かりませんでしたよ。でも、その日からその子のことを急に意識するようになってしまって。それまでなんとも思っていなかったし、普通に接していたのが、急にダメになってしまったんです。もう、その子の声が聞こえただけでダメなんです。顔が真っ赤になってしまうんです」
「どうなったんですか、その後?」
「どうにもなりゃしません。ただその子とまともに話せないし、顔も見れない、それだけです。母親とも、その後そんな話はしませんでしたし、母親自身、自分が言ったことを忘れていたんだと思います」
「そうなんですか」
「でもそのときの体験は、その後の私の心に大きな影響を与えました。しばらくは、ずっとその子を意識していました。それが好きという感情だったかは分かりません。ただ、意識してしまうんです。顔が真っ赤になって、手のひらに汗をかいてしまう。呼吸が難しくなります。それが3年生ぐらいまで続いたでしょうか?5年生のときに、初めて他の子を好きになりました。でも好きという感情よりも、私の中にあったのは罪悪感だったんです。この子を好きになってはいけないのではないか、やっぱり母親が好きになれと言った子を好きになるべきなのではないか、そんな葛藤に苛まれていました」
「そうだったんですか」
「はは、面白くないですよね、こんな話。ごめんなさい。石部さんが相手だと、つい色々と話したくなっちゃって」
「いえ、構いませんよ」
「それからずっとです。それから、何人もの女の子を好きになりましたが、誰とも上手な関係を築くことはできませんでした。ただ唯一、仲良くなれるのが、風俗の女性だったんです。なぜでしょうね?彼女たちの前だと、私は自然と振る舞えるんです。明るく振る舞えるんです。風俗に行くのは、世間的には後ろめたいことかもしれません。でも、彼女たちの前では、リラックスして自分を出せるんです」
滝村さんは、しばらく遠くを見ていた。
その横顔は、ビールの苦さを喉の奥で噛み殺しているように見えた。
彼は飲んでいた缶ビールをグイッと飲み干すと、新しい缶ビールの蓋をプシュッと開けた。
私も同じように、新しい缶ビールを開けて、グビグビと飲んだ。
缶ビールはもうだいぶぬるくなっていて、旨さよりも苦味が勝っていたが、その苦いのがむしろありがたかった。
堤防の上を、自転車に乗った数人の外国人が通り過ぎていった。
アジア系で、男も女も混ざっていて、どこかの国の言葉をけたたましく喋っていた。
「増えましたね、外国人」
私はポツリと言った。
別になんらかの意図を含んだものではなく、条件反射的に出た言葉だった。
「ええ、どこ行っても見かけますね」
「どうなんでしょう。そのうち風俗嬢にも、外国人が溢れる、なんて時代が来るんでしょうか?」
これは興味本位だった。下卑た興味本位だった。
だから、別に取り合ってもらわなくてもよかったのだが、滝村さんは真剣に答えてくれたみたいだった。
「いや、逆に日本人が職を失って、日本人の女の子が増えるんじゃないでしょうかねえ」
それを外国人の男が買いに来る映像が頭に浮かんで、私はまた苦いビールを飲まざるを得なかった。
柄にもなく怒りが込み上げてきた。
「政治家は何をしているんでしょう」
「あいつらはアジアで女を当てがわれてるんじゃないでしょうか」
「ああ」
妙に納得がいった。
それで急に沸いてきた怒りが、静かに去っていった。まるでビールの泡が弾けるように。
何を怒っているんだろう。
選挙だって行かないくせに。
滝村さんみたいに、鷹揚に構えていればいいのだ。
自分が小さく見えて、嫌悪した。
「石部さんは、でも、関係ないでしょう。奥さんがいらっしゃるんだから」
「まあ、そう言われれば、そうです」
「結婚する前は、確か水商売でしたっけ?」
「ええ、スナックです」
「いいなあ。私もそういうところに馴染める人間なら良かったんですけどね。飲み屋さんの女性は苦手なんです。もっぱら風俗専門なんでしょうね」
「私も、そんな得意ということではありませんけど。たまたまです」
「たまたま?」
「はい。需要と供給が一致したんです」
「需要と供給」
「あいつは、ただ子供が欲しかったんですよ。私と出会ったとき、もう35歳になっていて。焦っていたんだと思います。それだけです。誰でも良かったんですよ。子種として雇われたようなものです」
「そうなんですか」
「スナックのホステスをやるぐらいですし、元々綺麗な人です。でも、私と出会った頃には、もう少し容色は衰え始めていました。若い頃からモテてきたんだろうな、と思います。いろんな男と数々の恋愛を経験してきた、という雰囲気がありました。だから私みたいな社会不適合者とも、うまくやれたのだと思いますけど。でも、どれも最後まではうまく行かなかったみたいですね。恋愛に疲れたような雰囲気もありました。そこに手頃なところに私がいたんです」
「そういう女性と結婚したら、私だったら、浮気されないか心配になります」
「その頃、私はサラリーマンから完全に足を洗って、一冊目の絵本を出版したところでした。それできっといけるぞ、という気持ちになっていたんでしょうね。私も同い年で、独身でしたし、このチャンスを逃したら次はないな、と思っていましたから。結果的に彼女と結婚したことは良かったと思います。子種としては失格だったけど、それ故、浮気されたことはないと思います」
私は今朝見た選挙カーを思い出し、今の社会情勢について思いを巡らした。
「子供ができなかったから良かったんです。子供がいたら、やっていけていません」
「子供……、ですか」
「できなかったから良かったんです。だから二人でなんとか暮らしていけてるんです」
「子育てなんか、できるんですかね、我々に?」
滝村さんは、最後謎めいた問いかけをして、飲み干したビールの缶を、くしゃっと潰した。
別に、何かに怒りをぶつけるような潰し方ではなかった。
「そろそろ行きましょう」
と、彼は立ち上がって、ズボンのお尻をパンパンと払った。
「いつまで待っていたって、野球は始まりません」
「ええ」
私も立ち上がって、お尻をパンパン払った。
木陰から出て、歩き出した。
日が照っているところに出ると、ジリジリとした熱に焼かれた。
少しクラクラする感じがあった。
「塩飴をどうぞ」
「ありがとう。いくら木陰とはいえ、こんな日に外でビールなんて飲むもんじゃないですね」
「ビールごちそうさまでした」
「こちらこそ」
我々はその場で別れることにした。
家に帰る前に、ショッピングセンターに立ち寄って、涼んでいくことにした。
ウォータークーラーの水を飲んで、食品売り場で新しい塩飴を買った。
しばらく中をブラブラして、外の熱気が和らぐのを待ってから、歩いて帰宅した。
「ただいま」
「おかえり」
私は家の中に明子の顔があることにホッとしたのだが、それは今朝ここにあったときよりも、少し老けているように見えた。
彼女はささやかな夕食の支度をしてくれていた。
焼きうどんに、スーパーのお惣菜のパックといったものだった。
「買えなかったのよ」
「え、何が?」
明子は何とも言えない不幸そうな顔で、しばらく私を見た。
私は明子のそういう視線が、たまらなく嫌で、家から出て行きたくなった。
「備蓄米」
と彼女は言った。
「ああ」
そう言えばそうだった。
肝心なことを忘れていた。
明子があんな目で私を見るのも、無理はなかった。
私はさっきまでショッピングセンターにいたのに、売り場に備蓄米があるかどうかさえ、てんで気にせずにいたのだ。
「今度から僕もいろいろ探してみるよ」
と言ってはみたが、明子は不幸そうな顔はそのままで、黙って食卓に目を落とした。
そこで、私は食卓の上に、白い錠剤の入った新しい薬の瓶があるのを見とめた。
「あれ、どうしたの、これ?」
と聞くと、明子は、
「最近、眠れないから」
とだけ答えた。
私たち二人は、何も会話のないまま、淡々と食事をした。
私は何か言ってしまうと、明子との間にある溝が深まってしまいそうで怖かった。
ふと、明子を失ったらどうなるのだろう、という念に駆られた。
どうするのだ、と自分に問いかけて見ると、それは嫌だな、と、子供じみた答えが返ってきた。
「いつまで待っていたって、野球は始まりません」
なぜか、さっきの滝村さんの言葉が蘇ってきた。
「ねえ」
食事を終えると、明子は顔を俯かせたまま、唐突に声を上げた。
「また絵本、描いたら」
「うん」
俯いたままの彼女は、嗚咽を上げているようだった。
河川敷(カクコン11短編用) いもたると @warabizenzai
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